大地は脳内で、覚え立てのラップのリリックを必死になぞり続けていた。
別にこれを暗記しなければいけないとかいうわけでは全くない。
ただ、現実から気を逸らす為の手段である。
そう、集中。集中。集中。
決して変な事を考えるな。
どんなに甘い香りに鼻腔をくすぐられようと、すり寄ってくるような動きに心臓が跳ねようと、「あー気持ちいい……」という囁きに心臓を握り込まれようと、流されてはいけない。その先にはきっと、大地にはまだ早いフェロモンむんむんの世界があるだろうから。
「――っし、十秒! 風見、もう十秒経った! ハイ終わり!」
大地はバシバシと風見の背中をタップする。
「えー、もう? まだあと二秒くらい残ってんじゃねぇの?」
「残ってない! ほら、さっさと離れる! ルール守れねぇんだったら、一日一ハグもなしにするぞ!」
大地が告げると、風見は「へぇい」と身体を離した。
そうして甘い香りが遠ざかると、大地はハーッと息を吐く。
下校前、西校舎の踊り場でのハグを日課として受け入れてから、もう一週間程が経過したが、未だに慣れない。毎度大地は、風見のフェロモンで妙な気分にならないよう、己を保つのに必死なのだ。
「てか、お前といつも一緒にいたギャル達はさぁ、こういうスキンシップしててよく変な感じになんねぇな……? お前、あの中の誰とも付き合ってねぇんだろ?」
校舎を出て、駅に向かって歩きながら問い掛ける。
「お前みたいにムンムンした奴と引っ付いてたら、惚れた腫れたで大変な事になりそうだけどなぁ」
「あぁ、みんなそれぞれ彼氏いるし、俺の事は全く異性として見てねぇから。引っ付くのも〝男〟じゃなくて、完全に〝ダチ〟だと思ってるからっつか。俺も流石に変な空気になっちゃうような子とはつるまないし」
「ふーん……じゃぁお前って、噂程爛れてるわけじゃなかったり? なんか色々言われてるけど……あのギャルたち全員と関係持ってるとか、学校外じゃ年上のお姉さんらと遊んでるとか、寂しくなると相手について見境なくなるとか」
「はは、酷ぇ言われよう」
風見は軽く笑って見せた。が、「年上のお姉さん」や「見境なくなる」という事についてはハッキリ否定しない為、健全というわけでもないのかもしれない。というか遊んでいない男からあんなフェロモンが出るわけがないか……と大地が邪推していると。
「つぅかさぁ。ちょっと思ったんだけど、なんかいっつも俺の事ばっか喋ってね?」
風見は不意にそんな事を言い出した。
「こっちの事ばっか知られてる割に、俺全然三好の事知らねぇわ。たまには三好もなんか話せよ」
「え、俺? 急に振られても困んだけど……」
唐突且つ雑なパスに、大地は眉間に皺を寄せた。
大地も決して話し下手というわけではないのだが、急に喋れと言われて即座にトークテーマが浮かぶ程、ネタの宝庫というわけでもない。何か話題はあっただろうかと暫し考え。
「……あ、今日って結構暑いよな……とか?」
「うわぁ何それ」
風見はげんなりと口元を歪めて見せた。
「天気の話って……それって他になんもない場合じゃん」
「だからなんもないんだよ、急に話せとか言われても!」
「そこをなんとか捻り出すんだって……つかなんでもいいんだよ、なんでも聞くし。俺、もっと三好の事知りてぇから」
「へっ⁉」
ふと真剣な声音で言い出す風見に、大地は目を瞠ってしまう。
全く、イケメンというものは本当に恐ろしい。
きっと本人はなんの気なしに言っているだけなのだろうが、イケメンが言うと変に破壊力があるのである。男に興味のない大地だって思わずドキッとしてしまうくらい……と、そんな事を考えている間に、風見は一人で話を進めた。
「まぁいーや、今回は俺が話題振ってやろ。ずっと聞きたい事あったし……なぁ、三好ってなんで部活やってねぇの?」
「え、部活?」
「うん。お前って運動神経いい方じゃん、体育の時間も目立ってるし。てっきりなんか運動部に入ってんのかと思ってたのに、帰宅部だっつぅからちょっとビックリしたんだよね。なんかその辺事情あんの?」
「あ、あー……」
風見の問いに、大地は僅かに顔を顰めた。部活に関しては、些か苦い思いがあるのだ。
だが、語って胸が痛むような期間はもうとっくに過ぎたはず。今はもうかなり吹っ切れた……そう己に言い聞かせると、大地はスッと息を吸い。
「部活な、元々はやってたんだよ。俺、一年の時は野球部だったんだ」
「野球部?――って、あの?」
風見の眉間に縦皺が刻まれる。当然の反応だった。この高校において「野球部」は良い印象を持たれない。その理由とは、昨年、大地達の一つ上の先輩数人が部室で喫煙しているのが発覚した為である。
なお、学校側はこれに対し、厳しい処置を言い渡した。大会への出場を禁止し、該当生徒は停学、連帯責任として野球部全体にも暫くの活動停止を命じたのだ。
そしてこの処分により、野球部は空中分解となった。「あいつらが煙草なんて吸わなければ」「でもお前も知ってたのに止めなかったんだろ」「じゃぁお前は止められたのかよ、下手すりゃ殴られるかもしんねぇのに」と、二年生同士の仲が急速に悪くなり、とても部活を続けられる状態ではなくなってしまったのだ。
「うーわ悲惨……つかそれって三好らにしてみりゃとんでもない話だな、先輩のせいで部活がなくなるって。連帯責任とか言われても、後輩じゃどうしようもねぇだろうし……」
「そうなんだよな。俺らの代は誰も先輩らの喫煙なんて知らなかった。柄が悪い人達ではあったけど、まさかそこまでとは思わなかったし……」
吹っ切れたとは言っても、憤りがなくなったわけではない。当時の事を思い返すと、胸の内に重たい靄が立ち込める。理不尽に青春を奪われた悔しさは、そう簡単にはなくならないのだ。
「まぁ、そうだよなぁ……あ、でもさ? 部活ができなくなったとしても、同好会とかならいいんじゃねぇの? 今からでもそういうのやってみれば?」
「あぁ、それは俺も考えたよ。でも……」
それもまた、苦い記憶だ。
野球部が崩壊してから、大地達一年生は自主的に集まった。元々強豪というわけでもない為、皆とにかく野球ができれば満足だと、せめて同好会を作って活動を続けようとしたのだが。
「でも、それが先輩らから目付けられてさ。『俺らがやんねぇのにお前らだけがやるってのは裏切りだろ』って詰められて……しかもそれ言ってきた奴らが喫煙事件の張本人なんだからふざけてんだけどさ。とにかくそのせいで、誰も野球やりたがんなくなっちゃったんだ。俺は続けたかったけど、誰も集まらなくなった。流石に一人じゃどうしようもねぇし、だからって他の部に入ろうって気にもなんなくて、結局帰宅部に落ち着いたんだよな」
語っていると複雑な感情が去来したが、大地はふっと空に目をやり嫌な気分を切り替えた。過ぎた事で今更こだわっても仕方が無い。そんな暇があるならば、今の人生を如何に楽しく生きるかを考えた方がいい。それがこの件で得た人生の哲学だ……と、しかし。
「……なんっだそれ、許せねぇ」
「へ?」
風見がこれまで聞いた事もないような低い声を出したので、大地は空からそちらへ視線を移した。すると風見は険しい視線で大地を見返し。
「なんだよその先輩ら、いくらなんでも根性曲がり過ぎてんだろ! 三好らの代はなんも悪い事してねぇのに、上のせいで割食って、同好会も潰されてって……そいつらどんだけ勝手なわけ? うーわめっちゃ腹立つんだけど!」
「え、待て待て、どうした急に⁉」
風見の反応に、大地は面食らってしまう。確かに理不尽極まりない話ではあるのだが、まさかここまでの怒りを見せるとは思わなかったのだ。
「えーと、風見、とりあえず落ち着け? 俺はもうそんな怒ってないし……」
「だとしても俺が気に入らねぇの! で、その先輩って誰? どこのクラス? 明日にでも俺が教室乗り込んで、根性たたき直してやるよ」
