今日も変わらず、“あの人”への花束を腕に抱きかかえて浜辺へ繋がるこの道を歩いている。腕の中で揺れる勿忘草は、海の色を溶かしたような淡い青色をしている。この青色を目に映して、あの人はいつもどんなことを考えているのだろう。この花と一緒に、私のことも考えていてくれたらいいなと思う。
ただ顔を合わせない物々交換を交わすだけの、名前も顔も知らないあの人。彼、もしくは彼女は今、どこで何をしているのだろう。
この関係性は私が傘を返しに行ったあの日から始まりを告げ、今に至るまで続いている。この傘は歌声の主が差してくれていったものなのでは、という予想は見事に的中していたらしく、これはその人とのやり取りなのだ。
でも相手がこんなにも優しい人でなければ、傘を置きに行った時点で私たちの関係性は終わっていたと思う。
本来なら一度だけ傘が私たちの間を行き交うだけで終わるはずだった短い関係性は、傘を返したことに対するお礼の品を貴方が置いてくれたことによってまだ終わりの来ない関係性となったのだ。
とはいえ、これは言葉を交わしているわけでもなく、相手のことを深く知っているわけでもない、脆くて儚い関係性。いつこれが終わるのかなんて誰にも分からないけれど、ただ一つ確かなのは、このやり取りが今の荒んだ私の心に差す光となってくれているということだ。
そんな私たちの間にはある約束がある。それは絶対に顔を合わせない、ということだ。この約束が息づくようになったのは、ある出来事が原因だった。
ある日、私は花束のそばに一通の手紙を添えた。
“今度、この場所でお会いしませんか。お返事待ってます”
たった二行の言葉でも、私の気持ちを精一杯込めたつもりだった。でも次の日浜辺にあったのは、ただいつものように置かれた贈り物だけで返事と思しき手紙はどこにもなかった。つまるところ、返事は返ってこなかったのだ。
それは、“自分は会いたくない”と告げる無言の返事だったように思う。私はそれきり、相手の心に踏み込もうとすることはなくなった。つかず離れずのこの距離感が私たちにとっての最適解なのだと、今はそう思う。
「ほんと、この辺夜は人いないなぁ」
この身にまとわりついてくるような湿り気を含んだそよ風が肌を掠めては夜の空気に溶けていく。五月に入ってからというもの、春の嵐に見舞われる回数が明らかに増えている。春に降りしきる桜の雨はいつしか柔らかな小糠雨へと姿を変えていた。今日は幸い雨の予感は見えないけれど、最近は傘を差して出かけないといけないこともしばしばある。
そんなことに思考を沈めている間に、気づけばいつもの浜辺に繋がるトンネルの前まで来ていた。
夜に包まれたトンネルは木漏れ日の指す昼間の時間帯とはまるで別の表情をしていて、同じくがらんどうの昼間ともまた違う静けさを滲ませていた。
すっかり朽ちて微かな光がチカチカと点滅するだけのトンネル備え付きのライトだけではなんだか心許なくて、スマホのライトで足元を照らしながら歩くことにした。天井に絡みついているツタから水滴が垂れているのか、ぽつ、ぽつという冷たい音がトンネル内に響きわたる。
トンネルを抜けた先では眩い月明かりが足元を照らしていた。あまりにも眩しい光を前に、薄暗かったトンネルの中との差で目がチカチカする。暗がりの中に広がる浜辺は夜の空気を纏っていて、夜らしい静謐な空気を放っている。
とはいえ、すっかり通いなれた道だ。今更不気味さや不安は一抹も感じない。
いつもと変わらない、いつも通りの景色がそこにある、はずだった。
「誰か、いる………?」
波のそばで確かに人の影が揺らめいているのが見えた。この場所はいつ来ても無人で、私の他に訪れているのはあの人くらいのものだろうという確信がある。それなら、もしかして目の前にいるのは言葉のないやり取りを幾度となく交わしてきたあの人なのだろうか。
今なら、あの人に会えるかもしれない___。
途端に鼓動がその音を激しく響かせ始め、どんどん心が逸るのが分かった。ずっと待ち焦がれていた瞬間が今この時訪れるかもしれない。その事実に胸が高鳴っていた。
けれど、脳裏を過るのはあの手紙のことだった。あの人は私と会うことを望んでいない、それはどうしようもない事実だ。安易に貴方の存在に触れるなんて許されない。だけど、今話しかけないともう二度と会えないかもしれないのだ。それなら私はどうするべきなんだろう。
「っあの………!」
しばらく考え込んだのちに、その迷いの結論はあの人への声となってこぼれた。もう後戻りはできない。早く伝えなきゃ。私がずっと貴方からの贈り物を受け取っていた相手だって。
次の言葉をかけるために駆け足で距離を縮めたその時、これまで逆光で影に支配されていた貴方の姿がようやく明らかになった。
「え…………?」
この身一つでは抱えきれないほどの困惑は思わず漏れた言葉によってこの夜空に溶けていった。それ以上近づくことも引き返すこともできずに、呆然とその場で立ち尽くす。
貴方は、人間じゃなかったの?
