消えたい君の守り方。

夜が深まり、すっかり暗闇に溺れた海を横目に流しながら、青白い月光に照らされた夜道を辿る。目的地はいつもと変わらない、あの浜辺だ。佑月と出会ってからというもの、すっかり身に染みついた日常のワンシーンを今日も生きている。
何気なく下へ視線を移すと、地面はアスファルトから砂へ姿を変えていた。無意識のうちにもう浜辺に着いていたのか。
そうして佑月がいつも座っている方へ目をやった途端に、私の日常は音を立てて崩れていった。これまで二人で紡いできた日々にはない景色が、確かにそこに浮かんでいた。

「え………?」

そこにあったのは、自分の体に向かって石を振り下ろす佑月の姿だった。石は先がナイフのような形状になっているらしく、尖った先端が月光を集めてきらりと瞬く。佑月の手に握られたそれは勢いよく風を切り裂き、鱗の隙間めがけて振り下ろされた。

「なんで、凪桜みたいに人間じゃないんだよ………」

そう呟く佑月の声はひどく弱々しくて、生気を伴っていない。目の前の状況を飲み込むより先にその声だけが妙に鮮明に耳の奥で響いていた。佑月がそこまで人間になることを切望していたなんて知らなかった。きっと人間になりたいと願うのは、やはり“普通”に憧れているからなのだろうか。佑月がそんなに思い詰めていたとは思わなかった。

「なんで、なんで、普通じゃないんだろう」

今度こそもっと深い傷をつくろうとしている、そう直感してそばまで素早く駆け寄った。
また石を振り上げようとした佑月の腕を握って制止した瞬間、その体制をとったまま時が止まったような沈黙だけがその場に流れた。行き場のない感情に揺さぶられるように、貴方のぎゅっと細めた目から放たれる視線がゆらゆらと私の視界をなぞる。

「離せよ、ばかっ……!」

貴方の傷は、たとえ手を伸ばしても撫でてあげることができないほど深く深く刻まれているものだと、この一瞬でも私は理解したつもりだ。
本当は、貴方の行動を止めるべきじゃなかったのかもしれない。その心の傷の痛みが体を傷つけることで少しでも和らぐなら、その痛みは今の貴方にとって必要不可欠なものだということだ。思わず体を傷つけたくなってしまう衝動を私は知っている。かくいう自分自身も数年前同じ痛みを抱えて、同じ行動に辿り着いていたから。自分を傷つける貴方を、私は否定したくない。

「心も体も痛いよね。でも、今はそれが気にならないくらい心が苦しいんだね」
「ボクには、心なんてなかったはずなのに。なんで、こんなに苦しいの」

そう口にしながら、夜の影に染められた瞳を不安げに揺らした。自分でも触れたことのない感情を前に戸惑いを覚えているのだろう。小さな肩を震わす佑月をそっと抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だよ。貴方の心が落ち着くまで私はそばから離れないから。一人で抱えなきゃいけなくて不安だったよね。よく頑張ったね」

そんな言葉を伝えながら自分でも涙が溢れてきた。今口にしている言葉は全部、苦しみに呑まれていたあの頃の私が誰かにかけてほしかった言葉ばかりだったからだ。
私もこうやって誰かに抱きしめてほしかった。私だって“一人で不安だったよね”って言葉をかけて欲しかった。でも、何一つ誰もしてくれなかった。
だから私は今、この言葉を声にしている。

「君は、ボクの気持ちなんて大して知らないじゃないか……!分かったような顔するなよ」

私を押し返そうとする佑月の頭を撫でながらそっと言葉を紡ぐ。佑月の髪の毛は柔らかくて、触れていて心地よかった。こんなにも愛おしい存在が、こんなにも思い詰めていたなんて予想もしていなかった自分の能天気さが今は憎い。

「もういいよ、それ以上一人で苦しまないで。貴方の気持ちを全然分かってあげられてなくてごめん。一人で背負わせてごめん。もっと早く貴方の気持ちごと、こうやって抱きしめるべきだったのに」

腕に力を込めてさらに強く抱きしめた。互いの心拍が重なり合うほどに近づいた私たちの距離には、もう出会ったばかりの頃のぎこちなさは存在していなかった。それからどれだけの時間抱きしめ合っていただろう。
激しくその音を轟かせていた佑月の鼓動が落ち着きを取り戻したのを確認してそっと体を離す。それからしばらくの間、言葉を発することなく二人見つめ合っていた。生暖かさの残る風が音を立てずに私たちの間をすり抜けていく。沈黙が辺りに飽和する中で、先に口を開いたのは私の方だった。

「私、結構貴方のこと好きだよ。貴方はどう?」

自分でも驚くほど唐突にこぼれた言葉だった。それでも、今が伝えるべき瞬間だと直感していた。貴方がどんなに自分自身を嫌いだったとしても私は貴方が好きだよ、そう伝えたかった。貴方の気持ちを否定しないまま、貴方の存在を肯定したかったのだ。

