瞼がほどけて、周囲の景色が視界に流れ込んでくる。周囲に広がっているのは見慣れない部屋だった。内装を見るに、自分の家であることだけは分かる。
「なんで、私この部屋にいるんだっけ。浜辺で倒れてから、どうなったのか全然思い出せないや」
広げた両手を意味もなくただ眺めていた。その時、視界の端に何かの紙が映った。これは、日記帳だろうか。タイトルを見る限り、お母さんが私のことについて記した内容のものみたいだ。勝手に覗くのはよくないと頭では理解しつつも、何気なくパラパラとページをめくった。
_________
20XX年8月17日
お腹の子は二人みたい。ベビー用品を買い集めるのが今から楽しみ。とにかく健やかに育ってね、今願うのはただそれだけです。
20XX年9月28日
まだまだ気が早いけど、二人で話し合った結果、名前は“佑月”と“朝陽”に決まりそう。
それと、最近は人魚の物語をお腹に向かって読み聞かせてます。二人に聞こえてるかな。
20XX年11月3日
午前1時にお腹の子が一人亡くなってしまった。どうすればいいのか分からない。
20XX年1月7日
前に決めていた名前は二人で生まれてくることを想定した名前だったから、生きててくれているもう一人の子の名前は変えることになりました。凪桜って名前、本人にも気に入ってもらえるといいな。
20XX年5月30日
あの子を弔うために、一週間に一度は花屋さんに行って常にリビングの花瓶にかすみ草と勿忘草を差してる。一生忘れないだろうから書くまでもないけど、この花束は退院後にあの子とお別れするために花屋さんでつくってもらってから飾るようになったもの。あの時の花束はたまたま通りかかった浜辺で感情が溢れ出して波打ち際に投げ出してきちゃったけど、あれからどうなったんだろう。
20XX年8月11日
あの子がいたことはもう、思い出したくない。凪桜にも一生隠し通すつもり。
_________
息を呑んで、日記の文字を視線でなぞる。そこにある事実に言葉を失っていた。
佑月と朝陽という人物が双子で、その後一人は亡くなって生き残った方は凪桜へと名前を変えた。そこから導き出される真実はただ一つだ。
私たちは実は血の繋がった双子で、佑月はもう亡くなってる…………?
朝陽が他でもない私自身だった、というのは佑月との会話を通して勘づいていた。佑月が思い出した朝陽さん像と私にはあまりに共通点が多かったから。佑月が探し求めていた“朝陽”という女の子は他でもない私自身であり、私が長年探し続けていた“あの人”もまた佑月だったんだ。
貴方はいつかに“自分は数百年生きている”と言っていたけれど、きっと17年という時を一人で生きるうちに時間の感覚を失ってしまっていたのだろう。それだけの時間を過ごしていれば、そう思うのも無理はない。
きっと、心を失っていたのもそれが理由なのだろう。時の流れに記憶や心を蝕まれて、ついには自分という存在が消えてしまった。それがあの頃の貴方だった。
でも、あの子が亡くなってるなんて、そんなはずない。だって、私たちはこれまで幾度となく会話を交わしてきたし、抱きしめ合ってきた。佑月は確かにそこにいたのにもう生きていないなんて、そんなのありえない。目の前の文字に浮かぶ事実を受け止めたくなくて息が荒くなる。
その時、佑月の姿が脳内にフラッシュバックした。
あの子には、人魚特有の尾ひれがなくて本来尾ひれがある部分は透明だった。下半身の途中から先端にかけてグラデーションのように透明に染められていたのだ。人魚には、足がない。幽霊にも、足がない。
あの姿は、一見人魚にしか見えないけれど、見方によっては幽霊にも見える。私がずっと見てきた佑月の姿は、人魚の姿であり幽霊の姿でもあったのかもしれない。
それにしても、佑月が人魚の姿をしているのはお腹にいる時に人魚の物語を読み聞かせしてもらっていたことが起因しているのだろうか。もしかすると、亡霊になってからもその記憶が頭の片隅に刻み込まれていたからなのかもしれない。