「あさ、ひ?」
目の前にいる“人魚らしき”その人はそう口にしながら目を見開いて私に向かってじっと視線を注いできた。
私たちの沈黙の隙間を柔らかいそよ風がすり抜けていく。私は拍子抜けするあまり、返事もできずにその人の姿を眺めることしかできなかった。
桜の花弁を落とし込んだような優しいピンク色と海を掬い取ったような透き通ったエメラルドグリーンが混ざり合った色味をしている鱗に、それぞれの色が別々に宿ったオッドアイの丸い瞳。尾ひれらしきものはなく、本来尾ひれがある場所は透明に染められている。
まさに“人魚”に似た風貌をした誰かが、確かに目の前にいるのだ。その姿は、幼い頃に魅せられた人魚の憧憬そのものだった。
といっても人魚と言って真っ先に思い浮かべる若い女性の姿ではなく、中性的な雰囲気を放つ少年、もしくは少女のような外見をしているみたいだ。
「なんで、どうして、こんな時間に君がここに………」
その人は独り言のように呟いた。その声はやはりあの夜に耳にした歌声と同じ響きをしていた。吃驚が混じった声色に思えるのに、その表情は硬くどこか無機質に感じる。感情の欠片を心に宿していないみたいに、まるで感情が伝わってこない。
「え、えっと…貴方はどういう……」
「君はボクのこと覚えてないかな?」
「覚えて、ないです。ごめんなさい」
助けられた時には意識を失っていたはずだから、そもそも私は助けてくれた人の姿を見ていない。だから覚えていないのは当然のことだけど、命の恩人を知らないなんて少し気が引けた。
「そっか、それじゃあ二度目の初めましてかな」
肩につくくらいの髪の毛を耳にかけてから一呼吸置き、そっとその人は口を開いた。
「初めまして、朝陽。ボクは君の恋人だ」
貴方の話す言葉の意味が掴めなかった。残念ながら、17年間の人生の中で私に恋人がいた記憶はない。だけど、その絵空事のような言葉に反して、貴方はどこまでも真剣な表情をその瞳に浮かべている。まるでそれが事実であるかのように。
「どういうこと?何を言ってるのか私には………」
「ずっと前は二人でどんな時も一緒にいたんだよ。ほら、二人で海の中に入って遊んだ時のことだってちゃんと覚えてる」
「そんなこと、した覚えないよ」
「じゃあこれだけ伝えさせて欲しい。いつかの夜に君を助けて傘を差したのも、プレゼントを置いてたのも、ボクなんだ。もう恋人にはなれなくても、せめて友達には戻れないかな」
「やっぱり……!私を助けてくれたのは貴方だったんだね。貴方が話してることは信じられないけど、私も友達になりたい。ずっとなりたかったの、友達に」
「よかった。朝陽、これからはやっと一緒にいられるね」
愛おしそうに口にした貴方はぎこちなく表情を緩ませた。笑みは感じられなくとも、貴方の持つ内面の温もりは滲んでいる気がする。私たちの周りには和やかな空気が漂っているけど、そういえば心に引っ掛かっていることが一つあった。
「あ、ちょっと待って。さっきから気になってたんだけど、朝陽って何のことなの?もしかしてだけど、誰かと勘違いしてないよね」
「勘違いも何も、君の名前じゃないか。それすら忘れちゃったとか?」
「そう言われても……私の名前は朝陽じゃないよ」
「朝陽じゃ、ない?」
その瞬間、今まで柔らかかった眼差しが鋭いものに一変した。青白い眼光が宿ったその瞳には、疑いようのない警戒心が浮かんでいる。
「そんなことならこんな感情を抱いたりしなかったのに。もう君に用はないよ」
硬い声色で吐き捨てた貴方を前に、心臓に冷たい感覚が触れるのを感じた。誰からも温度を分け与えてもらえなかった金属片のように、一縷も温もりが伝わってこない。
「え…………?」
「朝陽じゃないなら話は別だ。もうここには来ないでくれ」
「ちょ、ちょっと待って。せめてあの日助けてくれたお礼だけは言わせて」
「……うるさい」
「あのね、あの時は助けてくれてありが……」
「だからもういいって言ってるだろ」
