瞼の隙間から差し込む光が視界をなぞるようにゆらゆらと動く。
意識の外側で、今は雑音としてしか耳に届かないスマホのアラーム音がけたたましく音を立てて鳴り響き続けている。耳障りなその音が耳の奥でこだまするうちにだんだんと意識が覚醒してきた。長い間眠りに委ねていた頭は重くて、脳内で不規則な痛みが反響している。
額に手を当てながら身体を起き上がらせた瞬間、目に映る世界が揺らいで視界に黒いシミが次々と落ちてくるかのような感覚に襲われて、そのままベッドに倒れ込んだ。頭がぼんやりとして目の前に広がる景色の輪郭が歪んでいく。また眩暈か。
はぁ、とため息をこぼして壁にもたれかかるようにして体を預けた。こうしていると、幾分か頭の気怠さがマシになる。この症状が現れ始めた中学生の頃に比べると軽くなったとはいえ、まだまだ眩暈に苦しめられる毎日だ。
どれくらいの時間そうしていただろう。アラームもすっかり鳴りやみ、静寂に染まったこの部屋の空気に満たされてうつらうつらとしていたその時、お母さんが階段を駆け上がってくる音で現実に引き戻された。それがお母さんのものだと瞬時に察せたのは、その人特有の微妙な強弱や振動の違いがあるからだ。両親の一挙手一投足に過敏に反応するようになった今、物音や足音一つで誰かを判別するなんて容易いことだった。
「凪桜、起きなさい!朝からいい加減にして」
その怒声とともに階段と部屋とを隔てるドアが勢い任せに開かれ、物静かだった私だけの空間が爆ぜた。咄嗟に時計へ目をやると、秒針は午前七時半を指していた。お母さんの声に肩を揺さぶられるまま体を起こそうとしたものの、またもや眩暈が阻む。微塵も動けずにベッドに倒れ込んだ体勢のまま固まるしかなかった。
「はぁ………今日もそのパターン?毎日のように起きれない起きれないって言うけど、結局学校をサボりたいだけでしょ。私からしたら休むための言い訳にしか聞こえないんだけど」
お母さんは朝日の光を遮っていたベージュのカーテンを開きながら、胸に溜まった不満を吐き出すようにため息を床に落とす。そのため息がいやに心の中で反響していた。こうして呆れられるのももう何度目だろう。毎朝私のせいで不機嫌にさせてしまうのが申し訳なくて、でもお母さんが恐ろしくて、重たい感覚が心に沈み込んでいる。
「ホント、こんなフリまでしてわざとらしい」
取るに足らない諦めしかもはや頭には浮かばなかった。お母さんの目には本当の眩暈さえも、学校を休むための口実にするあくどい演技にしか映らないらしい。その言葉でまったく傷つかないと言うと嘘になるけど、もう私にはそれを嘆くほどの気力もなかった。お母さんに理解を示してもらえないことなんて、すでに分かっていたことじゃないか。
早くついてきなさいと言わんばかりに激しい物音を立てながら階段を降りるお母さんの背中を追いかけて、リビングに入る。テーブルの上にはとっくに朝食が並べられていて、もう湯気は立っていなかった。いただきます、と小さく口にしてトーストを口に運ぶ。気力の尽きている朝の食事は今となっては惰性で胃に食べ物を流し込むだけの作業に成り下がっていた。無理やり朝食を完食して洗面台へと移ろうと立ち上がったところで、お腹の辺りに締め付けられるような痛みが走って咄嗟にしゃがみこんだ。
「はぁ……今度はなに?」
キッチンにいたはずの母がいつのまにか背後に立っていたみたいだ。普段は私の体調なんて眼中にもないのに、こういう時だけ目ざとく気づくのはどうしてなんだろう。
お腹が痛いと素直に伝えたいけれど、こんなこと正直に口にすればまた嫌味を浴びせられるのは目に見えている。
「はっきり言わないと何なのかこっちも分かんないんだけど!?」
思わず言葉に詰まっていると、母は容赦なく金切り声でまくしたててきた。仕方がない、そのまま伝えるしかないか、と覚悟を決めて口を開く。
「お腹が、痛くて」
「また?胃薬か整腸剤でも飲んで早く準備しなさい」
あわよくば学校を休めたらいいのに、そんな淡い期待はものの見事に正論で塗りつぶされた。まぁ、端からこんな些末な痛みで休ませてもらえるわけがないけれど。
