ドアノブに手をかけて、白銀の月光が差し込む玄関に足を踏み入れる。
ドアが閉じていくにつれてその光は形を狭め、やがて夜の暗闇に呑まれていった。電気のスイッチを手探りで押すと暗闇は途端に打ち破られ、空間は光一色に染まった。ローファーを脱ぎながら、廊下の壁に貼られているカレンダーの日付を何気なく目で追う。
他の日付と同じようにそこに並んでいる今日、4月21日には唯一“凪桜の誕生日”という言葉が添えられている。この言葉の通り、今日は私の17歳の誕生日なのだ。
泥を沈殿させたような濁った空気に昼夜問わず飛び交う怒号、床に落ちるため息の数々。どこをとっても幸せとは言い難い、それが私の家族だ。でも今日だけは違う。いつも固い表情を浮かべている両親が頬を緩ませ、弾んだ声で温かい言葉をかけてくれる。
それこそが今日という日を心待ちにしていた理由だ。
けれど、そんな私の淡い期待はリビングと廊下を隔てるドアを開いた瞬間、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。
「チッ…………」
その舌打ちを耳にした途端、緊張の糸が張り詰めて呼吸がわずかに浅くなるのが分かった。また始まった。この舌打ちは不機嫌になった父のお決まりの手だ。何か私や母に要求がある時は、何をするべきかくらい自分で察しろと言わんばかりに舌打ちやため息で自分の意思を主張してくる。ダイニングテーブルの椅子に腰かけている父の前に何も置かれていないところを見ると、今回の要求は“さっさと缶ビールを取ってこい”といったところだろうか。
「凪桜、早く持ってきなさい。今座ってないの貴方だけなんだから貴方がやって」
黙々と料理を口に運んでいた母が口を開き、冷蔵庫に向かうよう視線で促した。両親の圧になんて逆らえるはずもなく、大人しく冷蔵庫から缶ビールを取り出し、父の前に音を立てないようそっと置いた。大きな音を立てようものなら間髪入れずに怒声が降りかかってくるから、こういう時は油断ならない。
「どこに行くの?」
「手を洗って来ようと思って。まだしてなかったから」
まだ済ませてなかったことに叱責が飛んでくるかと思ったけれど、現実は“あっそう”と冷めた一言が返ってきただけだった。
リビングを後にし、洗面台の前に立つ。その瞬間、ようやく戻ってきた酸素が肺になだれ込んでくるような感覚に襲われた。一人の時だけはきちんと深く呼吸ができるのだ。私は自らの足でもう一度あの地獄の空間に戻らなくてはいけないのか。思わず唇の隙間からこぼれたため息は虚無と溶け合って消えていった。呼吸を整えてから意を決してリビングに入る。
リビングは無言に包まれていて、私たちの息が詰まるような空気の背後ですっかり背景と化していたテレビの音が空間に音を刻む。テレビに映っていたのは、最近話題の芸能人が何かのテーマについて談笑するといったよくあるトーク番組だった。沈黙の中で、この場の刺々しい雰囲気にそぐわない賑やかなトーク番組から聞こえてくる笑い声が響く。その時、この場の沈んだ空気を切り裂くようにお母さんが口を開いた。
「仕事を言い訳にして家事を手伝わないってホントありえない。それを平気で笑って話してるこの人、絶対普通じゃないでしょ。それに右端に座ってる人の服装もおかしすぎない?普通、黄色に緑なんて合わせないと思うんだけど」
独り言として発したものなのか、はたまた私やお父さんに何かしらの返事を求めて発したものなのかは分からないけれど、どちらにせよ耳を塞ぎたくなるような言葉であることには変わりない。自分の誕生日に母親が誰かへの嫌味を吐き捨てているところなんて、見たくなかった。
「この人もそうだけど、あんたもそうよ。普通、もっと家のことを手伝うと思うんだけど」
お母さんが嘲笑を込めたような笑みを言葉尻に浮かばせながら、鋭利な嫌味をお父さんにぶつける。
また始まった。今から確実に、口論の幕が上がる。
「普通普通ってさっきからうるせぇな。それはお前の常識観だろ」
「いや、周りに聞いてもそう言うと思うけど?現に私の周りだって………」
「それはどの地域の何人に聞いた結果?当然だけど、そこまで調査した結果の言葉だよな?」
「ホントすぐ極端な話に走るのね。そこまでできるわけないってちょっと考えたら分からない?とにかく、家のことを手伝うのは当然でしょ」
「だ、か、ら、それはお前の普通だろ。俺にとってそれは当然じゃねぇんだよ!」
堂々巡りの会話がこの空間に飽和している。普通、普通、普通。両親の会話で頻繁に持ち上がるその二文字をひたすら心の中で繰り返す。両親の口論にこの言葉が登場する時は必ずお母さんの一言が発端になっている。
普通という言葉は私が幼い頃からのお母さんの口癖だ。まるで“普通”に囚われているかのような口ぶりに、いつも私の頭には疑問符が残る。お母さんはどうしてそこまでこの言葉に固執するのだろう、と。
「耳がキンキンするからそんな怒ったように言わないで」
「別に怒ってないって。お前が自分の普通を押し付けてくるからそれに反論しただけ」
「絶対怒ってるでしょ。言いたいことがあるならはっきり言えば?」
