貴方がいなくなった後の日常は驚くほど静かだった。貴方の笑い声も泣き声も端からそこになかったみたいに消え去って、あの浜辺は本当の意味で無人になった。佑月の笑顔が脳裏に過って立ち上がれなくなってしまうことが理由であれきり浜辺には行けなかったけど、少しずつ足を運べるようになってきた。そうして訪れるたび、花束を供えて歌を口ずさむのだ。それだけが、私が今あの子にしてあげられる唯一のことだと思っている。
深呼吸をして、学生の礼服である制服に袖を通す。今日はあの子のお葬式の日だ。
17年越しのお葬式にはなってしまったけど、佑月を弔うために、そして残された私たちが前に進むために必要な儀式なのだと思う。
このお葬式を発案したのは他でもない両親だった。
両親曰く、17年前のあの頃は佑月がいない世界で生きるのに必死で火葬以外に何一つしてやれなかったことがずっと心残りだったのだという。形式的なものだけど、両親の心が救われるならそれでいいのだろう。
この空間にいるのは私たち家族だけ。
厳かな空気の中で式は進む。貴方がいた証こそがこの儀式なはずなのに、貴方の存在がどんどん遠のいていくような気がした。それに続くように、自分がこの世界に存在しているのかどうかもあやふやになる。
肌を伝うひんやりとしたパイプ椅子の感触だけが、私が今ここで息を吸っていることを実感できる唯一の証拠だった。やがて式は終わり、待合室のようなスペースへと戻る。式が執り行われていた空間から一歩踏み出すと、私の周囲を取り巻く空気は途端に現実味を帯び、ようやく私は非日常な異世界から帰ってきたような感覚に襲われた。
「何か飲むか?」
自販機の前に立ったお父さんは飲み物を指さしながらそう言った。お父さんの口ぶりは以前に比べてずっと穏やかだ。飲む、とだけ端的に返事をして透明なケース越しに並んでいる飲み物へ視線を巡らす。ブラックコーヒーにお茶、ソーダとどこにでも置いてあるような一般的なラインナップだ。日常の中で数えきれないほど目にしてきたその光景は、より今この瞬間の現実感を濃くさせた。
買ってもらったソーダは予想以上に甘ったるくて、乾いた喉に流し込むには少々刺激が強かった。でも、今はその甘さが私の心を繋ぎとめてくれている。これくらい主張の強い味でないと、今にもヒビが入って割れそうな心に負けてしまうような気がするから。
外へ出ると、妙に静まり返っている心と同じ静寂を纏った柔らかい風が優しく髪を撫でていった。ふんわりと浮かんだ髪の毛が背後の空に向かってなびく。思わず空に目を向けると、夕日の放つオレンジ色に染め上げられた夕暮れが遥か彼方まで広がっていた。地平線の上で滲む夕日がすっかり暗くなっていたであろう瞳に光を注ぐ。
そんな情景に目を奪われながら、貴方が残した言葉を思い出していた。
“ボクも、君が大好きだ”
貴方は最後まで、私の“愛してる”という一言に同じ言葉を返してくれることはなかった。
愛しい人からの“大好き”を抱きしめられただけでもよかったのかもしれないけど、やっぱり私は同じ言葉が欲しかった。
その時、佑月が書き残してくれた手紙の存在を思い出した。佑月と出会ってから私が時々ひらがなの読み書きを教えていたから字は書けたし、“私に手紙を出したくなった時用にあげるね”なんて言ってレターセットとガラスペンをプレゼントしたことがあったから、消える前の佑月は手紙を書くことができたのだ。ポケットに折りたたんで入れていたそれを取り出して、そこに綴られた拙い文字を必死に目で追う。
_______
なぎさ、いまきみはわらえてるかな。もしないてるのなら、もうなみだをぬぐってあげられなくてごめんね。どんなにてをのばしても、もうぼくはきみにはふれられない。
あーあ、もっときみのかみにふれたかったな。きみのこえをききたかったな。もしもぼくがまだいきていたなら、そのぜんぶをだきしめていられたのに。
ぼくはまたわらえなくなってもいい。なけなくなってもいい。ぼくのなにがぎせいになってもいいから、きみにはしあわせになってほしいんだ。ほんとうはぼくがしあわせにしたかったんだけど、それはできなかったから。
