お母さんとの会話の余韻が心の中で染みわたっている。温かい気持ちに触れながらリビングのソファに腰を下ろしていると、音もなくドアが開いてお父さんが入ってきた。お母さんが外出した今、リビングにいるのはお父さんと私の二人だけだ。
「あ、お父さん。今日もお疲れさま」
あぁ、とだけお父さんは返事をしてスーツのジャケットを椅子に掛けた。この数ヶ月で色んなことが変化したけれど、お父さんも例外ではない。もう、一つ一つの行動に苛立ちは滲んでいなかった。
「この前、お母さんの昔の話を聞いたんだ。昔の辛かったこととか色々。私、お父さんの話も聞いてみたい。ちゃんと知っておきたいの」
「昔話か。確かに、たまにはこういうのもいいかもしれないな」
私はこれまで散々お父さんに苦しめられてきた。だからこそ、その苦しみが生まれるに至った所以を知りたかったのだ。いかにしてお父さんのその人格が形成されたのか、どんな人生を歩んできたのか、今まで知らなかったお父さんの心のうちに今手を伸ばそうとしている。
「父さんな、子供の頃に親から暴力をふるわれてたんだ」
「そっか、それはなんとなく…………察してた。あれだけ人に攻撃的になるのには、多分何かしらの理由があるんだろうなと思ってたから」
「頭を叩かれたり、腹を蹴られたり散々だったよ。でも本当に軽くなんだ。今思えば、あざとか傷が残らないように手加減してたんだろうな」
助けを求めたいのに、証拠がないから誰にも助けを求められない。そのやるせなさや苦しみは、きっと私の想像じゃ辿り着けないくらいのものなのだろう。
「俺がよく舌打ちで凪桜たちを従わせてたのも、完全に親の受け売りなんだよ。俺だって同じことをされたんだから、それを他の奴にやり返して何が悪い、って本気で思ってた」
私たちにひどい言葉を浴びせる時、お父さんはいつも怯えた目をしてた。それは多分、あの頃自分を攻撃してきた親に対する報復として私たちを攻撃していたからなんだと思う。
お父さんに目に映っていたのは私たちじゃなくて、暴力をふるってきた親の姿だったんだ。
「中学生くらいになると、家出を繰り返すようになった。それでも親は探しに来ないし、誰も俺のことなんか気にしてない。本気で絶望したよ」
それきりお父さんの言葉は輪郭を失って、ただ沈黙だけがその場に浮かんだ。黙りこくるお父さんは口を真一文字に引き結んで視線を床に落とす。しばらくして、お父さんはもう一度記憶を声に乗せ始めた。
「その流れで高校卒業と同時に家を出て、今まで一切連絡は取ってない。親の電話番号も当然知らないし、もう実家の住所も覚えてない」
確かにこれまでの記憶を頭に巡らせてみても、父方の祖父母の話は何一つ耳にしたことがない。それにはこんな事情があったんだ。
「親が、いまだに夢に出てくるんだよ。あの頃と同じように殴られて、蹴られて、それでも誰も助けてくれないんだよ。でもこの程度の苦しみ、誰にも言えるわけないだろ?」
みんな、中途半端な痛みに苦しめられている。ちゃんと痛いのに、苦しいのに、人に助けも求められない、そんな痛みに。
節々で感じていた違和感の理由が解けていく。お母さんが過干渉に明け暮れていたのは、子供の頃に親に助けてもらえなかったことが原因で心の隙間を抱えていたから。
お父さんが不機嫌な態度で私たちを支配してきたのは、親から同じ扱いを受けてきたから。
お母さんもお父さんも、悲しい意味で子供のままだったんだ。過去に取り残されたままで今に辿り着けていないのだろう。
「この程度の苦しみ、とか馬鹿言わないでよ」
「急にどうしたんだよ。そんな怖い顔して…………」
「苦しかったことはちゃんと苦しかったって言っていいんだよ……!誰に何を言われようが、俺は辛かったんだって言っていいの。苦しみに上下もその程度もないんだから、絶対に」
お父さんはハッとしたように目を見開いてから、すぐにひどく表情を歪ませた。それは、今にも泣きそうな顔だった。
「これまで、多分俺はその言葉が欲しかったんだ。他のどんな言葉よりも。自分の辛さを誰かに分かって欲しかった。誰かに認めて欲しかった」
顔を手で覆い隠したお父さんはそっと俯いた。お父さんも私と似た思いを抱えていると思うと、心の中の感情がぐちゃぐちゃになる。今、憎い相手を私は言葉で救っているのか。そう思ってしまうから。でもそれと同時に、世界で一人だけの大事な父親でもあるのだ。愛おしさと憎しみが混ざり合って、歪な形をしている。
「凪桜にはホント救われてばっかりだな。凪桜に散々嫌な記憶を植え付けてきた俺に、そんな資格はないのに」
「私がお父さんを救ったことなんてあった?全然記憶にないや」
「そりゃそうだろ、生まれた時の話なんだから」
お父さんはそれはおかしそうに笑みをこぼした。我ながら、とてつもなく変な質問をしてしまった気がする。
「凪桜が生まれた時、これまでの全部が報われた気がしたんだ。絶対にこの子には俺みたいな思いをさせない、全身全霊で愛そうって心の中で決めたくせに、なんで今まで忘れてたんだろうな。こんなに大事なことなのに」
「そんなこと、思ってたんだ。なんかね、今日話を聞いて正解だったかも」