「はぁ⁉ 何言って……つかお前ってそんなキャラだっけ⁉ 根性たたき直すって、お前にできるわけなくね⁉」
「舐めんなよ。女子とつるんでりゃ絡まれる事も多いし、用心棒役やらされる事も多いから、自然と喧嘩慣れするんだよ」
風見はぐるぐる肩をぶん回した。その様子、明日になったら本気で先輩の教室に乗り込みかねない。もしそうなったら大変だと、大地はぶんぶんと首を横に振った。
「いいから余計な事すんなって! 確かに野球できなくなったのはショックだったけど、皆もうそれぞれに居場所見付けてんの! 俺も放課後に時間できた分バイトしたり楽しくやってる! 学外でたまに野球だってやってるし! だからもう今更蒸し返すような事はしたくねぇの! そんな事されたら折角の平穏が壊れるかもしんないだろ!」
「……っ、あー、それならまぁ控えるけど……」
風見はまだ口を尖らせながらもなんとか怒りを沈めたようで、大地はホッと息を吐いた。
が、しかし驚いた。風見がこんなにも熱い一面を持っているなんて思わなかったのだ。
いつも女子と一緒で、おまけに寂しがりな為、どちらかというとなよっちぃ奴という印象を持っていた。だがもしかしたらコイツは、先輩達にビビって野球を諦めてしまった自分達よりも、ずっと〝漢〟だったりして……
そう考えまじまじ風見を観察していると、彼はむしゃくしゃとした気分を払拭する為か、「あ、つか」と声の調子を改めた。
「さっきの話、三好ってバイトしてたんだな。どこで?」
「あぁ、S駅のラーメン屋……っつかやべ、もうこんな時間⁉」
大地は手元のスマホで時間を見て顔を顰めた。
「話すのに夢中でゆっくり歩き過ぎてたわ……今日がそのバイトの日なんだ、このままじゃ遅れるし、悪い、先行く!」
それだけ告げると慌ただしく走り出す。バイト先の店長は時間に厳しく、遅刻するとどやされるのだ。
そうしてバタバタしていた為に、大地は全く気付かなかった。
風見が「ふぅん、S駅ね……」と呟いていた事に。
大地のバイト先であるラーメン屋は、繁華街の一角にあるカウンター席のみのこじんまりした店である。その歴史は古く、店内には長年の油が染み付いて、決して綺麗とは言い難い。だが味については折り紙付きで、特に男性ファンが多い。行列ができるとまではいかないが、店は常に満席だ。
ホールを担当する大地は、客からの注文が入る度に大声でカウンター内の大将にそれを伝え、ラーメンが出来上がれば冷めないようにと即座に運ぶ。客が帰ればすぐに食器を下げて卓を拭き、次の客を案内して水を出す。席数はそれ程多くないが、回転が早いので息つく間がないバイトである。その為に夜二十二時を回って退勤すると、大地はいつもへろへろだ。
特にこの日はいつになく忙しかった。十八時からサッカー日本代表の国際親善試合が中継されていた為に付近のスポーツバーが盛況となっていたようで、試合が終わった途端、ラーメン屋へと多くの人が流れてきたのだ。
お陰で店を出る頃には、大地は物凄く消耗していた。心身共に疲れ切っているし、「らっしゃっせー!」「お待たせしましたぁ!」「ありがとうございましたーっ!」を言い過ぎて喉はカスカス。駅を目指して歩き出すが、その足取りは実に重たい。
だがどんなに疲れ果てようとも、大地はこのバイトを気に入っていた。次々と発生する作業を裁くのはBPMの速い音ゲーを無心でプレイしているようで面白いし、人間関係も悪くない。大将は厳しいものの人情味のある人で、「お前はまだまだ成長すんだろ、しっかり食え!」と、賄いのご飯を大盛りにしてくれる。そんな居場所があるお陰で、野球部を失いはしたものの、大地は腐らずに居られたのだ。
――やっぱ人には居場所が必要なんだよなぁ……
大地はしみじみ考える。居場所がないと、人は忽ち不安定になるものだ。大地もバイトを始めるまで、毎日毎日落ち着かなかった。放課後になると時間を持て余してしまい、何処へ行けばいいのか、何をすればいいのかわからず、自分という存在が酷く不確かなものに感じられたのだ。
だから今、居場所をなくしている風見に改めて同情してしまうが。
――にしても、今日の風見にはびっくりしたな……
まさか彼が、野球部の話にあんなにも怒るだなんて。
件の先輩達の元に乗り込むと言い出すので大地は必死に止めたのだが、しかし怒ってくれた事自体は嬉しかった。情に厚い人間が大地は決して嫌いじゃない。故にいくらか風見を見直してしまったのだ。
が、そうは言っても、風見とばかりつるんでいる現状が続くのを決して良いとは言えなかった。大地は他の友人たちとも交流したいのだ。それに何より、毎日ハグを続ける事にいつまで耐えていられるか……
と、そんな考えに耽っていた事と、バイトの疲労の為に注意力が落ちていたのが良くなかった。大地は正面から歩いてきた三人組を避け切れず、端の一人と軽く肩がぶつかってしまう。
「っと、すいません」
大地は反射で謝った。だがまぁ正面からぶつかっているならばお互いの過失だし、大した衝撃があったわけでもない。だから軽く謝っておくだけで良いだろうと、特に足を止める事もなかったのだが。
「おーっと、待て待て」
背後から無遠慮に肩を掴まれた。
「何そのまま行こうとしてんだ? 今結構痛かったんだけどなぁ。すいませんしかねぇのかよ?」
「あー、そりゃ駄目だ。そりゃぁ非常識ってモンだろうが。なぁ?」
「そうだよ、謝りゃなんでも許されるって事はねぇんだよ!」
――うわ、やば……!
大地は瞬時にピンチを悟った。どうやらとても面倒な人種にぶつかってしまったらしい。絡んできた三人は、どう考えてもチンピラだ。
とにかくまずは、誠心誠意謝ってみるのがいいか……大地は「すいません、ぼーっとしてて」と頭を下げつつ振り返る。と、そこで「あっ」という声が漏れた。改めて向き合ってみるとその三人は、物凄く見知った顔だったのだ。
大地と同じ制服をこれでもかと着崩した彼らは、なんとタイムリーな事に、下校中に風見に語った、野球部を空中分解させた元凶――喫煙を見付かった先輩達だったのである。
「あ? お前、三好じゃん!」
相手も大地に気が付いてしまった。その瞬間、彼らの口角はニィッと上がる。それは久々に対峙する後輩への親しみの笑み――というわけでは、当然ない。これは明らかに、いいカモを捕まえたという愉悦の笑いだ。
「やー、いいトコで会ったわぁ。丁度いい、これからちょっと付き合えよ」
大地がぶつかってしまった伊藤という先輩はガバリと大地と肩を組むと、強引に駅とは反対方向へと歩き出した。その脇を他の二人ががっちり固める。
この布陣、間違いなくこの後、良からぬ場所に連れ込まれる。
そして十中八九、カツアゲされるに決まっている……!
「あ、あの! 俺、もう帰らないと行けなくて! 先輩達と寄り道するだけの時間はなくて……!」
大地は慌てて身を捩り、伊藤の腕からの脱出を試みる。
が、相手もそうは甘くなかった。肩に回した手をグッと絞めると。
「あー? 別に時間は取らせねぇよ。お前が素直に言う事聞きゃ五分も掛からねぇんだから」
「そうそう、大人しくしときゃすぐ済むって! つかマジで三好に会えて良かったぁ、俺、今日こそあのゲームクリアしてぇんだよなぁ!」
「軍資金がありゃいけんだろ! なぁ、余りが出たら焼き肉行こうぜ!」
先輩達は「いーねぇ!」と盛り上がる。
ああ、やはり彼らは大地から金を巻き上げるつもりなのだ。
視線の先にはビカビカと光るゲームセンターの看板が見えている。あそこのトイレか何処かで大地から金を奪い、そのまま豪遊しようというのだろう。
――って、冗談じゃねぇって……!
大地はぎゅうと顔を顰めた。特に使い道を決めていたわけではないものの、しかしバイトをしてコツコツ貯めてきた金を、何故こんな奴らに渡さなきゃいけないのか。ただでさえこの三人には野球部という青春を奪われたというのに……!