それなら佑月が人魚の姿であることに苦しんでいたのも、元を辿ればお母さんたちが原因になる。でもどちらも悪くない。ただ、子供を想う親の愛と悪辣な運命が歪に噛み合ってしまっただけなのだ。そんな想像に、心の奥が軋む音がした。
それにこの日記を読む限り、佑月が夜から抜け出せられなかったのも深夜に亡くなったことが理由なのだろう。朝を迎えられなかった佑月は、永遠の夜に閉じ込められていたのだ。
その呪いともいえるものを私は解くことができたんだ。貴方を救えたこと、それは私にとっての数少ない誇りだ。
そして花束は佑月を弔うためにつくられたものだと考えれば、去年お母さんにかすみ草と勿忘草の花束を贈ろうとした時に冷たく突き放されたのにも合点がいく。お母さんは、過去の記憶から目を背けたかったのだ。
昔の私はまだ幼かったから、まさか双子の片割れが亡くなっているとも、その子を弔って飾られているものだとも知らず、ただ単にお母さんの好きな花なのだと誤解していた。今思えば2つとも別れの時によく使われる花だから、真実に触れてから考えると全ての辻褄が合う。
それから佑月が浜辺にいたのは、お母さんがかすみ草と勿忘草の花束を波打ち際に投げ出したからなのかもしれない。あの子の魂はお母さんの思いに宿っていて、その思いがこもった花束が海に投げ捨てられたことによって浜辺という場所に捕らわれていたのだろう。
これまでの謎や違和感が全て溶けていく感覚がした。
入れ替わりが解消された瞬間にこの空間にいたということは、きっとこの部屋には貴方が入ったのだろう。それなら、すでに貴方もお母さんたちがひた隠しにしていた秘密を知っているはずだ。
貴方に会いたい。今すぐに。
気づけば勢いよくその場から駆け出していた。日が傾き始めた空の下をひたすらがむしゃらに走る。斜陽が私の顔を赤く染め、夕刻特有の匂いを纏った優しい風が頬を掠める。電線に群がるカラスが一斉に飛び立ち、夜の帳が降りる予感を知らせていた。思わず瞼を閉じて世界を閉ざしてしまいたくなるほどに眩い太陽が雲の隙間から顔を覗かせている。
閉店準備を始めている海辺の店の前を駆け抜け、相も変わらずツタから水が滴る音が響いているトンネルを抜けて、顔を上げる。
「佑月、あのね……!」
口を開きかけたところで、佑月が眠っていることに気がついた。佑月はまだ眠りから覚めていなかったのか。
「ねぇ、起きて。貴方に話したいことがあるの」
そう呼びかけてみても、佑月の瞼が開く気配はない。頬を撫でてみても、肩を軽く揺さぶってみても結果は同じだった。背筋に冷や汗が伝い、嫌な予感が心の底で燻り始めた。
「佑月!ねぇ、佑月ってば!」
一切変化のない現状を横目に、焦りだけが募っていく。いつの間にか辺りは暗がりに染められていて、宵の気配を纏うようになっていた。月が貴方の鱗に光を灯すように煌めきを散りばめ始めた頃、私はようやく目の前に浮かぶ事実を理解する気になった。
佑月は、気を失っているんだ。それも、病院に連れて行けるわけでもないからいったいいつ目を覚ましてくれるのか見当もつかない。突如入れ替わりという嵐に呑まれたかと思えば、暗澹が潜む海の底に突き落とされたような気分だ。
その時、スマホの通知音が静寂の中で鳴り響いた。時間帯からしてお母さんから届いた帰宅の催促メッセージだろう、ということはすぐに察しがつく。
「佑月、また明日会いに来るから。それまでに目、覚ましておいてね」
小さく呟いてから背を向けてその日は帰路についた。けれど、翌日もその次の日も佑月が目を覚ますことはなかった。それからというもの、毎日のように浜辺に通っては佑月のそばに寄り添う日々が始まりを告げた。
今日も昨日と変わらずこの場所に訪れて、あの日から眠ったままの佑月に歌声で呼びかけている。
