誰にも本気になれなかった俺が、男友達に本気で恋する話

あの日から、一ノ瀬とはあまり話していない。
朝、顔を合わせても「おはよ」って、挨拶するくらい。
いや、正確には……一ノ瀬から話しかけてくれてはいて、それを俺が一方的に避けてしまっていた。

「……なぁ、中原、ちょっといい?」
「……何?」

一瞬だけ目が合った。

「昨日のこと、ちゃんと話したくて」
「ごめん。俺、飯食ってるから」
「……そっか」

それ以上、何も言わなかった。
一ノ瀬は俺から視線を逸らして、友達との会話に戻ってしまった。俺はその場に立ったまま、申し訳なさだけが残る。

別に、一ノ瀬のことが嫌いなわけでもないし、避けたいわけでもない。

ただ、これ以上話せば、自分の気持ちが抑えられなくなるような気がしたから。

ただ、それだけなのに、こんなに苦しくなるとは思ってなかった。

昼休みも、廊下で歩いていると、後ろから足音が聞こえた。

「中原!」

名前が呼ばれて、俺はその場で振り返った。

「あ……」

足が止まる。

「えっと……何?」
「いや、その……」

一ノ瀬は、何を言うか、迷っているようだった。

「……何もない」

結局、一ノ瀬は、それだけ言って困ったように笑った。
その顔が、頭から離れない。自分から避けているくせに。こんなに寂しい気持ちになるなんて、思ってもいなかった。

*

「で、中原……これはどういうこと?」

その日の放課後、俺は教室で事情聴取を受けていた。
俺の机を、藤田と雨宮が囲うように座っている。

「なんで一ノ瀬のこと避けてんのさ」

美咲は俺に問い詰めるように聞いた。

「……別れた」

俺は、小さい声で言った。

「はあ?なんで」
「お前、一ノ瀬のこと大好きじゃん」
「だってさー……あいつといると、どんどん自分のことが嫌いになるんだもん(笑)」

俺は、はは、と笑う。藤田と雨宮は、黙って聞いていた。

「なんつーか、自分がされて嫌だったことをしようとしてしまうっていうかさ」

俺は続ける。

「両想いなら、まだいいけど、ちげーじゃん。俺が一ノ瀬のことを好きだから付き合っただけの関係だから、俺の気持ち自体が、あいつの迷惑になるんじゃないか、って思っちゃうんだよ、どうしても」

俺は、自嘲気味に笑った。

「それに……すっげー最低なんだけどさ、元カノに同じことしてきたくせに、いざ自分が好きな人と付き合ったら、気持ちに温度差があることが、こんなにも苦しい」

知らなかった。『恋人』という肩書きだけじゃ、足りないって思うことがあるなんて。前までは、相手に、『もっと好きになって欲しい』とか、そういう気持ちの部分を求められるのが、重いって思ってた。なのに、今度は自分がそれを求めてる。

好きになればなるほど、自分の嫌なところが、浮き彫りになってしまう。

「……そう思ったのってさ、やっぱり相原のことが原因?」

藤田は、気まずそうに言った。

「……全く違うかって言われたら、そうじゃない」

正直に言った。でも、俺は相原さんのせい、なんて、一ミリも思っていなかった。これは本当だ。ただ、相原さんのことがきっかけで気づかされただけ。

「一ノ瀬と相原さんって、そんなにラブラブだったんだ?」

雨宮が藤田に聞いた。

「まぁ、そうだな。だって一ノ瀬、中学の時さ────」
「ごめん」

俺は、藤田の言葉を遮った。

「なんだよ?」

藤田は不思議そうに俺の方を見る。

「一ノ瀬の過去の話とか、他の人から、あんまり聞きたくない。勝手に知られたくないことだって、あるだろうし……」

そこまで言って、自分で自分にびっくりした。いつもだったら、こんなふうに俺らしくない言い方なんて、しないのに。

「お前さぁ」

藤田は呆れるように笑った。

「そこまで一ノ瀬のこと好きなのに、別れるとか正気?」
「うるせーな、正気とかそういう話じゃねーんだよ」

思わず声が尖った。

「じゃあどういう話だよ」
「それは……」

言い返そうとしたのに、続く言葉が出てこなかった。
藤田の言葉が、静かな教室に落ちた。俺は、すぐには答えなかった。
窓の外では、部活に向かう生徒たちの声が聞こえている。いつもなら、放課後のこの時間はもう少し騒がしいはずなのに、今日は妙に静かだった。

