オネエの同級生にスキンケアを叩き込まれています

 不貞腐れたまま昼食を済ませて、始まった追試で俺は落第した。
 ちゃんと考えた。
 たくさん塗って落ちるなら、確実に全部を少ない回数で塗ればいい。
 だから、唇を閉じたまま、上唇にリップクリームを一塗り、下唇にも一塗りした。
 合格の自信しかなかった。
 なのに……。
 「あれは追試だわ」と納得しあう女子たちと、「厳しすぎない?」や「あんなもんだろ?」の声が大多数な男子。
 その大多数のヤツらに「一緒に追試受けろよ」と思いながら俺は崩れた。
 「先輩たちに一応追試報告しておくわね」
 日向の血も涙のない声を聞き終わると同時に、チャイムが鳴った。


 放課後。
 日向に連れられてきたのは、学年やクラスの書かれたプレートがない教室だった。
「この辺に座りましょうか」
 言われるまま、教室の中央の席に鞄を置いた。
 日向が俺の隣にリュクを置いた。
 リップクリームを取りだろうとブレザーのポケットに手を突っ込んで、先にスマホを取りだした。
 スマホの画面には、旭兄たちからメッセージが届いていた。
 瑞月ちゃんからは、『追試、頑張ってね。あとで正しいやり方を教えてね』と、炎をバックに猫が合格の鉢巻きを締めるスタンプが届いた。
 啓司くんからは、『どうしたら追試になる?』と、爆笑しながら転がりまわる不細工なウサギのスタンプ。
 旭兄は『屍は拾ってやる』に、ボロボロになって倒れている羊のスタンプ。
 俺は瑞月ちゃんだけに、『ありがとう。頑張ってくる』と、ダンベルを持ち上げては下ろす貧相だけど頑張る垂れ耳ウサギのスタンプを送った。
 あとは当然、既読無視だ。
 日向は俺の横に鞄からコンパクトミラーとウェットテッシュを取りだすと、ブレザーを脱いでシャツの袖口のボタンを外した。両腕ども肘が隠れる程度まで袖を捲くった。
 引き締まった太い腕が現れる。
 俺とは違う男らしい腕だ。
「あらどうしたの? 無口になって。ワタシと二人っきりが怖い?」
 挑発にしては穏やかな眼差しで、柔らかい声だから、なんて返していいか困ってしまう。
 ムキになるのはなんか違う。
 でも、大人しく言うことを聞くのは癪だ。
「オネエなんか怖くないし」
 俺は腰を浮かして、椅子の向きを日向へと変え、座り直した。
「ユウってば、本当に可愛いんだから」
 日向の右手が俺へと伸びた。
 反射的にビクッとしてしまうけど、怖くはない。
 今の日向の眼差しは心地よくて、すべてを任せられる。
 この安心感はきっと、日向がオネエで、俺が日向の性的対象外だからだろう。
「そんなに無防備にされると、唇を奪っちゃうかもよ」
 日向がチョンと俺の唇に人差し指で触れた。
 触れられた部分と心臓がくすぐったくて、俺は頬がほんのり熱くなるのを感じながら俯いた。
 唇が意識を持ったように敏感になって、下唇と上唇の重なりいつも以上に意識してしまう。
「そんなに緊張しないで」
 日向の両手が俺の両頬にそっと触れて、顔を上げさせる。
 今までにない日向の穏やかさと、大切な物に触れるような優しいタッチのくすぐったさ、そして手の熱さに俺はムズムズして唇に力を入れた。
 勝手にへの字になる唇が恥ずかしい。
 けど、なんでもない顔が出来ない。
「ちゃんと逃げずについてきて、お利口さんね」
 日向は俺の頭を優しく撫でると、
「これから唇に触れるから、除菌させてね」
 ウェットテッシュを取りだして両手を拭いた。
「先輩たちは本当にアナタが心配で、とっても大好きなのね。いっぱい脅しのメッセージが届いたわ。賭けてもいいけど、今も現在進行形で届き続けてるわよ。怖くてスマホを取りだせないわ」
 再び、日向の両手が俺に伸びてきた。
 一緒に日向の顔が近づいてくる。
 左手が輪郭に沿うように置かれ、右手が俺の唇に触れた。
「まずは、説明のために触れるわね。リップを塗るのはその後。いい?」
 近くで見る日向は、睫毛が長くて毛穴がなくて、無駄な産毛もなくて、眉は綺麗なラインで手入れしていて、完璧だった。
 どうして日向が俺に執着しているのか、今、ようやくわかった。俺があまりにも何もしてない見るに堪えない状態だからだ。
 みんなはちゃんと手入れしているけど、一人だけ手入れしていなければ目立つし、手入れのやり甲斐があるんだろう。
 俺は小さく頷いた。
 それに合わせて、日向の指の位置が変わり、くすぐったさに身を捩りたくなる。
「少しだけ口を開いて」
 言われるままに、ほんの少しだけ開く。
「本当に小さなお口ね」
 日向の指が、ゆっくりと俺の唇をなぞる。
 歯が浮くようなくすぐったさに、俺は小さな声を上げてしまった。
「そんな可愛い声、ワタシ以外に漏らしちゃダメよ」
 俺の上唇と下唇の間に、日向の指が少しだけ入ってきた。
 思わず体を引く俺に合わせて、俺の唇に挟まる日向の指もついてくる。
 一方で、俺の頬に触れていた方の日向の手がそっと離れていく。
「本当に何もかも可愛くて、おかしくなりそうだわ」
 日向が腰をあげて、体ごと近づいてきた。
 離れていた手が首の後ろをまわり、肩に置かれた。
 片腕で軽くホールドされる格好になった俺は、近すぎる日向の顔に、心臓が撫でられたみたいにキュッとして、ドキドキが止まらなくなった。
「怖かったら目を閉じていていいわよ」
 言われて、俺は今、自分が怖がっているのかわからなくなった。
 心臓が持たないくらいドキドキしていて痛いけど、怖い時に感じないくすぐったさがある。恐怖はあるけど、日向が怖いというより初めての感覚に戸惑ってしまうだけ。
「そんな目で見られたら、誤解しちゃうじゃない」
 日向の指がゆっくりとスライドしてしまう。
 心臓が跳ねて、俺は声を漏らした。
 擽ったいが塊になった感触に、思わず日向の両腕を掴んでしまう。
 日向が「ん?」と優しい声を漏らした。
 それだけで、心臓がバタバタする。
 あれ?