この場所に訪れるたび、私たちが出会うきっかけになったあの歌を口ずさむのだ。幾度となく歌い続けるうちに喉も枯れて、もう綺麗に音程を拾い上げることすらできない。それでも、ただひたすら微かな声で旋律をなぞりながら佑月に向かって歌を紡ぎ続ける。貴方が暗闇の中で迷ってしまわぬように。この声を頼りに、私の元へ帰ってこられるように。
今にも波の音にかき消されてしまいそうな私の歌には、そんな祈りを込めている。
歌も終盤に差し掛かったその瞬間、佑月の瞼がピクリと動いた。その微かな動きを、私は見逃さなかった。
「ゆ、佑月?この声、聞こえてる……?」
現実を噛みしめるようにゆっくりと開いた瞼から覗く貴方の瞳は、泥を沈殿させたように濁っていた。陽光の輝く澄みきった水面のようだった貴方の瞳は、別人と錯覚するほどに変わっていた。でも今はそんなのどうだっていい。貴方がこの世界に帰ってきてくれた、それだけで十分だ。目を覚ましたばかりの佑月は日の光が眩く感じたのか、数回瞬きを繰り返してようやく私に視線を移した。
「君だったのかな?ずっと歌を歌い続けてくれてたのは」
「うん、そうだよ。声が道しるべになって貴方が帰ってきてくれるかなと思って」
「それで…………」
途切れた言葉のその先が知りたくて聞き返そうとした瞬間、貴方は硬さの残る笑みを浮かべた。まさに、初めて出会った人に向けるような作り笑顔を。
「君の、名前は?」
「え……?」
その言葉を耳にした途端に心臓の鼓動が加速していったのが脈に触れなくても分かる。心の底から湧き上がっていた喜びは隙間をすり抜けて消え、私の胸には困惑だけが残った。貴方は、記憶を失っているの?
「なに、名前って…………私の名前が分からないの?」
「ごめん、今は上手く思い出せないんだ。君はボクの友達だったのかな?」
「私たちは、友達どころか……っ!」
その後に続けるべき言葉が見つからなくて、私の声は霧散していった。私たちのことを伝えてしまっていいのだろうか。私から伝えて知るのではなくて、貴方自身に思い出してほしかったのだ。
「ううん、私は何でもないただの知り合いってとこかな。でも、貴方の目が覚めるのを待ってたの」
「ただの知り合いなのに、ずっと歌を歌ってそばにいてくれたの?ふふっ、変な人」
“変な人”
確か、私たちがまだ出会ったばかりの頃にもそんなことを言われたっけ。今貴方が発したその一言だけには記憶を失う前の貴方の面影が滲んでいた。それがたまらなく寂しくて、愛おしかった。
「え~?変な人じゃなくて、運命の人とか素敵な言葉がいいなぁ」
私もすかさずあの時と同じ返答をする。あの頃は掃いて捨てられるほどにありふれていたこんな軽口さえ、今は大切な日常のワンシーンだ。
「運命の人?残念だけど、ボクにはすでに大切な人がいるからそれは無理かな」
口元に手を当てた佑月が言葉尻にくすくすと柔らかい笑みをこぼしてそう返す。この柔らかい笑い方も、全てが懐かしくて愛おしい。
「その大切な人って言うのは、誰なの?」
「え?あぁ、その人は朝陽って言うんだ。もしかしたら、君も知ってるかな?」
「知ってるどころか、朝陽は……!」
朝陽は私なんだ、なんて言えるわけない。その言葉を飲み込んで、下唇を噛みしめることしかできなかった。
「ううん、何でもない。私も朝陽さんのことは知ってるよ。朝陽さんのことなら、もう何でも分かっちゃうくらい」
「本当に?それなら彼女のことを聞いてもいいかな。聞きたいことがたくさんあるんだ。今、朝陽はどこにいるの?」
「朝陽さんは、外の世界で生きてるよ。幸せではないけど、今は不幸からも抜け出せたみたい」
「そっか、ならよかった。記憶の中の朝陽は色んなことに苦しんでたから心配してたんだ」
