消えたい君の守り方。

結局、あの子の存在はただの幻覚に過ぎないのだろうか。
勉強に頭を沈ませていた夜の一時過ぎ、集中が途切れた瞬間に真っ先に思い浮かんだのはあの子の顔だった。

人魚の姿という一要素のみを掬い取ってみると幻覚としか思えない外見をしていたけど、警戒心の三文字が滲んでいるその目つきに口角の落ちた口元、眉をひそめた表情からは確かにそこで生きている証である息遣いと温度を感じた。それはまるで自分は間違いなくここで呼吸をしている、その気概を見せつけられたかのようだった。

やはり、この疑問を打ち消すためにはもう一度自分の目で確かめてみるしかない。
もし今日あの子の姿が見当たらなければ、あの日立ち会った現象は単なるストレス由来の幻覚で済む話だ。そうなると助けてくれた人が一体誰なのかという疑問はまた振り出しに戻ってしまうけど、結末はそれ以上でもそれ以下でもなく幕を閉じる。

「せっかく土日なんだし、今日行ってみようかな」

思い立ったが吉日だ。キリのいいところまで課題を終わらせてから足音を立てないよう静かに階段を下りて、玄関に向かう。スニーカーに足を差し込んでつま先をコツンと地面にぶつけて履き心地を整え、外の世界へと踏み出した。外は予報通りの晴れやかな夜空が澄みわたっていた。

足早に住宅街を通り抜けてからニ十分ほど歩いて海辺の町にたどり着き、そのまま茂みをくぐり抜ける。よし、このままレンガ造りのトンネルを抜ければわざわざ見渡さずとも一目であの子がそこにいるのかどうか分かる。緊張の滲む足取りでトンネルを抜けて、いざ浜辺へと視線を移した。

今日も、いる。

そこには、初めて顔合わせた日と同じように波打ち際で佇むあの子の姿があった。
少し近づいたところで私の姿が視界に入ったのか、あの子の表情は以前会った時と同じようにわずかに硬くなった。やはり感情は見えてこないけれど、訝し気な視線を私に向けているのだけは見て取れる。

「それ以上近づくな」

そう言葉を突き付ける貴方の声は、地を這うように低かった。その声に心臓がぎゅっと縮むような感覚を覚えたけど、ここで立ち去るわけにはいかない。一度深呼吸で心を落ち着かせてから、言葉を紡ぐために息を吸った。

「分かった。じゃあここからは近づかないようにするね。でも助けてくれたお礼だけは言わせて」
「お礼なんていらない。君を助けようとしたわけじゃないんだし」
「それでも言いたいの。あの日、海に沈んだ私を助けてくれて、雨ざらしだった私に傘を差してくれてありがとう。貴方が助けてくれなかったら私はここにはいなかった、貴方は命の恩人だよ」
「………あっそ」

相も変わらずぶっきらぼうな口ぶりだ。でも、その声色にはほんの少しの優しさが混じっているような気がした。今日ならもう少し穏やかな会話が交わせるかもしれない。

「ねぇ、何か話をしない?」
「しない。ボクは君と馴れ合う気はないよ」

辺りに沈み込んだ沈黙を切り裂いて口を開いたものの、悩む余地もなく一蹴されてしまった。それでも気にせず言葉を続ける。

「ところでさ、貴方はずっとここに一人でいるの?」

ここに来るのはもう何度目だろう。それだけの数ここに訪れてきたけど、今のところこの子しか目にしたことがない。それこそ、一人ぼっちでないと辻褄が合わないほどに。

「それを聞いてどうするんだよ。そう言ったところで君がどうにかしてくれるわけでもないのに」
「もし本当に一人なら、私は貴方と一緒にいたいなと思って」

一抹の偽りもない本心だった。私は、貴方のことをもっと知りたい。貴方のそばにもっといたい。貴方がどんなに私を嫌っていても、それは変えられないのだ。

「なんでそんなこと言えるのさ。ボクは君にこんな態度をとってるのに」
「そんなの関係ないよ。ただね、たとえ勘違いだったとしてもあの孤独だった夜に誰か一人でも本気で私のことを想って行動してくれた人がいる、その事実に救われたから」
「そんなの君のエゴじゃないか。拒絶したのに勝手に近づいてきて、それで一緒にいたいだとか。ボクはそんなことして欲しいなんて頼んでない」