そう考えるとふつふつと怒りが湧いてきた。いっそのこと彼らをぶちのめしてしまおうかとも思うのだが、残念ながら全く現実的ではなかった。
先輩達は不良の癖に、部活はそれなりにこなしていた。未だその身体は大きいし、きっと力も強いだろう。そんな奴らを三人も相手にして勝てるかと言われたら微妙なところだ。ボコボコにされた上で財布を持って行かれるという最悪な結果になる可能性が非常に高い。いくら大地が痛みに強いと言ったって、殴られて平気というわけじゃない。
だとしたら……と大地は即座に頭を回し。
「や、でも俺、全然金ないッスよ⁉ 現金は五百円くらいしか持ち歩いてないし、ICカードもろくにチャージしてないんで……俺連れてっても時間の無駄じゃないスかね⁉」
「あ? そうなの?」
大地の言葉に、右側を歩いていた先輩が言う。左を歩く先輩も、「そんなら他のカモ見付けた方がいっか?」と言い出した。
嗚呼、無駄遣い防止の為、あまり金を持ち歩かないようにしておいて良かった。このままならすんなり解放してもらえるかもしれない……!
そう期待した大地だが、伊藤はこの流れに乗らなかった。
彼は意地悪い笑みを浮かべて大地の顔を覗き込むと。
「あーそう? 金がねぇのは残念だけど、でも時間の無駄って事はねぇよ。暇つぶしにお前ボコさせてもらうから」
「は、はい⁉」
素っ頓狂な声が出た。だって、なんでだ? こちらから手を出しているわけでもないのに、なんで暴力を振るわれるのか……すると伊藤はくつくつと冷たい笑いを耳元に吹き込んで来た。
「あのなぁ三好。俺ぁずーっと、お前にムカついてたんだよ。野球部がなくなった後、同好会やろうって声掛けて回ってたのお前だろ? 俺らは野球できなくなったってのに、自分らは関係ないですって顔してさぁ……俺らへの当て付けのつもりだったか? 生意気だって思ってたんだよ」
「……っ、そんなの、全部自業自得じゃないッスか!」
反射的に突っ込んでしまってから、大地はすぐに口を噤んだ。
いやいやいや、駄目だって。
この状況で相手を刺激するような事は言うべきじゃない。
が、どうしても言わずにはいられなかった。だって、伊藤達が部活をできなくなったのは、他でもない彼ら自身の過失のせいだ。実際大地たちにはなんの関係もない。だというのに、同好会を作って何が悪い? というかその同好会を組む機会すら潰しておきながら、尚も大地に対し苛立ちを抱えていたなんて、どれだけ過去に囚われているのだ。もう半年も経っているというのに……と呆れてしまうが。
――あぁ、そうか。この人らは、次の居場所を見付けられてないんだ……
大地はそう理解した。
だからこそ、彼らは未だにあの時の三人でつるみ、夜の街を徘徊してなんの意味もない時間を過ごしている。そうしていつまでも過去に囚われ燻っているのだ。自らの行いを省みるでもなく、前に進む為の努力をするでもなく。
そんな連中が大地の言葉に、「そうだね、俺らの自業自得だね」なんて納得するわけがなかった。むしろその言葉をきっかけに、
「あぁ? お前今なんつった?」
大地を見る伊藤の目が鋭くなった。そして彼らは頷き合うと、ゲームセンターの手前で曲がる。そこは細く暗い裏路地だ。人目のないその場所で、大地は思い切り突き飛ばされた。
「っ!」
大地が地面に倒れ込むと、腹の上にすかさず伊藤が跨がってきた。大地の胸ぐらを掴んで乱暴に引き起こし、額同士をくっつけるようにして。
「ほんっとテメェは生意気だな……そういうトコが前から気に入らなかったんだよ。いっつも自分は正しいです、汚れてませんって顔して……お前みたいな奴見てると苛つくんだよ!」
「って、そんな事言われても……!」
つまり伊藤は、大地の事が生理的に無理だという事なのだろうが、だとしてもそれは大地の落ち度じゃない。さっきから伊藤の言動は無茶苦茶だ。
だがこの状況、とても理屈が通用するとは思えなかった。三対一。人目はない。しかも相手はもうすっかり臨戦スイッチが入っているのだ。
しかし、ではこんな理不尽を大人しく飲み込めるかと言われると、大地もそんなに大人しい性格ではなかった。ここまでは相手が先輩だからと無意識に下手に出てしまっていたが、ここまで来たら知るものか。
大地はキッと三人を睨み据えると。
「あの、俺の事殴りたいんなら好きにすりゃいいスけど、そんな事したらそっちは社会的に死ぬ事になりますから! 俺、黙っててやんないッスよ、警察にも学校にも言いますから! 素性知られてる相手に暴力振るうリスクくらい先輩らでもわかりますよね⁉」
「……っ」
怯まずに言い放つと、伊藤以外の二人は目に見えて狼狽えた。彼らは伊藤にくっついて悪事を働くが、そこまで肝が座っているわけではないのだ。
「お、おい、確かにあんま無茶するとやべぇんじゃねぇの」
「警察って、そりゃ流石に……」
「…………」
二人が動揺し始めた為か、伊藤も少し逡巡するような素振りを見せた。大地は慎重に相手を窺う。できれば痛い思いはしたくないし、このまま引いてくれと願いつつ……
だがその願いが聞き届けられる事はなかった。
伊藤は何を閃いたのか、ニヤァと口角をつり上げて。
「……おっけ、わかった。じゃぁ警察に言えないようにしてやればいいって話だよな? おいお前ら、コイツの手押さえとけ!」
「え、何すんの?」
問い掛ける仲間達の勘の鈍さに、伊藤は乱暴に舌打ちする。
「わかんねぇの? こいつの弱み握んだよ! なぁ三好、今からすんげぇ恥ずかしい写真撮ってやるよ。俺らにやられたってチクったら、その写真ネットでばら撒くからな!」
「なっ──」
大地は相手の卑劣さに絶句した。
どうしたらそんな事を思い付くんだ⁉
そしてこの場合の恥ずかしい写真とは……想像すると血の気が引く。
「や、やめろ馬鹿! 何考えてんだよ!」
大地は慌てて伊藤を押し除けようとしたのだが、他の二人に阻まれた。腕を取られ、仰向けに地面へと押し付けられる。伊藤がニヤニヤとした笑みを浮かべ、大地のベルトに手を掛ける。
「あーあ、馬鹿な奴ぅ。俺らの事舐めてっからこういう事になるんだよ、なぁ!」
ガチャガチャとバックルの音が鳴り、大地は必死に身体を捩る。
「やめろ馬鹿! やめろって!」
だが、抵抗は大した意味を持たなかった。口は塞がれ、ついにベルトも外されてしまう。そのままズボンに手が掛けられる。
あぁ、もう駄目だ……!
大地は目の前が真っ暗になるのを感じた。
きっとこのまま、下着まで剥ぎ取られて写真を撮られる。そうなれば暴力を告発できなくなるどころか、その写真をネタに揺すられ続けるに違いない……!
そんな展開は絶対に御免だが、この状況を打開する為の手段がなかった。腕は押さえ付けられて、声も出せない。ズボンのチャックもあっという間に下ろされてしまう。そしていよいよ伊藤の手がズボンを引き下ろしに掛かり、大地は絶望の底へと沈み掛けたが──その時である。
カシャシャシャシャシャ!
突如として路地裏にそんな音が聞こえてきた。
耳に馴染んだその音は、間違いなくスマホカメラの連写音だ。
が、何故?