ぼくがきみをしあわせにできなかったことはぼくにとっていちばんのこうかいだ。でも、きみをふこうからすくいだせたことはぼくにとっていちばんのほこりなんだ。
もしも、きみがまたきえたくなったら、いままでぼくがつたえてきたことばたちをおもいだして。そのことばたちが、きみのおまもりになってくれるはずだから。
きみにはまだまだつたえたいことがたくさんあるけど、かみがなんじゅうまいあってもたりないからこのへんにしておくよ。
あ、きみがすき、とははずかしいからかかないでおくね。
さいごにこれだけ。
こころから、きみをあいしてる。ぼくのこえをわすれても、かおをわすれても、このことばだけはわすれないで。
ぼくより。
_______
“あいしてる”
手紙の最後に記された、たった五文字に心が震えた。好きとは言わないと書いておきながら愛してるとは書き残すなんて、佑月はやっぱりずるい。
それに“ぼくより”じゃ誰が差出人なのか分からないじゃないか。でも同時に佑月らしいなとも思った。凪桜がボクを忘れることはないという絶対的な自信。それが文章から滲み出ていて、思わず口元が緩んだ。
「それにしてもこの手紙、シミがひどいや。もしかして海水に浸けた手のまま書いたな~?」
手紙に書かれた文字のインクに所々水か何かが混じって染みになっていた。手紙を読み始めた時はそれが不思議で仕方なかったけど、海水の垂れる手で書いたというならそれも納得だ。
でも、佑月が最後の手紙を書く瞬間という大事な局面でそんな安易なことするだろうか?
「あぁ、そっか…………」
貴方はこの手紙を書く時、泣いてたんだ。自分の身に降りかかる運命に抗いたくて、でもどうしようもなくて。二人一緒に隣り合って生きられないのがたまらなく悔しくて。
たった数か所の染みからは、そんな激情とも言える心中が痛いほど伝わってきた。
「私も貴方に会いたい、一緒に生きてたかったよ……!」
とめどなく大粒の涙が溢れ出てくるとともに、耐えきれなくなって膝から崩れ落ちた。アスファルトの凹凸と膝が擦れる痛みも、冷たい手触りも、今は不思議と気にならなかった。
今はただ、泣きたかった。涙を流せば、このやるせなさが全て洗い流されるような気がしたから。
深呼吸をして、学生の礼服である制服に袖を通す。今日はあの子のお葬式の日だ。
17年越しのお葬式にはなってしまったけど、佑月を弔うために、そして残された私たちが前に進むために必要な儀式なのだと思う。
このお葬式を発案したのは他でもない両親だった。
両親曰く、17年前のあの頃は佑月がいない世界で生きるのに必死で火葬以外に何一つしてやれなかったことがずっと心残りだったのだという。形式的なものだけど、両親の心が救われるならそれでいいのだろう。
この空間にいるのは私たち家族だけ。
厳かな空気の中で式は進む。貴方がいた証こそがこの儀式なはずなのに、貴方の存在がどんどん遠のいていくような気がした。それに続くように、自分がこの世界に存在しているのかどうかもあやふやになる。
肌を伝うひんやりとしたパイプ椅子の感触だけが、私が今ここで息を吸っていることを実感できる唯一の証拠だった。やがて式は終わり、待合室のようなスペースへと戻る。式が執り行われていた空間から一歩踏み出すと、私の周囲を取り巻く空気は途端に現実味を帯び、ようやく私は非日常な異世界から帰ってきたような感覚に襲われた。
「何か飲むか?」
自販機の前に立ったお父さんは飲み物を指さしながらそう言った。お父さんの口ぶりは以前に比べてずっと穏やかだ。飲む、とだけ端的に返事をして透明なケース越しに並んでいる飲み物へ視線を巡らす。ブラックコーヒーにお茶、ソーダとどこにでも置いてあるような一般的なラインナップだ。日常の中で数えきれないほど目にしてきたその光景は、より今この瞬間の現実感を濃くさせた。
買ってもらったソーダは予想以上に甘ったるくて、乾いた喉に流し込むには少々刺激が強かった。でも、今はその甘さが私の心を繋ぎとめてくれている。これくらい主張の強い味でないと、今にもヒビが入って割れそうな心に負けてしまうような気がするから。