「……正気じゃないかも」

ぽつりと呟いて、俺は机の上に視線を落とした。

「お前、今まで本気で好きになったこととかねーだろ」

藤田は言った。

「お前が今言ったことも、本気で誰かを好きになったら、当たり前のことなんだよ。好きな相手に、自分のこと好きになって欲しいとか、自分だけ見てほしいとか、そりゃそうだろ。お前が勝手に恋愛舐めてただけ。それを怖がってるようなら、お前、一生恋愛なんてできねーよ」

その言葉に、少しムッとする。

「舐めてたとかじゃなくて。今までは、それでよかったんだよ。誰かを本気で好きにならなかったから、そういう気持ちなんて、求めもしなかった。それでちゃんと回ってたんだって」
「それ、回ってたんじゃなくて、逃げてただけだろ」

雨宮が、あっさり切り捨てる。
俺は何も言い返せなかった。

「それに中原さ」

雨宮が口を開く。

「さっき俺らに言ったこと、一ノ瀬にはちゃんと伝えた?」
「……言ってねー」
「お前それ、すげー自分勝手じゃね?」

俺は黙った。

「自分で勝手に一ノ瀬の気持ち決めつけて、本人には別れたい理由も言わないでさ。そりゃあ一ノ瀬の方も自分が何かしたかって思うだろ」

反論できなかった。その通りだったから。
ただ、自分が傷つくのが怖くて、一ノ瀬の気持ち決めつけて、そのくせ、一ノ瀬に何も伝えずに一方的に別れを告げた。

「……そりゃあこんなやつ、好きになれねーわ……」

ぽつりと呟く。

「だからそれが決めつけてんじゃん」

雨宮が呆れたように言う。

「一ノ瀬は、俺のこと気にかけてくれて、ちゃんと話そうとしてくれてたのに、話しても意味ない、って俺が勝手に一ノ瀬のこと避けてた」

一ノ瀬は、何も悪くないのに。悪いのは、俺なのに。

「今からでもちゃんと話せば?」

藤田が静かに言った。

「俺だって、話したい。でも……自分でも意味分かんねぇくらい、あいつの気持ちを知るのが怖ぇ」

俺は続けた。

「いっそ何もせずにこのままの方が、楽なのかなって思ってしまう」
「……俺にはそう見えねーけど。今のお前、全然平気じゃねーじゃん」

分かってる。平気じゃない。苦しい。顔を見ないようにするだけで、こん何も苦しい。

「好きなんだろ、一ノ瀬のこと」
「……好きだよ」

即答だった。

「めちゃくちゃ好き。だから困ってんの」

好きじゃなかったら、こんなに悩まなかった。

「じゃあ逃げんな」
「好きな奴から逃げて、自分だけ傷つかないようにして、それで本当にいいのか?」
「一ノ瀬だって、何も知らないまま別れたら納得できないだろ」

その言葉が胸に刺さった。

「向き合えよ、あいつとも、自分とも」

俺は、ずっと逃げてばかりだった。あいつからも、自分の気持ちからも。あいつは、ちゃんと向き合おうとしてくれていたのに。

「……話す」

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

「ちゃんと話す」
「おう」

藤田と雨宮が頷く。
俺は、教室の扉を開けて、走り出した。
話したい、あいつと。このままじゃ、嫌だ。
廊下を走る。息が切れる。それでも足を止められなかった。
一ノ瀬は、まだ学校にいるだろうか。心臓が痛いくらい鳴っている。
昇降口まで来ると、一ノ瀬はちょうど靴を履き替えて帰ろうとしているところだった。