頭に血が上っているお母さんが挑発的な言葉を放つ。獲物を狩る獣のような血走った鋭い目つきが恐ろしかった。口論の荒波に気圧されるがあまり、視界の端に涙が滲むのが分かった。いつもこうだ。人が目前で口論をしていたり、怒鳴られていたりするのを見ると、たとえ自分に危害が加えられていなくても勝手に涙が滲み出てしまう。
「だから別に何も思ってないって言ってんだろ!!」
「そうやって大声出さないで!ハイハイ、もう私が悪いってことでいいです。これで気は済んだ?」
「凪桜は母さんと父さん、どっちが悪いと思う?母さんの方だよな?」
「そ、それは………」
喉をきゅっと締め付けるような感覚が張り付いていて、その一言しか絞り出すことはできなかった。張り詰めるような空気に心が蝕まれて、今にも音を立てて崩れてしまいそうだ。早く何か言わなきゃ。言わなきゃいけないのに。そんな自分への焦燥感に駆られていても、声が形にならない。その間にもお父さんの怒りは滾るばかりだ。そもそも、こんな残酷な質問を子供にぶつけるなんてずるいよ。
「はぁ………もういいよ。お前はホントに都合がいいよな。毎回自分が悪者にならないための行動しかしない」
私の沈黙を、お父さんは自分が悪者にならないための都合のいい行動として捉えたようだった。そんなことないと喉が張り裂けんばかりの声で叫びたいのに、唇がわなわなと震えて上手く言葉を描けない。
その時、気がついた。お父さんは初めから私が答えを出せないのを分かっていたのだ。それを責め立てて自分の苛立ちを発散させるためにさっきの質問を投げかけた、それが真実なのだ。今の私は、なんて惨めなんだろう。
喉が痛い。苦しい。辛い。分からない。どうすればいい?
言葉にできない感情や疑問符の数々が煮え滾って、形すら持たないまま心の外に溢れ出ていく。それは、涙の色をしていた。
「なんで泣くんだよ。俺がいつお前を責めた?そうやって人を悪者にすんのやめろよ」
早く止めなきゃいけないのに。そう思えば思うほど、宙を伝う涙は大粒になっていった。そうやって口をつぐんでいる間にお父さんの視線は私から逸れ、両親の口論は再開されてしまったみたいだ。
御馳走が並ぶリビングに轟く怒声の数々に、口論の合間に飛び交う舌打ち。それが耳の奥で繰り返しこだましている。もうこの音に、景色に、耐えられない。
私はこれまでだってこんな風に口論に巻き込まれてお父さんから荒い言葉を浴びせられようとも、黙ってずっと我慢してきた。世間体を気にするお母さんのために周囲へ相談もできずに私はずっと一人で抱え込んできた。なら、もういいじゃないか。
自分勝手なため息も、二人が吐き捨てる耳をつんざくような怒号も、もう大嫌いだ。
勢い任せに玄関のドアを押しのけ、雨が降りしきる外に向かって駆け出す。
ただひたすら遠くを目指して懸命に走り続けていると、辺りの景色は目まぐるしく変わっていく。しばらくして息切れに気を取られ始めたところでだんだんと横腹のあたりの痛みが増していって、足元がおぼつかなくなる。だんだんと意識が輪郭を失っていき、自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われる。
一体どこまで走ってきたのだろうか。もう現在地すら認識できなくなった頃、涙で滲んでいた視界のピントが何の前触れもなく合ったのを境に、ようやく我に返った。
ここは電車の中、か。
一目見れば当然認識できることなのに、今はじっくりと目の前の景色を何度も咀嚼しないと理解に及ばない。いつの間にか電車の椅子にもたれかかって、周囲の景色にぼんやりと意識を預けていたみたいだ。
無意識に“普段と変わらない日常”を求めていたのか、いつも通学で利用している車両のお決まりの席に腰かけていた。私が涙を浮かべていること以外、何も変わらないいつもの景色だ。そう、何も変わらないはずなのに。
非日常な体験が重なるたび今目の前で起きていることへの現実味が薄れていく。今この電車はどこを走っていて、どこに向かっているのだろう。いつも通学で利用している路線なのだから記憶を辿れば見当がつくはずなのに、今の自分にはその記憶を手繰り寄せる気力もない。
せっかく涙が乾いてきたのに、また視界に映る景色の輪郭が滲んでいく。泣き疲れによる疲労感なのか、はたまた単なる睡魔なのか、電車内に漂う温かい空気に全身を包まれてうつらうつらとしてきた。少しの間それに抗った末に、電車の揺れに体を預けてただ目を瞑った。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。駅に到着したことを知らせるアナウンスに肩を揺さぶられるようにうっすらと瞼を上げた。周囲にはまばらに人がいる程度で車両は静寂で満ちている。
ここは一体どこなのだろう。
壁の上部にある画面に表示された駅名を見ると、隣町の駅名が映っていた。ずいぶん長い間走っていたように感じたけれど、実際に通り過ぎていったのはたった数分だけみたいだ。
とりあえず、ここで降りてみよう。隣町なら終電を逃したとしても徒歩でも帰りつけるから戻れなくなる心配もない。何よりも今は、外の冷たい空気に触れてこの気持ちを落ち着かせたかった。
