犯罪者になった女子高生の願い

「ねえ、『ふじわらがたけ』に登ってみない?」
 唐突にこんなことを俊介に提案してみたのは、食料支援サービスをする地元の社会福祉協議会の服部さんから面白い話を聞いたからだ。

「どうしたん、急に。登山なんて興味ないくせに」
 あの時、俊介は小学5年生で、私は中学1年生だった。あの頃、俊介は私よりも背が低く、声変わりもしていなくて本当に可愛かった。

「それより姉ちゃん、あの山の名前は『ふじわらだけ』だろ? 間に『が』は入らないよ。授業で先生から習ったもん」
「うーん、正しくはそうかもしれないけど、昔から忌部市内にいる人は、『ふじわらがだけ』って『が』を入れるのよ。それより、一緒に登るのはいいの?」
「別にいいけど」

 あどけなさが残る表情で俊介は了解してくれた。あれは少しずつ春めいてきた3月初頭だったと記憶している。両親が私たちを捨てて家を出ていき、路頭に迷いそうになっていた時期だ。

 藤原岳に登ろうとした理由は単純なものだ。
 社会福祉協議会の職員の服部さんが、先日藤原岳に登った際に、珍しいオレンジ色のフクジュソウを見つけたらしい。
 その花は8号目から上で、あたり一帯に咲く可憐なフクジュソウの花々の中で、たった1輪だけあるそうだ。登山が趣味の服部さんは、食料を届けてくれた時、優しい笑顔で言った。

「それでね、昔、おばあちゃんから聞いた伝説を思い出したんだよね。もしオレンジ色の珍しいフクジュソウを見つけたら、願いごとをしながら水筒の水を少しだけ根元にかけると、願いが叶うんだって。登山者にとって水は体調を守るために重要なものだけど、 これを神様の仮の姿とされるオレンジの花に捧げることに意味があるらさいよ。それでね、後日、叶ったんだよ!」
「何が叶ったんですか?」
「宝くじ」
「ええ!  すごい。いくら当たったんですか?」
「10万円」
「いいなあ」
「私、急に親がいなくなって、代わりに親戚が嫌がりながらも支えてくれているけど、やっぱりお金が足りないんです。私もオレンジの花を見つけに行こうかな」
「やってみて。咲いてる場所を教えてあげる。ただし、願いごとができるのは、一生に1回で、たった1つしか叶わないらしいからね」

 当時の私は親がいなくなり、俊介と二人で食べていけるか不安で仕方がなかった。だから、ただ単純に宝くじでほんの少しでもいいからお金がほしいという浅ましい考えだった。
 藤原岳の登山は初心者向けといわれるが標高は1,000メートル以上あり、経験がない中学生の私がたった一人で行くのはさすがに恐い。だから、俊介を誘ったという訳だ。

 藤原岳の登山道は、忌部市藤澤町の大垣内という集落にある小屋からスタートするルートと、同じく藤澤町の坂元という集落にある寺からスタートするルートの2つがある。私たちが選んだ大垣内道は8号目まで道の整備が行き届いていて歩きやすく、迷うこともない。

 登山当日、俊介は私よりも少しでも早く行きたいと最初にペースを上げたくせに、5号目の休憩場所で「もう足が痛いから無理」と弱音を吐いた。
 ヒルにもくわれていじける俊介をなだめ、やっとのことで7号目まで辿り着く。
 フクジュソウの花が咲き乱れているのは、この先の8号目よりも上だ。

 8号目をすぎると自然のままのむき出しの急な坂道が続き、ここから疲労感が加速度を増して襲いかかってくる。気温も低く、春めく三月といえどところどころに雪が残り、ぬかるみとなって、さらに歩みを困難にさせた。

 何度か残雪に足を滑らせて転びそうになりながら、耐えて先に進むと、ようやくところどころに黄色い小さなフクジュソウの花が見えてくる。さらに先を行くと、山の斜面にびっしりと可憐な花が咲き、俊介はこの日初めて笑顔を見せた。

「綺麗だね、姉ちゃん」
「ホント。この景色を見るのは久しぶり。ふじわらがたけって、いいもんや」
「姉ちゃん。いつも言うけど、ふじわらがたけやなくて、ふじわらだけやって」
「そうだったね」
 見つめ合って、吹き出して笑ってしまった。