大地は目を瞬く。
まだ伊藤はスマホを構えてすらいない。大地を押さえ付けている二人だって両手が塞がっている状態だ。では一体誰がカメラを……? その場にいる面々が同じ疑問を抱いた時、それに応えるようにして。
「よーしオッケ、ばっちり撮れたわ。決定的な暴行シーン」
路地の入り口から声がした。それに皆一斉に目を向けて──大地は呆気に取られてしまう。そこに立っていたのは、なんと風見だったのだ。
何故彼がここに……大地が唖然として見詰める中、風見はスマホをひらひらと振りながら声を投げた。
「ねぇーそこの先輩たち。俺、さっきから様子見てたんだけどさぁ、あんたらって野球部を崩壊させたっつぅ奴らだよね? タバコでもう学校から目付けられてるだろうに、暴行画像までばら撒かれたらやばくない? 退学待ったなしだろうし、これネットに流したら人生積んだも同然だと思うけど、どう?」
「っ⁉」
息を呑んだのは、大地を押さえ付けていた二人である。
「な、なんだよ……お前誰だよ⁉」
「いきなり出てきて、なんなんだ⁉」
写真を撮られて動揺したのか、ひっくり返りそうな声で問い掛けると、風見は不遜に顎を上げ。
「俺は三好のクラスメイトだよ。つか言っとくけど俺、自分でもびっくりするくらい腹立ってるから。さっさと三好から離れてくんない?」
そう告げる口調は軽いが、声音はいつになく硬かった。彼が確かに怒っているのが、そしてそれを懸命に抑えているのが伝わってくる。
「正直あんたらのやった事は、タバコの件も同好会潰しの件も今回の件も全部めちゃくちゃムカついてるし、この時点で写真ばら撒いてやりたくて仕方ないけど、そこまで大事にはしたくない。だから大人しく引き下がって、今後三好に手ぇ出さないって誓うんなら、今回は見逃しといてやるけど、どうする?」
風見がそんな慈悲を見せると、取り巻き二人が大地からパッと手を離した。彼らは伊藤へと目を向けて。
「な、なぁ、今回はここでやめとこう」
「そうだよ、流石にやばいって」
そう口々に訴えるのだが、やはり伊藤は流されなかった。
それどころか呆れたような口ぶりで。
「馬鹿かお前ら。なんでこっちが脅しに屈する必要があるんだよ」
「だ、だって、写真撮られたし……」
「あのなぁ、よく考えろよ。三対二だろ? スマホ奪い取って写真消せばいいだけだろうが!」
「あ、なるほど!」
二人は頷くや否や、ニタリと狂暴な笑みを浮かべた。そして即座に風見へと向かって突進していく。
「オラァ! スマホ寄越せ!」
そんな勢いで二人の男に迫られたら、普通は怯むものだろう。だが風見は落ち着いたものだった。先に飛び掛かってきた一人を足払いで転ばせると、間髪入れずに二人目の腕をぎゅっと掴む。その瞬間、バチっという大きな音と、青白い閃光が辺りを照らす。風見の電気が炸裂したのだ。これを食らった先輩は「ぎゃんっ」という不細工な悲鳴を上げて膝をつく。
「おー、やっぱこれ使えるわ。不便だ不幸だって思ってたけど、喧嘩になるとチートすぎ!」
風見はそう言って、転ばせておいた先輩の肩にも触れた。するとまたバチッという音と閃光と悲鳴が上がる。
その時大地は初めて知った。風見の放出する電力とは、普通の人間にはこんなにも危険なものだったのか。
いや、もしかしたら喧嘩による昂ぶりで出力が上がっているのかもしれないが、なんにせよ風見はあっという間に二人を動けなくしてしまった。
「で? 残りはあんただけだけど、どうすんの。やる? 引く?」
風見は伊藤を振り返る。最早この場は完全に彼が支配していた。帯電体質恐るべしである。
「な、なんだ……なんなんだよ……!」
風見の体質の事を知らない伊藤は、只管に困惑していた。そりゃそうだろう。殴られたわけでもないのに、何故仲間達が倒れ伏しているのかなんて理解できるはずもない。
「おい、お前ら! 何ふざけてんだよ、なんで寝っ転がってんだ⁉ 早くスマホ奪い取れよ!」
「無理だって。別に死んじゃいないだろうけど、結構な電気走ったもん。暫くは痺れて動けねぇよ」
「電気……? なんだお前、スタンガンでも仕込んでんのか? ふざけやがって……!」
忌々しげに吐き捨てると、伊藤はバッと立ち上がり風見へ向けてファイティングポーズを取った。どうやら引く気はないらしい。これに風見はやれやれと頭を振って。
「あーそー、やんのね? まぁそれならそれでいいけどさ。俺もどっちかと言えば、あんたに痛い目見せときたいし。こんだけ電気溜まってたら、ちょっと放電しといた方がいいかもだし」
「っ、さっきからわけわかんねぇ事言って……調子に乗んなよっ!」
伊藤は叫ぶように言うと、風見へと飛び掛かった。流石は三人のリーダー格、先程の二人よりも動きが早い。しかも彼はスマホではなく、風見自身を狙っていた。まず風見を痛め付けて、それからスマホを奪おうという算段らしい。
いくら触れた瞬間に電撃が走るとは言え、殴られたら風見だって一溜りもないはずだ。大地は即座に身を起こし、「風見、逃げろ!」と叫ぶのだが――……
完全に杞憂であった。
風見は本当に喧嘩慣れしているらしく、勢い良く繰り出された伊藤の拳を軽く躱すと、伊藤を背後から思い切り抱きしめた。爆竹のようなバチバチバチッという派手な音が鳴り、路地裏は青白い光に染まる。
五秒程だって風見が身体を離した時には、伊藤は完全に意識を飛ばしていた。彼はビクビクと痙攣したまま、地面へと倒れ込む。
なんと風見はあっという間に、三対二……いや、大地はただ転がっていただけだから、実質三対一という圧倒的に不利な喧嘩に勝ってしまったのである。
「あー、手間掛けさせやがって……おい三好、大丈夫?」
風見は未だ地面に尻餅をついている大地の前にしゃがみ込んだ。大地はこくこくと頷いて。
「平気……つか風見、なんで居んの……?」
まだ放心しながら問い掛ける。
大地にはずっとそれがわからなかった。
どうしてこんなにも都合よく、風見がこの場に現れたのか。
この問いに風見は乱れた髪をかき上げながら。
「あー俺さ、いつも一人で飯食ってて。それって結構寂しいし、お前がバイトしてんならそこで食いたいなって、バイト先探してたの。でもこの辺ラーメン屋多くてなかなか見付けらんなくて、さっきやっとバイト終わりっぽいお前を見かけて声掛けようとしたんだけど、そこでこの先輩らが出てきてさぁ。すぐ助けようかとも思ったんだけど、それじゃまた絡まれる可能性が高いだろ。だから今後相手が手出せなくなるような写真が撮れるまで待ってから助けようって……」
そこで風見は改めて大地を見て、言葉を切った。
そして大きく息を吐く。
「でも悪ぃ、完全に失策だったわ。もっと早く助けてやるべきだった……ごめんな、怖かったろ?」
項垂れながら謝られ、大地はやっと気が付いた。自分の身体が小さく震えている事に。先程の出来事に、思っていたよりもショックを受けているらしい。
だが、それを悟られるのはカッコ悪い。大地はぎゅっと指を握ると、無理やり気丈な顔をして。
「いや、あれで良かったよ。風見の言う通り、写真も何もなく加勢されても、どこかのタイミングで絶対報復されただろうから……つか風見が居てくれなかったらガチで危なかった。助かったよ、ありがとな」
そう告げてとにかく立ち上がろうとしたのだが、うまく力が入らなかった。どうやら腰が抜けてしまっているらしい。
「あぁもう、ダサいな俺……っ」
大地は自嘲気味に吐き出した。風見に比べて、自分のなんと情けない事だろう。だがあんな窮地に陥るのは初めてで、どうしても震えが止められず……と、そこで大地は息を呑んだ。
風見にぎゅっと、強く抱きしめられたからだ。
「な……っ、なんだよ急に⁉ 離せって……」
大地は風見を押し除けようとする。ハグ自体への抵抗もあったのだが、密着すると、震えが誤魔化せなくなってしまうと慌てたのだ。
だが風見はビクともしなかった。
むしろ彼は更にグッと力を込めると。
「あー、と……あのさ。俺、今けっこう頑張ったじゃん? だからご褒美欲しいわけ。な、俺に感謝してんなら、このままちょっと抱かせといてよ」
それは如何にも風見らしい自分本位な言い方だったが、その静かな声、優しく背中を叩くリズム……真意が異なるのは明らかだった。風見は今、大地を落ち着かせようとしてくれているのである。
じんわりと伝わってくる、風見の体温。
パチパチと肌で弾ける、仄かな電気。
鼻腔をくすぐる、甘い香り。
何故だろう、その全てが、不思議と大地を安心させた。
いつものハグは動揺を誘うのに、何故だか今は安堵する。先程までの恐怖心が和らいでいく。自分は今、安全な場所にいるのだという実感が湧いてくる。
──嗚呼、そっか。心細い時に誰かに抱き締めてもらうのって、こんなに落ち着くものなんだ……
風見が渇望する気持ちがようやく今わかったかもしれない。確かにこれは、癖になってしまうのも納得かも――いや、これは風見の包容力があってこそか?
