消えたい君の守り方。

逃避行の一日目と二日目は特にこれといって目立った出来事があるわけでもなく、あっという間に過ぎ去っていった。コンビニで買ったアイスを二人で食べたり、河川敷で寝泊まりしたりしながら、日常らしくない二日間を二人きりで生きた。
三日目である今日は、花火大会の会場に訪れている。昨日、偶然通りかかった掲示板に貼られていたこの花火大会のポスターに佑月が興味を持ったのがきっかけで、来てみることにしたのだ。

逢魔時が過ぎ去りつつあるこの瞬間、小粒の雨がオレンジ色の空から降り注ぎ始めた。肌に纏わりつくような雨の匂いは人波の汗の匂いをかき消し、私の目に映る世界は一瞬にして雨に染められた。でも、この程度の雨なら花火が始まる前には止んでくれるだろう。
うっすらと雲がかかった空から雨が不規則に落ち、アスファルトに染みを滲ませる。その雨を受け止める傘が私たちを守ってくれている。

なんとなく、海に落ちたあの夜のことを思い出した。あの時も今と同じような雨が降っていて、貴方が差してくれた傘が一晩中雨を遮ってくれていた。

周囲に目を向けると傘の姿はまばらで、傘を差している人と差していない人はちょうど半々くらいに見える。この程度の小雨なら傘を差さない判断をする人がいても何ら不思議ではない。そもそも、傘を持っていない人だって大勢いるだろう。

「ねぇ、その格好暑くないの?ジャケット、脱いでもいいんだよ?」

夕刻とはいえ、まだまだ勢いの止まらない暑さと雨の湿り気が混ざり合ってなんとも形容しがたい蒸し暑さを生んでいる。ジャケットまできっちり身に着けている佑月の格好はどうにも暑いように見えて仕方がない。

何気なく空を見上げると、曇天の隙間から垣間見える、輪郭の溶けた夕日が地平線と重なり、空が夜の藍色を纏い始めていた。地上に視線を移すと、すぐに視界に入ってくるのはお祭りの定番であり、数百メートルにわたって軒を連ねている屋台の列だ。今目に入るものだけでも綿あめ、かき氷、イカ焼き、焼きそばと様々な特色を持った屋台が所狭しと並んでいる。

「凪桜は何食べたい?ほら、早く行こう」

私の手を握って歩き出した佑月の背中を追いながら、ぐるぐると返答を思案する。それでもやっぱり自分が好きな食べ物も、今食べたいものもよく分からなかった。

「佑月が好きなものでいいよ。私にはよく分からないから」
「じゃあボクが決めちゃうね。あっ、これはどう?」

そう佑月が指さした先にあったのは、りんご飴の屋台だった。休日の夕刻ともあって、屋台の前にはさっそく人だかりができている。

「じゃあこれにしよっか」

列の最後尾と思われる家族連れの後ろに二人揃って並ぶ。綿あめなどに比べると一から作り始める必要がないからか、思いのほか列の進みは早くてあっという間に順番が回ってきた。

「えっと、りんご飴二つで」

言葉に詰まりながらも数を伝えて、横にいる佑月を何気なく一瞥する。それをどういう意味として受け取ったのか、何故か弾けるようなウィンクで返してきた。一体なんのウィンクなんだ、なんて思いながら目の前に視線を戻すと、気前のよさそうなおじさんが意気揚々と話を振ってきた。

「お嬢さんたち、姉弟?カップル?二人で花火大会とは仲が良くていいね」
「えっ、この子の姿が見えるんですか?」
「あははっ、何言ってるんだ。その子は幽霊か何かなのかい?」

快活な笑みを浮かべるおじさんが冗談めかしく返す。確かに佑月の姿が周囲からも見えているなら、今の質問はこの上なくおかしな質問だ。
でも佑月は人魚の姿をしていた時、間違いなく“自分は人間からは見えない存在なんだ”と口にしていたし、本来なら見えることはないのだろう。けれど、今は他の人も佑月を認識できている。それなら、やっぱり人間の姿になったことが鍵になってくるのかもしれない。

「はい、好きなのを持っていきな~」

差し出されたおじさんの手に代金を乗せてから、目の前に並んだりんご飴を適当に選んで一つを佑月に渡す。さっそく口をつける佑月を横目に流しながら軽く会釈をして踵を返し、また人波の中へと戻った。

「カップルなんて変だよね、周りから見たらそんな風に見えるのかな」
「まぁ、ボクはそれでもいいけどね」

りんご飴に視線を落としながら、いたずらっぽい声色で妙な返答をしてきた。横髪で顔が隠れていて表情は伺えないけど、今の佑月はきっとニヤッと口元を緩めていることだろう。冗談を仕掛けてくる時は決まっていつもそうなのだから。

