今は宵に街が沈む前の黄昏時、西日から放たれるオレンジ色の光が目の前に広がる景色を覆っている。腕に抱いている勿忘草とかすみ草の花束が私が一歩一歩歩みを進めるたび、上下に揺れて時々花弁を落とす。
今日は馴染みの花屋さんに立ち寄り、少し遅れた母の日のプレゼントとしてお母さんに贈るための花束をつくってもらったのだ。お母さんはどんな顔を見せてくれるだろう。今日くらい、私に微笑んでくれるだろうか。
玄関のドアを開いて、叱責が飛んでこないよう控えめに“ただいま”と呟く。肝心のお母さんはリビングでダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして、スマホに視線を注いでいるようだった。
「ねぇ、お母さん。今ちょっといいかな?」
「今?疲れてるから後にして」
「ごめんね、でも今がいいの。ちょっとでもいいから見てくれない?」
思いきって食い下がってみると、お母さんはゆっくりと振り向いてくれた。
花束をその瞳に映した瞬間、みるみるうちにお母さんの表情が変わっていくのが分かった。でもそれは帰路につく最中に思い浮かべていた優しさに満ちた温かな眼差しではなくて、淀んだ軽蔑混じりの眼差しに見える。
「ど、どうしたの?お母さんがこの花好きだったから買ってきたんだけど、どうかな」
勿忘草にかすみ草、この二つは私がまだ幼かった頃、絶えず花瓶に差してリビングに飾ってあった花で間違いない。あの時のお母さんがこの二つの花に注ぐ、温もりが滲む眼差しは夢なんかではなかったはずだ。
「好きなんかじゃ、ないから」
「え……?」
「好きじゃないから!!二度とこんなことしないで……!」
金切り声を帯びた叫びは、家中に響き渡るほど鋭い声色をしていた。予想だにしなかった反応を前に、どう言葉を返せばいいのかも分からずにただ立ち尽くすしかなかった。
「何があったんだ」
リビングのドアが開く音とともに姿を現したのは仕事帰りのお父さんだった。まさに疲労困憊といったやつれた表情を浮かべていたお父さんは、私の手元を見るなりハッとしたように顔色を変えて近づいてきた。
「その花…………なんで母さんの前でそれを出したんだ」
「えっと、これお母さんに見せちゃダメだったの?それはなんで……」
「そんなこと聞こうとしないで。こんな花、見たくもない」
お母さんが吐き捨てた言葉が脳にへばりついて消えてくれなかった。見たくもないというほど憎い存在を、私は期待を込めた眼差しで渡そうとしてしまったのか。
「そんな物言いはないだろ。自分の機嫌が悪いからって子供に当たるなよ」
どうしてだろう、珍しくお父さんに庇ってもらえているはずなのに居心地の悪い感触の感情が胸の中で渦巻いている。きっと今の私は、お父さんに対して怒りが湧いている。普段似た言動をしている貴方にそんな言葉を並べる資格はないはずだ、そう声に出してしまいたい衝動に駆られた。
「あんたには関係ないでしょ。どうせ昔のことに興味なんかないくせに」
「興味がないわけないだろ……!過去に背中を向けてる母さんに比べて俺は向き合おうとしてる、そのどこが無関心だって言うんだ?」
お父さんの言葉を聞き終わる前に、お母さんは大きな音を立ててドアを開けたかと思えば部屋から出ていってしまった。さっきから両親が口にする言葉の意味がどうしても掴みきれない。どうしてこの花を見せた途端にお母さんが苛立ち始めたのかも、花を見せただけなのにお父さんが血相を変えて飛んでくる理由も、何もかも私には分からないのだ。
「母さんはもう昔のことから目を逸らしたいんだよ。ほっといてやってくれ」
お父さんの口ぶりから察するに、お母さんはもしかすると幼い頃の記憶がトラウマになっているのかもしれない。理由は見当もつかないけれど、お母さんが拒絶するならそっとしておくしかないだろう。
「綺麗な花だな。母さんがあの調子じゃリビングには置けないだろうから、これは凪桜の部屋に飾ったらいい」
この花に背を向けたお母さんとは対照的に、お父さんは愛おしそうな眼差しで花束を眺めながら笑顔を浮かべた。お母さんがあんなにこの花を毛嫌いする理由といい、感情の起伏が激しくて常に苛立っているお父さんが今こうやって穏やかな笑みをたたえている理由といい、ちっぽけなこの手では掴めないことばかりだ。
