袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 その偉い人の都合に、もうひとつ、面倒な都合が加わった。
「あなたが、昴さまに呼ばれたという女孺?」
 翌朝、梅壺の床を拭いていた私の前に、ひとりの女房が立った。
 白粉が厚い。顔の白さが、お面のようにつるりとしている。焚きしめた香は、近づかれただけで目に沁みるほど濃い。たとえるなら、砂糖をまぶしすぎた唐菓子だ。甘いものは好きだけれど、ものには限度がある。
 女房は扇で口元を隠し、目だけで笑った。
「藤壺の女御さまにお仕えする、右近と申します。わからないことがあれば、何でもお聞きなさいな。――もっとも、どこの馬の骨とも知れない女孺に、わかることがあればですけれど」
 これは、先が思いやられる。
 右近さまの嫌がらせは、その日のうちに始まった。拭いたばかりの床に墨がこぼれ、片づけた几帳がいつのまにか倒され、誰もやりたがらない用事が、なぜかすべて私に回ってくる。
「その香、焚きすぎじゃありません? 鼻が詰まりそう」
 すれちがいざまに言ってやると、右近さまの白粉に、ぴしりとひびが入った気がした。
 ただ、ひとつだけ許せないことがあった。
 昴が約束どおり届けてくれた椿餅を、私は布に包んで、仕事のあとの楽しみにとっておいた。それが、消えていた。包みの布だけが、からっぽで残っている。
 私の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「……食べ物の恨みは、末代まで祟りますよ」
 ゆっくりと振り返ると、柱の陰で、右近さまの取り巻きの女官たちが、さっと顔を伏せた。
「祟りには、ちょっと詳しいんです。私」
 女官たちの顔から、血の気が引いた。ちょうど、あの葬儀の日の頭中将みたいに。
「――その者は、私が呼んだ者だ」
 背後から、冷えた声がした。いつのまにか渡り廊下の端に、昴が立っていた。彼は女官たちをひと渡り見回して、それ以上は何も言わなかった。
 言わなかったのが、かえって効いたらしい。女官たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていき、残った右近さまの頬が、白粉の下でもわかるほど赤く染まった。扇を握る指が、震えている。
 まずい、と思った。いま火に油を注いだのは、私ではなく、この白玉だ。
「右近さまには、逆らわないほうがいいわ」
 その夜、灯りの油を足していると、小萩がそっと耳打ちしてくれた。
「藤壺の女房頭で、夜の取り次ぎ――主上からのお文やお使いを受けるお役目も、任されているの。目をつけられたら、後宮では暮らしていけないわよ」
 渡り廊下の向こうで、右近さまがこちらを見ていた。白粉の奥の目が、暗がりで光っている。見覚えのある目だ。腹を空かせた猫が、干物を狙うときの目。
 あいにく、私は干物ではない。けれど、狙われる覚えだけは、山ほどできてしまった。