安堵したように頬を緩ませた貴方は、本当によかった、と噛みしめるように声を漏らした。その一言だけでもどれだけ佑月が私の心を案じてくれていたのかが伝わってきて、胸が苦しくなる。だけど、それにしても佑月は私の記憶を失っているはずなのに、どうして苦しんでいたことだけは覚えているのだろう。もしかして、私という存在の記憶だけが抜け落ちていて私との記憶が朝陽さんとの記憶に塗り替えられているのかもしれない。
「朝陽は、もうボクのこと嫌いになっちゃったかな」
「…………朝陽さんは、大好きだよ。今も貴方のことが」
もう何度目だろう、貴方にこの好きを伝えるのは。そのたび、貴方は答えをはぐらかす。もう朝陽は自分のことが嫌いなはず、と言うけれど、貴方の方こそ好きなんて言ってくれたことはなかったじゃないか。
そんな気持ちを心の底にしまいながら、私はいつもの返事をする。
「貴方は、どうなの?」
声が潤むのを必死に堪えながら、そう問いかけた。もう一度、聞きたかったこと。もう一度、聞かなきゃいけないこと。
その瞬間、貴方の瞳に涙が浮かび上がり、日の光に当てられて生まれた光の粒がその水面を泳いだ。
貴方は目を濡らしたまま瞼を閉じて、陽光を溶かしたような温かい微笑みを浮かべた。そんな表情をたたえた拍子に瞼の隙間からは涙が一筋流れ落ちて頬を伝う。
「好きだったんだ、ずっと。朝陽の全部が」
暖かな春風が私の頬のそばを吹き抜けて、髪の毛が柔らかくなびいた。幾ばくかの間、その言葉の意味が理解できずにいた。それはあまりに、苦しくて優しい響きをしていたから。手が届くようで指先すら触れられなかった言葉とようやく出会えた。その驚きと愛おしさで胸がいっぱいになる。
「好きなのに、何も言えなかった。彼女はずっとボクのことが好きだと言ってくれてたのに」
瞼を開くと、今度は困ったように眉を下げて目を伏せた。その表情には確かな自責の念が滲んでいた。
「ボクは弱虫だから、朝陽に伝えられる自信がなかったんだ。ボクはいつ消えてもおかしくない存在だから、もしその気持ちを伝えた後に消えちゃったら朝陽は間違いなく死ぬまでボクとの記憶に縛られることになる。それが、何よりも怖かったんだ」
今まで問いただしたことのない本音。それはどこまでも悲痛で、純粋なものだった。
「彼女はそんなことを心配されるより好きだと一言言ってくれることを望んでるのも本当は分かってた。実際はただ、ボク一人が恐れて逃げ続けてただけなんだ」
佑月がいつものらりくらりを繰り返して、必ず答えを濁していたのにはそんな理由があったんだ。でも、全ての言葉を聞き終えた私の心にはある感情が渦巻いていた。
「なんで、なんでもっと早く言ってくれなかったの……?私、ずっとその言葉を待ってたんだよ」
貴方が記憶を失った後じゃ、もう遅いのに。私は、その言葉を以前の貴方の口から聞きたかった。私と春、夏、秋、冬を共にした記憶の中の貴方に。
「その口ぶりじゃ、まるで君が朝陽みたいじゃないか」
にわかには信じがたい、そんな表情をしているのに貴方の声は確かに震えていた。貴方はもう、真実に勘づいている。
「もう一度聞かせてほしい。君の、名前は?」
「私の名前は…………」
言うべきか、言わぬべきか、最後の瞬間まで迷いに明け暮れた。けれど、私の心はすでに決まっている。私たち二人にとって大切な、大切な、その名前を紡ぐために息を深く吸った。
「朝陽、朝陽だよ。ごめんね、黙ってて」
「あぁ、よかった。ボク、ずっと君を探してたんだよ」
柔らかな羽が水面と触れ合う瞬間のようにふわりとした笑みを咲かせた貴方は、私の手を静かに握った。その情景をこの目に映す私の顔もおのずとほころんでいた。こうやって取り繕わずに笑えたのはいつぶりのことだろう。貴方が眠りについてから、私は上手く笑えなくなっていた。まるで笑顔を忘れてしまったみたいに。
「私も、小さい頃から貴方の姿だけを探し続けてた。名前も顔も忘れた貴方の存在を、片時も忘れたことはなかったよ」
「やっと会えたね、朝陽。ボクらはこれからもずっと一緒だよ」
