正義のヒーローはどこへ征く

 僕の幼馴染であるアキトには、1個下の妹がいる。
 家族団欒(だんらん)、いつも隣の家からは賑やかな会話が聞こえていた。

 学校がない土曜日と日曜日は、アキトの両親含めた家族4人で車に乗ってどこかへ出掛けている。僕の両親が仕事で不在の時、1人でお留守番の僕を誘ってくれて5人でお出掛けということもあった。

 引っ込み思案な僕をいつだって優しく迎え入れてくれるアキトの家族が大好きだった。

 ……でもそれは、去年までの話。

 僕たちが高校2年生になり、アキトの妹――ユイが高校1年生として入学してから、アキトの家族は変わってしまった。

 隣の家から聞こえる賑やかな会話は、現在。

 *

 僕の不穏な気持ちを表すように、空はみるみる曇天になり、ゴロゴロと遠くで雷が鳴り出す。

 ――怒号、罵声(ばせい)、金切(かなき)り声。
 それから、物を投げつけて何かが割れる音。

 1人の部屋で、窓を閉じて宿題をしていても。僕がつい手を止めて隣を覗いてしまうくらい。

 アキトの家庭は荒(すさ)んでしまっていた。

 あまりにも……危険そうだったら『189(児童相談所虐待対応ダイヤル)』に連絡しようかとスマホを右手に握りしめた時。

 家のインターホンが鳴った。

 ――アキトからの、SOSだった。

 隣の家から逃げ出しただけなのに、突然の豪雨(ごうう)に見舞われたアキトの体はずぶ濡れだった。

 頬を赤く腫らしてドアの前で立ち尽くしているアキトを玄関に通し、バスタオルを持ち出して雫が滴(したた)っている黒い髪をそっと拭いていく。

「過去に戻れるのだったら、やり直したいかって。昨日俺に聞いただろ?」

 僕に髪を拭かれるまま、アキトは消え入りそうな声で呟く。僕は黙ってアキトの言葉を聞いていく。

「……どこからやり直せばいいと思う?」
「……」
「事故で右腕を失くしたことは。結果論でしかないと、俺は思っている」
「アキト……」
「右腕を取り戻したいとは思っている。でも、俺はもっと……もっと前に遡れば、ユ(・)イ(・)の(・)命(・)だけでなく、心も……救うことが出来たんじゃないかって思うんだ。そうすれば、ユイは」

 車道に身を投げることもなかった。

 アキトは女子生徒を助けて、学校中の正義のヒーローになった。その女子生徒は、妹のユイ。
 中学3年生までアキトと同じように明るかった性格は、高校1年生になっていじめられるようになってから、変わってしまった。

 ユイはずっとアキトや両親にいじめられていることを隠していた。家の中では中学生だった頃のように。でも、学校で酷い扱いを受けているところをアキト(と、隣を歩いていた僕)が目撃してしまった。

 ユイは、兄のアキトに見つかってしまったことで、もう頑張って隠し続ける理由を失ってしまったのだろう。学校の人気者であるアキトに庇われ「いつからだ」と聞かれることに耐えられなくなり……逃げた先は車が激しく行き交う車道。命を絶つつもりでないと、あんなに勢いよく飛び出せない。

 ユイの誤算は、アキトに命を助けられてしまったことだった。
 それからというもの、1ヶ月後にやっと再登校し始めたアキトへの当たりがとても強い。道を歩いていると背後から強く体当たりして転ばせようとしているのは他でもないユイだった。

 アキトの頬が腫れてしまっているのも。
 ユイが物を投げて当たってしまったからだろう。

 何が間違っていたのか、なんて。
 どこから間違っていたのか、なんて。

 家族ではない僕は蚊帳(かや)の外でしかなく、何も言葉にすることが出来なかった。

 ……僕はずっと、安全な場所からアキトとユイを見つめているだけだ。
 ユイがいじめられているのを知った時だって、呆然と立ち尽くすしかなくて。
 
 アキトが車の下敷きになった時だって。
 ……僕は、ユイと一緒に見下ろすしかなくて。

 事故は終わったとしても、2人の地獄は続いていく。
 僕はいつも、傍観しているだけ。

(卑怯、だ)

 じゃあ、僕は何をすればいいのだろうか。
 どうすれば2人を地獄から引き上げられる?
 ……もしくは、僕も地獄に落ちるか。
 
 ――そんな覚悟、僕にはある?

「あー……もう、なんか、無理かも」

 力なくへら、と笑ったアキトは。ズルズルとへたり込み項垂れる。

「はぁ……死にてぇー……」

 ヒュッと。息が詰まる。
 アキトは女子生徒――妹のユイを助けたのに。
 正義のヒーローなのに。
 いや、勝手にそう囃し立てているのは部外者(僕ら)か。

 1ヶ月前まで明るかったアキトは、死にたいらしい。それは、右腕を失ったことが……原因ではない。

 助けたはずのユイにずっと責められ続けているからだ。

『お兄ちゃん、なんでわたしを助けたのよ!』
『わたしが死んだら何もかも解決したのに!』
『お兄ちゃんが右腕を失っていい程わたしを助ける価値なんてなかった!』

 いつも隣から聞こえる怒号は、そんなものばかりだった。

 ユイの発言が、アキトの勇気あった行動を真っ向から否定していく。
 それは、昨日体育の授業で嫌味を言う男子生徒と同じくらいアキトを傷つけていく。いや、ユイの言葉の方が深くナイフのように心臓に突き刺さって抜くことが出来ないかも。

「なあ……俺はどうするのが正解だったんだ……?」

 弱々しく啜り泣く声。

 アキトが泣いたのなんて、幼稚園で最後じゃなかったか。僕は結局、上手い返しが見つからないまま。アキトの体が冷えないようにバスタオルで濡れた体を拭いていく。

「アキト……とりあえず家上がって。ずっと玄関にいても体冷えちゃうよ」
「うゔー……あああーっ……うあああー……!」

 泣き声はだんだん大きくなる。言葉を発さなくなり、ただ喚いているような。小さな子供が起こしている癇癪(かんしゃく)のような。

 正義のヒーローの欠片もない。
 ただの、泣き喚いている17歳の少年。

 とても激しく泣いているのに、家に打ち付けられる大雨の音にすべて遮断されていき、僕以外はアキトがこんなに苦しんで泣いていることなど知らない世界だった。

 僕はただ背中を摩ることしか出来ない。
 そのうちに僕の母が帰ってきて、アキトが不安定なことを察して「今夜はうちでアキトくんを預かります」と電話で隣の家に伝えていた。

 僕の部屋のベッドで、アキトは泥のように眠った。