 社会福祉協議会の服部さんに教えてもらったオレンジのフクジュソウは、山頂近くにある。咲いている位置を服部さんに手書きで記してもらったメモが手元にあった。その花は、山小屋のトイレの東側斜面にあるらしい。
 フクジュソウの咲く景色を眺めながら先へ進むと、指示された山小屋とトイレが見えた。すぐにでも願いごとをしたかったが、俊介も私も疲れ果てていたので先に山小屋で休憩する。小屋は古い造りだが、中には机や椅子が並び、外気を遮断(しゃだん)しているので暖かくて快適だ。

「なあ、こんなところで願いごとをして、本当に叶うのか?」
 俊介はオレンジのフクジュソウの話をしても冷めていた。

「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦(はっけ)、だよ」
「何の願いごとをするの?」
「それは、秘密」
「姉ちゃんのことやから、お金か?  僕は別に周りの同級生より貧しくても、不自由はしてないよ」
「ごめんね。お父さんもお母さんもいなくなって、私一人じゃ十分なお金もなくて」
「仕方ががないよ。勝手に出て行ったあの人たちのことはもうどうでもいい。それより、僕もお姉ちゃんも今こうして一緒にいられるんだから、お金がなくても、今の方がいい」
「俊介はお金の心配なんてしなくていいの」
「もう少し待ってほしい」
「え?」
「もう少し待ってくれたら、僕はいい高校に入って、それで大学を出て、いい仕事を掴んで、たくさんお金を稼ぐから。姉ちゃんにちゃんと庭のある大きな家を買ってあげれるようにする」
「俊介……」
「だから、願いごとなんか、どうでもいいんじゃない?」

 頭で言葉を理解するよりも先に涙が溢れる。小学生の俊介が私にこんな力強いことを言ってくれたのは初めてだった。
 いつまでも守るべき弟だと思っていたが、気がついたら想像以上に成長していて驚かされる。

「ありがとう。まあ、とりあえずせっかくここまで来たんだから、山の神さんに願いごとだけでもしてくるわ。俊介の将来の夢は何? ギターが好きだからミュージシャンか?」
「まずいい大学に入ることが一番大事だよ。それで大学生をしながら、音楽活動して上手くいったらミュージシャンになる。ダメだったら銀行員になりたいかな」
「ミュージシャンか銀行員? ミュージシャンだけだったら、大学なんてどうでもよさそうやのにね」
「姉ちゃんは分かってない。今、メジャーからデビューするバンドやアーティストは、高学歴な大学生ばっかりだよ。歌やギターが上手いだけでは、今の時代は通用しないみたい」
「そう。俊介は私と違ってしっかりしてるね」

 俊介と話していると、今の自分がいかに幸せなのかを実感し、願いごとなどどうでもいいような気持ちにもなる。だけど、欲張りな私は、叶うかもしれないならとりあえず祈ってみようと、俊介を待たせて席を立った。
 小屋の隣、トイレの近くに咲く珍しいオレンジのフクジュソウを探す。

 あった!

 目立たないように、トイレの近くに咲くこの一輪の花は、赤みがかった色が特徴的ですぐに分かる。近づいて、儀式の水筒を取り出したとき、何を自分はお願いすべきか迷ってしまった。
 私が心から欲しいものは、一体何だろうか?  世の中を生きていくのにきれいごとは通用しない。お金は絶対必要だ。
 だけど金があるからといって幸せになる訳ではない。山の神にお願いできるのは、たった一つ。

 心の迷いを振り払い、教えてもらったとおり、願いごとをして水筒の水を少しだけ根元にかかけた。そのとき花のオレンジ色が濃さを増し、それに呼応して空の青さも濃くなったように感じたのは、気のせいだろうか。

 再び山小屋に戻り、俊介と山頂へ向かう。
 巨大な岩で自然にできた展望スペースは手狭ではあったが、快晴の下、遠くまで見渡せた。
 それは、思わずため息が出る美しさ。
 俊介は絶景に目を細め、遠くの見知らぬ世界に憧れと冒険心を抱いた表情を見せた。それを見て、どこか遠くに行ってしまいそうな寂しい気持ちにもなったのを覚えている。

 それから二時間程度かけて下山し、駐車場に向かうとき、さっき見たフクジュソウのように濃いオレンジ色の夕焼けに染まる藤原岳を見た。
 俊介はしばらく無言だったが、やがて、耳元で囁くように言った。

「また、一緒に登ろう」

 しかしこの後、再度、藤原岳に登ることはなかった。