その言葉に返事はできなかった。心の裏では、ある思いがひしめいていたから。
「なんで、私この部屋にいるんだっけ。浜辺で倒れてから、どうなったのか全然思い出せないや」
広げた両手を意味もなくただ眺めていた。その時、視界の端に何かの紙が映った。これは、日記帳だろうか。タイトルを見る限り、お母さんが私のことについて記した内容のものみたいだ。勝手に覗くのはよくないと頭では理解しつつも、何気なくパラパラとページをめくった。
_________
20XX年8月17日
お腹の子は二人みたい。ベビー用品を買い集めるのが今から楽しみ。とにかく健やかに育ってね、今願うのはただそれだけです。
20XX年9月28日
まだまだ気が早いけど、二人で話し合った結果、名前は“佑月”と“朝陽”に決まりそう。
それと、最近は人魚の物語をお腹に向かって読み聞かせてます。二人に聞こえてるかな。
20XX年11月3日
午前1時にお腹の子が一人亡くなってしまった。どうすればいいのか分からない。
20XX年1月7日
前に決めていた名前は二人で生まれてくることを想定した名前だったから、生きててくれているもう一人の子の名前は変えることになりました。凪桜って名前、本人にも気に入ってもらえるといいな。
20XX年5月30日
あの子を弔うために、一週間に一度は花屋さんに行って常にリビングの花瓶にかすみ草と勿忘草を差してる。一生忘れないだろうから書くまでもないけど、この花束は退院後にあの子とお別れするために花屋さんでつくってもらってから飾るようになったもの。あの時の花束はたまたま通りかかった浜辺で感情が溢れ出して波打ち際に投げ出してきちゃったけど、あれからどうなったんだろう。
20XX年8月11日
あの子がいたことはもう、思い出したくない。凪桜にも一生隠し通すつもり。
_________
息を呑んで、日記の文字を視線でなぞる。そこにある事実に言葉を失っていた。
佑月と朝陽という人物が双子で、その後一人は亡くなって生き残った方は凪桜へと名前を変えた。そこから導き出される真実はただ一つだ。
私たちは実は血の繋がった双子で、佑月はもう亡くなってる…………?
朝陽が他でもない私自身だった、というのは佑月との会話を通して勘づいていた。佑月が思い出した朝陽さん像と私にはあまりに共通点が多かったから。佑月が探し求めていた“朝陽”という女の子は他でもない私自身であり、私が長年探し続けていた“あの人”もまた佑月だったんだ。
貴方はいつかに“自分は数百年生きている”と言っていたけれど、きっと17年という時を一人で生きるうちに時間の感覚を失ってしまっていたのだろう。それだけの時間を過ごしていれば、そう思うのも無理はない。
きっと、心を失っていたのもそれが理由なのだろう。時の流れに記憶や心を蝕まれて、ついには自分という存在が消えてしまった。それがあの頃の貴方だった。
でも、あの子が亡くなってるなんて、そんなはずない。だって、私たちはこれまで幾度となく会話を交わしてきたし、抱きしめ合ってきた。佑月は確かにそこにいたのにもう生きていないなんて、そんなのありえない。目の前の文字に浮かぶ事実を受け止めたくなくて息が荒くなる。
その時、佑月の姿が脳内にフラッシュバックした。
あの子には、人魚特有の尾ひれがなくて本来尾ひれがある部分は透明だった。下半身の途中から先端にかけてグラデーションのように透明に染められていたのだ。人魚には、足がない。幽霊にも、足がない。
あの姿は、一見人魚にしか見えないけれど、見方によっては幽霊にも見える。私がずっと見てきた佑月の姿は、人魚の姿であり幽霊の姿でもあったのかもしれない。
それにしても、佑月が人魚の姿をしているのはお腹にいる時に人魚の物語を読み聞かせしてもらっていたことが起因しているのだろうか。もしかすると、亡霊になってからもその記憶が頭の片隅に刻み込まれていたからなのかもしれない。