「一ノ瀬!」

振り返った一ノ瀬の顔に、驚きと、それから戸惑いが浮かぶ。

「……中原?」
「ごめん一ノ瀬、本当にごめん。ちゃんと、話したい」
「……分かった」

短く答えて、一ノ瀬は俺を見る。

「じゃあ……中庭、行く?」

俺は頷いた。
俺と一ノ瀬は、並んで歩き始める。
だけど、以前なら当たり前だったこの距離が、今はやけに遠く感じた。ただ、隣にいるだけなのに、胸の奥が、ずっとざわざわしている。
中庭に出ると、夕方の風が少し冷たかった。人はほとんどいない。
ベンチに座る一ノ瀬の隣に、少しだけ間を開けて、俺も腰を下ろした。
その距離が、今の俺たちみたいだった。

「……俺さ、今まで多分、まともに人を好きになったこととかないんだと思う」

一ノ瀬は、何も言わずに俺を見ていた。

「告られたら付き合って、結局、同じ熱量で相手を好きになれなくて、振られてきた。そういう『気持ち』の部分を求められるのが、重いって思ってた」

自分でも、情けないと思う。俺は一ノ瀬の表情を見ながら続けた。

「けどさ、実際に人を好きになったら、今度は俺が、それを求めてんの」

一度言葉を区切った。皮肉だ、本当に。

「俺が一ノ瀬のことを好きだから、一ノ瀬は恋人になってくれたのに、それだけじゃ嫌だって思ってる」

声が少し震える。

「好きになって欲しい、俺と同じくらい、俺のこと考えて欲しい」

それを口にするのは怖くて、でも、止められなかった。一ノ瀬は黙って聞いていた。その沈黙が、少しだけ怖い。

「それだけじゃない」

俺は、膝の上で手を握った。

「一ノ瀬のことが好きだから、俺のことだけ見て欲しいと思うし、相原さんにも嫉妬するし、独占したくなる、一ノ瀬のこと、縛りたくなる」

今まで言わなかったことも、一度口にしたら、隠せなくなる。

「散々、自分のことには、誰かに深入りされることを嫌がってたくせに、一ノ瀬のことになったら、元カノのこととか、俺の知らないこととか、俺に関係ないことまで、踏み込みたくなる。もっと知りたくなる」

俺は苦笑した。
知らないことがあるのが嫌だった。一ノ瀬の過去も。一ノ瀬の知らない顔も。俺の知らない誰かとの時間も。

「俺だけが一ノ瀬の特別だったらいいのに、って、ずっと思ってた。俺が一ノ瀬に、長引きそうだから先に帰ってって連絡した日、本当は、一ノ瀬と相原さんの話、聞いてたんだ。一ノ瀬が相原さんに『好きだった』って言ってるの聞いて、すげー嫌だった」

でも、そんなことを思う自分が嫌だった。重いと思われるのが怖かった。嫌われるのが怖かった。
だから、そんな気持ちを持っている自分自身からも、逃げた。

「そう思ってる自分が、怖かった」

俺は、ゆっくりと息を吐いた。

「嫌いだった」

自分の中にある、醜い部分。嫉妬する自分。独占したいと思う自分。相手の気持ちを欲しがる自分も。
今までの自分なら、絶対に認めたくなかった。

「一ノ瀬のこと、好きになればなるほど、こういう嫌なとこが見えてきて、自分でも止められなくて……」

言葉が詰まる。それでも、なんとか続けた。膝の上で握った手に、力が入る。声が小さくなる。

「どんどん自分のことが嫌いになって、それがキツくて、別れてって言った」

そこまで言って、俺は少しの間、黙った。
言葉にして、初めて分かったことがある。
自分が怖かったのは、一ノ瀬に嫌われることじゃなくて、一ノ瀬に「好き」と言ってもらえなかったときの自分だったんだと思う。

「……ずっと、一ノ瀬に、好きだって、言って欲しかったんだ」

自分の口から出た言葉に、自分で一番驚いた。