あの日から、私と貴方の不器用な関係性が始まりを迎えた。当たり前に過ごすはずだった普通の日常の中に特異な貴方の存在が溶け込むようになった。
パーカーの上に着る上着を羽織ると、柔軟剤の淡い香りがふわっと周囲に広がる。飲み物はバッグの中に入れたし、スマホの充電は満タン。よし、家を抜け出すための準備は完了だ。
あの会話を交わしてからというもの、私はしばしば深夜に家を抜け出してはあの子に会いに行くようになった。かくいう今日もその予定だ。
我が家の場合、お父さんは出張で家を空けていることが多いうえに、お母さんは夜勤に出ることが多いから深夜の方が案外自由に行動できる隙があるのだ。逆に日中だと、お母さんに逐一居場所や帰る時間を教えなくちゃいけないから行動に制限がある。ひまわり畑での一件があってからお母さんと交わした“一人では勝手に出掛けない”と言う約束を破るのもなんだか気が引けるけど、それでもあの子との関わりを断ちたくないという気持ちが上回った。
お母さんがショルダーバッグを提げて外へ出ていったのを注意深く確認して、音を立てないようゆっくりとドアを開けて外へと踏み出す。いつも通り海沿いの町を通り過ぎてから茂みとトンネルを抜けて今日も浜辺へとやってきた。
「やっほー、昨日ぶりだね。今日も来ちゃった」
「別に来なくていいのに」
「またまたそんなこと言っちゃって~」
この子の刺々しい言葉をいつも通り華麗に受け流す。いくら棘に満ちていてもそこに悪意がないことは理解しているから、こんなやり取りが息苦しいと感じたことは今まで一度もない。これが、これこそが、私たちなのだ。
「ずっと思ってたんだけどさ、君の名前は?」
「え?あぁ……」
唐突に投げかけられた予想外の言葉に思わず拍子抜けしてしまった。そっか、よくよく思い返してみればお互いの名前すらまだ知らなかった。ここまで軽口を叩けるほどの会話を交わしておきながら名前すら知らないというのもなんだか不思議な気分だ。
「朝陽じゃない本当の名前、あるんでしょ」
「あ……確かにまだ言ってなかったよね。えっと、私の名前は東雲凪桜。凪に桜って書いてなぎさって読むの。それで貴方の名前は?まだ聞いてなかったよね」
「……思い出せない」
貴方は歯切れの悪い口ぶりでそう言った。自分の名前を思い出せないなんてそんなのありうるのだろうか。いや、ずっと一人ぼっちでいたならそれも無理ないはずだ。
「それなら私がもう一回名前を付けるよ、それでいいでしょ?じゃあえっと、ゆづき……佑月はどうかな」
昔耳にしてからすっかり記憶の奥底に沈んでいた名前がふと脳裏に蘇ったのだ。アニメや漫画に出てきたキャラクターの名前なのだろうか。だけど聞き覚えのある名前だからといって理由もなしに名づけるのもなんだか忍びない。無理やり由来をつけるとするならば、月が辺りを明るく照らしている夜に姿を初めて見た子だから佑月。単純な発想だけど悪くない理由じゃないだろうか。
「どうせ君しか呼ばない名前だし、それでいいよ」
「そっか。貴方の本当の名前、いつか思い出したら教えてね」
会話はそこで一度途切れて沈黙が宙に浮かんだものの、そういえばまだ名前以外にも聞いていないことが一つあった。無理に聞き出すつもりもないけど、できれば知っておきたいことだ。
「それじゃあ貴方は男の子と女の子、どっち?どっちの性別にも見えるけど……」
「分からない。多分、そんなのないんだと思う」
やっぱり、この子は本当に自分のことを知らないんだ。だけど今更性別が存在しないくらい、驚くことでもない。何せこの子の存在自体いまだに信じきれていないのだから。
「まぁ、分からないなら分からないでもいいと思うよ。それで何かが変わるわけでもないしさ」
名前も思い出せない、性別もない、そんな何者でもない唯一無二の存在、それが貴方なんだ。思い出せない記憶はこれから少しずつ思い出していけばいい。知らなかった感情も、知らなかった景色も、これから二人で触れていけばいい。
