消えたい君の守り方。

ついに、来てしまった。この浜辺に。
あれから寝ても覚めても佑月の声が頭に張り付いたままで、ずっと気になっていたのだ。でもどんな言葉を佑月に伝えようか、そればかりが頭の中をぐるぐる巡って肝心の答えが出ないままだった。とにかく、今は謝らなきゃいけない。
そばまで近づく前に、佑月は足音で私の存在に気がついたようで、すぐにこちらに振り返った。

「ゆづ……き。ご、ごめんね」
「謝罪ならいらないよ」

普段の佑月からは考えられないほどに淡白な返事。顔を上げた先にあったのは、今にも涙が滲んでしまいそうなほど表情を歪ませた佑月の姿だった。その表情を見て少し安堵する自分がいた。今の淡白に感じた返事は涙がこぼれないように必死に堪えていたからだったんだ。

「あの時はボクの方こそごめん。というか、ボクが悪かったんだ。真っ先に君を抱きしめるべきだったのに、あんなこと言って……きっと、まだ辛いよね。今度こそは君を守れるよう頑張るからっ……!」
「大丈夫、私は平気だよ。別に気を遣わなくてもいいからね」
「だけど、君はまだ苦しそうな目してる。本当は平気なんかじゃ……」
「もう、もう大丈夫なんだよ。これからは絶対言わないようにするから……お願い、許して」

本当は目を合わせて伝えたかったのに、話せば話すほど視界を覆いつくす涙に阻まれて佑月の姿がぼやけていく。涙を必死に手で拭っても、次々と溢れてきて佑月をまっすぐ見られないままだった。

「ごめんね、こんなつもりじゃなかったの。本当は、あの時のことちゃんと謝りたくて………!」

ごめんなさい、ごめんなさい、とただひたすらに謝罪の言葉を連ねる。今の自分には、これくらいしかできなかった。もはや佑月に合わせる顔がない。謝りに来たはずなのに勝手に泣き出して佑月を困らせて、迷惑をかけてばかりの私に、やっぱりこの世界で生きる資格なんてない。そんな絶望感に脳を支配された瞬間、佑月は私の頬にそっと触れた。

「今まで一人で辛かったよね。苦しかったよね」

ようやくピントが合った視界が映し出したのは、これ以上ないほどの優しさをその顔に浮かべた佑月の姿だった。驚きのあまり一度は止まった涙が、目から一粒溢れて頬をなぞった。

「本当は消えたくなるまでずっと無理してたんだね。全然気づけなくて、挙句の果てには突き放してごめん。これからはボクの前ではいくらでも泣いていいよ。夜が更けてもそばにいるから」
「だって、佑月は何でも持ってるくせにこうやって弱音を吐いてる私が憎いでしょ?なんでそこまでして……」
「あぁ、今も羨ましいよ。ボクが手に入れられない普通を持ってるくせに、愛されてるくせにずるいよって思う、今もそれは変わらない」

佑月は心底憎らしそうに表情を歪ませた。やっぱり佑月が抱える気持ちは変わっていないのだ。それなら、助けてもらうわけにはいかない。私がそばにいればいるだけ、佑月を苦しませることになるから。

「……でもさ、今はそんな思いがどうでもよくなるくらい、どうしようもなく君が大事なんだ。君を守りたい、君の救いたいって心の底から思ってる」

さっきとは一転して、佑月の目つきが柔らかくなる。その眼差しには、私がずっと求めていた温もりが滲んでいた。

「君の心を守るためにボクは言葉を紡ぐし、夜が明けるまで歌を歌う。頼むから、もう少しだけ頑張らせて欲しいんだ、消えたい君を守る方法が見つかるまで」
「じゃあ、私の話を聞いてくれる……?佑月にとっては胸が苦しくなる内容かもしれない、それでもいいの?」
「それでも、ボクは君の話を聞きたい。君は今、何が苦しい?外の世界じゃ“当然だろ”って片づけられちゃうようなことでもいい。人に言うまでもないと思うようなことでもいい。ボクは君の傷跡に触れたい」
「それが、分からないの。自分でも上手く言葉にできなくて………」