外へ出ると、妙に静まり返っている心と同じ静寂を纏った柔らかい風が優しく髪を撫でていった。ふんわりと浮かんだ髪の毛が背後の空に向かってなびく。思わず空に目を向けると、夕日の放つオレンジ色に染め上げられた夕暮れが遥か彼方まで広がっていた。地平線の上で滲む夕日がすっかり暗くなっていたであろう瞳に光を注ぐ。
そんな情景に目を奪われながら、貴方が残した言葉を思い出していた。
“ボクも、君が大好きだ”
貴方は最後まで、私の“愛してる”という一言に同じ言葉を返してくれることはなかった。
愛しい人からの“大好き”を抱きしめられただけでもよかったのかもしれないけど、やっぱり私は同じ言葉が欲しかった。
その時、佑月が書き残してくれた手紙の存在を思い出した。佑月と出会ってから私が時々ひらがなの読み書きを教えていたから字は書けたし、“私に手紙を出したくなった時用にあげるね”なんて言ってレターセットとガラスペンをプレゼントしたことがあったから、消える前の佑月は手紙を書くことができたのだ。ポケットに折りたたんで入れていたそれを取り出して、そこに綴られた拙い文字を必死に目で追う。
_______
なぎさ、いまきみはわらえてるかな。もしないてるのなら、もうなみだをぬぐってあげられなくてごめんね。どんなにてをのばしても、もうぼくはきみにはふれられない。
あーあ、もっときみのかみにふれたかったな。きみのこえをききたかったな。もしもぼくがまだいきていたなら、そのぜんぶをだきしめていられたのに。
ぼくはまたわらえなくなってもいい。なけなくなってもいい。ぼくのなにがぎせいになってもいいから、きみにはしあわせになってほしいんだ。ほんとうはぼくがしあわせにしたかったんだけど、それはできなかったから。
ぼくがきみをしあわせにできなかったことはぼくにとっていちばんのこうかいだ。でも、きみをふこうからすくいだせたことはぼくにとっていちばんのほこりなんだ。
もしも、きみがまたきえたくなったら、いままでぼくがつたえてきたことばたちをおもいだして。そのことばたちが、きみのおまもりになってくれるはずだから。
きみにはまだまだつたえたいことがたくさんあるけど、かみがなんじゅうまいあってもたりないからこのへんにしておくよ。
あ、きみがすき、とははずかしいからかかないでおくね。
さいごにこれだけ。
こころから、きみをあいしてる。ぼくのこえをわすれても、かおをわすれても、このことばだけはわすれないで。
ぼくより。
_______
“あいしてる”
手紙の最後に記された、たった五文字に心が震えた。好きとは言わないと書いておきながら愛してるとは書き残すなんて、佑月はやっぱりずるい。
それに“ぼくより”じゃ誰が差出人なのか分からないじゃないか。でも同時に佑月らしいなとも思った。凪桜がボクを忘れることはないという絶対的な自信。それが文章から滲み出ていて、思わず口元が緩んだ。
「それにしてもこの手紙、シミがひどいや。もしかして海水に浸けた手のまま書いたな~?」
手紙に書かれた文字のインクに所々水か何かが混じって染みになっていた。手紙を読み始めた時はそれが不思議で仕方なかったけど、海水の垂れる手で書いたというならそれも納得だ。
でも、佑月が最後の手紙を書く瞬間という大事な局面でそんな安易なことするだろうか?
「あぁ、そっか…………」
貴方はこの手紙を書く時、泣いてたんだ。自分の身に降りかかる運命に抗いたくて、でもどうしようもなくて。二人一緒に隣り合って生きられないのがたまらなく悔しくて。
たった数か所の染みからは、そんな激情とも言える心中が痛いほど伝わってきた。
「私も貴方に会いたい、一緒に生きてたかったよ……!」
とめどなく大粒の涙が溢れ出てくるとともに、耐えきれなくなって膝から崩れ落ちた。アスファルトの凹凸と膝が擦れる痛みも、冷たい手触りも、今は不思議と気にならなかった。
今はただ、泣きたかった。涙を流せば、このやるせなさが全て洗い流されるような気がしたから。