貴方が思い出せないのなら、知らないのなら、私が手を引いて教えるから貴方は思うがままの自分でいて。
それからしばらくの間、沈黙に包まれた浜辺の中に二人で隣り合って座って、ただ月明かりが散りばめられた水面の様子に視線を預けていた。耳に届くのは日々の喧騒に呑まれて傷だらけになった心を優しく撫でてくれる波間の音色だけだ。
そうしているうちに、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
気づかないうちに眠りに落ちていたみたいだ。ハッと目を覚ましてスマホに表示された時刻を確認するとすでに午前五時を過ぎていて、もう夜明けが目の前まで迫っていた。
暗澹を落とし込んだような黒色をしていた夜空はいつのまにか藍色へと染められ、朝日が水平線からその姿を現す予感がし始めていた。
「ねぇ、佑月。そろそろ夜が明けてき………」
そこまで言葉を発しかけたところで、私の口はピタリと動きを止める。本来口にするはずだった未完成の言葉がそよ風に攫われて黎明の空気に溶けていく。まさに時間が止まったかのような錯覚に襲われた。
「ゆ、佑月?それ、どうしたの………?」
佑月の体全体が空気の色を滲ませたような半透明と化していたのだ。まるで空中に存在が溶けて消えていくみたいに。
「………別になんでもない」
「そんなこと言われても分かんないよ。消えちゃうの?もう、会えないの?」
「それじゃあ、また」
「ちょっと待って!まだ行かないで」
透明に蝕まれた佑月の体が少しずつそよ風に乗って溶けていく。やがて指先までもが透明に吞まれ、佑月の声はぶっきらぼうな返事を最後に途絶えた。さっきまで隣に座っていたはずの佑月は、まともに言葉を交わす間もなく忽然と姿を消してしまった。
佑月の方へ伸ばしていた手が、行くあてもなく宙を彷徨う。
“それじゃあ、また”
佑月が最後に残した言葉を信じていいのだろうか。
パーカーの上に着る上着を羽織ると、柔軟剤の淡い香りがふわっと周囲に広がる。飲み物はバッグの中に入れたし、スマホの充電は満タン。よし、家を抜け出すための準備は完了だ。
あの会話を交わしてからというもの、私はしばしば深夜に家を抜け出してはあの子に会いに行くようになった。かくいう今日もその予定だ。
我が家の場合、お父さんは出張で家を空けていることが多いうえに、お母さんは夜勤に出ることが多いから深夜の方が案外自由に行動できる隙があるのだ。逆に日中だと、お母さんに逐一居場所や帰る時間を教えなくちゃいけないから行動に制限がある。ひまわり畑での一件があってからお母さんと交わした“一人では勝手に出掛けない”と言う約束を破るのもなんだか気が引けるけど、それでもあの子との関わりを断ちたくないという気持ちが上回った。
お母さんがショルダーバッグを提げて外へ出ていったのを注意深く確認して、音を立てないようゆっくりとドアを開けて外へと踏み出す。いつも通り海沿いの町を通り過ぎてから茂みとトンネルを抜けて今日も浜辺へとやってきた。
「やっほー、昨日ぶりだね。今日も来ちゃった」
「別に来なくていいのに」
「またまたそんなこと言っちゃって~」
この子の刺々しい言葉をいつも通り華麗に受け流す。いくら棘に満ちていてもそこに悪意がないことは理解しているから、こんなやり取りが息苦しいと感じたことは今まで一度もない。これが、これこそが、私たちなのだ。
「ずっと思ってたんだけどさ、君の名前は?」
「え?あぁ……」
唐突に投げかけられた予想外の言葉に思わず拍子抜けしてしまった。そっか、よくよく思い返してみればお互いの名前すらまだ知らなかった。ここまで軽口を叩けるほどの会話を交わしておきながら名前すら知らないというのもなんだか不思議な気分だ。
「朝陽じゃない本当の名前、あるんでしょ」