外に出ると、今にも雷の音が聞こえてきそうなほど強かった雨脚は大方収まっていて、ささやかな量の小糠雨へと変わっていた。視界いっぱいに広がるのはこぢんまりとした昔ながらの駅の景色だ。電車内にはかろうじて人の姿があったけど、この駅に至っては人の影すら見つからない。
視線を左右に彷徨わせながらその場を見回していると、ふいに遠くから誰かの歌声が耳に触れたような気がした。
それはあまりに聞きなれた響きをしていて、昔は確かにこの胸に灯っていた幼心を想起させるものだった。思わず足を止めて耳を澄ます。
この歌は、幼い頃の私が不安に苛まれている夜にお母さんがよく口ずさんでくれた歌なのだ。人魚の物語を読み聞かせてもらってから、この歌を聴いて眠る。それが私にとって一番温かくて柔らかい感触をしたあの頃の思い出だ。
この歌声は、まさに人魚のような美しい余韻を残している。心地のいい柔らかな深い響きを含みつつも、澄みきっている少年のような歌声が、傷だらけの荒んだ心に優しく染みわたる。歌詞だって輪郭がおぼろげで上手く聞き取れないけれど、それでもこの歌声は冬を溶かす桜の雨のように穏やかな光をこぼしながら胸に明かりを灯してくれた。
これは、誰が歌っているんだろう。
歌声への興味は歌声を響かせている人そのものに対する興味へと形を変えていった。少し近づくくらいなら、大丈夫だろうか。見知らぬ人に近づくのは危険だと頭では理解しつつも、足は止まってくれない。これまでずっと探していた誰かがそこにいるような、そんな気がしたのだ。
草木が頬に触れるのも気にせず、鬱蒼とした茂みの中に足を踏み入れて歌声を辿っていく。
しばらく進んだ先には、雨が降り注いだ後とは思えないほど穏やかな表情をした海が広がっていた。夜の暗がりの中だから、海には暗闇が浮かんでいるばかりでそれ以上のものは何も見えなかった。
それもそうか、と後ろへ向き直ろうとしたその瞬間、グラリと体が傾くとともに地面から足先が離れて背中が水面に触れた。
足を、踏み外した。その事実を呑み込む間もなく、激しい音とともに水面へ叩きつけられる。視界に広がっていた、空のどんよりとした灰色が海の青色へと一瞬にして塗り替えられた。海に飛び込んだ衝撃で生まれた泡沫に体全体が包み込まれ、視界に映る青までもが泡に飲み込まれていった。
微かに残っていた現実味が指先から剝がされ、まるで夢の中に飛び込んだような錯覚に陥る。そんな状況で出てきた感想と言えば、“こんなシーン、人魚の物語にも出てきたな”という能天気なものくらいだった。そうしている間にも体は海底へと沈んでいき、だんだんと自分の手ではどうにもならない絶望感が浮かび始めていた。
ダメだ。足掻いても、足掻いても、埒が明かない。ぼんやりと滲む意識が波にのまれて海の奥底へと沈んでいく。その時、海底から何かの影が近づいてくるのが視界の端に映った。逃げなくちゃ。逃げなくちゃいけないのに、体はピクリとも動かない。もはや逃げる気力も尽きて、ただその影の行方を見つめることしかできなかった。
「あさ……ひ。どうして、ここに………」
誰かの囁くような声が耳元で霞んでいく。それは、さっき心を溶かしてくれた歌声と同じ声をしていた。その事実に気がついた瞬間、私の意識は暗闇に攫われてついに途絶えた。
次に目を開けた先に広がっていたのは無機質な白い天井だった。少しくすんだその色味からは年季の深さが伺える。学校の天井もこんな感じだったよなと取るに足らない感想をこぼしたところでゆっくりと体を起き上がらせる。
額に手を当てながら辺りをぐるりと見回した。ベッドから手を伸ばせば届くほどの位置にある窓際には木漏れ日が落ちていて、そのそばに置いてある花瓶に差された花が窓から吹き込む隙間風に撫でられてゆらりと揺れる。この花は、サルビアだろうか。でもその姿は綺麗に咲き誇っている状態ではなく、流れゆく時に花弁を蝕まれてしまったかのように枯れていた。病院で飾られているものとしては少し不気味だ。
ベッドの周りはピンク色のカーテンに包まれていて、その先の様子をこの目で確かめることはできない。
その時カーテンの向こう側から足音がしたかと思えば、眼前に広がるカーテンが開き、白を基調としたナース服を身に纏った看護師さんが入ってきた。
「あら、起きていたんですね。体調はどうですか?」
「まだ少し体は怠いけどもう大丈夫そうです」
咄嗟に口角をいつもの位置まで上げて笑顔を取り繕った。本当は大丈夫ではなくても、つい癖で嘘をついて作り笑いを浮かべてしまう。でも、これは私が私を守るための仮面なのだ。その瞬間、病室のドアがけたたましい音を立てながら勢いよく開いた。
「あんた、何考えてんの!?」
病室に飛び込んでくるなり、藪から棒に叫んだのはその声色に怒りを滲ませたお母さんだった。心臓の鼓動が早鐘を打ち、笑みが顔から抜け落ちるのが分かった。でも、ここまで大事に発展したんだからお母さんもやっと私の苦しみを理解してくれるかもしれない。完全に理解できなくても、理解しようとしてくれるだけで十分だ。だからお願い、その通りでありますように。
「夜に外に出るなんて勝手なことして…………警察に補導でもされたらどうなってたか分かってるの?それで責められるのはお母さんたちなんだよ?」