それなら佑月が人魚の姿であることに苦しんでいたのも、元を辿ればお母さんたちが原因になる。でもどちらも悪くない。ただ、子供を想う親の愛と悪辣な運命が歪に噛み合ってしまっただけなのだ。そんな想像に、心の奥が軋む音がした。
それにこの日記を読む限り、佑月が夜から抜け出せられなかったのも深夜に亡くなったことが理由なのだろう。朝を迎えられなかった佑月は、永遠の夜に閉じ込められていたのだ。
その呪いともいえるものを私は解くことができたんだ。貴方を救えたこと、それは私にとっての数少ない誇りだ。
そして花束は佑月を弔うためにつくられたものだと考えれば、去年お母さんにかすみ草と勿忘草の花束を贈ろうとした時に冷たく突き放されたのにも合点がいく。お母さんは、過去の記憶から目を背けたかったのだ。
昔の私はまだ幼かったから、まさか双子の片割れが亡くなっているとも、その子を弔って飾られているものだとも知らず、ただ単にお母さんの好きな花なのだと誤解していた。今思えば2つとも別れの時によく使われる花だから、真実に触れてから考えると全ての辻褄が合う。
それから佑月が浜辺にいたのは、お母さんがかすみ草と勿忘草の花束を波打ち際に投げ出したからなのかもしれない。あの子の魂はお母さんの思いに宿っていて、その思いがこもった花束が海に投げ捨てられたことによって浜辺という場所に捕らわれていたのだろう。
これまでの謎や違和感が全て溶けていく感覚がした。
入れ替わりが解消された瞬間にこの空間にいたということは、きっとこの部屋には貴方が入ったのだろう。それなら、すでに貴方もお母さんたちがひた隠しにしていた秘密を知っているはずだ。
貴方に会いたい。今すぐに。
気づけば勢いよくその場から駆け出していた。日が傾き始めた空の下をひたすらがむしゃらに走る。斜陽が私の顔を赤く染め、夕刻特有の匂いを纏った優しい風が頬を掠める。電線に群がるカラスが一斉に飛び立ち、夜の帳が降りる予感を知らせていた。思わず瞼を閉じて世界を閉ざしてしまいたくなるほどに眩い太陽が雲の隙間から顔を覗かせている。
閉店準備を始めている海辺の店の前を駆け抜け、相も変わらずツタから水が滴る音が響いているトンネルを抜けて、顔を上げる。
「佑月、あのね……!」
口を開きかけたところで、佑月が眠っていることに気がついた。佑月はまだ眠りから覚めていなかったのか。
「ねぇ、起きて。貴方に話したいことがあるの」
そう呼びかけてみても、佑月の瞼が開く気配はない。頬を撫でてみても、肩を軽く揺さぶってみても結果は同じだった。背筋に冷や汗が伝い、嫌な予感が心の底で燻り始めた。
「佑月!ねぇ、佑月ってば!」
一切変化のない現状を横目に、焦りだけが募っていく。いつの間にか辺りは暗がりに染められていて、宵の気配を纏うようになっていた。月が貴方の鱗に光を灯すように煌めきを散りばめ始めた頃、私はようやく目の前に浮かぶ事実を理解する気になった。
佑月は、気を失っているんだ。それも、病院に連れて行けるわけでもないからいったいいつ目を覚ましてくれるのか見当もつかない。突如入れ替わりという嵐に呑まれたかと思えば、暗澹が潜む海の底に突き落とされたような気分だ。
その時、スマホの通知音が静寂の中で鳴り響いた。時間帯からしてお母さんから届いた帰宅の催促メッセージだろう、ということはすぐに察しがつく。
「佑月、また明日会いに来るから。それまでに目、覚ましておいてね」
小さく呟いてから背を向けてその日は帰路についた。けれど、翌日もその次の日も佑月が目を覚ますことはなかった。それからというもの、毎日のように浜辺に通っては佑月のそばに寄り添う日々が始まりを告げた。
今日も昨日と変わらずこの場所に訪れて、あの日から眠ったままの佑月に歌声で呼びかけている。