「よーしよし。もう大丈夫だからな。もう怖い事なんもねぇから……」
ゆったりと告げる声は、胸の深いところまで染み入った。そうなると強がりもゆるゆると溶かされて、大地は心を委ねるように目を閉じる。
本当なら、こんな風に慰められているのは情けないし、ハグにだって抵抗がある。
だが今はもう少しだけ、このままでいたかった。
せめて震えが止まるまで、もう少し、もう少しだけ。
別にこれを暗記しなければいけないとかいうわけでは全くない。
ただ、現実から気を逸らす為の手段である。
そう、集中。集中。集中。
決して変な事を考えるな。
どんなに甘い香りに鼻腔をくすぐられようと、すり寄ってくるような動きに心臓が跳ねようと、「あー気持ちいい……」という囁きに心臓を握り込まれようと、流されてはいけない。その先にはきっと、大地にはまだ早いフェロモンむんむんの世界があるだろうから。
「――っし、十秒! 風見、もう十秒経った! ハイ終わり!」
大地はバシバシと風見の背中をタップする。
「えー、もう? まだあと二秒くらい残ってんじゃねぇの?」
「残ってない! ほら、さっさと離れる! ルール守れねぇんだったら、一日一ハグもなしにするぞ!」
大地が告げると、風見は「へぇい」と身体を離した。
そうして甘い香りが遠ざかると、大地はハーッと息を吐く。
下校前、西校舎の踊り場でのハグを日課として受け入れてから、もう一週間程が経過したが、未だに慣れない。毎度大地は、風見のフェロモンで妙な気分にならないよう、己を保つのに必死なのだ。
「てか、お前といつも一緒にいたギャル達はさぁ、こういうスキンシップしててよく変な感じになんねぇな……? お前、あの中の誰とも付き合ってねぇんだろ?」
校舎を出て、駅に向かって歩きながら問い掛ける。
「お前みたいにムンムンした奴と引っ付いてたら、惚れた腫れたで大変な事になりそうだけどなぁ」
「あぁ、みんなそれぞれ彼氏いるし、俺の事は全く異性として見てねぇから。引っ付くのも〝男〟じゃなくて、完全に〝ダチ〟だと思ってるからっつか。俺も流石に変な空気になっちゃうような子とはつるまないし」
「ふーん……じゃぁお前って、噂程爛れてるわけじゃなかったり? なんか色々言われてるけど……あのギャルたち全員と関係持ってるとか、学校外じゃ年上のお姉さんらと遊んでるとか、寂しくなると相手について見境なくなるとか」
「はは、酷ぇ言われよう」
風見は軽く笑って見せた。が、「年上のお姉さん」や「見境なくなる」という事についてはハッキリ否定しない為、健全というわけでもないのかもしれない。というか遊んでいない男からあんなフェロモンが出るわけがないか……と大地が邪推していると。
「つぅかさぁ。ちょっと思ったんだけど、なんかいっつも俺の事ばっか喋ってね?」
風見は不意にそんな事を言い出した。
「こっちの事ばっか知られてる割に、俺全然三好の事知らねぇわ。たまには三好もなんか話せよ」
「え、俺? 急に振られても困んだけど……」
唐突且つ雑なパスに、大地は眉間に皺を寄せた。
大地も決して話し下手というわけではないのだが、急に喋れと言われて即座にトークテーマが浮かぶ程、ネタの宝庫というわけでもない。何か話題はあっただろうかと暫し考え。
「……あ、今日って結構暑いよな……とか?」
「うわぁ何それ」
風見はげんなりと口元を歪めて見せた。
「天気の話って……それって他になんもない場合じゃん」
「だからなんもないんだよ、急に話せとか言われても!」
「そこをなんとか捻り出すんだって……つかなんでもいいんだよ、なんでも聞くし。俺、もっと三好の事知りてぇから」
「へっ⁉」
ふと真剣な声音で言い出す風見に、大地は目を瞠ってしまう。
全く、イケメンというものは本当に恐ろしい。
きっと本人はなんの気なしに言っているだけなのだろうが、イケメンが言うと変に破壊力があるのである。男に興味のない大地だって思わずドキッとしてしまうくらい……と、そんな事を考えている間に、風見は一人で話を進めた。
「まぁいーや、今回は俺が話題振ってやろ。ずっと聞きたい事あったし……なぁ、三好ってなんで部活やってねぇの?」
「え、部活?」
「うん。お前って運動神経いい方じゃん、体育の時間も目立ってるし。てっきりなんか運動部に入ってんのかと思ってたのに、帰宅部だっつぅからちょっとビックリしたんだよね。なんかその辺事情あんの?」
「あ、あー……」
風見の問いに、大地は僅かに顔を顰めた。部活に関しては、些か苦い思いがあるのだ。
だが、語って胸が痛むような期間はもうとっくに過ぎたはず。今はもうかなり吹っ切れた……そう己に言い聞かせると、大地はスッと息を吸い。
「部活な、元々はやってたんだよ。俺、一年の時は野球部だったんだ」
「野球部?――って、あの?」
風見の眉間に縦皺が刻まれる。当然の反応だった。この高校において「野球部」は良い印象を持たれない。その理由とは、昨年、大地達の一つ上の先輩数人が部室で喫煙しているのが発覚した為である。
なお、学校側はこれに対し、厳しい処置を言い渡した。大会への出場を禁止し、該当生徒は停学、連帯責任として野球部全体にも暫くの活動停止を命じたのだ。
そしてこの処分により、野球部は空中分解となった。「あいつらが煙草なんて吸わなければ」「でもお前も知ってたのに止めなかったんだろ」「じゃぁお前は止められたのかよ、下手すりゃ殴られるかもしんねぇのに」と、二年生同士の仲が急速に悪くなり、とても部活を続けられる状態ではなくなってしまったのだ。
「うーわ悲惨……つかそれって三好らにしてみりゃとんでもない話だな、先輩のせいで部活がなくなるって。連帯責任とか言われても、後輩じゃどうしようもねぇだろうし……」
「そうなんだよな。俺らの代は誰も先輩らの喫煙なんて知らなかった。柄が悪い人達ではあったけど、まさかそこまでとは思わなかったし……」
吹っ切れたとは言っても、憤りがなくなったわけではない。当時の事を思い返すと、胸の内に重たい靄が立ち込める。理不尽に青春を奪われた悔しさは、そう簡単にはなくならないのだ。
「まぁ、そうだよなぁ……あ、でもさ? 部活ができなくなったとしても、同好会とかならいいんじゃねぇの? 今からでもそういうのやってみれば?」
「あぁ、それは俺も考えたよ。でも……」
それもまた、苦い記憶だ。
野球部が崩壊してから、大地達一年生は自主的に集まった。元々強豪というわけでもない為、皆とにかく野球ができれば満足だと、せめて同好会を作って活動を続けようとしたのだが。
「でも、それが先輩らから目付けられてさ。『俺らがやんねぇのにお前らだけがやるってのは裏切りだろ』って詰められて……しかもそれ言ってきた奴らが喫煙事件の張本人なんだからふざけてんだけどさ。とにかくそのせいで、誰も野球やりたがんなくなっちゃったんだ。俺は続けたかったけど、誰も集まらなくなった。流石に一人じゃどうしようもねぇし、だからって他の部に入ろうって気にもなんなくて、結局帰宅部に落ち着いたんだよな」
語っていると複雑な感情が去来したが、大地はふっと空に目をやり嫌な気分を切り替えた。過ぎた事で今更こだわっても仕方が無い。そんな暇があるならば、今の人生を如何に楽しく生きるかを考えた方がいい。それがこの件で得た人生の哲学だ……と、しかし。
「……なんっだそれ、許せねぇ」
「へ?」
風見がこれまで聞いた事もないような低い声を出したので、大地は空からそちらへ視線を移した。すると風見は険しい視線で大地を見返し。
「なんだよその先輩ら、いくらなんでも根性曲がり過ぎてんだろ! 三好らの代はなんも悪い事してねぇのに、上のせいで割食って、同好会も潰されてって……そいつらどんだけ勝手なわけ? うーわめっちゃ腹立つんだけど!」
「え、待て待て、どうした急に⁉」
風見の反応に、大地は面食らってしまう。確かに理不尽極まりない話ではあるのだが、まさかここまでの怒りを見せるとは思わなかったのだ。
「えーと、風見、とりあえず落ち着け? 俺はもうそんな怒ってないし……」