そばに近づいた私をこの子は押し返そうとしたのか、反射的に腕を振り上げた拍子に、月光を集めてその眼光と同じくギラリと光る鋭い爪が一瞬私の手の甲を掠った。掠った跡から滲む血が線を描いて滴り落ちる。
今この瞬間まで眼中にもなかったけど、この子の手は人間の手じゃない。指の第三関節から爪の先にかけて髪色と同じエメラルドグリーン色のグラデーションに染まっている。それに爪は簡単に人の皮膚を貫いてしまいそうなほど鋭利で、指の間には水かきのようなものがついている。まるで魚の尾ひれを手に纏っているような見た目だ。
貴方の硬かった表情が途端にわずかに崩れて、今にも泣きだしそうな柔らかい目つきへと移り変わったような気がした。もしこの子に表情があったのなら、その目には涙が浮かんでいたことだろう。それくらい、感情の見えてこないこの子なりに傷ついているように見えた。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ、なくて」
思いもよらぬ出来事に本人がきっと一番驚いたのだろう。その声の弱々しさには怯えたような震えと自分自身への呵責が滲んでいた。
「と、とにかくもうここには来ないでくれ。ボクたちの関係も今日で終わりだ」
「そっか。じゃあ今日はもう帰るね」
これ以上引き留めてもきっと意思が変わることはないのだろう。ずっと恩を感じていた、ずっと会ってみたかった相手にこんな反応をさせてしまったという事実に揺さぶられて、一縷の寂しさが心に燻る。だけど、これ以上ここに留まるのは私にとっても、この子にとってもいいとは言えない。潔く立ち去ることを決め、くるりと背を向けて私はその場を後にした。
ただ顔を合わせない物々交換を交わすだけの、名前も顔も知らないあの人。彼、もしくは彼女は今、どこで何をしているのだろう。
この関係性は私が傘を返しに行ったあの日から始まりを告げ、今に至るまで続いている。この傘は歌声の主が差してくれていったものなのでは、という予想は見事に的中していたらしく、これはその人とのやり取りなのだ。
でも相手がこんなにも優しい人でなければ、傘を置きに行った時点で私たちの関係性は終わっていたと思う。
本来なら一度だけ傘が私たちの間を行き交うだけで終わるはずだった短い関係性は、傘を返したことに対するお礼の品を貴方が置いてくれたことによってまだ終わりの来ない関係性となったのだ。
とはいえ、これは言葉を交わしているわけでもなく、相手のことを深く知っているわけでもない、脆くて儚い関係性。いつこれが終わるのかなんて誰にも分からないけれど、ただ一つ確かなのは、このやり取りが今の荒んだ私の心に差す光となってくれているということだ。
そんな私たちの間にはある約束がある。それは絶対に顔を合わせない、ということだ。この約束が息づくようになったのは、ある出来事が原因だった。
ある日、私は花束のそばに一通の手紙を添えた。
“今度、この場所でお会いしませんか。お返事待ってます”
たった二行の言葉でも、私の気持ちを精一杯込めたつもりだった。でも次の日浜辺にあったのは、ただいつものように置かれた贈り物だけで返事と思しき手紙はどこにもなかった。つまるところ、返事は返ってこなかったのだ。
それは、“自分は会いたくない”と告げる無言の返事だったように思う。私はそれきり、相手の心に踏み込もうとすることはなくなった。つかず離れずのこの距離感が私たちにとっての最適解なのだと、今はそう思う。
「ほんと、この辺夜は人いないなぁ」
この身にまとわりついてくるような湿り気を含んだそよ風が肌を掠めては夜の空気に溶けていく。五月に入ってからというもの、春の嵐に見舞われる回数が明らかに増えている。春に降りしきる桜の雨はいつしか柔らかな小糠雨へと姿を変えていた。今日は幸い雨の予感は見えないけれど、最近は傘を差して出かけないといけないこともしばしばある。
そんなことに思考を沈めている間に、気づけばいつもの浜辺に繋がるトンネルの前まで来ていた。