私の心に灯った一抹の期待はあっという間に光を失った。これならまだ、私の安否を心配して叱責してくる方がよっぽどマシだ。私が無事だったことよりも、お母さんにとっては世間体の方が重要だなんて思いもしなかった。いや、本当は心のどこかでは分かっていた。分かっていたのに、見て見ぬふりしていただけ。私は反論する気力もなければ、謝罪の言葉を並べる気にも到底なれずに無言を貫いた。
「ホント、今回は探すのにてこずったじゃない。まさか隣町まで行ってるとは思わなかった。あんた、いい加減にしなさいよ」
口角の下がった唇から発せられる言葉はどれも刺々しいけれど、その奥底に本気で我が子を想う気持ちがあるのは表情を見れば明らかだった。
赤みを帯びた下瞼にうっすらと潤んでいる瞳。まるで、泣き腫らした後のような目元をしていた。普段私を邪険に扱うお母さんが、あんなことで泣くはずなんてないのに。
「あんたを探す間、昔のことを思い出したの。本当に目を離すとすぐどこかに行っちゃうような子だったなと思って」
そうだった。お母さんの言う通り、幼い頃の私には親が目を離した隙にすぐにどこかへ行ってしまう悪い癖があった。そしてどういうわけか、どこかに行ってしまう時には決まって、誰かを早く探しに行かなくてはいけないという衝動に駆られていた。
そんな癖が身に染み込んでいたものだから、過去に一度、今回の家出と同じようにその行動によって大事に発展してしまったことがあるのだ。
その日は眩いほどの晴天の日だった。家族三人で手を繋いでひまわり畑に訪れる、そんなありきたりな日常の一ページが、その日もただ当然のように刻まれるだけのはずだった。
初めは何気ない日常を切り取ったようないつも通りの、だけどいつもとは別の輝きがある非日常な時間が何事もなく流れていた。
車から降りるため体を乗り出した瞬間、日の光に当てられて目を見張るような輝きを放つ黄色が視界いっぱいに満ちて、私の背をゆうに凌ぐ背丈のひまわりに圧倒されながらひまわり畑の真ん中を家族で隣り合って歩いた。
温かいそよ風が花弁を撫でてひまわりが揺れるたび、その隙間から足元に光を零す瞬間がやけに瞼の裏に焼きついている。
そうして30分ほどが経った頃、ひまわりの写真を撮るため両親が私から目を離したほんの一瞬の間に、また誰かを探しに行かなければという衝動が前触れもなく脳裏を掠めたのだ。その誰かの正体はいまだに分からない。本当に見つけ出せたことはおろか、その誰かの顔や名前でさえ思い出せたこともないのだ。
だけど気づけばその衝動に駆られるままその場から駆け出していた。私の背丈では終わりが到底予測できないひまわりの間を縫って先へ先へと進む。とっくに息も荒れているというのに、その誰かが見つかるまでどこまでも走り続けられるような気がした。右に方向転換してみたり、後ろに戻ってみたりと繰り返すうちに自分が今どこにいるのかも分からなくなっていた。ようやくハッと我に返った時には、もう両親が今どこの方向にいるのかさえも掴みきれなくなっていて、ただその場に座り込むことしかできなかった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。時間の感覚さえ失っていたその時、背後から悲鳴ともとれるほど悲痛な響きを含んだお母さんの声がした。
「なんで……どうしてお母さんたちのそばを離れたりなんか……」
息を切らして言葉にならない声を漏らしながら骨が軋むほどぎゅっと抱きしめられた時、やっと自分が犯したことの重大さを自覚した。
「お願いだから、もうどこにも行かないで。私の見えないところに、知らないところに一人きりで行かないって約束して」
いつも朗らかに優しい笑みを浮かべている穏やかな母がそう半狂乱になりながら泣き叫んでいる姿を間近で見た手前、その約束に頷く選択肢しか私には残されていなかった。
その後に地獄とも言える日々が始まることを知る由もなく。
まず変わったのは、お母さんの目つきだった。いつも星を纏ったように煌めいて生き生きとしていた母の瞳は暗く虚ろになり、常に苛立ちを滲ませる目つきをするようになった。
それからというもの、太陽のように明るかった性格が棘に満ちた性格へと変貌し、父に対して攻撃的になってもはや手がつけられないほどだった。
私には心の全てが壊れる寸前まで優しかったけれど、突然何かが崩れ落ちたかのようにある日から邪険に扱い始めた。多分、最後の堤防が崩壊するような感覚だったのだと思う。そして普通を妄信し、私を自分の考える普通で縛り付けるようになってきたのもこの頃だった。成績は常に上位を保ち、清廉潔白を貫き、お母さんのお眼鏡にかなう子でいる。
それに反することは許されないし、逃げようとすることも暗黙の了解として禁じられるようになった。
まるでひまわりの花が意味する“貴方だけを見つめる”という花言葉のように、その日からお母さんの目には私の姿しか映らなくなっていた。
思い返してみれば、家族の優しい日々が崩壊する第一歩こそがあの日の出来事だった。今の息苦しい関係性に繋がる原点こそがあの日からの変化だった。
そう考えると、不幸ではあったものの温もりに溢れていたあの頃の家族を壊したのは他でもない私自身だ。今の変わり果てた関係性を嘆く権利は私にはないのかもしれない。