私が苦しい原因、それは何なのだろう。お母さんの視線が怖いこと、お父さんからの言葉が辛いこと、学校に行くのがたまらなく苦しいこと。
ダメだ、どれもこれも些細な悩みばかりで他人に打ち明けられるようなものじゃない。

「最近辛かったことを話してみてよ。どんなに些細なことでもいいよ」
「でも、私が辛いと感じることなんて生きてたら普通に経験するようなことばっかりだし………辛いって言っていいのか分からないよ」
「普通が、普通が何だよ。君は痛いんだろ?苦しいんだろ?なんで人と比べちゃうんだよ」
「だって仕方ないじゃん。ずっと比べられてきたんだから……!私の生きる世界では、この程度の痛みは言っちゃいけないの。普通はこんなことで傷つかないんだから」

佑月の言葉はもっともだけど、私はずっとお母さんや周囲の大人から比べられて生きてきた。あの子の方が成績がいいだとか、その子の方が頑張ってるだとか、それはもう聞き飽きるほどに。

「そっか、そうなんだね。そんなに比較されてきたなら、自分の気持ちが吐き出せなくなるのも当然だ」

佑月の瞳に憐憫は一切宿っておらず、その代わりに私と同じ苦しみの色が浮かんでいた。苦しみの種類こそ違えど、辛かった事実は貴方も私も同じ。佑月はきっと私の苦しみを自分の立場に置き換えて、理解しようとしてくれているのだろう。

「でもさ、君にとって“たったその程度”じゃないから苦しいんじゃないかな。君が辛いと感じてる、それが全てだと思うよ。人間じゃないボクには君の言う普通が分からない、だからこそ思うんだ。凪桜、普通じゃなくてもいいんだよ」
「それは……理解してるつもり。でも、それが怖いの。普通から外れたら、私は生きていけない。ううん、私だけじゃない、外の世界で生きている人は普通のレールからズレたら終わりなんだよ。だから普通を抱えてるだけで泣いちゃうような人間はいてもいいのかすら分かんない」

そんなことない、普通から外れたとしても別の生き方だってある。そんな単純なこと、愚鈍な私も理解している。でも、普通という呪いはそんな考え一つじゃ消えてくれないのだ。私は、普通から離れて生きることができない。

「多分、普通じゃなくていいってボクがどれだけ言ったところで君の心には響かないと思う。そうなっちゃうくらい、君は今までそう生きることを強制されてきたんだよね。それでも今から伝えることだけは信じて欲しい」

静かに首肯して、佑月が紡ぐ次の言葉を待った。この子の言う通り、きっと私は他の人からどれだけ“普通じゃなくてもいい”という言葉をかけられたところでこの思考を止めることはできない。普通という概念は、それほどまでに私の全てを支配しているからだ。

「凪桜たちはさ、一人一人別の人生を生きる別の人間なんだから痛みを感じる場所も状態も違って当然だと思う。普通を追いかけるだけで泣きたいほど苦しくなってしまう人がいてもいいんだ。それが君の辛さなんだから」

佑月がさっきから紡ぐのは、どれも私が出会ったことのない言葉だった。こんなにも温もりに満ちた言葉を、私は今まで耳にしたことがあっただろうか。

「今までは口が裂けても打ち明けられなかったかもしれないけど、これからはさ、少なくともボクの前では“痛いものは痛い”って言っていいんだよ」

“貴方は恵まれているんだから、そんなことで苦しいなんて言う資格はないのよ”
数えきれないほど耳にしたその言葉は、いつしか自分の心の傷自体を認められない呪いになっていた。佑月は今、その呪いを解こうとしてくれているんだ。

「ねぇ、佑月。私、今すごく心が痛い。辛い。苦しい。何でもいいから、早く助けて欲しい」
「約束するよ、ボクは絶対に君を助ける。自分の何をかけてでも全身全霊で君を守るから、君はただ守られていてよ」