「またそんなこと言って」

いい加減な言葉で軽く受け流して、右手に身に着けている腕時計に視線を移した。今は夕暮れの色が濃く残る夜の六時。あと一時間もすれば花火が上がるはずだ。それまではさっきと同じように屋台の食べ物を買い集めて時間を潰すことになるだろう。

「それじゃあ次はどこを回ろうか?今度も佑月が好きなものでいいよ」
「じゃあ、あれにしよ!」

想像していた通り、佑月は見たことのない景色に大はしゃぎだ。人の間を縫うように進みながらフライドポテトの屋台を目指す。
雑踏に揉まれる中で、辺りからは人々が誰かに紡ぐ言葉の数々がおのずと耳へ届く。どの会話を掬いとっても“これ美味しいね、次は何食べる?”とか“てか暑過ぎねぇ?”とか、そんな他愛もない話。
その一つ一つが二人で人間としての何気ない人生の一ページを生きている、そう実感できる証左になっている。

気づけば、一時間の間に腕の中は食べ物が入ったビニール袋でいっぱいになっていた。これだけあれば花火を見ながらゆっくり食べるのにちょうどいいだろう。予想していた通り雨もすっかり止み、花火を打ち上げるには申し分ないほどの晴天が広がっている。夜の晴天というのはやはり心地がいい。

「よし、もうすぐで着くよ。花火は音が大きいから心の準備、しといてね」

今回私たちが目指しているのは、人気の少なそうな河川敷だ。屋台の通りを抜けて、花火大会の会場と打って変わって静まり返っている道路を進む。交通規制も解かれているみたいだから、ここまで来れば十分座れるだろう、私はそう高をくくっていた。

「人、思ったよりずっと多いね…………座れるかな」

私の目に真っ先に入ったのは、河川敷一面に腰を下ろす人々の姿だった。そうやって人の多さに意識が逸れている間にも次々とひっきりなしに人がやってくる。

「凪桜!こっちなら空いてるみたい。ここでいい?」

佑月が指をさす通り、隅の方の一角が空いていた。すぐにそこに座って場所を確保する。
その瞬間、花火大会の佳境に向けて少しずつ騒々しさが落ち着いてきた会場に、花火の開始を告げる女性のアナウンスが響き渡った。先ほどまで多少の会話が飛び交っていた辺りは途端に静まり返り、皆が息を呑んで花火の姿を待ちわびる。

少しの間を置いて、地上からそう程遠くない場所からヒューンという花火の始まりを感じさせるか細い音が聞こえてきた。いくつもの花火の種がジリジリと火花を散らしながら空高く打ちあがっていく。
次の瞬間、黄金色の光を纏った大輪の花火が暗闇に包まれていた空に繚乱と咲き誇った。

それは目まぐるしく次々と放たれては、華やかな美しさで人々を魅了したのちにたった数秒の命を枯らしていく。
その情景は美しくも儚い、桜の花弁を彷彿とさせるものだった。それだというのに、今目の前で広がっている花火の姿を綺麗だと思うにはあまりに心が色褪せていた。誰もが目を奪われるであろうこの景色を前に、私は一縷も心を動かすことができなかったのだ。やっぱり、私はこの旅を決行しても尚、何も変われていない。

周囲の人々の心象風景とは裏腹に鬱々とした気持ちに苛まれていると、不意に佑月の顔が視界の端に映った。空に浮かぶ景色を一瞬でも多く目に焼き付けようとしているのか、普段よりほんの少し見開かれた目は花火を捉えて離さない。間髪入れずに打ちあがる花火が佑月の目に反射してその美しさをさらに華やかなものにしていく。その様はまさに百花繚乱という言葉そのものだった。
次第に瞳の色と花火の色の境界線が溶け合い、宝石のような煌めきを滲ませる一つの光と化す。その色が目に映った瞬間、おのずと私の心にはある気持ちが灯っていた。

「綺麗………」

枯れ果てていた心から芽生えたその一言が緩んだ唇からこぼれ落ちた。私はしばらくの間その言葉の意味を理解することができずに、ひたすら噛みしめていた。
それは、すっかり色褪せて枯れていた心が淡く優しい色を取り戻した瞬間だった。

「綺麗だと、思えた?」

私のささやかな呟きを逃すことなく拾い上げた佑月は、そう言葉を返しながら春風のような柔らかく暖かな笑みをたたえた。
その会話の背景では、大団円を飾る花火がどこまでも広がる快晴な夜空に瞬いていた。