「好きなわけないだろ」
「ふふっ、嫌いとは言わないんだね」
「……うるさい」

よかった、だんだんと元の調子に戻りつつあるみたいだ。
安堵に包まれた瞬間、手の甲に何か水滴が滴り落ちる感覚がした。その正体に勘づくより先に、空からぽつぽつと落ちてきた水滴が次々と砂浜にシミをつくっていく。

「……雨だね」

この時期特有の五月雨がこの地に降りしきる。それは小糠雨のように地面に降り注ぐ桜の雨を連想させるものだった。

「待って、今日傘持ってきてないかも」

慌ててバッグの中に手を入れてみたものの、折り畳み傘らしき感触はない。もっとそばで寄り添っていたかったのに、このままだとひとまずトンネルで雨宿りしないといけないかもしれない。

「ちょっと待ってて」

何かを思い出したのか、その一言を残して佑月は岩陰に姿を消していった。しばらくして戻ってきた佑月の手には、私たちの出会いのきっかけとも言えるあの例のビニール傘が握られていた。

「これ、使って。雨に濡れたら困るでしょ」

差し出された傘を手に持って開く。ぶっきらぼうな物言いだけど、ちゃんと私のことを考えてくれているんだ。佑月の不器用な優しさが心にじんと染みわたった。

「佑月、一緒に入る?」
「別にいいよ。ボクは雨に濡れたところでいつもと変わらないし」
「でもさ、一緒に傘に入ってる方が人間っぽくない?」

そう投げかけていたずらっぽく笑ってみた。貴方の人間になりたいという願いをあまり大事として受け止めたくなかったのだ。その願いの形のまま、まっすぐ受け入れたかった。

「もう、いいよ。こういうの」
疲労感が滲んだその声音が夜風に吸い込まれるとともに、佑月は差し出した傘の持ち手を押し返してきた。その行動にあからさまな嫌悪感は浮かんでいなくて、心から拒絶しているわけではないことは容易に察しがついた。

「君の優しさはボクなんかに注いでいいものじゃない」
「私はそれでも貴方に優しくありたいと思うよ。貴方のそばにいる限り」
「じゃあ、ボクから離れてくれよ。君の優しさなんて、もういらないから」

佑月の声色は胸が苦しくなるような憂いを帯びていた。佑月は警戒心こそ解いてくれたとはいえ、いまだ私の存在を完全に受け入れてくれたわけではない。人の温度に触れられなかった故に、人間不信に陥っているのだと思う。まずは、その人間不信を払拭するところから始めないと。

「それはできないな。私は他人に流されやすい性格だけど、これだけは貫きたいの。ごめんね、我儘で」
「……君ってホント頑固だよね。まぁ他の人の前だと流されやすいんだろうけど、ボクの前だと意地っ張りもいいところだよ」
「ふふっ、貴方も意地っ張りだからお揃いだね。似た者同士、これからも仲良くしていこうよ」
「君はずるい人だよ、まったく。いつもボクの調子を狂わせる」

佑月は眉を下げて困ったような表情を浮かべた。まだ存在を完全に受け入れてくれたわけではないけれど、少しずつ心の距離が近づいていくのを感じる。
何気なく佑月から空に視線を移すと、ほんのりと白んできているのが分かった。

「あっ、そろそろ帰らなきゃ」

もうすっかり空は青色を帯びてきていて、朝に吹く心地の良い温度のそよ風が髪を撫でていく。そんな情景からは着実に夜明けが迫っていることを肌で感じられた。

「じゃあまた明日。明日もちゃんと来るから、待っててね」

そう言い残してその場から立ち上がり、トンネルの方へ向かって踵を返す。澄みきっている空気を目いっぱい吸い込んで、朝に浸りながら一歩踏み出した。

「行か、ないで」

その瞬間、突然背後から袖を掴まれた。その声はひどく弱々しくて、不安と緊張が混じっているのがすぐに分かった。

「ちょっと、話したいことがあるんだ」
「うん、分かった。ゆっくりでいいから話してごらん」

長丁場になることを覚悟して同じ目線になるよう座り込んだ。それきり黙りこくってしまった佑月の次の言葉を待つ。

「まずは一つ初めに謝りたいことが…………あって。今までたくさんひどい言葉をかけてごめん。本当に、ごめん……なさい」
「そっか、言葉にしてくれてありがとう。すごく勇気を出してくれたんでしょ?私、嬉しいな」

「本当はそういうのにもちゃんとありがとうって言いたかった。でも、ボクは嫌な奴だから言えなくて。こんなボクに優しくしてくれてありがとう」
「貴方こそ、私に優しくしてくれてありがとう。これまでも、これからも、ずっと感謝してるよ」