それは、上っ面だけの重みのない言葉にはとても見えなかった。佑月は、本気で私を救うための決意をしてくれたんだろう。

「それに、明けない夜はないんだからさ。君の夜もいつか明けるよ」

私は咄嗟に耳を塞いでぎゅっと目を瞑り、視界に映っていた世界を閉ざした。それだけは、今聞きたくなかったのだ。

「今は、その言葉が苦しいの……!そういう未来が絶対に来ると確定してるわけでもないのに無責任に希望を押し付けてこないでほしい。そんなの綺麗事でしかないじゃん」

“時間が解決してくれる”
“いつか楽になる時が来るから大丈夫だよ”
“苦しかったけどあの時頑張ってよかったって笑える日がいつの日か来るよ”
周囲の大人からこれまで諭されてきた常套句たち。この言葉の全てが、私は嫌いだ。

今が苦しくてもがいてるのに、未来の話をされてもそれまで息していられる自信がない。それに、すでに確定した明瞭な未来というわけでもなく、もしかするとやってくるかもしれない不確定な未来の希望なんかに今の苦しみを委ねられないよ。“今”が苦しくてこうやって叫んでるのに、“未来”の話を聞かされても今は何も考えられない。未来の話ばかりしないで、今を見て欲しいの。

みんな“止まない雨はない”とか“明けない夜はない”と言うけれど、その保証は誰がしてくれるんだろう。
もしそれで死ぬまで雨が止まなかったらどうするの?もし、永遠に朝が来なかったら?
助けてくれるわけでもないのに、適当なこと言わないでよ。何も分からないくせに、何も知らないくせに。

どうしてもそんな気持ちが過ってしまう私はきっと性格が悪い。でも、この考えを止めることはできなかった。
思いもよらない返答だったからなのか、佑月は目を丸くしていた。その後、我に返ったようにハッとした顔で頷いた。

「……全然気づいてなかったけど、確かに苦しんでる張本人からしたらこの上なく無責任な言葉に聞こえるね。ごめん、ボクまた間違っちゃったみたいだ」
「佑月は謝らないで。こっちこそごめんね、あんなこと言って。貴方はただ私を元気づけようとしてくれただけなんだから、何も悪くないよ」
「君は優しいね。でもさっきのはボクの言葉選びがよくなかったんだ。いつか夜は明けるんだからそれまでは辛くても耐えなさいって言ってるも同然なんだから、綺麗事だけを並べてるように見えて当然だよ」

ここまで私の気持ちを理解してくれた人は初めてだから、なんと表現していいのか分からない気持ちが心の中で滲んでいる。でも、消えたい気持ちは消え失せてくれなかった。

「……やっぱり私、消えたいな」
「そっか。でも、それでも、消えるのはお願いだからやめてほしい。一緒に生きようよ、明日も明後日も、ずっとその先も」
「そういうのも、ごめん。今は私にはダメみたい。消えちゃダメだ、生きろって言葉がたまらなく苦しいの」
「……あ、そっか。消えちゃダメ、なんて言われたらさ、自分の気持ちを否定された上で最後の逃げ場まで奪われるような気持ちになっちゃうよね。君だって好きで消えたいと思ってるわけじゃないのに」

この子の言う通りだ。生きろと言われると、消えたい自分の気持ちを真っ向から切り捨てられた気分になるのだ。佑月の並べる言葉が心に一滴、二滴と波紋を描きながら落ちる。それは、心の隅々まで染みわたった。それだけ、私の心に響いている。

「ボクはさ、君が生きてる“だけ”で嬉しいと思ってた。だけどボクにとっては“たったそれだけ”でも、君にとってはそうじゃなかったんだね」
「そうなの。私にとってはただここに存在していること一つをとっても当然にできることじゃない。今にも消えたい気持ちを抱えながら、歯を食いしばって無理やり生きてる感じなんだ」

自分の心に渦巻く気持ちについて、こんなに細かく打ち明けたのは初めてのことだった。だからこそ、きちんと伝えたい。私はゆっくりと、でも着実に、言葉を紡いでいく。

「でもさ、その理由が分からないんだ。痛いと思うことを痛いって言っていいのは分かったけど、どんなに痛くても理由にならないことがあるんだよ、この世には。私の状況とか特にそう、この苦しみと同等の理由が私にはないの」

自分で発している言葉なのに、口にしていて胸が苦しくなってきた。私が抱える苦しみの一番の問題点はここだ。苦しみと理由の大きさが比例していない。こんなにも苦しいのに、理由として思い浮かぶのは些細なことばかりなのだ。だから、理由は分からないとしか表現のしようがない。