でも、この関係性がどうしようもなく息苦しくてたまらない。
ドアが閉じていくにつれてその光は形を狭め、やがて夜の暗闇に呑まれていった。電気のスイッチを手探りで押すと暗闇は途端に打ち破られ、空間は光一色に染まった。ローファーを脱ぎながら、廊下の壁に貼られているカレンダーの日付を何気なく目で追う。
他の日付と同じようにそこに並んでいる今日、4月21日には唯一“凪桜の誕生日”という言葉が添えられている。この言葉の通り、今日は私の17歳の誕生日なのだ。
泥を沈殿させたような濁った空気に昼夜問わず飛び交う怒号、床に落ちるため息の数々。どこをとっても幸せとは言い難い、それが私の家族だ。でも今日だけは違う。いつも固い表情を浮かべている両親が頬を緩ませ、弾んだ声で温かい言葉をかけてくれる。
それこそが今日という日を心待ちにしていた理由だ。
けれど、そんな私の淡い期待はリビングと廊下を隔てるドアを開いた瞬間、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。
「チッ…………」
その舌打ちを耳にした途端、緊張の糸が張り詰めて呼吸がわずかに浅くなるのが分かった。また始まった。この舌打ちは不機嫌になった父のお決まりの手だ。何か私や母に要求がある時は、何をするべきかくらい自分で察しろと言わんばかりに舌打ちやため息で自分の意思を主張してくる。ダイニングテーブルの椅子に腰かけている父の前に何も置かれていないところを見ると、今回の要求は“さっさと缶ビールを取ってこい”といったところだろうか。
「凪桜、早く持ってきなさい。今座ってないの貴方だけなんだから貴方がやって」
黙々と料理を口に運んでいた母が口を開き、冷蔵庫に向かうよう視線で促した。両親の圧になんて逆らえるはずもなく、大人しく冷蔵庫から缶ビールを取り出し、父の前に音を立てないようそっと置いた。大きな音を立てようものなら間髪入れずに怒声が降りかかってくるから、こういう時は油断ならない。
「どこに行くの?」
「手を洗って来ようと思って。まだしてなかったから」
まだ済ませてなかったことに叱責が飛んでくるかと思ったけれど、現実は“あっそう”と冷めた一言が返ってきただけだった。
リビングを後にし、洗面台の前に立つ。その瞬間、ようやく戻ってきた酸素が肺になだれ込んでくるような感覚に襲われた。一人の時だけはきちんと深く呼吸ができるのだ。私は自らの足でもう一度あの地獄の空間に戻らなくてはいけないのか。思わず唇の隙間からこぼれたため息は虚無と溶け合って消えていった。呼吸を整えてから意を決してリビングに入る。
リビングは無言に包まれていて、私たちの息が詰まるような空気の背後ですっかり背景と化していたテレビの音が空間に音を刻む。テレビに映っていたのは、最近話題の芸能人が何かのテーマについて談笑するといったよくあるトーク番組だった。沈黙の中で、この場の刺々しい雰囲気にそぐわない賑やかなトーク番組から聞こえてくる笑い声が響く。その時、この場の沈んだ空気を切り裂くようにお母さんが口を開いた。
「仕事を言い訳にして家事を手伝わないってホントありえない。それを平気で笑って話してるこの人、絶対普通じゃないでしょ。それに右端に座ってる人の服装もおかしすぎない?普通、黄色に緑なんて合わせないと思うんだけど」
独り言として発したものなのか、はたまた私やお父さんに何かしらの返事を求めて発したものなのかは分からないけれど、どちらにせよ耳を塞ぎたくなるような言葉であることには変わりない。自分の誕生日に母親が誰かへの嫌味を吐き捨てているところなんて、見たくなかった。
「この人もそうだけど、あんたもそうよ。普通、もっと家のことを手伝うと思うんだけど」
お母さんが嘲笑を込めたような笑みを言葉尻に浮かばせながら、鋭利な嫌味をお父さんにぶつける。
また始まった。今から確実に、口論の幕が上がる。
「普通普通ってさっきからうるせぇな。それはお前の常識観だろ」
「いや、周りに聞いてもそう言うと思うけど?現に私の周りだって………」
「それはどの地域の何人に聞いた結果?当然だけど、そこまで調査した結果の言葉だよな?」
「ホントすぐ極端な話に走るのね。そこまでできるわけないってちょっと考えたら分からない?とにかく、家のことを手伝うのは当然でしょ」
「だ、か、ら、それはお前の普通だろ。俺にとってそれは当然じゃねぇんだよ!」
堂々巡りの会話がこの空間に飽和している。普通、普通、普通。両親の会話で頻繁に持ち上がるその二文字をひたすら心の中で繰り返す。両親の口論にこの言葉が登場する時は必ずお母さんの一言が発端になっている。
普通という言葉は私が幼い頃からのお母さんの口癖だ。まるで“普通”に囚われているかのような口ぶりに、いつも私の頭には疑問符が残る。お母さんはどうしてそこまでこの言葉に固執するのだろう、と。
「耳がキンキンするからそんな怒ったように言わないで」
「別に怒ってないって。お前が自分の普通を押し付けてくるからそれに反論しただけ」
「絶対怒ってるでしょ。言いたいことがあるならはっきり言えば?」
