消えたい君の守り方。

疲れて眠りについた貴方の額を撫でながら、ひしひしと限界を悟っていた。これから関係性を編みなおす道しか私たちには残っていないのだろうか。こんな自問自答を繰り返しながらも、心のどこかでは理解していた。元の貴方に再会することは叶わない、と。

もう、無理だ。希望を持ち続けるのにも限度がある。佑月が目を覚まして会話を交わすまではなんとか心が壊れないように耐えていたけど、記憶を失ったことが分かった今、もう私には一抹の希望も残っていなかった。消えたい、そんな気持ちが初めて胸に生まれた時のことが脳裏に鮮明に浮かび上がる。今抱えているこの気持ちは、きっとあの時の気持ちと同じものだ。

背後へ振り返ると、おのずと海に浮かぶ水平線が視界に入る。あそこに行けば、あの水平線の向こう側に行けば、この世界から消えられるだろうか。意識せずとも自然と体が海の方へ向いて、足が勝手に動いていた。

「あ、そうだ………」

最期に一言くらいは残して行かないと、それこそ薄情というものだろう。眠っているあなたへ、最後の言葉を紡ぐのだ。

「これまでありがとう。置いて行って本当にごめんなさい」

焦点が上手く合わない目で佑月になんとか視線を送る。今は見つめ返してくれないけど、それでも消える前に佑月の顔を見られただけで十分だった。

「あ、あと最後にこれだけ。私はね、貴方のことが変わらず好きだよ。貴方が私を忘れてもそれだけは絶対に変わらない。でも、もう限界なんだ」

貴方を好きなこと、それはこれからも変わらないこと。その二つの事実だけはこの世界に私が息をしていた証拠として残しておきたかった。あと、最期にもう一つだけ言わせて。

「心から、貴方を愛してるよ。これ以上ないくらい、貴方を愛しぬいた自信があるから」

初めて口にした“愛してる”の4文字。できれば、記憶を失う前の貴方に伝えたかった言葉だった。言葉にするのがこんなにも遅くなってごめんね。

「最後に、記憶を失う前の貴方からの“好き”だけでも聞きたかったなぁ………」

自分に向けた独り言のようにポツリと呟いてずっと心の奥底にしまっていた気持ちを吐き出す。でもそんなことを今更言ったって貴方にとって私はもう知らない人なのだ。仕方ない、と背後へ振り返り、視界に広がる水平線を見据えた。

「……ボクも君が好きだ、大好きだ」

その声を耳にして、息を呑んだ。振り返ると、私たちの間に一筋の光が差し込んでいた。

「凪桜、もう一人にしないでよ」
「ゆ、づき…………なんで、なんで」

その言葉の続きが見つからなかった。貴方に問いたいなんで、は数えきれないほどあったから。なんで私を忘れちゃったの、なんで今目覚めたの、なんで今私の名前を呼んだの。
そのどれもを言葉にできないまま、次に口を開いたのは佑月の方だった。

「あぁ、もう一度君の名前を呼べてよかった。君を忘れちゃうなんて、ボクも馬鹿だよね。ほら、怒ってよ。佑月の馬鹿って」

それは思い焦がれた佑月の言葉そのものだった。口調も、声色も、あの頃のままだ。

「ホント、佑月の馬鹿っ……!なんで、私のことなんか忘れるの」

その言葉とともに勢いよく佑月に抱きつく。それを受け止めた佑月は私の頭を優しく撫でながら、愛おしそうにこちらを見つめた。

「しかも、初めての好きって言葉は記憶を失う前の貴方から聞きたかったのに、もう記憶のない貴方から聞いちゃったじゃん」
「それはごめん、ごめん。今からもう一度言うからそれで許して」