夜に包まれたトンネルは木漏れ日の指す昼間の時間帯とはまるで別の表情をしていて、同じくがらんどうの昼間ともまた違う静けさを滲ませていた。
すっかり朽ちて微かな光がチカチカと点滅するだけのトンネル備え付きのライトだけではなんだか心許なくて、スマホのライトで足元を照らしながら歩くことにした。天井に絡みついているツタから水滴が垂れているのか、ぽつ、ぽつという冷たい音がトンネル内に響きわたる。
トンネルを抜けた先では眩い月明かりが足元を照らしていた。あまりにも眩しい光を前に、薄暗かったトンネルの中との差で目がチカチカする。暗がりの中に広がる浜辺は夜の空気を纏っていて、夜らしい静謐な空気を放っている。
とはいえ、すっかり通いなれた道だ。今更不気味さや不安は一抹も感じない。
いつもと変わらない、いつも通りの景色がそこにある、はずだった。
「誰か、いる………?」
波のそばで確かに人の影が揺らめいているのが見えた。この場所はいつ来ても無人で、私の他に訪れているのはあの人くらいのものだろうという確信がある。それなら、もしかして目の前にいるのは言葉のないやり取りを幾度となく交わしてきたあの人なのだろうか。
今なら、あの人に会えるかもしれない___。
途端に鼓動がその音を激しく響かせ始め、どんどん心が逸るのが分かった。ずっと待ち焦がれていた瞬間が今この時訪れるかもしれない。その事実に胸が高鳴っていた。
けれど、脳裏を過るのはあの手紙のことだった。あの人は私と会うことを望んでいない、それはどうしようもない事実だ。安易に貴方の存在に触れるなんて許されない。だけど、今話しかけないともう二度と会えないかもしれないのだ。それなら私はどうするべきなんだろう。
「っあの………!」
しばらく考え込んだのちに、その迷いの結論はあの人への声となってこぼれた。もう後戻りはできない。早く伝えなきゃ。私がずっと貴方からの贈り物を受け取っていた相手だって。
次の言葉をかけるために駆け足で距離を縮めたその時、これまで逆光で影に支配されていた貴方の姿がようやく明らかになった。
「え…………?」
この身一つでは抱えきれないほどの困惑は思わず漏れた言葉によってこの夜空に溶けていった。それ以上近づくことも引き返すこともできずに、呆然とその場で立ち尽くす。
貴方は、人間じゃなかったの?
「あさ、ひ?」
目の前にいる“人魚らしき”その人はそう口にしながら目を見開いて私に向かってじっと視線を注いできた。
私たちの沈黙の隙間を柔らかいそよ風がすり抜けていく。私は拍子抜けするあまり、返事もできずにその人の姿を眺めることしかできなかった。
桜の花弁を落とし込んだような優しいピンク色と海を掬い取ったような透き通ったエメラルドグリーンが混ざり合った色味をしている鱗に、それぞれの色が別々に宿ったオッドアイの丸い瞳。尾ひれらしきものはなく、本来尾ひれがある場所は透明に染められている。
まさに“人魚”に似た風貌をした誰かが、確かに目の前にいるのだ。その姿は、幼い頃に魅せられた人魚の憧憬そのものだった。
といっても人魚と言って真っ先に思い浮かべる若い女性の姿ではなく、中性的な雰囲気を放つ少年、もしくは少女のような外見をしているみたいだ。
「なんで、どうして、こんな時間に君がここに………」
その人は独り言のように呟いた。その声はやはりあの夜に耳にした歌声と同じ響きをしていた。吃驚が混じった声色に思えるのに、その表情は硬くどこか無機質に感じる。感情の欠片を心に宿していないみたいに、まるで感情が伝わってこない。
「え、えっと…貴方はどういう……」
「君はボクのこと覚えてないかな?」
「覚えて、ないです。ごめんなさい」
助けられた時には意識を失っていたはずだから、そもそも私は助けてくれた人の姿を見ていない。だから覚えていないのは当然のことだけど、命の恩人を知らないなんて少し気が引けた。
「そっか、それじゃあ二度目の初めましてかな」
肩につくくらいの髪の毛を耳にかけてから一呼吸置き、そっとその人は口を開いた。
