消えたい君の守り方。

けたたましいほどの蝉時雨に鼓膜を揺さぶられ、目を覚ました。朝日と言うには少し高い位置に浮かんでいる太陽の光にさらされて、地面の上には私の影が伸びている。

「ねぇ、ゆづ…………」

隣に眠っている佑月の方へ視線を逸らしたところで、異変に気がついた。佑月が、いない?
身体にかけていた毛布やリュック、水のペットボトルなんかは昨日と変わらない位置にあるのに、佑月の姿だけが忽然と消えていた。コンビニにでも行ったのだろうか。でも、佑月が私に何も言わずに姿を消すはずがない。突然いなくなれば私が不安に苛まれるであろうことは理解しているはずだから。なら、どうして。

「……とりあえず、待つしかないか」

佑月を捜し歩く方がかえって合流できなくなる可能性が高い。きっと今は探さずにこの場所で待つ方が得策だろう。朝の空気が完全に消え失せ、昼の日差しが辺りを包み込むようになっても私は待っていた。昼と夜の境界線の温度をした風が漂い始めた夕刻も通り過ぎ、宵が空を染め上げても私は待ち続けた。
それなのに、佑月が帰ってくることはなかった。

やっぱり、何かがおかしい。私は荷物をまとめ、リュックを背負い、屋上を後にした。そこから私の長い戦いが始まりを告げた。
学校周辺、近くのコンビニ、公園、思い当たる節があることろはすべてくまなく捜し歩いた。でも、どこにも佑月の姿はなかった。
焦りと不安だけが私の脳を支配して、冷や汗の伝うような想像ばかりが脳裏を過る。思うように体が動かなくなっていく自分に焦燥感を覚えながら、ただひたすら夜通し歩き続けた。

空では鈍色の曇天が蠢いていて、今にも雨が降り出しそうだ。そう感じてからほんの10秒も経たないうちに、夏の雨が降り出した。冷たい雨と暖かい風が混ざり合って生まれた生ぬるい温度が肌にまとわりついて気持ち悪い。

靴底と素足が擦れ合ってジンジンとした痛みが走った。汗が染みついているだろうと靴下を脱いでリュックにしまったのが失敗だったかもしれない。擦り切れた靴底から直に伝わってくる石の感覚が、足の痛みを加速させていく。
靴を履いているのも煩わしくなって、靴を脱いだ。それを手に持ってもう一度走り出す。アスファルトやそこに落ちているガラスの破片を踏みしめた足裏にはわずかに血が滲んでいた。
私が辿ってきた場所に残っている血の跡が雨に流されていく。

「佑月……っ!」

叫ぶうちに声も掠れて、喉には刺々しい痛みが走っている。この地で最後に思い浮かぶ場所と言えば、バス停くらいだ。

「……やっぱり、いない」

もう、私はどこを探せばいいというのだろう。確かな絶望感が汗となり、額を伝っている。私から生まれた水滴が、生ぬるい温度を含んで地面に滴り落ちた。

「あっ、でもまだある……!」

まだ探していない場所がもう一つだけあった。それは、浜辺だ。そうとなれば、急がないと。時間を見ると今は朝の七時。十分電車が走っている時間だ。すぐに現在地付近の駅に向かい、ちょうどやってきた電車に飛び乗る。

乗り込んだ瞬間、乗客の皆が私を見た。私も周囲を見た。そして私と視線が交わった人たちは誰も彼も目を逸らした、ような気がする。というのも、乗客が皆私を見ているというのは私の見た幻想かもしれないからだ。意識さえ輪郭を帯びていない今の私には、それが現実なのか、はたまたただの自意識過剰が生み出した幻覚なのかを見分ける力はなかった。

視界に映る、窓の向こう側の景色が移り変わる間も、佑月のことが頭から剥がれてくれなかった。その後、乗り換えを何度かしてやっと浜辺がある町まで帰ってきた。
駅と浜辺までは三分もあれば辿り着ける位置関係にある。あと、もう少し。緩んだ筋肉に力を込めて、また足を動かし始める。

そうして駅を出たところで、真横の道路を走るミントグリーンの車がふと視界の端に映った。何気なく運転席に目をやると、そこにはあまりにも見慣れた人物がいた。

「お母さんっ………!?」

あの血走った眼を見る限り間違いない、私の姿がないことに不信感を覚えて車で探し回っているのだろう。なぜ実家にいるはずのお母さんがこの地にいるのかは分からないけれど、幸い、まだこちらの姿には気がついていないようだった。

周囲の街路樹や建物に身を隠しながら、ただ浜辺へ向かってひた走る。茂みを掻き分けて進み、トンネルを通り過ぎ、いつもの浜辺を見渡した。
けれど、佑月の姿はない。もう、これ以上どこを探せというんだろう。その場に立ち尽くした私はただひたすらに途方に暮れるしかなかった。