洗顔や保湿を済ませてから、淡いミルクティー色をしたセミロングの髪の毛をポニーテールにしてまとめる。鏡に映っている桜色の目にはどこか悄然とした感情が宿っていた。
あとは制服に着替えて家を出るだけだ。もう登校まで時間がない、急がないと。そんな焦燥感に駆られながらも体は重かった。もう一度部屋に戻り、制服へと袖を通す。最後に胸元のリボンを身に付ければ終わりだ。階段を駆け降りて玄関に向かう。あとは学校に行くだけ。それだけなのに、足がその場から動いてくれなかった。
「行きたく、ないな………」
特別何か明瞭な理由があるわけではない。何となく、学校に行くことが億劫に感じるのだ。それは虚しさとなって頬を伝い、地面に円を描いた。それでも一日この場所に留まっておくことなんてできない。最大限の気力を振り絞って立ち上がった。
「それじゃあ行ってきます」
小さくそう呟き、スクールバッグを手に持って玄関のドアノブに手をかける。
ドアを開けると、朝の涼やかな空気が一気に玄関に流れ込んできて一瞬にして私の感覚は朝の風の冷たさに染められた。住宅街を抜けて大通りに出ると、まばらではあるもののまだ生徒の姿は確認できた。かなり切羽詰まってはいるけど、歩いて行ったとしても今の時間ならまだ間に合う。とはいえ、ゆっくり歩いていくのもなんだか気が引けて自然と駆け足になっていた。
駅までの道を走り抜け、改札を通ってからホームに着いた。電車が来るまでにはあと数分ある。電車が来るまでの間、柱にもたれかかりながらぼんやりとホームの様子を眺めて待つことにした。
目を覚ましたばかりのホームには雑踏が行き交う。隙間から差した朝日が行き交う人々の足元を照らしていて、人の靴に踏まれるたび影に覆われたり光を取り戻したりするのを繰り返している。
この辺りでは二番目に大きい駅ということもあって今のような通学、通勤ラッシュの時間帯はそれなりの人混みができる。待ち合わせをしていたであろう数人が集まる学生グループからは明るい声色の会話が飛び交っているけれど、その子たちを除いた大半の人たちにその活気は見当たらない。
生気のない目で俯くサラリーマン、気怠そうにスマホを眺めている学生……その表情には早くも疲れの色が浮かんでいた。
今は五月の終わり、新年度を迎えて自身を取り巻く環境が変わってから少し経ったとはいえ、まだまだ自分だけでは抱えきれないほどのストレスに苛まれている人も多いはずだ。それこそ、消えたくなるほど苦しみに苛まれている人が身近にいてもおかしくないほどに。
『水瀬駅付近で発生した人身事故の影響により、ただいま発車に遅れが出ております』
男性のアナウンスが駅に響き渡るとともに頭上に吊るされた電光掲示板に遅延の知らせが表示される。この情報だけでは自ら飛び込んだのかどうかは分からないけど、まさに同じようなことを考えていた瞬間に耳へ入った報せに心臓が飛び跳ねた。
しかも、通勤ラッシュに直撃か。電車の通る音や足音を除いて、静寂の流れていたホームに若干のざわめきが広がった。
「えー、またぁ?」
そんな声を漏らしている人もいる。“また?”という言葉が思わず出てしまうくらい、確かに新年度を迎えてからは人身事故で遅延する機会が明らかに増えたように感じる。それだけみんな追い詰められているのだろう。こんな風に今は傍観者である自分だって、いつそんな状況に陥ってもおかしくはない。明日は我が身だと考えていよう。
でもこれで電車が遅れるから、まだもう少しだけ学校に行かずに済むんだ。
身体に張り付いていた緊張の糸が途端に解けて一気に肩の力が抜けた。たとえ取るに足らない猶予であったとしても、胸は確かな安堵感で満ちていた。
「あ…………」
人身事故が起きたというのに、私はホッとしてしまった。事故に遭った人を心配するどころか、それによって起こった遅延に胸を撫で下ろしてしまうなんて、人間としての汚い部分が浮き彫りになったようでなんだか心の表面がヒリヒリ痛んだ。
そんな痛みから目を逸らすためにまっすぐ前を向いて今日に目を向ける。どこからともなく聞こえてくる雀の鳴き声が一日の始まりを告げていた。今日も、なんとかやり過ごさなきゃ。その決意を胸に一歩踏み出す。まったく嫌気が差すほどに、朝日は私の目の前を眩く照らしていた。