佑月は困ったような笑顔を浮かべながら私の頭をそっと撫でた。その感覚が心地よくて、今目の前で起こっていることが信じられなくて、涙が溢れそうだった。

「凪桜、ボクは君が好きだよ。言うのがこんなに遅くなってごめんね」
「私も貴方が好き。これからも私たちは親友であり、相棒であり、家族だよ」

もう、共犯者という言葉は使わなかった。本当の佑月が帰ってきてくれたからには、この消えたい気持ちもきっとすぐになくなってくれることを知っていたから。

「それにしても、なんで戻ってこれたの?急に記憶が戻ってくることなんてあるのかな」
「凪桜の夢を見たから、かな。夢の中で“佑月、助けて”って泣いてたから今すぐ助けに行かなきゃいけないと思って」

そうだった、貴方はいつも私の命に危機が訪れると途端に存在が確かになる。それは私を助けるためなのだろう。初めて私が消えたいと感じるようになった時だってそうだった。貴方は人間の姿を手に入れて、周囲の人からも姿が見えるようになった。

多分、私が不幸に近づけば近づくほど貴方は現実での存在感が高まって、私が幸せに近づけば近づくほどその逆の現象が起きるのだと思う。それはきっと、佑月が亡くなってからもこの世界に亡霊として留まり続けた理由そのものなのだろう。要するに、生まれてこの方幸せを感じられたことのなかった私を救うために佑月は途方もなく長い時間を過ごしてきたのだ。
それなら、貴方が成仏するための足掛かりとなる出来事は何になるのだろう。単に私が救われればいいのだろうか。

「そっか。佑月、きっと貴方は記憶を失った時もうすでに…………」
「ボクの体は、多分あの時天国に帰ろうとしてたんだ。君は幸せとまではいかなくとも、不幸からは救われていたから。でも、君がまた消えようとしたからボクはここに戻ってこれたんだ」

記憶を失ったのは、佑月が未練なく天国へ旅立てるようにするための神様からのプレゼントだったのかもしれない。まぁ、私たちにとっては不要なプレゼントだったわけだけど。

「それじゃあ、これからも私が幸せに近づくたび貴方という存在は消えちゃうの?そんなの、嫌だよ」
「もう、君にボクはいらないね」
「なんで、そんなこと言うの………?」
「ボクたちにもお別れの時が来たみたいだ、凪桜」

そう口にして今にも壊れてしまいそうな柔らかい笑みを浮かべた。私の視線の先には、涙に濡れた貴方がいた。

「君にも、ようやく夜明けが訪れたんだよ」
「嫌だ、嫌だよ、佑月。どこにも行かないで、私のそばにいて」
「多分、僕がここにいる理由はそれが全てなんだ。ボクはもう死んでいたのに、長い間この世界から離れられなかったのは君が不幸になるのを食い止めるためだったんだ。でも、やっとその時が来たみたいだね。君は不幸ではなくなったし、ずいぶん幸せに近づけた。もう、君にボクは必要ないんだ」
「どうしてそんなこと言うの……?それなら私、不幸でいるよ。また消えたいと思うようにするから、笑わないようにするから、お願い、行かないで」
「そんなこと言わないで。ボクにとっての幸せは君が笑ってくれることなんだ。最後くらい、我儘を貫き通させてよ」

佑月は口にこそしなかったけど、それ以外の理由もあったはずだ。この世界に留まり続けるということは、この浜辺で一人過ごし続けるということ。そんなの、耐えられる人間の方がよっぽど少ないだろう。
佑月は出会った頃から孤独を嫌っていた。そんな佑月に孤独を背負わせ続けるなんてこと、とてもできない。ならば、あと私に残された選択肢は一つだけだ。

「……うん、もう私は止めない。ちゃんと笑って、幸せになって、佑月を見送るよ」

佑月の選択を、未来を、私は尊重することにした。きっと突然には無理だけど、何度も何度も、数えきれないほど佑月の答えを噛みしめたのちにようやく受け入れられるようになるのだろう。

「私が大丈夫になったら、すぐに消えちゃうの?」
「多分ね。だからそれまでは、二人でずっと過ごそう。この我儘も受け入れてくれるかな」
「もちろんだよ。消える最後の瞬間まで、二人でいよう」

最後の言葉は涙に濡れていて、もう言葉の形をしていなかった。