消えたい君の守り方。

「ねぇ、凪桜。せめて大学受験だけは頑張ってみない?」

キッチンにいたお母さんが駆け寄ってきたかと思えば、開口一番に並べたのはそんな言葉だった。私が返答のために口を開こうとしてもなお、お母さんは饒舌な口ぶりでまくし立てる。

「あのね、今度春海の方にある大学のオープンキャンパスがあるみたいなんだけど、行ってみない?そこの偏差値なら今の貴方でも猛勉強すれば十分合格圏……」
「ごめんね、行けない。今はそっとしておいてほしいの」

まだまだ心の傷が癒えていない私には、未来のことを考えるのは荷が重い。
これは面倒なことになる。そう直感した私はこの場をそそくさと後にするためにくるりと踵を返す。そしてドアの方に向かって一歩踏み出した瞬間、背後から腕をぎゅっと掴まれた。

「待って、ちょっとでいいから話を聞きに行かない?体調が悪くなったらすぐ帰ってもいいから」
「それでも無理なの。もう、私はお母さんの期待に応えられないよ」
「なんで、なんで私の気持ちを分かってくれないの…………?」
「急にどうしたの?お母さ……」
「もう嫌!あんなに頑張って積み上げてきた優等生の貴方を他でもない貴方のせいで壊された挙句にお母さん想いの優しい子ですらなくなったなんて耐えられない!」

やっぱり、お母さんは何も変わってくれていない。私の気持ちを知ろうとする気すらないのは相変わらずだ。

「なんで貴方はそんなに呑気なの!?もう受験まで一年しかないのよ!もっと焦りなさいよ」

母の言い分は覆しようのない正論だ。でも、私がここまで追い詰められたのもお母さんたちの言動や行動が主な理由なのだ。私にだけ非があるような物言いは受け入れられなかった。もう、私は怯まない。

「そんなこと言ったって、そもそも私がこうなったのだってお母さんたちが原因でしょ?自分たちのことを棚に上げて私に罪悪感を植え付けようとしないで」
「はぁ……どこで育て方を間違えたのかしらね」
「間違え始めたのはお母さんが自分の欲を出し始めてからだよ。そうやって出来損ないの烙印を押して傷つけようとしてももう無駄だから。私はそんなことで折れたりしない」
「もう貴方には何を言っても意味がないのね。私の大事な凪桜はもういないのよ、この世には」
「そうだね、お母さんが大事にしてた母親に言いなりの自分はいない。もうやめたの、お母さんに従って自分を殺すのは」

一度息を深く吸って、これから自分が口にする言葉を心の中で何度も噛みしめて口を開く。

「私は、これ以上お母さんを飾り付けるアクセサリーになるつもりないよ」

怯むことなく、お母さんの目にまっすぐ視線を送る。その視線で何かが揺らいだのか、お母さんはすぐに目を逸らしたかと思えば視線を下に落としてぽつぽつと語り始めた。

「…………本当は分かってるのよ、自分が間違ってることも。こうやって怒鳴りつける行為が貴方を傷つけてることも」

驚いて目を見開いた。お母さんの口からそんな言葉が飛び出す日が来るなんて、思いもしなかったから。

「分かってるのに、自分を止められなかった。いつもなんでこうなっちゃうのかしら。貴方のこととなったら感情の抑制が効かなくなるの」

それきり、お母さんは黙りこくってしまった。唇が微かに動いているのを見る限り、まだ話したいことがあるのは明らかだ。それに勘づいた私は、ゆっくりと次の言葉が放たれる瞬間を待つことにした。

「……ちょっとでいいの、もう一度私の話を聞いてくれる?今度は怒鳴りつけたりせずにゆっくり話すから」
「分かった。でもまたさっきみたいなことになったらすぐにこの部屋から出ていくからね」
「ええ、そうして。えっと、貴方も時々気になってたでしょうけど、私が空気を読めなかったり、思い込みで突っ走る癖があったりするのは昔からなのよ。私は一人だけズレてた。その癖のせいで“お前は普通じゃない”って烙印を押されて、小さい頃からすごく生きづらかった」

確かに、お母さんには昔から思い込みの激しい一面がある。それが原因で接しづらいと感じる瞬間も今思えば、幾度となく存在していた。

「だから貴方には普通以上の人生を歩んでほしかったの。私みたいに周りから軽蔑されるような人生をあげたくなかった。貴方のことだけは、周りに馬鹿にされたくなかったの」

お母さんが普通に固執していたのには、こんな理由があったんだ。自分が普通になれない人生を生きてきたから、せめて子供にはそんな扱いを周囲からされて生きて欲しくなかった。だから自分の中の普通から外れることをお母さんは許さなかった。