頭に血が上っているお母さんが挑発的な言葉を放つ。獲物を狩る獣のような血走った鋭い目つきが恐ろしかった。口論の荒波に気圧されるがあまり、視界の端に涙が滲むのが分かった。いつもこうだ。人が目前で口論をしていたり、怒鳴られていたりするのを見ると、たとえ自分に危害が加えられていなくても勝手に涙が滲み出てしまう。
「だから別に何も思ってないって言ってんだろ!!」
「そうやって大声出さないで!ハイハイ、もう私が悪いってことでいいです。これで気は済んだ?」
「凪桜は母さんと父さん、どっちが悪いと思う?母さんの方だよな?」
「そ、それは………」
喉をきゅっと締め付けるような感覚が張り付いていて、その一言しか絞り出すことはできなかった。張り詰めるような空気に心が蝕まれて、今にも音を立てて崩れてしまいそうだ。早く何か言わなきゃ。言わなきゃいけないのに。そんな自分への焦燥感に駆られていても、声が形にならない。その間にもお父さんの怒りは滾るばかりだ。そもそも、こんな残酷な質問を子供にぶつけるなんてずるいよ。
「はぁ………もういいよ。お前はホントに都合がいいよな。毎回自分が悪者にならないための行動しかしない」
私の沈黙を、お父さんは自分が悪者にならないための都合のいい行動として捉えたようだった。そんなことないと喉が張り裂けんばかりの声で叫びたいのに、唇がわなわなと震えて上手く言葉を描けない。
その時、気がついた。お父さんは初めから私が答えを出せないのを分かっていたのだ。それを責め立てて自分の苛立ちを発散させるためにさっきの質問を投げかけた、それが真実なのだ。今の私は、なんて惨めなんだろう。
喉が痛い。苦しい。辛い。分からない。どうすればいい?
言葉にできない感情や疑問符の数々が煮え滾って、形すら持たないまま心の外に溢れ出ていく。それは、涙の色をしていた。
「なんで泣くんだよ。俺がいつお前を責めた?そうやって人を悪者にすんのやめろよ」
早く止めなきゃいけないのに。そう思えば思うほど、宙を伝う涙は大粒になっていった。そうやって口をつぐんでいる間にお父さんの視線は私から逸れ、両親の口論は再開されてしまったみたいだ。
御馳走が並ぶリビングに轟く怒声の数々に、口論の合間に飛び交う舌打ち。それが耳の奥で繰り返しこだましている。もうこの音に、景色に、耐えられない。
私はこれまでだってこんな風に口論に巻き込まれてお父さんから荒い言葉を浴びせられようとも、黙ってずっと我慢してきた。世間体を気にするお母さんのために周囲へ相談もできずに私はずっと一人で抱え込んできた。なら、もういいじゃないか。
自分勝手なため息も、二人が吐き捨てる耳をつんざくような怒号も、もう大嫌いだ。
勢い任せに玄関のドアを押しのけ、雨が降りしきる外に向かって駆け出す。
ただひたすら遠くを目指して懸命に走り続けていると、辺りの景色は目まぐるしく変わっていく。しばらくして息切れに気を取られ始めたところでだんだんと横腹のあたりの痛みが増していって、足元がおぼつかなくなる。だんだんと意識が輪郭を失っていき、自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われる。
一体どこまで走ってきたのだろうか。もう現在地すら認識できなくなった頃、涙で滲んでいた視界のピントが何の前触れもなく合ったのを境に、ようやく我に返った。
ここは電車の中、か。
一目見れば当然認識できることなのに、今はじっくりと目の前の景色を何度も咀嚼しないと理解に及ばない。いつの間にか電車の椅子にもたれかかって、周囲の景色にぼんやりと意識を預けていたみたいだ。
無意識に“普段と変わらない日常”を求めていたのか、いつも通学で利用している車両のお決まりの席に腰かけていた。私が涙を浮かべていること以外、何も変わらないいつもの景色だ。そう、何も変わらないはずなのに。
非日常な体験が重なるたび今目の前で起きていることへの現実味が薄れていく。今この電車はどこを走っていて、どこに向かっているのだろう。いつも通学で利用している路線なのだから記憶を辿れば見当がつくはずなのに、今の自分にはその記憶を手繰り寄せる気力もない。
せっかく涙が乾いてきたのに、また視界に映る景色の輪郭が滲んでいく。泣き疲れによる疲労感なのか、はたまた単なる睡魔なのか、電車内に漂う温かい空気に全身を包まれてうつらうつらとしてきた。少しの間それに抗った末に、電車の揺れに体を預けてただ目を瞑った。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。駅に到着したことを知らせるアナウンスに肩を揺さぶられるようにうっすらと瞼を上げた。周囲にはまばらに人がいる程度で車両は静寂で満ちている。
ここは一体どこなのだろう。
壁の上部にある画面に表示された駅名を見ると、隣町の駅名が映っていた。ずいぶん長い間走っていたように感じたけれど、実際に通り過ぎていったのはたった数分だけみたいだ。
とりあえず、ここで降りてみよう。隣町なら終電を逃したとしても徒歩でも帰りつけるから戻れなくなる心配もない。何よりも今は、外の冷たい空気に触れてこの気持ちを落ち着かせたかった。
外に出ると、今にも雷の音が聞こえてきそうなほど強かった雨脚は大方収まっていて、ささやかな量の小糠雨へと変わっていた。視界いっぱいに広がるのはこぢんまりとした昔ながらの駅の景色だ。電車内にはかろうじて人の姿があったけど、この駅に至っては人の影すら見つからない。