 この心臓の高鳴りと近いものを知ってる気がする。
 感動する映画のクライマックスで泣いてしまった時みたいな……幼い頃、初めてウサギを撫でた時のフワフワな感触に感極まった時のような……心臓が持たないほど心を揺さぶられた時の感覚。
「今触れているのが、外気に晒されて乾くところと、常に濡れているところの境目。リップは乾くところ全部を塗らなきゃダメなの」
 日向の柔らか声が、耳から体中を撫でるように沁み込んでくる。
 感じすぎて開けていられなくなった唇から、日向の指先が離れた。
 目に映る日向がぼやけた。
「ちょっと意地悪しすぎちゃったわね」
 日向の両手が俺の顔をそっと挟んだ。
「泣かせてゴメンなさいね」
 日向の両手の親指が、俺の目尻を撫でた。
「これ以上唇に触らないから、もう怖くない」
 日向の輪郭が少しだけハッキリしてくる。
「泣いてない」
 本当に泣いていないのに、そっと離れていく日向の手の親指が濡れていた。
「そうね。泣いてない。生理的に涙が溢れちゃったのね」
 日向の声から甘さが少し消えた。
 その分、溌溂となる。
 俺は、夢から覚めていく感じに戸惑った。
「あと、口角も大切よ」
 日向が両手で、ムニュムニュと俺の口角近くの頬をつまんで揉んだ。
「結構弾力あるわね」
 いつもの態度に戻った日向に、一気にバツの悪さを感じた俺は日向の手を慌てて払った。
「寒い時期って、口角が切れやすくなるでしょう? 乾燥の酷い時期はそこも意識してね」
 日向がリップクリームを手に取った。
「じゃあ、塗ってみましょうか」
 当たり前みたいにリップクリームを差しだす日向に、俺は「えっ?」と瞬いた。
「もう実践? 見本は? まだ塗り方を習ってないけど塗っていいの?」
 いきなりの放置授業に、俺は戸惑った。
 日向が声をあげて笑った。
「そうね。ユウみたいなタイプは、一から百まで教えなきゃ完璧にできないのよね」
 日向は一頻り笑うと、俺に片手をだした。
「リップクリーム、貸してくれる?」
「はい」
 手渡す瞬間、俺の指が日向の手の平に触れた。僅かな面積なのに、触れた部分から痺れが走る。
「本当のことを言うとね、男女関係なく、大半の人間がまともにリップを濡れてないの」
「それって、俺の笑われ損じゃん」
 俺は頬を膨らました。
「そうかしら? ユウみたいに荒れてるのに塗ってないよりはマシじゃない。それに、なんでワタシが馬鹿丁寧にヤツらまで指導しなきゃいけないの。ワタシがお手入れしたいのはユウ一人なのよ」
 日向の長い指が、小さなキャップを外し、机に置いた。
「塗り過ぎ厳禁。高頻度の塗り直しも厳禁。摩擦はお肌の大敵だから、優しく自分を労わりながら塗るのよ。ササッと塗るのは以ての外。あと、唇は縦に溝があるでしょう?」
「あっ、そうかも」
「横塗りだと、その溝にクリームが入らないのよ」
 日向の大きな左手が俺の顎に触れて、やんわりと固定する。
「だから、クルクルと円を描くように塗るの」
 リップを持った日向の右手が、俺の唇に近づいてくる。
 リップスティックの先端が、俺の上唇の真ん中に触れた。
 俺は息を詰めて、そっと瞼を閉じた。
「薄く唇を開いて……。そう、イイ子よ。上唇の真ん中からクルクルして端まで塗る。塗り終わったら、また真ん中まで戻って逆側も優しくクルクル」
 説明と同時に、俺の唇の上でリップがクルクルと動いていく。唇だけでなく胸がムズムズしてくる。
「そしたら、下唇も同じように二カ所にわけてクルクルよ。そしたら、溝にまでリップが入るわ」
 リップの先端が離れていくのを感じた。 
「はい、目を開けて」
 言われるまま、そっと目を開けた。
「はい、お終い」
 真っ直ぐに俺を見る日向の表情は、どこまでも穏やかだった。
 緊張の糸が切れた俺は、肩から脱力して背凭れに体を預けた。
「これで確認して」
 渡されたコンパクトで唇を確認する。
 荒れた唇がリップでカバーされて艶々している。
 キャップをしたリップクリームを、日向が俺のブレザーのポケットに入れた。
「お疲れ様」
 立ち上がった日向が、ポンポンと俺の頭を優しく叩いた。叩いたというより、触れたが正しいかも。
 ブレザーのポケットからスマホを取りだして、日向が大きく溜め息をついた。
「こんなにメッセージが送られてきてる」
 ズラッと並ぶ履歴に、俺は噴きだしてしまった。
「今返信しないと、痺れを切らして迎えにくるかもね」
 楽しんでいる顔で手早く入力していく日向を見ながら、俺はなんだか生まれ変わったような気がして、両腕をあげて大きく伸びをした。