「自分のことなのに……考えれば考えるほど、自分が何で苦しいのか分からなくなって…………探しても探しても理由が見つからないの。それどころか、知ろうとすればするほど自分がいかに恵まれた環境にいるのかが浮き彫りになっていって……!」

最後の言葉はもはや声になっていなかった。ようやく乾きつつあった頬がまた涙で濡れていく。私は確実に、ずっと苦しかったのだ。

「それなのに私はどうして辛いだとか考えているんだろうって。いつのまにか、甘えてばっかりの自分を責めるようになって……」
「今までよく一人で耐えてきたね。もう、それ以上自分を責めないで。それ以上苦しまないで」

こっちにおいで、と佑月が腕を広げた。佑月の意図にすぐに気がついて、私は躊躇せずにその胸に飛び込んだ。貴方の腕の中は胸が苦しくなるほどに温かかった。

「もう頑張らなくていいんだよ。凪桜はもう十分頑張ったんだから」

ずっと欲しかった言葉をもらえた。その事実だけで、ざらついた手触りの荒れ果てた心に刻まれた傷がほんの少し癒えたような気がする。

「他の全員が“休むな、無理やりにでも生きろ”って言うなら、ボクだけは“生きるのに疲れたならちょっと立ち止まって一緒に休んでいようよ”って言いたい。誰も自分の思いをまっすぐに受け止めてくれないなんてあんまりにも孤独だよ」
「私、ずっと休みたかったの。何もかもから逃げて、ただ立ち止まってたかった。でもそれができなかったから、消えたいなと思っちゃって………」
「君が消えたくなるのは、きっとそれだけ一生懸命生きてきたからだと思う。必死に命を抱えて、終わらせないように頑張ってきたんだね」
「もしこの気持ちを他の誰かに伝えたら、私が命を大事にしてないから消えたいと思ってるっていう風に映るんだろうね。本当は全然そんなことないのに」

多分、お母さんやお父さんにこの気持ちを打ち明けても、否定されて終わりだっただろう。消えたい気持ちを佑月以外の誰かに伝えたことはないけれど、これまでの記憶を辿っていればその光景が容易に想像できた。

「君は、命を大事にしてないから消えたがってるわけじゃない。本当に命を軽んじてる人が、こんなに追い詰められるほど生真面目なはずがないから」
「佑月はそう言ってくれるんだね。でもお母さんもお父さんも、味方になってくれないんだ。もう、誰も信じられないよ」

両親はもちろん、佑月にさえまだ全幅の信頼を寄せられているわけではない。いつかの佑月が人間不信のような状況に陥っていたように、今の私は人間が信じられなくなっているのだ。

「君の苦しみをどんなに周りの人が否定したとしても、ボクだけはずっと君の味方だ」
「でも、貴方だっていつかは裏切るかもしれないでしょ?貴方なら裏切らないなんて保証、どこにもないよ」
「今は信じられなくてもいい。信じられるようになるまで何度だって言うから。ボクはいつだって君の味方だ。君の世界では消えたいと思う気持ちが罪ならボクも一緒に背負ってやる」

佑月の声はどこまでも凛としていた。貴方の言葉を、信じてみてもいいのだろうか。

「ボクらは今日から共犯者だ。だから、君はどんな苦しみでも一人で抱え込まないでボクに言って。ほら、共犯者って要は運命共同体だろ?」

共犯者、それは他の言葉では言い表せない大切な意味を含んでいるような気がした。仲間や相棒という概念よりも、秘密を二人だけで共有している分、もっと深いところで繋がっている関係性に思える。

「そうだね、そういうことにしよう。今まで私たちの関係性って曖昧だったから、今日やっと名前がついた感じがする」

これまで、私たちの関係性に名前はなかった。単なる友達というにはあまりに愛情が深いし、恋人というには恋心がお互い一縷も見つからない。家族のようで、親友のようで、そのどれにも当てはまらない存在、それが貴方だった。それが、今日から共犯者か。素敵な言葉ではないかもしれないけれど、なんだか悪い気はしなかった。