この場所に訪れるたび、私たちが出会うきっかけになったあの歌を口ずさむのだ。幾度となく歌い続けるうちに喉も枯れて、もう綺麗に音程を拾い上げることすらできない。それでも、ただひたすら微かな声で旋律をなぞりながら佑月に向かって歌を紡ぎ続ける。貴方が暗闇の中で迷ってしまわぬように。この声を頼りに、私の元へ帰ってこられるように。
今にも波の音にかき消されてしまいそうな私の歌には、そんな祈りを込めている。
歌も終盤に差し掛かったその瞬間、佑月の瞼がピクリと動いた。その微かな動きを、私は見逃さなかった。
「ゆ、佑月?この声、聞こえてる……?」
現実を噛みしめるようにゆっくりと開いた瞼から覗く貴方の瞳は、泥を沈殿させたように濁っていた。陽光の輝く澄みきった水面のようだった貴方の瞳は、別人と錯覚するほどに変わっていた。でも今はそんなのどうだっていい。貴方がこの世界に帰ってきてくれた、それだけで十分だ。目を覚ましたばかりの佑月は日の光が眩く感じたのか、数回瞬きを繰り返してようやく私に視線を移した。
「君だったのかな?ずっと歌を歌い続けてくれてたのは」
「うん、そうだよ。声が道しるべになって貴方が帰ってきてくれるかなと思って」
「それで…………」
途切れた言葉のその先が知りたくて聞き返そうとした瞬間、貴方は硬さの残る笑みを浮かべた。まさに、初めて出会った人に向けるような作り笑顔を。
「君の、名前は?」
「え……?」
その言葉を耳にした途端に心臓の鼓動が加速していったのが脈に触れなくても分かる。心の底から湧き上がっていた喜びは隙間をすり抜けて消え、私の胸には困惑だけが残った。貴方は、記憶を失っているの?
「なに、名前って…………私の名前が分からないの?」
「ごめん、今は上手く思い出せないんだ。君はボクの友達だったのかな?」
「私たちは、友達どころか……っ!」
その後に続けるべき言葉が見つからなくて、私の声は霧散していった。私たちのことを伝えてしまっていいのだろうか。私から伝えて知るのではなくて、貴方自身に思い出してほしかったのだ。
「ううん、私は何でもないただの知り合いってとこかな。でも、貴方の目が覚めるのを待ってたの」
「ただの知り合いなのに、ずっと歌を歌ってそばにいてくれたの?ふふっ、変な人」
“変な人”
確か、私たちがまだ出会ったばかりの頃にもそんなことを言われたっけ。今貴方が発したその一言だけには記憶を失う前の貴方の面影が滲んでいた。それがたまらなく寂しくて、愛おしかった。
「え~?変な人じゃなくて、運命の人とか素敵な言葉がいいなぁ」
私もすかさずあの時と同じ返答をする。あの頃は掃いて捨てられるほどにありふれていたこんな軽口さえ、今は大切な日常のワンシーンだ。
「運命の人?残念だけど、ボクにはすでに大切な人がいるからそれは無理かな」
口元に手を当てた佑月が言葉尻にくすくすと柔らかい笑みをこぼしてそう返す。この柔らかい笑い方も、全てが懐かしくて愛おしい。
「その大切な人って言うのは、誰なの?」
「え?あぁ、その人は朝陽って言うんだ。もしかしたら、君も知ってるかな?」
「知ってるどころか、朝陽は……!」
朝陽は私なんだ、なんて言えるわけない。その言葉を飲み込んで、下唇を噛みしめることしかできなかった。
「ううん、何でもない。私も朝陽さんのことは知ってるよ。朝陽さんのことなら、もう何でも分かっちゃうくらい」
「本当に?それなら彼女のことを聞いてもいいかな。聞きたいことがたくさんあるんだ。今、朝陽はどこにいるの?」
「朝陽さんは、外の世界で生きてるよ。幸せではないけど、今は不幸からも抜け出せたみたい」
「そっか、ならよかった。記憶の中の朝陽は色んなことに苦しんでたから心配してたんだ」
安堵したように頬を緩ませた貴方は、本当によかった、と噛みしめるように声を漏らした。その一言だけでもどれだけ佑月が私の心を案じてくれていたのかが伝わってきて、胸が苦しくなる。だけど、それにしても佑月は私の記憶を失っているはずなのに、どうして苦しんでいたことだけは覚えているのだろう。もしかして、私という存在の記憶だけが抜け落ちていて私との記憶が朝陽さんとの記憶に塗り替えられているのかもしれない。