「だとしても俺が気に入らねぇの! で、その先輩って誰? どこのクラス? 明日にでも俺が教室乗り込んで、根性たたき直してやるよ」
「はぁ⁉ 何言って……つかお前ってそんなキャラだっけ⁉ 根性たたき直すって、お前にできるわけなくね⁉」
「舐めんなよ。女子とつるんでりゃ絡まれる事も多いし、用心棒役やらされる事も多いから、自然と喧嘩慣れするんだよ」
風見はぐるぐる肩をぶん回した。その様子、明日になったら本気で先輩の教室に乗り込みかねない。もしそうなったら大変だと、大地はぶんぶんと首を横に振った。
「いいから余計な事すんなって! 確かに野球できなくなったのはショックだったけど、皆もうそれぞれに居場所見付けてんの! 俺も放課後に時間できた分バイトしたり楽しくやってる! 学外でたまに野球だってやってるし! だからもう今更蒸し返すような事はしたくねぇの! そんな事されたら折角の平穏が壊れるかもしんないだろ!」
「……っ、あー、それならまぁ控えるけど……」
風見はまだ口を尖らせながらもなんとか怒りを沈めたようで、大地はホッと息を吐いた。
が、しかし驚いた。風見がこんなにも熱い一面を持っているなんて思わなかったのだ。
いつも女子と一緒で、おまけに寂しがりな為、どちらかというとなよっちぃ奴という印象を持っていた。だがもしかしたらコイツは、先輩達にビビって野球を諦めてしまった自分達よりも、ずっと〝漢〟だったりして……
そう考えまじまじ風見を観察していると、彼はむしゃくしゃとした気分を払拭する為か、「あ、つか」と声の調子を改めた。
「さっきの話、三好ってバイトしてたんだな。どこで?」
「あぁ、S駅のラーメン屋……っつかやべ、もうこんな時間⁉」
大地は手元のスマホで時間を見て顔を顰めた。
「話すのに夢中でゆっくり歩き過ぎてたわ……今日がそのバイトの日なんだ、このままじゃ遅れるし、悪い、先行く!」
それだけ告げると慌ただしく走り出す。バイト先の店長は時間に厳しく、遅刻するとどやされるのだ。
そうしてバタバタしていた為に、大地は全く気付かなかった。
風見が「ふぅん、S駅ね……」と呟いていた事に。
大地のバイト先であるラーメン屋は、繁華街の一角にあるカウンター席のみのこじんまりした店である。その歴史は古く、店内には長年の油が染み付いて、決して綺麗とは言い難い。だが味については折り紙付きで、特に男性ファンが多い。行列ができるとまではいかないが、店は常に満席だ。
ホールを担当する大地は、客からの注文が入る度に大声でカウンター内の大将にそれを伝え、ラーメンが出来上がれば冷めないようにと即座に運ぶ。客が帰ればすぐに食器を下げて卓を拭き、次の客を案内して水を出す。席数はそれ程多くないが、回転が早いので息つく間がないバイトである。その為に夜二十二時を回って退勤すると、大地はいつもへろへろだ。
特にこの日はいつになく忙しかった。十八時からサッカー日本代表の国際親善試合が中継されていた為に付近のスポーツバーが盛況となっていたようで、試合が終わった途端、ラーメン屋へと多くの人が流れてきたのだ。
お陰で店を出る頃には、大地は物凄く消耗していた。心身共に疲れ切っているし、「らっしゃっせー!」「お待たせしましたぁ!」「ありがとうございましたーっ!」を言い過ぎて喉はカスカス。駅を目指して歩き出すが、その足取りは実に重たい。
だがどんなに疲れ果てようとも、大地はこのバイトを気に入っていた。次々と発生する作業を裁くのはBPMの速い音ゲーを無心でプレイしているようで面白いし、人間関係も悪くない。大将は厳しいものの人情味のある人で、「お前はまだまだ成長すんだろ、しっかり食え!」と、賄いのご飯を大盛りにしてくれる。そんな居場所があるお陰で、野球部を失いはしたものの、大地は腐らずに居られたのだ。
――やっぱ人には居場所が必要なんだよなぁ……
大地はしみじみ考える。居場所がないと、人は忽ち不安定になるものだ。大地もバイトを始めるまで、毎日毎日落ち着かなかった。放課後になると時間を持て余してしまい、何処へ行けばいいのか、何をすればいいのかわからず、自分という存在が酷く不確かなものに感じられたのだ。
だから今、居場所をなくしている風見に改めて同情してしまうが。
――にしても、今日の風見にはびっくりしたな……
まさか彼が、野球部の話にあんなにも怒るだなんて。
件の先輩達の元に乗り込むと言い出すので大地は必死に止めたのだが、しかし怒ってくれた事自体は嬉しかった。情に厚い人間が大地は決して嫌いじゃない。故にいくらか風見を見直してしまったのだ。
が、そうは言っても、風見とばかりつるんでいる現状が続くのを決して良いとは言えなかった。大地は他の友人たちとも交流したいのだ。それに何より、毎日ハグを続ける事にいつまで耐えていられるか……
と、そんな考えに耽っていた事と、バイトの疲労の為に注意力が落ちていたのが良くなかった。大地は正面から歩いてきた三人組を避け切れず、端の一人と軽く肩がぶつかってしまう。
「っと、すいません」
大地は反射で謝った。だがまぁ正面からぶつかっているならばお互いの過失だし、大した衝撃があったわけでもない。だから軽く謝っておくだけで良いだろうと、特に足を止める事もなかったのだが。
「おーっと、待て待て」
背後から無遠慮に肩を掴まれた。
「何そのまま行こうとしてんだ? 今結構痛かったんだけどなぁ。すいませんしかねぇのかよ?」
「あー、そりゃ駄目だ。そりゃぁ非常識ってモンだろうが。なぁ?」
「そうだよ、謝りゃなんでも許されるって事はねぇんだよ!」
――うわ、やば……!
大地は瞬時にピンチを悟った。どうやらとても面倒な人種にぶつかってしまったらしい。絡んできた三人は、どう考えてもチンピラだ。
とにかくまずは、誠心誠意謝ってみるのがいいか……大地は「すいません、ぼーっとしてて」と頭を下げつつ振り返る。と、そこで「あっ」という声が漏れた。改めて向き合ってみるとその三人は、物凄く見知った顔だったのだ。
大地と同じ制服をこれでもかと着崩した彼らは、なんとタイムリーな事に、下校中に風見に語った、野球部を空中分解させた元凶――喫煙を見付かった先輩達だったのである。
「あ? お前、三好じゃん!」
相手も大地に気が付いてしまった。その瞬間、彼らの口角はニィッと上がる。それは久々に対峙する後輩への親しみの笑み――というわけでは、当然ない。これは明らかに、いいカモを捕まえたという愉悦の笑いだ。
「やー、いいトコで会ったわぁ。丁度いい、これからちょっと付き合えよ」
大地がぶつかってしまった伊藤という先輩はガバリと大地と肩を組むと、強引に駅とは反対方向へと歩き出した。その脇を他の二人ががっちり固める。
この布陣、間違いなくこの後、良からぬ場所に連れ込まれる。
そして十中八九、カツアゲされるに決まっている……!
「あ、あの! 俺、もう帰らないと行けなくて! 先輩達と寄り道するだけの時間はなくて……!」
大地は慌てて身を捩り、伊藤の腕からの脱出を試みる。
が、相手もそうは甘くなかった。肩に回した手をグッと絞めると。
「あー? 別に時間は取らせねぇよ。お前が素直に言う事聞きゃ五分も掛からねぇんだから」
「そうそう、大人しくしときゃすぐ済むって! つかマジで三好に会えて良かったぁ、俺、今日こそあのゲームクリアしてぇんだよなぁ!」
「軍資金がありゃいけんだろ! なぁ、余りが出たら焼き肉行こうぜ!」
先輩達は「いーねぇ!」と盛り上がる。
ああ、やはり彼らは大地から金を巻き上げるつもりなのだ。
視線の先にはビカビカと光るゲームセンターの看板が見えている。あそこのトイレか何処かで大地から金を奪い、そのまま豪遊しようというのだろう。
――って、冗談じゃねぇって……!
大地はぎゅうと顔を顰めた。特に使い道を決めていたわけではないものの、しかしバイトをしてコツコツ貯めてきた金を、何故こんな奴らに渡さなきゃいけないのか。ただでさえこの三人には野球部という青春を奪われたというのに……!