もしかするとただいつもの場所にいないだけかもしれない、そんな一縷の希望を抱きつつも状況が絶望的であることは何より私が理解していた。なんとか重い足取りで周辺を探して回る。佑月はもうこの世界にいないのかもしれない、そんな事実がもう輪郭を帯び始めていることを悟っていた。もとよりこの世界に本当に存在できていることが奇跡だと思えるくらいに、佑月は存在が不明瞭な子だった。いつ消えてもおかしくない、私はその事実から目を逸らし続けていたのかもしれない。

「消え、たいな…………」

佑月がいない世界で、どう生きていけというんだろう。もはや、私に希望は一抹もなかった。

木々が擦れ合う乾いた音が風に紛れて耳元を掠める。その瞬間、視界の外から誰かの声が聞こえてきたような気がして咄嗟に振り返った。
少し先に生い茂っている木の陰には、スマホを耳に当てているお母さんの姿があった。まだ私の姿は瞳孔で捉えていないらしく、辺りをしきりに見回している。どうか見つかりませんように、そう祈ってすぐさまその場を離れた。できるだけ音を立てないよう息を殺して佑月を探し歩きながら、少しずつお母さんと距離をとる。

次第にお母さんの姿は視界から消え、私の眼前に広がるのは無人の浜辺の景色だけになった。とりあえず、まけたのだろうか。息を整えるために、立ち止まって汗を拭う。

「ここにいたのね」

背後から投げかけられた声にビクッと肩が跳ね上がった。振り返った先にいたのは、もちろんお母さんだ。とにかく目の前にあった坂を駆け上がって、ただ遠くを目指す。

手の中にある重みが煩わしくなって、ついに両手で握っていた靴をその場に投げ捨てた。少しだけ身軽になった体で必死にお母さんから逃げ惑う。けれど、前に広がっているはずの道が突然消えた。その先には波打つ海が見える。走っているうちに、気づけば崖まで追い詰められていたみたいだ。

「凪桜、待ちなさい!!」

お母さんの言葉に素直に従うことなんてできない。ゆっくりと後退するたび、足元の小石が足と擦れてジリジリという音を立てる。細かい小石が足の裏に突き刺さる痛みも今は気にする余裕なんてなかった。

「前からおかしいと思ってたのよ。夜にしか雨は降らなかったはずなのに朝見たら靴が湿ってたり、服から潮風の匂いがしたり。私がいない間、勝手に外出てたのね」
「今回、わざと泳がせたってこと?」
「そうじゃなきゃ、貴方を一人にさせるわけないでしょ」

一人にさせない、本来温かい言葉なはずなのに私にとっては呪いの言葉だった。きっとお母さんから見て叔父さんに当たる人が亡くなったというのは本当なのだろう。でも、その帰省にわざと私を連れて行かなかった。そこにこんな理由が潜んでいたなんて、思いもしなかった。

「それにしても、どうして家出なんかしたの。貴方が家から逃げ出す理由なんて一つもないはずなのに」
「それ、本当に言ってるの……?私が今までどれだけ苦しんできたか、お母さんは何も知らないんだね」
「いい加減にしなさい。貴方程度の頑張りで辛いなんて言う資格があるとでも思ってるの?」

もう、ダメだ。どれだけ会話を試みても話が嚙み合わない。それならば、私がとるべき行動はたった一つだ。

「それ以上、近づかないで……!」

自分の首元にナイフを突きつけて喉が張り裂けそうな声で叫ぶ。頑なな態度をとりながらも指先は震えていた。ナイフの冷たい感覚が、今自分で起こしていることは現実なのだと嫌になるほど突きつけてくる。

「待って、凪桜。それだけはやめて、お願いだから」

怒りに満ちていたお母さんの表情が一転して心配の色に染まる。でも私はこれ以上惑わされない。今更親らしいセリフを吐かれたってもう、何もかも手遅れなのだ。

「私は私が生きてることを許せないの。ごめんね、お母さん。私、消えたい」

呟きのような言葉がほどけた唇からこぼれ落ちた。その一言は、ずっと言いたくて言えなかった言葉だった。佑月の言葉によって一度は消えたい気持ちが薄れたものの、佑月が姿を消してからまた私の胸にはそんな気持ちが燻るようになっていたのだ。

「何を言ってるの……!生きたくても生きられない人だって大勢いるのよ…………?貴方は恵まれてるんだから生きなきゃいけないのよ!!」
「もうその言葉も聞き飽きたよ。誰も彼もそう、死んではだめだ生きろって口をそろえて言うよね。じゃあまだ私が生きようともがいてた時に誰が助けてくれたの!?誰が一度でも手を差し伸べてくれたって言うの!?助けるわけでもないのに無責任な言葉だけ吐かないでよ……!!」