「朝陽は、もうボクのこと嫌いになっちゃったかな」
「…………朝陽さんは、大好きだよ。今も貴方のことが」
もう何度目だろう、貴方にこの好きを伝えるのは。そのたび、貴方は答えをはぐらかす。もう朝陽は自分のことが嫌いなはず、と言うけれど、貴方の方こそ好きなんて言ってくれたことはなかったじゃないか。
そんな気持ちを心の底にしまいながら、私はいつもの返事をする。
「貴方は、どうなの?」
声が潤むのを必死に堪えながら、そう問いかけた。もう一度、聞きたかったこと。もう一度、聞かなきゃいけないこと。
その瞬間、貴方の瞳に涙が浮かび上がり、日の光に当てられて生まれた光の粒がその水面を泳いだ。
貴方は目を濡らしたまま瞼を閉じて、陽光を溶かしたような温かい微笑みを浮かべた。そんな表情をたたえた拍子に瞼の隙間からは涙が一筋流れ落ちて頬を伝う。
「好きだったんだ、ずっと。朝陽の全部が」
暖かな春風が私の頬のそばを吹き抜けて、髪の毛が柔らかくなびいた。幾ばくかの間、その言葉の意味が理解できずにいた。それはあまりに、苦しくて優しい響きをしていたから。手が届くようで指先すら触れられなかった言葉とようやく出会えた。その驚きと愛おしさで胸がいっぱいになる。
「好きなのに、何も言えなかった。彼女はずっとボクのことが好きだと言ってくれてたのに」
瞼を開くと、今度は困ったように眉を下げて目を伏せた。その表情には確かな自責の念が滲んでいた。
「ボクは弱虫だから、朝陽に伝えられる自信がなかったんだ。ボクはいつ消えてもおかしくない存在だから、もしその気持ちを伝えた後に消えちゃったら朝陽は間違いなく死ぬまでボクとの記憶に縛られることになる。それが、何よりも怖かったんだ」
今まで問いただしたことのない本音。それはどこまでも悲痛で、純粋なものだった。
「彼女はそんなことを心配されるより好きだと一言言ってくれることを望んでるのも本当は分かってた。実際はただ、ボク一人が恐れて逃げ続けてただけなんだ」
佑月がいつものらりくらりを繰り返して、必ず答えを濁していたのにはそんな理由があったんだ。でも、全ての言葉を聞き終えた私の心にはある感情が渦巻いていた。
「なんで、なんでもっと早く言ってくれなかったの……?私、ずっとその言葉を待ってたんだよ」
貴方が記憶を失った後じゃ、もう遅いのに。私は、その言葉を以前の貴方の口から聞きたかった。私と春、夏、秋、冬を共にした記憶の中の貴方に。
「その口ぶりじゃ、まるで君が朝陽みたいじゃないか」
にわかには信じがたい、そんな表情をしているのに貴方の声は確かに震えていた。貴方はもう、真実に勘づいている。
「もう一度聞かせてほしい。君の、名前は?」
「私の名前は…………」
言うべきか、言わぬべきか、最後の瞬間まで迷いに明け暮れた。けれど、私の心はすでに決まっている。私たち二人にとって大切な、大切な、その名前を紡ぐために息を深く吸った。
「朝陽、朝陽だよ。ごめんね、黙ってて」
「あぁ、よかった。ボク、ずっと君を探してたんだよ」
柔らかな羽が水面と触れ合う瞬間のようにふわりとした笑みを咲かせた貴方は、私の手を静かに握った。その情景をこの目に映す私の顔もおのずとほころんでいた。こうやって取り繕わずに笑えたのはいつぶりのことだろう。貴方が眠りについてから、私は上手く笑えなくなっていた。まるで笑顔を忘れてしまったみたいに。
「私も、小さい頃から貴方の姿だけを探し続けてた。名前も顔も忘れた貴方の存在を、片時も忘れたことはなかったよ」
「やっと会えたね、朝陽。ボクらはこれからもずっと一緒だよ」
その言葉に返事はできなかった。心の裏では、ある思いがひしめいていたから。