意識の外側で、今は雑音としてしか耳に届かないスマホのアラーム音がけたたましく音を立てて鳴り響き続けている。耳障りなその音が耳の奥でこだまするうちにだんだんと意識が覚醒してきた。長い間眠りに委ねていた頭は重くて、脳内で不規則な痛みが反響している。
額に手を当てながら身体を起き上がらせた瞬間、目に映る世界が揺らいで視界に黒いシミが次々と落ちてくるかのような感覚に襲われて、そのままベッドに倒れ込んだ。頭がぼんやりとして目の前に広がる景色の輪郭が歪んでいく。また眩暈か。
はぁ、とため息をこぼして壁にもたれかかるようにして体を預けた。こうしていると、幾分か頭の気怠さがマシになる。この症状が現れ始めた中学生の頃に比べると軽くなったとはいえ、まだまだ眩暈に苦しめられる毎日だ。
どれくらいの時間そうしていただろう。アラームもすっかり鳴りやみ、静寂に染まったこの部屋の空気に満たされてうつらうつらとしていたその時、お母さんが階段を駆け上がってくる音で現実に引き戻された。それがお母さんのものだと瞬時に察せたのは、その人特有の微妙な強弱や振動の違いがあるからだ。両親の一挙手一投足に過敏に反応するようになった今、物音や足音一つで誰かを判別するなんて容易いことだった。
「凪桜、起きなさい!朝からいい加減にして」
その怒声とともに階段と部屋とを隔てるドアが勢い任せに開かれ、物静かだった私だけの空間が爆ぜた。咄嗟に時計へ目をやると、秒針は午前七時半を指していた。お母さんの声に肩を揺さぶられるまま体を起こそうとしたものの、またもや眩暈が阻む。微塵も動けずにベッドに倒れ込んだ体勢のまま固まるしかなかった。
「はぁ………今日もそのパターン?毎日のように起きれない起きれないって言うけど、結局学校をサボりたいだけでしょ。私からしたら休むための言い訳にしか聞こえないんだけど」
お母さんは朝日の光を遮っていたベージュのカーテンを開きながら、胸に溜まった不満を吐き出すようにため息を床に落とす。そのため息がいやに心の中で反響していた。こうして呆れられるのももう何度目だろう。毎朝私のせいで不機嫌にさせてしまうのが申し訳なくて、でもお母さんが恐ろしくて、重たい感覚が心に沈み込んでいる。
「ホント、こんなフリまでしてわざとらしい」
取るに足らない諦めしかもはや頭には浮かばなかった。お母さんの目には本当の眩暈さえも、学校を休むための口実にするあくどい演技にしか映らないらしい。その言葉でまったく傷つかないと言うと嘘になるけど、もう私にはそれを嘆くほどの気力もなかった。お母さんに理解を示してもらえないことなんて、すでに分かっていたことじゃないか。
早くついてきなさいと言わんばかりに激しい物音を立てながら階段を降りるお母さんの背中を追いかけて、リビングに入る。テーブルの上にはとっくに朝食が並べられていて、もう湯気は立っていなかった。いただきます、と小さく口にしてトーストを口に運ぶ。気力の尽きている朝の食事は今となっては惰性で胃に食べ物を流し込むだけの作業に成り下がっていた。無理やり朝食を完食して洗面台へと移ろうと立ち上がったところで、お腹の辺りに締め付けられるような痛みが走って咄嗟にしゃがみこんだ。
「はぁ……今度はなに?」
キッチンにいたはずの母がいつのまにか背後に立っていたみたいだ。普段は私の体調なんて眼中にもないのに、こういう時だけ目ざとく気づくのはどうしてなんだろう。
お腹が痛いと素直に伝えたいけれど、こんなこと正直に口にすればまた嫌味を浴びせられるのは目に見えている。
「はっきり言わないと何なのかこっちも分かんないんだけど!?」
思わず言葉に詰まっていると、母は容赦なく金切り声でまくしたててきた。仕方がない、そのまま伝えるしかないか、と覚悟を決めて口を開く。
「お腹が、痛くて」
「また?胃薬か整腸剤でも飲んで早く準備しなさい」
あわよくば学校を休めたらいいのに、そんな淡い期待はものの見事に正論で塗りつぶされた。まぁ、端からこんな些末な痛みで休ませてもらえるわけがないけれど。