視線を左右に彷徨わせながらその場を見回していると、ふいに遠くから誰かの歌声が耳に触れたような気がした。
それはあまりに聞きなれた響きをしていて、昔は確かにこの胸に灯っていた幼心を想起させるものだった。思わず足を止めて耳を澄ます。
この歌は、幼い頃の私が不安に苛まれている夜にお母さんがよく口ずさんでくれた歌なのだ。人魚の物語を読み聞かせてもらってから、この歌を聴いて眠る。それが私にとって一番温かくて柔らかい感触をしたあの頃の思い出だ。
この歌声は、まさに人魚のような美しい余韻を残している。心地のいい柔らかな深い響きを含みつつも、澄みきっている少年のような歌声が、傷だらけの荒んだ心に優しく染みわたる。歌詞だって輪郭がおぼろげで上手く聞き取れないけれど、それでもこの歌声は冬を溶かす桜の雨のように穏やかな光をこぼしながら胸に明かりを灯してくれた。
これは、誰が歌っているんだろう。
歌声への興味は歌声を響かせている人そのものに対する興味へと形を変えていった。少し近づくくらいなら、大丈夫だろうか。見知らぬ人に近づくのは危険だと頭では理解しつつも、足は止まってくれない。これまでずっと探していた誰かがそこにいるような、そんな気がしたのだ。
草木が頬に触れるのも気にせず、鬱蒼とした茂みの中に足を踏み入れて歌声を辿っていく。
しばらく進んだ先には、雨が降り注いだ後とは思えないほど穏やかな表情をした海が広がっていた。夜の暗がりの中だから、海には暗闇が浮かんでいるばかりでそれ以上のものは何も見えなかった。
それもそうか、と後ろへ向き直ろうとしたその瞬間、グラリと体が傾くとともに地面から足先が離れて背中が水面に触れた。
足を、踏み外した。その事実を呑み込む間もなく、激しい音とともに水面へ叩きつけられる。視界に広がっていた、空のどんよりとした灰色が海の青色へと一瞬にして塗り替えられた。海に飛び込んだ衝撃で生まれた泡沫に体全体が包み込まれ、視界に映る青までもが泡に飲み込まれていった。
微かに残っていた現実味が指先から剝がされ、まるで夢の中に飛び込んだような錯覚に陥る。そんな状況で出てきた感想と言えば、“こんなシーン、人魚の物語にも出てきたな”という能天気なものくらいだった。そうしている間にも体は海底へと沈んでいき、だんだんと自分の手ではどうにもならない絶望感が浮かび始めていた。
ダメだ。足掻いても、足掻いても、埒が明かない。ぼんやりと滲む意識が波にのまれて海の奥底へと沈んでいく。その時、海底から何かの影が近づいてくるのが視界の端に映った。逃げなくちゃ。逃げなくちゃいけないのに、体はピクリとも動かない。もはや逃げる気力も尽きて、ただその影の行方を見つめることしかできなかった。
「あさ……ひ。どうして、ここに………」
誰かの囁くような声が耳元で霞んでいく。それは、さっき心を溶かしてくれた歌声と同じ声をしていた。その事実に気がついた瞬間、私の意識は暗闇に攫われてついに途絶えた。
次に目を開けた先に広がっていたのは無機質な白い天井だった。少しくすんだその色味からは年季の深さが伺える。学校の天井もこんな感じだったよなと取るに足らない感想をこぼしたところでゆっくりと体を起き上がらせる。
額に手を当てながら辺りをぐるりと見回した。ベッドから手を伸ばせば届くほどの位置にある窓際には木漏れ日が落ちていて、そのそばに置いてある花瓶に差された花が窓から吹き込む隙間風に撫でられてゆらりと揺れる。この花は、サルビアだろうか。でもその姿は綺麗に咲き誇っている状態ではなく、流れゆく時に花弁を蝕まれてしまったかのように枯れていた。病院で飾られているものとしては少し不気味だ。
ベッドの周りはピンク色のカーテンに包まれていて、その先の様子をこの目で確かめることはできない。
その時カーテンの向こう側から足音がしたかと思えば、眼前に広がるカーテンが開き、白を基調としたナース服を身に纏った看護師さんが入ってきた。
「あら、起きていたんですね。体調はどうですか?」
「まだ少し体は怠いけどもう大丈夫そうです」
咄嗟に口角をいつもの位置まで上げて笑顔を取り繕った。本当は大丈夫ではなくても、つい癖で嘘をついて作り笑いを浮かべてしまう。でも、これは私が私を守るための仮面なのだ。その瞬間、病室のドアがけたたましい音を立てながら勢いよく開いた。
「あんた、何考えてんの!?」
病室に飛び込んでくるなり、藪から棒に叫んだのはその声色に怒りを滲ませたお母さんだった。心臓の鼓動が早鐘を打ち、笑みが顔から抜け落ちるのが分かった。でも、ここまで大事に発展したんだからお母さんもやっと私の苦しみを理解してくれるかもしれない。完全に理解できなくても、理解しようとしてくれるだけで十分だ。だからお願い、その通りでありますように。
「夜に外に出るなんて勝手なことして…………警察に補導でもされたらどうなってたか分かってるの?それで責められるのはお母さんたちなんだよ?」