全ての気持ちを吐き出し終わって、乱れた息が口から漏れる。深呼吸をして少しずつ息を整えながらそっと口を開いた。

「私はね、お母さんが好きだよ。お母さんにどれだけ睨まれても、傷つけられても、それだけは変わらなかった」

噛みしめるように大切な言葉を口にしながらも、視界には涙が滲んでいた。これは人に流されやすい私が最初から最後まで貫いた数少ないことのうちの一つだった。いくら蔑まれてもお母さんへの情と愛だけはどうやっても拭いきれなかったのだ。

「どんなにお母さんが私を嫌いだったとしても、私はお母さんのことが好きなままだから」

必死に笑みを取り繕って震える声で告げた。その言葉を声にした直後、堪えていた涙が大粒の雫となって瞼から溢れた。つまるところ、私は最後まで変われなかったのだ。泣き虫なところも、傷つきやすいところも、そしてお母さんが好きなことも。

「だからさ、最後はお母さんの手で終わらせてよ」

お母さんの足元めがけてナイフを投げ捨てた。お母さんは一瞬私の行動の意図を飲み込めなかったのか、数秒立ち尽くした末にナイフを力任せにバッグの中に詰め込んだ。やっぱり素直に私の望みを叶えてくれるわけじゃなさそうだ。もっとも、端から叶えてくれるとは思っていなかったけど。
それならば、私がとる行動はただ一つだ。一呼吸置いて、私はそっと口を開いた。

「じゃあね、お母さん」

私は、お母さんを好きなまま人生を終わらせたかった。これまで出会ってきた数多の人の中でも、貴方だけは嫌いになりたくなかったから。これ以上、好きから気持ちが遠のいてしまう前に全て終わらせてしまおう。

次の瞬間、お母さんの目をしっかり見据えたまま、私は思いきり海に身を投げた。爪先が地面から離れて、空気を切り裂きながら下へ下へと落ちる。

手を伸ばした先にある空が少しずつ遠のいていって背後でうごめく激しい荒波の音が耳元に近づいていく。私の目には崖のそばを落ちていくさまがスローモーションのように映し出された。

途方もないほど遠くに広がる鈍色の雲に染められた空は、とても美しいとは言い難かった。人生最後に見る景色の美しさなんて所詮こんなものか。そんな呆れに似た気持ちが過ったけれど、もしかすると淀んだ空が美しさに欠けているのではなくて、それを眺める私の心が汚れているからこの目には濁って映るのかもしれない。

初めてで最後の発見と目が合ったその次の瞬間には水面が割れたような鋭い音が轟き、私の体は一瞬にして冷たい海水に包まれた。
その音とともに視界は泡沫で満ちて、それは水面から流れ込んでくるかすかな光さえも飲み込んでいった。今私が向いている方向が上なのか、下なのかさえ、思考が海水の冷たさに支配されて掴めなくなっていた。永遠とも思える終わりの見えない海中を泡沫と一緒に揺蕩っている、私の目の前にある事実はたった一つだけだ。

ただ、一歩一歩着実に死に近づいている。

その間にもどんどん海中の奥底へと体は沈んでいき、管で酸素が抜き取られていくように呼吸が苦しくなっていく。
最後の息がぶわっと広がる泡とともに海中へと溶けていった瞬間、生きる意思を思い出したかのように足が動いた。
最後の最後に、あがいてしまった。目の前に近づいた死が恐ろしくなって。
あぁ、私だってやっぱり死にたくなかったんだな。ただ純粋に笑って生きていたかったんだな。
目の端から零れた涙が海と混ざり合ってどこかへ漂っていった。

息も続かなければ、声も出せない。まるで最後は泡沫に消えていったあの人魚のようだと思った。そんな取り留めのないことが頭に浮かぶ間にも、体はどんどんと水底に沈んでいく。どのくらいまで来たのだろうか。

飛び込んだ衝撃で生まれた泡沫もとっくに消えた視界には、もう水面の向こう側で揺らめく光の一欠けらさえも見えなかった。暗い暗い海の底でこの命は消えていくのだろうか。
そう物思いに耽ったのも束の間、全身を包み込む海の冷たさに意識が少しずつ溶けて朧げになっていく。その時、誰かの声が海底から聞こえてきたような気がした。

「凪桜、ごめんね。来るのが遅くなって」

消えゆく意識の中で鼓膜に届いたのはそんな言葉だった。それは、何よりも聞きなれた声をしていた。