この子の言葉は至極真っ当だ。全て私の身勝手さが生んだ行動でしかない。そんなこと、とうに分かっている。でも、この子から離れるという選択肢は思い浮かばなかった。きっと、私はもうすでにこの子に情を抱いているのだ。昔からそうだ、私は一度情を抱いた相手からはそう簡単に離れられない。そんな私の短所を今こそ生かすべきだ。

「確かにそうだね。これは私のエゴでしかないよ。今こうやって話しかけてるのも、貴方にとっては迷惑だってことも分かってる」
「それなら、さっさとここから………」
「でもね、それでも貴方ともっと話したいし、寄り添いたい。ごめんね、私身勝手な人間なんだ」

出会った瞬間からそうだった。貴方の目には、一瞬たりとも剥がれない寂しさの色が浮かんでいた。寄り添いたい、なんてこの子の心情をまだ深く知らないのに大袈裟かもしれないけれど、紛れもない本心からの言葉だった。この子と視線を合わせるためにゆっくりとしゃがみこむ。

「もし一人だったなら、これまで寂しくはなかった?」
「………寂しくないわけないだろ」

吐き捨てるような口ぶりに胸がきゅっと締め付けられた。心を弱い部分を決して覗かせないこの子がはっきりと言葉にするくらいだから、それだけその傷は深いものなのだろう。

「それならずっと辛かったよね。今までよく耐えてきたね」

優しく語りかけるようにそっと言葉を紡ぐ。もしかしたらこの子の目には私が発した言葉は全て陳腐に映るかもしれない。それでも言葉は止めたくなかった。

「家族も友達もいる外の世界で生きてる人間の君にボクのことが分かってたまるかよ。何も知らないくせに」
「そうだね。私はまだ貴方のこと、何も知らない。でもこれから知っていきたいと思ってる」
「ボクなんかといても君が嫌な思いをするだけなのに。それでもいいって言うの?」
「たとえそれでも構わないよ。あのね、またここに来てもいい?」

私だって一人の脆い人間だ。貴方の鋭い物言いで一切傷つかないわけじゃない。それでも曲がりなりにも一度、情を抱いてしまった相手だ。“寂しい”と嘆くこの子をまた一人ぼっちにさせる気は起らなかった。
数秒地面へ視線を落としたこの子は顎に手を当ててから思案したのちに、はぁ、と軽く息を吐いてこちらに向き直った。

「………好きにすれば」

さっき口にした言葉は、確かに貴方の心に届いたみたいだ。ぶっきらぼうでも、貴方の返答には温かさを感じた。

「それにしてもずっと気になってたんだけどさ、私を朝陽さんだと勘違いしたのはどうして?顔が似てたとか?」
「朝陽のことは顔も声も覚えてないから、単純に勘。特に理由はないよ」
「ふ~ん。でも、何か決め手になったところくらいあるでしょ?」
「……朝陽と君の手の温度が似てたから」

貴方が少し言い淀みながら口にした言葉は予想外のものだった。手の温度が似てるなんて、理由になるのだろうか。

「手の温度が似てたって、それはまた不思議な理由だね。温度なんて誰でも同じじゃないの?」
「当然同じ温度の人はごまんといるだろうけど、人の手の温度って微妙に違うだろ?」
「まあ、それもそうなのかな。というか、よく人の手の温度とか覚えてるね」

あまり腑に落ちないけれど、この子が言うならそういうことなのだろう。嘘を並べているようにも見えないし、それ以上追及するのも違う気がして口をつぐんだ。