私の心に灯った一抹の期待はあっという間に光を失った。これならまだ、私の安否を心配して叱責してくる方がよっぽどマシだ。私が無事だったことよりも、お母さんにとっては世間体の方が重要だなんて思いもしなかった。いや、本当は心のどこかでは分かっていた。分かっていたのに、見て見ぬふりしていただけ。私は反論する気力もなければ、謝罪の言葉を並べる気にも到底なれずに無言を貫いた。
「ホント、今回は探すのにてこずったじゃない。まさか隣町まで行ってるとは思わなかった。あんた、いい加減にしなさいよ」
口角の下がった唇から発せられる言葉はどれも刺々しいけれど、その奥底に本気で我が子を想う気持ちがあるのは表情を見れば明らかだった。
赤みを帯びた下瞼にうっすらと潤んでいる瞳。まるで、泣き腫らした後のような目元をしていた。普段私を邪険に扱うお母さんが、あんなことで泣くはずなんてないのに。
「あんたを探す間、昔のことを思い出したの。本当に目を離すとすぐどこかに行っちゃうような子だったなと思って」
そうだった。お母さんの言う通り、幼い頃の私には親が目を離した隙にすぐにどこかへ行ってしまう悪い癖があった。そしてどういうわけか、どこかに行ってしまう時には決まって、誰かを早く探しに行かなくてはいけないという衝動に駆られていた。
そんな癖が身に染み込んでいたものだから、過去に一度、今回の家出と同じようにその行動によって大事に発展してしまったことがあるのだ。
その日は眩いほどの晴天の日だった。家族三人で手を繋いでひまわり畑に訪れる、そんなありきたりな日常の一ページが、その日もただ当然のように刻まれるだけのはずだった。
初めは何気ない日常を切り取ったようないつも通りの、だけどいつもとは別の輝きがある非日常な時間が何事もなく流れていた。
車から降りるため体を乗り出した瞬間、日の光に当てられて目を見張るような輝きを放つ黄色が視界いっぱいに満ちて、私の背をゆうに凌ぐ背丈のひまわりに圧倒されながらひまわり畑の真ん中を家族で隣り合って歩いた。
温かいそよ風が花弁を撫でてひまわりが揺れるたび、その隙間から足元に光を零す瞬間がやけに瞼の裏に焼きついている。
そうして30分ほどが経った頃、ひまわりの写真を撮るため両親が私から目を離したほんの一瞬の間に、また誰かを探しに行かなければという衝動が前触れもなく脳裏を掠めたのだ。その誰かの正体はいまだに分からない。本当に見つけ出せたことはおろか、その誰かの顔や名前でさえ思い出せたこともないのだ。
だけど気づけばその衝動に駆られるままその場から駆け出していた。私の背丈では終わりが到底予測できないひまわりの間を縫って先へ先へと進む。とっくに息も荒れているというのに、その誰かが見つかるまでどこまでも走り続けられるような気がした。右に方向転換してみたり、後ろに戻ってみたりと繰り返すうちに自分が今どこにいるのかも分からなくなっていた。ようやくハッと我に返った時には、もう両親が今どこの方向にいるのかさえも掴みきれなくなっていて、ただその場に座り込むことしかできなかった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。時間の感覚さえ失っていたその時、背後から悲鳴ともとれるほど悲痛な響きを含んだお母さんの声がした。
「なんで……どうしてお母さんたちのそばを離れたりなんか……」
息を切らして言葉にならない声を漏らしながら骨が軋むほどぎゅっと抱きしめられた時、やっと自分が犯したことの重大さを自覚した。
「お願いだから、もうどこにも行かないで。私の見えないところに、知らないところに一人きりで行かないって約束して」
いつも朗らかに優しい笑みを浮かべている穏やかな母がそう半狂乱になりながら泣き叫んでいる姿を間近で見た手前、その約束に頷く選択肢しか私には残されていなかった。
その後に地獄とも言える日々が始まることを知る由もなく。
まず変わったのは、お母さんの目つきだった。いつも星を纏ったように煌めいて生き生きとしていた母の瞳は暗く虚ろになり、常に苛立ちを滲ませる目つきをするようになった。
それからというもの、太陽のように明るかった性格が棘に満ちた性格へと変貌し、父に対して攻撃的になってもはや手がつけられないほどだった。
私には心の全てが壊れる寸前まで優しかったけれど、突然何かが崩れ落ちたかのようにある日から邪険に扱い始めた。多分、最後の堤防が崩壊するような感覚だったのだと思う。そして普通を妄信し、私を自分の考える普通で縛り付けるようになってきたのもこの頃だった。成績は常に上位を保ち、清廉潔白を貫き、お母さんのお眼鏡にかなう子でいる。
それに反することは許されないし、逃げようとすることも暗黙の了解として禁じられるようになった。
まるでひまわりの花が意味する“貴方だけを見つめる”という花言葉のように、その日からお母さんの目には私の姿しか映らなくなっていた。
思い返してみれば、家族の優しい日々が崩壊する第一歩こそがあの日の出来事だった。今の息苦しい関係性に繋がる原点こそがあの日からの変化だった。
そう考えると、不幸ではあったものの温もりに溢れていたあの頃の家族を壊したのは他でもない私自身だ。今の変わり果てた関係性を嘆く権利は私にはないのかもしれない。
でも、この関係性がどうしようもなく息苦しくてたまらない。