「初めまして、朝陽。ボクは君の恋人だ」
貴方の話す言葉の意味が掴めなかった。残念ながら、17年間の人生の中で私に恋人がいた記憶はない。だけど、その絵空事のような言葉に反して、貴方はどこまでも真剣な表情をその瞳に浮かべている。まるでそれが事実であるかのように。
「どういうこと?何を言ってるのか私には………」
「ずっと前は二人でどんな時も一緒にいたんだよ。ほら、二人で海の中に入って遊んだ時のことだってちゃんと覚えてる」
「そんなこと、した覚えないよ」
「じゃあこれだけ伝えさせて欲しい。いつかの夜に君を助けて傘を差したのも、プレゼントを置いてたのも、ボクなんだ。もう恋人にはなれなくても、せめて友達には戻れないかな」
「やっぱり……!私を助けてくれたのは貴方だったんだね。貴方が話してることは信じられないけど、私も友達になりたい。ずっとなりたかったの、友達に」
「よかった。朝陽、これからはやっと一緒にいられるね」
愛おしそうに口にした貴方はぎこちなく表情を緩ませた。笑みは感じられなくとも、貴方の持つ内面の温もりは滲んでいる気がする。私たちの周りには和やかな空気が漂っているけど、そういえば心に引っ掛かっていることが一つあった。
「あ、ちょっと待って。さっきから気になってたんだけど、朝陽って何のことなの?もしかしてだけど、誰かと勘違いしてないよね」
「勘違いも何も、君の名前じゃないか。それすら忘れちゃったとか?」
「そう言われても……私の名前は朝陽じゃないよ」
「朝陽じゃ、ない?」
その瞬間、今まで柔らかかった眼差しが鋭いものに一変した。青白い眼光が宿ったその瞳には、疑いようのない警戒心が浮かんでいる。
「そんなことならこんな感情を抱いたりしなかったのに。もう君に用はないよ」
硬い声色で吐き捨てた貴方を前に、心臓に冷たい感覚が触れるのを感じた。誰からも温度を分け与えてもらえなかった金属片のように、一縷も温もりが伝わってこない。
「え…………?」
「朝陽じゃないなら話は別だ。もうここには来ないでくれ」
「ちょ、ちょっと待って。せめてあの日助けてくれたお礼だけは言わせて」
「……うるさい」
「あのね、あの時は助けてくれてありが……」
「だからもういいって言ってるだろ」
そばに近づいた私をこの子は押し返そうとしたのか、反射的に腕を振り上げた拍子に、月光を集めてその眼光と同じくギラリと光る鋭い爪が一瞬私の手の甲を掠った。掠った跡から滲む血が線を描いて滴り落ちる。
今この瞬間まで眼中にもなかったけど、この子の手は人間の手じゃない。指の第三関節から爪の先にかけて髪色と同じエメラルドグリーン色のグラデーションに染まっている。それに爪は簡単に人の皮膚を貫いてしまいそうなほど鋭利で、指の間には水かきのようなものがついている。まるで魚の尾ひれを手に纏っているような見た目だ。
貴方の硬かった表情が途端にわずかに崩れて、今にも泣きだしそうな柔らかい目つきへと移り変わったような気がした。もしこの子に表情があったのなら、その目には涙が浮かんでいたことだろう。それくらい、感情の見えてこないこの子なりに傷ついているように見えた。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ、なくて」
思いもよらぬ出来事に本人がきっと一番驚いたのだろう。その声の弱々しさには怯えたような震えと自分自身への呵責が滲んでいた。
「と、とにかくもうここには来ないでくれ。ボクたちの関係も今日で終わりだ」
「そっか。じゃあ今日はもう帰るね」
これ以上引き留めてもきっと意思が変わることはないのだろう。ずっと恩を感じていた、ずっと会ってみたかった相手にこんな反応をさせてしまったという事実に揺さぶられて、一縷の寂しさが心に燻る。だけど、これ以上ここに留まるのは私にとっても、この子にとってもいいとは言えない。潔く立ち去ることを決め、くるりと背を向けて私はその場を後にした。