憎い相手とはいえ、お父さんがこれまでひた隠しにしてきた心中、その中に閉じ込めていた記憶や思いを一緒に辿れてよかった。二人を少しでも救えたことは、間違いじゃなかったと思いたい。
「あ、お父さん。今日もお疲れさま」
あぁ、とだけお父さんは返事をしてスーツのジャケットを椅子に掛けた。この数ヶ月で色んなことが変化したけれど、お父さんも例外ではない。もう、一つ一つの行動に苛立ちは滲んでいなかった。
「この前、お母さんの昔の話を聞いたんだ。昔の辛かったこととか色々。私、お父さんの話も聞いてみたい。ちゃんと知っておきたいの」
「昔話か。確かに、たまにはこういうのもいいかもしれないな」
私はこれまで散々お父さんに苦しめられてきた。だからこそ、その苦しみが生まれるに至った所以を知りたかったのだ。いかにしてお父さんのその人格が形成されたのか、どんな人生を歩んできたのか、今まで知らなかったお父さんの心のうちに今手を伸ばそうとしている。
「父さんな、子供の頃に親から暴力をふるわれてたんだ」
「そっか、それはなんとなく…………察してた。あれだけ人に攻撃的になるのには、多分何かしらの理由があるんだろうなと思ってたから」
「頭を叩かれたり、腹を蹴られたり散々だったよ。でも本当に軽くなんだ。今思えば、あざとか傷が残らないように手加減してたんだろうな」
助けを求めたいのに、証拠がないから誰にも助けを求められない。そのやるせなさや苦しみは、きっと私の想像じゃ辿り着けないくらいのものなのだろう。
「俺がよく舌打ちで凪桜たちを従わせてたのも、完全に親の受け売りなんだよ。俺だって同じことをされたんだから、それを他の奴にやり返して何が悪い、って本気で思ってた」
私たちにひどい言葉を浴びせる時、お父さんはいつも怯えた目をしてた。それは多分、あの頃自分を攻撃してきた親に対する報復として私たちを攻撃していたからなんだと思う。
お父さんに目に映っていたのは私たちじゃなくて、暴力をふるってきた親の姿だったんだ。
「中学生くらいになると、家出を繰り返すようになった。それでも親は探しに来ないし、誰も俺のことなんか気にしてない。本気で絶望したよ」
それきりお父さんの言葉は輪郭を失って、ただ沈黙だけがその場に浮かんだ。黙りこくるお父さんは口を真一文字に引き結んで視線を床に落とす。しばらくして、お父さんはもう一度記憶を声に乗せ始めた。
「その流れで高校卒業と同時に家を出て、今まで一切連絡は取ってない。親の電話番号も当然知らないし、もう実家の住所も覚えてない」
確かにこれまでの記憶を頭に巡らせてみても、父方の祖父母の話は何一つ耳にしたことがない。それにはこんな事情があったんだ。
「親が、いまだに夢に出てくるんだよ。あの頃と同じように殴られて、蹴られて、それでも誰も助けてくれないんだよ。でもこの程度の苦しみ、誰にも言えるわけないだろ?」
みんな、中途半端な痛みに苦しめられている。ちゃんと痛いのに、苦しいのに、人に助けも求められない、そんな痛みに。
節々で感じていた違和感の理由が解けていく。お母さんが過干渉に明け暮れていたのは、子供の頃に親に助けてもらえなかったことが原因で心の隙間を抱えていたから。
お父さんが不機嫌な態度で私たちを支配してきたのは、親から同じ扱いを受けてきたから。
お母さんもお父さんも、悲しい意味で子供のままだったんだ。過去に取り残されたままで今に辿り着けていないのだろう。
「この程度の苦しみ、とか馬鹿言わないでよ」
「急にどうしたんだよ。そんな怖い顔して…………」
「苦しかったことはちゃんと苦しかったって言っていいんだよ……!誰に何を言われようが、俺は辛かったんだって言っていいの。苦しみに上下もその程度もないんだから、絶対に」
お父さんはハッとしたように目を見開いてから、すぐにひどく表情を歪ませた。それは、今にも泣きそうな顔だった。
「これまで、多分俺はその言葉が欲しかったんだ。他のどんな言葉よりも。自分の辛さを誰かに分かって欲しかった。誰かに認めて欲しかった」
顔を手で覆い隠したお父さんはそっと俯いた。お父さんも私と似た思いを抱えていると思うと、心の中の感情がぐちゃぐちゃになる。今、憎い相手を私は言葉で救っているのか。そう思ってしまうから。でもそれと同時に、世界で一人だけの大事な父親でもあるのだ。愛おしさと憎しみが混ざり合って、歪な形をしている。
「凪桜にはホント救われてばっかりだな。凪桜に散々嫌な記憶を植え付けてきた俺に、そんな資格はないのに」
「私がお父さんを救ったことなんてあった?全然記憶にないや」
「そりゃそうだろ、生まれた時の話なんだから」
お父さんはそれはおかしそうに笑みをこぼした。我ながら、とてつもなく変な質問をしてしまった気がする。
「凪桜が生まれた時、これまでの全部が報われた気がしたんだ。絶対にこの子には俺みたいな思いをさせない、全身全霊で愛そうって心の中で決めたくせに、なんで今まで忘れてたんだろうな。こんなに大事なことなのに」
「そんなこと、思ってたんだ。なんかね、今日話を聞いて正解だったかも」
憎い相手とはいえ、お父さんがこれまでひた隠しにしてきた心中、その中に閉じ込めていた記憶や思いを一緒に辿れてよかった。二人を少しでも救えたことは、間違いじゃなかったと思いたい。