そう考えるとふつふつと怒りが湧いてきた。いっそのこと彼らをぶちのめしてしまおうかとも思うのだが、残念ながら全く現実的ではなかった。
先輩達は不良の癖に、部活はそれなりにこなしていた。未だその身体は大きいし、きっと力も強いだろう。そんな奴らを三人も相手にして勝てるかと言われたら微妙なところだ。ボコボコにされた上で財布を持って行かれるという最悪な結果になる可能性が非常に高い。いくら大地が痛みに強いと言ったって、殴られて平気というわけじゃない。
だとしたら……と大地は即座に頭を回し。
「や、でも俺、全然金ないッスよ⁉ 現金は五百円くらいしか持ち歩いてないし、ICカードもろくにチャージしてないんで……俺連れてっても時間の無駄じゃないスかね⁉」
「あ? そうなの?」
大地の言葉に、右側を歩いていた先輩が言う。左を歩く先輩も、「そんなら他のカモ見付けた方がいっか?」と言い出した。
嗚呼、無駄遣い防止の為、あまり金を持ち歩かないようにしておいて良かった。このままならすんなり解放してもらえるかもしれない……!
そう期待した大地だが、伊藤はこの流れに乗らなかった。
彼は意地悪い笑みを浮かべて大地の顔を覗き込むと。
「あーそう? 金がねぇのは残念だけど、でも時間の無駄って事はねぇよ。暇つぶしにお前ボコさせてもらうから」
「は、はい⁉」
素っ頓狂な声が出た。だって、なんでだ? こちらから手を出しているわけでもないのに、なんで暴力を振るわれるのか……すると伊藤はくつくつと冷たい笑いを耳元に吹き込んで来た。
「あのなぁ三好。俺ぁずーっと、お前にムカついてたんだよ。野球部がなくなった後、同好会やろうって声掛けて回ってたのお前だろ? 俺らは野球できなくなったってのに、自分らは関係ないですって顔してさぁ……俺らへの当て付けのつもりだったか? 生意気だって思ってたんだよ」
「……っ、そんなの、全部自業自得じゃないッスか!」
反射的に突っ込んでしまってから、大地はすぐに口を噤んだ。
いやいやいや、駄目だって。
この状況で相手を刺激するような事は言うべきじゃない。
が、どうしても言わずにはいられなかった。だって、伊藤達が部活をできなくなったのは、他でもない彼ら自身の過失のせいだ。実際大地たちにはなんの関係もない。だというのに、同好会を作って何が悪い? というかその同好会を組む機会すら潰しておきながら、尚も大地に対し苛立ちを抱えていたなんて、どれだけ過去に囚われているのだ。もう半年も経っているというのに……と呆れてしまうが。
――あぁ、そうか。この人らは、次の居場所を見付けられてないんだ……
大地はそう理解した。
だからこそ、彼らは未だにあの時の三人でつるみ、夜の街を徘徊してなんの意味もない時間を過ごしている。そうしていつまでも過去に囚われ燻っているのだ。自らの行いを省みるでもなく、前に進む為の努力をするでもなく。
そんな連中が大地の言葉に、「そうだね、俺らの自業自得だね」なんて納得するわけがなかった。むしろその言葉をきっかけに、
「あぁ? お前今なんつった?」
大地を見る伊藤の目が鋭くなった。そして彼らは頷き合うと、ゲームセンターの手前で曲がる。そこは細く暗い裏路地だ。人目のないその場所で、大地は思い切り突き飛ばされた。
「っ!」
大地が地面に倒れ込むと、腹の上にすかさず伊藤が跨がってきた。大地の胸ぐらを掴んで乱暴に引き起こし、額同士をくっつけるようにして。
「ほんっとテメェは生意気だな……そういうトコが前から気に入らなかったんだよ。いっつも自分は正しいです、汚れてませんって顔して……お前みたいな奴見てると苛つくんだよ!」
「って、そんな事言われても……!」
つまり伊藤は、大地の事が生理的に無理だという事なのだろうが、だとしてもそれは大地の落ち度じゃない。さっきから伊藤の言動は無茶苦茶だ。
だがこの状況、とても理屈が通用するとは思えなかった。三対一。人目はない。しかも相手はもうすっかり臨戦スイッチが入っているのだ。
しかし、ではこんな理不尽を大人しく飲み込めるかと言われると、大地もそんなに大人しい性格ではなかった。ここまでは相手が先輩だからと無意識に下手に出てしまっていたが、ここまで来たら知るものか。
大地はキッと三人を睨み据えると。
「あの、俺の事殴りたいんなら好きにすりゃいいスけど、そんな事したらそっちは社会的に死ぬ事になりますから! 俺、黙っててやんないッスよ、警察にも学校にも言いますから! 素性知られてる相手に暴力振るうリスクくらい先輩らでもわかりますよね⁉」
「……っ」
怯まずに言い放つと、伊藤以外の二人は目に見えて狼狽えた。彼らは伊藤にくっついて悪事を働くが、そこまで肝が座っているわけではないのだ。
「お、おい、確かにあんま無茶するとやべぇんじゃねぇの」
「警察って、そりゃ流石に……」
「…………」
二人が動揺し始めた為か、伊藤も少し逡巡するような素振りを見せた。大地は慎重に相手を窺う。できれば痛い思いはしたくないし、このまま引いてくれと願いつつ……
だがその願いが聞き届けられる事はなかった。
伊藤は何を閃いたのか、ニヤァと口角をつり上げて。
「……おっけ、わかった。じゃぁ警察に言えないようにしてやればいいって話だよな? おいお前ら、コイツの手押さえとけ!」
「え、何すんの?」
問い掛ける仲間達の勘の鈍さに、伊藤は乱暴に舌打ちする。
「わかんねぇの? こいつの弱み握んだよ! なぁ三好、今からすんげぇ恥ずかしい写真撮ってやるよ。俺らにやられたってチクったら、その写真ネットでばら撒くからな!」
「なっ──」
大地は相手の卑劣さに絶句した。
どうしたらそんな事を思い付くんだ⁉
そしてこの場合の恥ずかしい写真とは……想像すると血の気が引く。
「や、やめろ馬鹿! 何考えてんだよ!」
大地は慌てて伊藤を押し除けようとしたのだが、他の二人に阻まれた。腕を取られ、仰向けに地面へと押し付けられる。伊藤がニヤニヤとした笑みを浮かべ、大地のベルトに手を掛ける。
「あーあ、馬鹿な奴ぅ。俺らの事舐めてっからこういう事になるんだよ、なぁ!」
ガチャガチャとバックルの音が鳴り、大地は必死に身体を捩る。
「やめろ馬鹿! やめろって!」
だが、抵抗は大した意味を持たなかった。口は塞がれ、ついにベルトも外されてしまう。そのままズボンに手が掛けられる。
あぁ、もう駄目だ……!
大地は目の前が真っ暗になるのを感じた。
きっとこのまま、下着まで剥ぎ取られて写真を撮られる。そうなれば暴力を告発できなくなるどころか、その写真をネタに揺すられ続けるに違いない……!
そんな展開は絶対に御免だが、この状況を打開する為の手段がなかった。腕は押さえ付けられて、声も出せない。ズボンのチャックもあっという間に下ろされてしまう。そしていよいよ伊藤の手がズボンを引き下ろしに掛かり、大地は絶望の底へと沈み掛けたが──その時である。
カシャシャシャシャシャ!
突如として路地裏にそんな音が聞こえてきた。
耳に馴染んだその音は、間違いなくスマホカメラの連写音だ。
が、何故?