洗顔や保湿を済ませてから、淡いミルクティー色をしたセミロングの髪の毛をポニーテールにしてまとめる。鏡に映っている桜色の目にはどこか悄然とした感情が宿っていた。
あとは制服に着替えて家を出るだけだ。もう登校まで時間がない、急がないと。そんな焦燥感に駆られながらも体は重かった。もう一度部屋に戻り、制服へと袖を通す。最後に胸元のリボンを身に付ければ終わりだ。階段を駆け降りて玄関に向かう。あとは学校に行くだけ。それだけなのに、足がその場から動いてくれなかった。
「行きたく、ないな………」
特別何か明瞭な理由があるわけではない。何となく、学校に行くことが億劫に感じるのだ。それは虚しさとなって頬を伝い、地面に円を描いた。それでも一日この場所に留まっておくことなんてできない。最大限の気力を振り絞って立ち上がった。
「それじゃあ行ってきます」
小さくそう呟き、スクールバッグを手に持って玄関のドアノブに手をかける。
ドアを開けると、朝の涼やかな空気が一気に玄関に流れ込んできて一瞬にして私の感覚は朝の風の冷たさに染められた。住宅街を抜けて大通りに出ると、まばらではあるもののまだ生徒の姿は確認できた。かなり切羽詰まってはいるけど、歩いて行ったとしても今の時間ならまだ間に合う。とはいえ、ゆっくり歩いていくのもなんだか気が引けて自然と駆け足になっていた。
駅までの道を走り抜け、改札を通ってからホームに着いた。電車が来るまでにはあと数分ある。電車が来るまでの間、柱にもたれかかりながらぼんやりとホームの様子を眺めて待つことにした。
目を覚ましたばかりのホームには雑踏が行き交う。隙間から差した朝日が行き交う人々の足元を照らしていて、人の靴に踏まれるたび影に覆われたり光を取り戻したりするのを繰り返している。
この辺りでは二番目に大きい駅ということもあって今のような通学、通勤ラッシュの時間帯はそれなりの人混みができる。待ち合わせをしていたであろう数人が集まる学生グループからは明るい声色の会話が飛び交っているけれど、その子たちを除いた大半の人たちにその活気は見当たらない。
生気のない目で俯くサラリーマン、気怠そうにスマホを眺めている学生……その表情には早くも疲れの色が浮かんでいた。
今は五月の終わり、新年度を迎えて自身を取り巻く環境が変わってから少し経ったとはいえ、まだまだ自分だけでは抱えきれないほどのストレスに苛まれている人も多いはずだ。それこそ、消えたくなるほど苦しみに苛まれている人が身近にいてもおかしくないほどに。
『水瀬駅付近で発生した人身事故の影響により、ただいま発車に遅れが出ております』
男性のアナウンスが駅に響き渡るとともに頭上に吊るされた電光掲示板に遅延の知らせが表示される。この情報だけでは自ら飛び込んだのかどうかは分からないけど、まさに同じようなことを考えていた瞬間に耳へ入った報せに心臓が飛び跳ねた。
しかも、通勤ラッシュに直撃か。電車の通る音や足音を除いて、静寂の流れていたホームに若干のざわめきが広がった。
「えー、またぁ?」
そんな声を漏らしている人もいる。“また?”という言葉が思わず出てしまうくらい、確かに新年度を迎えてからは人身事故で遅延する機会が明らかに増えたように感じる。それだけみんな追い詰められているのだろう。こんな風に今は傍観者である自分だって、いつそんな状況に陥ってもおかしくはない。明日は我が身だと考えていよう。
でもこれで電車が遅れるから、まだもう少しだけ学校に行かずに済むんだ。
身体に張り付いていた緊張の糸が途端に解けて一気に肩の力が抜けた。たとえ取るに足らない猶予であったとしても、胸は確かな安堵感で満ちていた。
「あ…………」
人身事故が起きたというのに、私はホッとしてしまった。事故に遭った人を心配するどころか、それによって起こった遅延に胸を撫で下ろしてしまうなんて、人間としての汚い部分が浮き彫りになったようでなんだか心の表面がヒリヒリ痛んだ。
そんな痛みから目を逸らすためにまっすぐ前を向いて今日に目を向ける。どこからともなく聞こえてくる雀の鳴き声が一日の始まりを告げていた。今日も、なんとかやり過ごさなきゃ。その決意を胸に一歩踏み出す。まったく嫌気が差すほどに、朝日は私の目の前を眩く照らしていた。