「まぁ、これも最終的には自分のプライドを守るためなのよね、きっと。あの頃ボロボロに傷つけられた人としての誇りとプライドを貴方で取り戻したかったのよ。結局全部自分のためだったの、それによって貴方をこんなにも傷つけてしまった」

予想していたことではあるけれど、本人の口からいざ聞くとやっぱり胸が苦しくなる。私は、お母さんの名誉と体裁のためだけにボロボロになるまで酷使されていたのか。そう考えると、これまで頑張ってきたことの何もかもが虚しく思えた。

「それなのに私は、高校生になった貴方を休ませてあげることすらしなかった。私はいじめにあっても学校を休ませてもらえなかったのに、何か理由があるわけでもない貴方が辛い、苦しいと言うこと自体が気に入らなかったのよ。貴方を休ませたら、必死に耐え抜いていたあの頃の自分の思いまで殺してしまう気がして……」
「お母さん、いじめって…………」
「私ね、子供の頃いじめられてたのよ。毎日陰口を言われたり、ハブられたり、そこまでひどいいじめではなかったけど、誰にも助けてもらえない絶望感はこれでもかというほど味わったつもり。それなのに、うちの両親は助けてもくれなかった」

どう声をかけていいのか分からなかった。いじめを受けていたなんて、初めて耳にした出来事だったから。ただでさえいじめ被害に悩んでいた人に対する言葉を紡ぐのなんて困難を極めるのに、それが憎き母ともなれば余計に言葉に詰まった。

「だからね、普通じゃなきゃダメなの……!普通のレールから外れたら人間は終わりなのよ!」

椅子から勢いよく立ち上がってお母さんは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。その声はひどく悲痛で、角度によっては空っぽにも聞こえた。

「お母さん、普通じゃなくてもいいんだよ。これ以上普通って存在に苦しまないで」

私も同じように立ち上がって、優しくお母さんの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。本当は憎い相手にこんなことをしたくない一人の人間としての自分と、苦しんでいる母親を抱きしめたい一人の子供としての自分が胸中で戦っている。
でも、最終的に勝ったのは一人の子供としての自分だった。私は一人の人間でもあるけれど、その前に親の愛に縋りたくなってしまう一人の弱い子供だから。

「そんなはずないでしょ。普通じゃないと、この世界で人は幸せに生きられない。普通じゃない人間に、私に、価値なんてないはずなのに…………」
「それくらい、追い詰められて生きてきたんだね。これまで気づけなくてごめん。これからは普通って存在から逃げてもいいんだよ。もう、普通に囚われる必要なんてないの」
「これからは、普通じゃない自分を許してもいいの……?」
「うん。信じられないなら私が保証してあげる。普通に合わせて自分を苦しめる必要なんてないんだよ。人には人の歩幅があるの。他人よりちょっと傷つきやすくてもいいし、不器用でもいい」

それは、私の本心からの言葉だった。ずっとお母さんに伝えたかった言葉、でも伝えられなかった言葉。それを今、私は口にしている。深呼吸をしてから、もう一度大事な言葉を紡ぐために深く息を吸った。

「これがたとえ綺麗事に聞こえたとしても、この言葉だけは信じて欲しい。普通から外れたって、逃げたって、お母さんが無価値になるわけじゃない。お母さんはただ存在してるだけでいいんだよ。貴方がいてくれてよかった」

私の言葉を聞き終えたお母さんの目からは涙が溢れていた。あれだけ頑なだったお母さんの心にきちんと私の言葉は響いたんだ、今はその事実だけで十分だった。

「そうよね、そうなのよね。普通じゃなくても、私はもう大丈夫」

自分自身に言い聞かすようにお母さんは呟く。その言葉を口にし終わったお母さんは、満面の笑みをその顔に咲かせた。久々に見たお母さんの笑顔は、どこまでも淀みがなくて太陽のように晴れ晴れとしていた。十年ぶりの本当の笑みを前に、曇天が蔓延っていた私の心には一筋の光が差し込んだ気がした。

「ありがとう、私を普通という檻から救い出してくれて。たとえ私にとっての普通から外れたとしても、貴方はずっと大切な子よ」

その言葉がずっと聞きたかった。生ぬるい感覚が頬を伝って地面に消えていく。
お母さんはきっと、もう大丈夫だ。まだまだ心の傷が癒えるには時間がかかるかもしれないけど、普通という呪いから抜け出すことができた。今はそれで十分だ。