消えたい君の守り方。

水底に沈み込んでいた意識が浮かび上がってボクの元に現実として戻ってくる、そんな感覚を覚えると同時にゆっくりと瞼を開ける。暗澹の世界から覚めたばかりの目には、陽光は幾分か刺激が強くて思わず瞬きを繰り返した。
光に目が慣れてきた頃合いを見て、眼前に広がる景色を目線でなぞる。夢の余韻を引きずったままの頭では、視界に映る景色を捉えるだけで精いっぱいだった。

所々貝殻の混じった浜辺に、秋風に撫でられて乾いた音を立てながら地面を転がる木の葉、陽光に当てられて透明に光るさざ波、そして倒れているボクの姿。

ボクの、姿?

「なんで、ボクが目の前にいるんだ……?」

ついに自分は死んで魂が抜けたのだろうか。そんな馬鹿げた荒唐無稽な考えが脳裏を掠めたものの、それが勘違いであることにはすぐに勘づいた。

今発した声は、ボクのものではなかったから。ボクよりもっと響きが軽くて、柔らかくて、鈴の音のような声。まるで、凪桜みたいな声だった。
それらが示す事実はただ一つだけだ。

「ボクと君は、入れ替わってる……?」

咄嗟に手元に視線を巡らす。ボクよりも細くてすらりとした指に、視界の端に映るベージュ色の制服。間違いない、ボクと凪桜は入れ替わっているんだ。

「凪桜、起きて!ボクたち、入れ替わって……」

何度体を揺さぶってみても、声で意識を手繰り寄せようとしても、ボクのものだった体に入った凪桜が目覚める気配はまるでない。

「どうしよう、このままじゃ戻る方法すら見つかるか分かんないじゃないか」

ボク一人で探すにしても、きっと明日が来るまでにその方法を見つけるのは不可能だ。それならば、元の体に戻るまでは凪桜として生きなければいけない。外の世界をほとんど生きたことのないボクにも、それができるだろうか。そんな不安が胸に燻って消えてくれない。

それにしても、そろそろ日が落ちてきた。

「そろそろ帰らないと。えっと、スマホ…………」

そばに落ちていたスマホを拾い上げて、画面に触れる。あの会話を交わす直前まで凪桜がスマホを触っていたのが幸いして、まだパスワードを入力せずとも開くことができた。地図アプリらしきものをタップし、なんとか家のようなイラストのマークを探してその場所に向かって歩き始める。凪桜がスマホに触れているところを今まで間近で見てきたから、操作には大して困らなかった。おそらくニ十分ほど歩き続けた末に、白を基調とした外観の家に辿り着いた。

「お邪魔しま……じゃなくて、ただいま」

返事は返ってこなかった。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれないし、耳には入っているけど聞いていないふりをしているのかもしれない。

リビングに入ると、母親らしき女性がソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
凪桜と同じミルクティー色の髪色に、桜色の瞳。でも顔立ちは親子でも少し違うように感じる。優しい雰囲気の凪桜に反して、冷たい印象の滲む雰囲気の顔立ちだ。

これが、凪桜を散々苦しめてきたあの母親なのか。そう思うと、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってきて赤黒く滾った。
最終的には子供としての愛情が勝って両親を救うことを選んだ、と凪桜はこの前話していた。それなら、この怒りは凪桜の意思には反するものかもしれない。それでも、感情を押し殺すことなんてできそうになかった。

凪桜が涙を流していたのも、消えたいと思い始めたのも、この人のせいだ。もちろん父親が原因でもあるし、学校での出来事も一因なのは間違いないだろう。でも、凪桜ともっとも一番長い時間を共に過ごしてきたであろうこの人が主な原因であるのは見て取れる。

「あ、帰ってきてたのね。もう疲れたでしょ?早く部屋に戻って休みなさい」

ソファに座ったまま視線だけをボクの方に向けた母親は、屈託のない笑顔を浮かべながら心底子供を愛しているかのような声色でそう言った。ボクは、それがただの上っ面の仮面に過ぎないことを知っている。

「なんで、そんなこと言うんだよ。今までのあんた……お母さんはそんなんじゃなかったじゃないか」
「それはもちろん貴方のお母さんだからよ。私は変わったのよ、もうあの頃の私じゃないの」

その声を聞いて、余計に心が黒く塗りつぶされていく感覚がした。これまで凪桜を散々苦しめてきたくせに、今更いい母親面してんじゃねぇよ。

「……あんたのせいだ」
「え…………?」
「凪桜がああなったのだって、全部あんたのせいだ!!」

言ってしまった、そう一縷の後悔が脳裏を過ったけど、もう口は止まってくれなかった。次から次へと思いが溢れてきて、それは言葉となり宙で弾ける。

「そもそもあんたが身勝手な願いを押し付けなければ、凪桜は今も心から笑ってたかもしれない。願いがあるなら自分で叶えろよ。なんでそれを子供に背負わすんだよ」
「貴方は、誰…………?」

母親は呆然としながら、一言だけ呟いた。その表情に滲んでいるのは困惑と驚きだけで、他の感情は見つからない。

「凪桜はどこに行ったの!?」

次の瞬間、その瞳に疑いようのない怒りの色が炎のように燃え盛った。
あぁ、凪桜の痛みがようやく本当に理解できた気がする。凪桜は確かに、愛されているんだ。

「どこかは教えない。でも、元のボクの体に入ってる」

そう告げると、母親は足早に外へ飛び出していった。ボクはぼんやりとその場に立ち尽くしたのちに、少しでも入れ替わりを解消する手掛かりを探すために凪桜の部屋を目指して階段を上った。

階段を上って真っ先に目に入ってくる部屋のドアがわずかに開いている。そのドアは鍵穴があるけど、今は鍵が閉まっていないみたいだ。確かいつかに凪桜が、家に一度も入ったことのない部屋があると言っていた。その部屋のドアには唯一鍵がついているらしい。もしかして、この部屋がそうなのだろうか。何気なく、ドアを開いて中に足を踏み入れた。

「なんだ、この部屋…………」

ひどく埃臭くて、窓を開けて喚起でもしないととても入られるような場所ではない。しばらく人が踏み入った形跡はなく、手入れもされていないようだった。

周囲にあるのは草臥れた代物ばかり。壊れかけたおもちゃにすっかり色褪せたベビー服、赤ちゃんが寝転ぶためのマット。まるで、凪桜が生まれた頃のまま時が止まっているかのような部屋だ。その時、床の一角に何かが散らばっているのが視界の端に掠めた。

「ん?何がこんなに散乱して……」

写真や日記と思われる手帳など、大小様々な紙の類が転がっている。何気なく拾い上げたのは、古びたアルバムだった。パラパラと紙をめくると、中には“ふたりだって!”と書き込まれたエコー写真や二人分のベビー服を並べた写真なんかが並んでいた。

「あれ、凪桜に兄弟なんていたっけ?」

そんな疑問を覚えつつも、次は日記帳を手に取った。これも同じようにある程度のページを読み飛ばしながら気になった部分だけ目を通す。
幸い、どの文章にも振り仮名がふってあったからボクでも簡単に意味を読み解くことができた。ページの端に書き込まれている文章を読む限り、“二人が幼稚園生くらいになってからみんなで読み返せるように”という理由で振り仮名を書いているらしい。

でも、なんで。

「なんで、ボクの…………」

ボクは、自分の××があるのを見てしまった。まさか、ボクが…………。