「あ……確かにまだ言ってなかったよね。えっと、私の名前は東雲凪桜。凪に桜って書いてなぎさって読むの。それで貴方の名前は?まだ聞いてなかったよね」
「……思い出せない」
貴方は歯切れの悪い口ぶりでそう言った。自分の名前を思い出せないなんてそんなのありうるのだろうか。いや、ずっと一人ぼっちでいたならそれも無理ないはずだ。
「それなら私がもう一回名前を付けるよ、それでいいでしょ?じゃあえっと、ゆづき……佑月はどうかな」
昔耳にしてからすっかり記憶の奥底に沈んでいた名前がふと脳裏に蘇ったのだ。アニメや漫画に出てきたキャラクターの名前なのだろうか。だけど聞き覚えのある名前だからといって理由もなしに名づけるのもなんだか忍びない。無理やり由来をつけるとするならば、月が辺りを明るく照らしている夜に姿を初めて見た子だから佑月。単純な発想だけど悪くない理由じゃないだろうか。
「どうせ君しか呼ばない名前だし、それでいいよ」
「そっか。貴方の本当の名前、いつか思い出したら教えてね」
会話はそこで一度途切れて沈黙が宙に浮かんだものの、そういえばまだ名前以外にも聞いていないことが一つあった。無理に聞き出すつもりもないけど、できれば知っておきたいことだ。
「それじゃあ貴方は男の子と女の子、どっち?どっちの性別にも見えるけど……」
「分からない。多分、そんなのないんだと思う」
やっぱり、この子は本当に自分のことを知らないんだ。だけど今更性別が存在しないくらい、驚くことでもない。何せこの子の存在自体いまだに信じきれていないのだから。
「まぁ、分からないなら分からないでもいいと思うよ。それで何かが変わるわけでもないしさ」
名前も思い出せない、性別もない、そんな何者でもない唯一無二の存在、それが貴方なんだ。思い出せない記憶はこれから少しずつ思い出していけばいい。知らなかった感情も、知らなかった景色も、これから二人で触れていけばいい。
貴方が思い出せないのなら、知らないのなら、私が手を引いて教えるから貴方は思うがままの自分でいて。
それからしばらくの間、沈黙に包まれた浜辺の中に二人で隣り合って座って、ただ月明かりが散りばめられた水面の様子に視線を預けていた。耳に届くのは日々の喧騒に呑まれて傷だらけになった心を優しく撫でてくれる波間の音色だけだ。
そうしているうちに、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
気づかないうちに眠りに落ちていたみたいだ。ハッと目を覚ましてスマホに表示された時刻を確認するとすでに午前五時を過ぎていて、もう夜明けが目の前まで迫っていた。
暗澹を落とし込んだような黒色をしていた夜空はいつのまにか藍色へと染められ、朝日が水平線からその姿を現す予感がし始めていた。
「ねぇ、佑月。そろそろ夜が明けてき………」
そこまで言葉を発しかけたところで、私の口はピタリと動きを止める。本来口にするはずだった未完成の言葉がそよ風に攫われて黎明の空気に溶けていく。まさに時間が止まったかのような錯覚に襲われた。
「ゆ、佑月?それ、どうしたの………?」
佑月の体全体が空気の色を滲ませたような半透明と化していたのだ。まるで空中に存在が溶けて消えていくみたいに。
「………別になんでもない」
「そんなこと言われても分かんないよ。消えちゃうの?もう、会えないの?」
「それじゃあ、また」
「ちょっと待って!まだ行かないで」
透明に蝕まれた佑月の体が少しずつそよ風に乗って溶けていく。やがて指先までもが透明に吞まれ、佑月の声はぶっきらぼうな返事を最後に途絶えた。さっきまで隣に座っていたはずの佑月は、まともに言葉を交わす間もなく忽然と姿を消してしまった。
佑月の方へ伸ばしていた手が、行くあてもなく宙を彷徨う。
“それじゃあ、また”
佑月が最後に残した言葉を信じていいのだろうか。