私はそっと顔に笑みを咲かせて、再び沈黙に潜ってしまった佑月の頬を撫でた。その行動の何かが心を動かしたのか、佑月はおずおずともう一度口を開いた。

「朝陽がそばにいて、家族に囲まれていて、学校に行けてる。そんな普通に憧れてた。外の世界で普通とされる人生を生きたかったんだ」

佑月は震えの滲む声でゆっくりと、でも確かに、言葉を紡いでいく。でも、それと同時にどこか凛とした雰囲気を纏っているようにも思えた。

「ずっと誰かに愛してほしくて、抱きしめて欲しくて、朝陽を無我夢中で探し続けた。今思えば、誰かに愛されたかったから朝陽を探してる部分もあったのかもしれない。ホント、ボクは身勝手なんだよ」

言葉を並べるごとに、今までずっと硬かった表情が少しずつ崩れていく。感情の明かりが灯って、透明に色が染みたように心が生まれる、そんな変化に佑月は襲われているのだ。

「それからどれだけの時間が経ったのか分からない。朝陽の顔も自分の名前すら忘れてボーっと生きてた時、君が現れたんだ。現れたってよりはボクが見つけた感じだったけどね」

私との出会いは、確かに貴方の何かを突き動かしたのだろう。佑月の口ぶりからはそんなことを感じ取れた。

「君は初めから優しかったよね。傘をちゃんと返しに来てくれて、ひどい態度をとり続けるボクに一度も怒らなかった。いつも優しくて、穏やかで、温かかった」

春の陽だまりのように穏やかな声色で佑月は言葉を紡ぐ。その表情は胸が苦しくなるほど温かいものだった。佑月が私のことを語る時に表情を柔らかくするのは初めてのことで、少し照れくさい。

「私ね、貴方に出会えてよかった。こんなに強がりで、意地悪で、愛おしい人なんてそうそういないもん。ほんと、貴方の全てが大事なんだよ」

途端に貴方の瞳から涙が溢れて頬の輪郭を伝った。あぁ、やっと泣いてくれた。ずっと涙を生むことができなかった貴方が、目の前で泣いている。その事実だけで胸がいっぱいになる。

「っ見るな……」

流れる涙を拭いながら、咄嗟に貴方は手で顔を覆い隠した。その仕草には、触れたことのない感情に対する怯えや恐れが混じっているような気がした。

「もう強がらなくてもいいんだよ。そうやって自分を守ろうとなんかしなくても、私は笑ったりしないから」

貴方の瞳をまっすぐ見据えて大切に言葉を紡ぐ。私の言葉をその耳で捉えた貴方は、軽く頷いて手を下ろした。

「貴方が歩けるようになって、朝陽さんと再会できるまで離れないって約束するからその日が来るまで一緒にいませんか。改めて、約束してくれる?」

佑月は面食らったように目を見開き、涙に溺れる瞳を揺らした。今の言葉は、確実に佑月の心に届いたのだ。

「でも、ボクだけがもらってばっかりじゃないか。ボクは、君に何もできてない」
「じゃあ、私が探してる人を貴方も一緒に探してよ。私も貴方と同じように昔から探してる人がいるんだ。大事な人を見つける手がかりをお互いに探す、それでいいでしょ?」
「ボクに探せるわけないだろ。ここから動けもしないのに」
「それでも一緒に考えたりはできるじゃん。ね、協力してくれる?」
その言葉で納得したのか、佑月はやっと静かに首肯した。貴方の脆い表情は、もう崩れて涙に染まっていた。
「今まで意地を張ってきたけど、本当、は……もう一人は嫌なんだ」

視線を地面に落とした貴方はこれまで飲み込んできた気持ちをぽつりと吐き出すように小さく呟いた。その声は涙に濡れていて、わずかに掠れを帯びていた。

「……もうひとりに、しないで」

その瞬間、水平線の遥か彼方に広がる雲の中から朝日が顔を覗かせた。影に包まれていた私たちの間に、一筋の光が差し込む。夜に浸されて暗闇で濁っていた貴方の瞳は、やがて溢れんばかりの光で満ちた。

「うん、一人になんかしないよ。だから、これからもそばにいさせて」

初めて見た貴方の澄んだ瞳が眩しい。朝日が放つ光に照らされた貴方の髪は、暖かい春の風に触れられて静かになびいた。

「ねぇ、朝が来たよ。貴方の夜、やっと明けたんだね」

そう呟くと、貴方はこれまでの棘を感じさせないほど柔らかな微笑みをたたえた。ようやく、貴方は夜を越えられるようになったんだ。

「さっきの言葉、訂正させて。やっぱり私、貴方のこと大好きかも」

結構好き、という言葉を取り消したくなったのだ。今の貴方への感情はそんな陳腐な言葉だけじゃ収められない。きっと、私は貴方のことが大好きなんだ。