今日は馴染みの花屋さんに立ち寄り、少し遅れた母の日のプレゼントとしてお母さんに贈るための花束をつくってもらったのだ。お母さんはどんな顔を見せてくれるだろう。今日くらい、私に微笑んでくれるだろうか。
玄関のドアを開いて、叱責が飛んでこないよう控えめに“ただいま”と呟く。肝心のお母さんはリビングでダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして、スマホに視線を注いでいるようだった。
「ねぇ、お母さん。今ちょっといいかな?」
「今?疲れてるから後にして」
「ごめんね、でも今がいいの。ちょっとでもいいから見てくれない?」
思いきって食い下がってみると、お母さんはゆっくりと振り向いてくれた。
花束をその瞳に映した瞬間、みるみるうちにお母さんの表情が変わっていくのが分かった。でもそれは帰路につく最中に思い浮かべていた優しさに満ちた温かな眼差しではなくて、淀んだ軽蔑混じりの眼差しに見える。
「ど、どうしたの?お母さんがこの花好きだったから買ってきたんだけど、どうかな」
勿忘草にかすみ草、この二つは私がまだ幼かった頃、絶えず花瓶に差してリビングに飾ってあった花で間違いない。あの時のお母さんがこの二つの花に注ぐ、温もりが滲む眼差しは夢なんかではなかったはずだ。
「好きなんかじゃ、ないから」
「え……?」
「好きじゃないから!!二度とこんなことしないで……!」
金切り声を帯びた叫びは、家中に響き渡るほど鋭い声色をしていた。予想だにしなかった反応を前に、どう言葉を返せばいいのかも分からずにただ立ち尽くすしかなかった。
「何があったんだ」
リビングのドアが開く音とともに姿を現したのは仕事帰りのお父さんだった。まさに疲労困憊といったやつれた表情を浮かべていたお父さんは、私の手元を見るなりハッとしたように顔色を変えて近づいてきた。
「その花…………なんで母さんの前でそれを出したんだ」
「えっと、これお母さんに見せちゃダメだったの?それはなんで……」
「そんなこと聞こうとしないで。こんな花、見たくもない」
お母さんが吐き捨てた言葉が脳にへばりついて消えてくれなかった。見たくもないというほど憎い存在を、私は期待を込めた眼差しで渡そうとしてしまったのか。
「そんな物言いはないだろ。自分の機嫌が悪いからって子供に当たるなよ」
どうしてだろう、珍しくお父さんに庇ってもらえているはずなのに居心地の悪い感触の感情が胸の中で渦巻いている。きっと今の私は、お父さんに対して怒りが湧いている。普段似た言動をしている貴方にそんな言葉を並べる資格はないはずだ、そう声に出してしまいたい衝動に駆られた。
「あんたには関係ないでしょ。どうせ昔のことに興味なんかないくせに」
「興味がないわけないだろ……!過去に背中を向けてる母さんに比べて俺は向き合おうとしてる、そのどこが無関心だって言うんだ?」
お父さんの言葉を聞き終わる前に、お母さんは大きな音を立ててドアを開けたかと思えば部屋から出ていってしまった。さっきから両親が口にする言葉の意味がどうしても掴みきれない。どうしてこの花を見せた途端にお母さんが苛立ち始めたのかも、花を見せただけなのにお父さんが血相を変えて飛んでくる理由も、何もかも私には分からないのだ。
「母さんはもう昔のことから目を逸らしたいんだよ。ほっといてやってくれ」
お父さんの口ぶりから察するに、お母さんはもしかすると幼い頃の記憶がトラウマになっているのかもしれない。理由は見当もつかないけれど、お母さんが拒絶するならそっとしておくしかないだろう。
「綺麗な花だな。母さんがあの調子じゃリビングには置けないだろうから、これは凪桜の部屋に飾ったらいい」
この花に背を向けたお母さんとは対照的に、お父さんは愛おしそうな眼差しで花束を眺めながら笑顔を浮かべた。お母さんがあんなにこの花を毛嫌いする理由といい、感情の起伏が激しくて常に苛立っているお父さんが今こうやって穏やかな笑みをたたえている理由といい、ちっぽけなこの手では掴めないことばかりだ。