大地は目を瞬く。
まだ伊藤はスマホを構えてすらいない。大地を押さえ付けている二人だって両手が塞がっている状態だ。では一体誰がカメラを……? その場にいる面々が同じ疑問を抱いた時、それに応えるようにして。
「よーしオッケ、ばっちり撮れたわ。決定的な暴行シーン」
路地の入り口から声がした。それに皆一斉に目を向けて──大地は呆気に取られてしまう。そこに立っていたのは、なんと風見だったのだ。
何故彼がここに……大地が唖然として見詰める中、風見はスマホをひらひらと振りながら声を投げた。
「ねぇーそこの先輩たち。俺、さっきから様子見てたんだけどさぁ、あんたらって野球部を崩壊させたっつぅ奴らだよね? タバコでもう学校から目付けられてるだろうに、暴行画像までばら撒かれたらやばくない? 退学待ったなしだろうし、これネットに流したら人生積んだも同然だと思うけど、どう?」
「っ⁉」
息を呑んだのは、大地を押さえ付けていた二人である。
「な、なんだよ……お前誰だよ⁉」
「いきなり出てきて、なんなんだ⁉」
写真を撮られて動揺したのか、ひっくり返りそうな声で問い掛けると、風見は不遜に顎を上げ。
「俺は三好のクラスメイトだよ。つか言っとくけど俺、自分でもびっくりするくらい腹立ってるから。さっさと三好から離れてくんない?」
そう告げる口調は軽いが、声音はいつになく硬かった。彼が確かに怒っているのが、そしてそれを懸命に抑えているのが伝わってくる。
「正直あんたらのやった事は、タバコの件も同好会潰しの件も今回の件も全部めちゃくちゃムカついてるし、この時点で写真ばら撒いてやりたくて仕方ないけど、そこまで大事にはしたくない。だから大人しく引き下がって、今後三好に手ぇ出さないって誓うんなら、今回は見逃しといてやるけど、どうする?」
風見がそんな慈悲を見せると、取り巻き二人が大地からパッと手を離した。彼らは伊藤へと目を向けて。
「な、なぁ、今回はここでやめとこう」
「そうだよ、流石にやばいって」
そう口々に訴えるのだが、やはり伊藤は流されなかった。
それどころか呆れたような口ぶりで。
「馬鹿かお前ら。なんでこっちが脅しに屈する必要があるんだよ」
「だ、だって、写真撮られたし……」
「あのなぁ、よく考えろよ。三対二だろ? スマホ奪い取って写真消せばいいだけだろうが!」
「あ、なるほど!」
二人は頷くや否や、ニタリと狂暴な笑みを浮かべた。そして即座に風見へと向かって突進していく。
「オラァ! スマホ寄越せ!」
そんな勢いで二人の男に迫られたら、普通は怯むものだろう。だが風見は落ち着いたものだった。先に飛び掛かってきた一人を足払いで転ばせると、間髪入れずに二人目の腕をぎゅっと掴む。その瞬間、バチっという大きな音と、青白い閃光が辺りを照らす。風見の電気が炸裂したのだ。これを食らった先輩は「ぎゃんっ」という不細工な悲鳴を上げて膝をつく。
「おー、やっぱこれ使えるわ。不便だ不幸だって思ってたけど、喧嘩になるとチートすぎ!」
風見はそう言って、転ばせておいた先輩の肩にも触れた。するとまたバチッという音と閃光と悲鳴が上がる。
その時大地は初めて知った。風見の放出する電力とは、普通の人間にはこんなにも危険なものだったのか。
いや、もしかしたら喧嘩による昂ぶりで出力が上がっているのかもしれないが、なんにせよ風見はあっという間に二人を動けなくしてしまった。
「で? 残りはあんただけだけど、どうすんの。やる? 引く?」
風見は伊藤を振り返る。最早この場は完全に彼が支配していた。帯電体質恐るべしである。
「な、なんだ……なんなんだよ……!」
風見の体質の事を知らない伊藤は、只管に困惑していた。そりゃそうだろう。殴られたわけでもないのに、何故仲間達が倒れ伏しているのかなんて理解できるはずもない。
「おい、お前ら! 何ふざけてんだよ、なんで寝っ転がってんだ⁉ 早くスマホ奪い取れよ!」
「無理だって。別に死んじゃいないだろうけど、結構な電気走ったもん。暫くは痺れて動けねぇよ」
「電気……? なんだお前、スタンガンでも仕込んでんのか? ふざけやがって……!」
忌々しげに吐き捨てると、伊藤はバッと立ち上がり風見へ向けてファイティングポーズを取った。どうやら引く気はないらしい。これに風見はやれやれと頭を振って。
「あーそー、やんのね? まぁそれならそれでいいけどさ。俺もどっちかと言えば、あんたに痛い目見せときたいし。こんだけ電気溜まってたら、ちょっと放電しといた方がいいかもだし」
「っ、さっきからわけわかんねぇ事言って……調子に乗んなよっ!」
伊藤は叫ぶように言うと、風見へと飛び掛かった。流石は三人のリーダー格、先程の二人よりも動きが早い。しかも彼はスマホではなく、風見自身を狙っていた。まず風見を痛め付けて、それからスマホを奪おうという算段らしい。
いくら触れた瞬間に電撃が走るとは言え、殴られたら風見だって一溜りもないはずだ。大地は即座に身を起こし、「風見、逃げろ!」と叫ぶのだが――……
完全に杞憂であった。
風見は本当に喧嘩慣れしているらしく、勢い良く繰り出された伊藤の拳を軽く躱すと、伊藤を背後から思い切り抱きしめた。爆竹のようなバチバチバチッという派手な音が鳴り、路地裏は青白い光に染まる。
五秒程だって風見が身体を離した時には、伊藤は完全に意識を飛ばしていた。彼はビクビクと痙攣したまま、地面へと倒れ込む。
なんと風見はあっという間に、三対二……いや、大地はただ転がっていただけだから、実質三対一という圧倒的に不利な喧嘩に勝ってしまったのである。
「あー、手間掛けさせやがって……おい三好、大丈夫?」
風見は未だ地面に尻餅をついている大地の前にしゃがみ込んだ。大地はこくこくと頷いて。
「平気……つか風見、なんで居んの……?」
まだ放心しながら問い掛ける。
大地にはずっとそれがわからなかった。
どうしてこんなにも都合よく、風見がこの場に現れたのか。
この問いに風見は乱れた髪をかき上げながら。
「あー俺さ、いつも一人で飯食ってて。それって結構寂しいし、お前がバイトしてんならそこで食いたいなって、バイト先探してたの。でもこの辺ラーメン屋多くてなかなか見付けらんなくて、さっきやっとバイト終わりっぽいお前を見かけて声掛けようとしたんだけど、そこでこの先輩らが出てきてさぁ。すぐ助けようかとも思ったんだけど、それじゃまた絡まれる可能性が高いだろ。だから今後相手が手出せなくなるような写真が撮れるまで待ってから助けようって……」
そこで風見は改めて大地を見て、言葉を切った。
そして大きく息を吐く。
「でも悪ぃ、完全に失策だったわ。もっと早く助けてやるべきだった……ごめんな、怖かったろ?」
項垂れながら謝られ、大地はやっと気が付いた。自分の身体が小さく震えている事に。先程の出来事に、思っていたよりもショックを受けているらしい。
だが、それを悟られるのはカッコ悪い。大地はぎゅっと指を握ると、無理やり気丈な顔をして。
「いや、あれで良かったよ。風見の言う通り、写真も何もなく加勢されても、どこかのタイミングで絶対報復されただろうから……つか風見が居てくれなかったらガチで危なかった。助かったよ、ありがとな」
そう告げてとにかく立ち上がろうとしたのだが、うまく力が入らなかった。どうやら腰が抜けてしまっているらしい。
「あぁもう、ダサいな俺……っ」
大地は自嘲気味に吐き出した。風見に比べて、自分のなんと情けない事だろう。だがあんな窮地に陥るのは初めてで、どうしても震えが止められず……と、そこで大地は息を呑んだ。
風見にぎゅっと、強く抱きしめられたからだ。
「な……っ、なんだよ急に⁉ 離せって……」
大地は風見を押し除けようとする。ハグ自体への抵抗もあったのだが、密着すると、震えが誤魔化せなくなってしまうと慌てたのだ。
だが風見はビクともしなかった。
むしろ彼は更にグッと力を込めると。
「あー、と……あのさ。俺、今けっこう頑張ったじゃん? だからご褒美欲しいわけ。な、俺に感謝してんなら、このままちょっと抱かせといてよ」
それは如何にも風見らしい自分本位な言い方だったが、その静かな声、優しく背中を叩くリズム……真意が異なるのは明らかだった。風見は今、大地を落ち着かせようとしてくれているのである。
じんわりと伝わってくる、風見の体温。
パチパチと肌で弾ける、仄かな電気。
鼻腔をくすぐる、甘い香り。
何故だろう、その全てが、不思議と大地を安心させた。
いつものハグは動揺を誘うのに、何故だか今は安堵する。先程までの恐怖心が和らいでいく。自分は今、安全な場所にいるのだという実感が湧いてくる。
──嗚呼、そっか。心細い時に誰かに抱き締めてもらうのって、こんなに落ち着くものなんだ……
風見が渇望する気持ちがようやく今わかったかもしれない。確かにこれは、癖になってしまうのも納得かも――いや、これは風見の包容力があってこそか?
「よーしよし。もう大丈夫だからな。もう怖い事なんもねぇから……」
ゆったりと告げる声は、胸の深いところまで染み入った。そうなると強がりもゆるゆると溶かされて、大地は心を委ねるように目を閉じる。
本当なら、こんな風に慰められているのは情けないし、ハグにだって抵抗がある。
だが今はもう少しだけ、このままでいたかった。
せめて震えが止まるまで、もう少し、もう少しだけ。
