消えたい君の守り方。

お昼休みに差し掛かった教室は途端に騒々しくなる。活発で明朗な子たちが昼食を共にとるためのグループを成し、また別の子は友達を連れて勢いよく教室を飛び出していく。きっと屋上でご飯を食べるつもりなのだろう。
窓の外側からは木漏れ日が降り注ぎ、私の手元にはキラキラとした光の粒が落ちている。その様をぼんやりと眺めていると、突然背中に重みが伸し掛かった。

「凪桜!一緒にご飯食べようよ」

後ろから覆いかぶさるようにして抱きしめてきたのは馴染みの友達だった。高校に入ってから出会った子だけど、同じ部活に入ったのも相まって今ではすっかり気心の知れた友達になっている。

「いいよ、でもどこ行こっか。屋上?」
「いつもの場所にしよーよ!ほら、あそこ人全くいなくて楽じゃん?」

彼女の言ういつもの場所、というのは二階の音楽室のことだ。
この学校は比較的校則がしっかり定められていて決まりごとも固く取り決められているけれど、昼食を食べる場所は自由に各々が決めていいというルールになっている。屋上や中庭も開放されているから、大半の生徒はお昼休みになると教室を飛び出して他の場所に昼食をとりに行くのだ。とはいえ、音楽室で昼食をとるのは流石に許されていないから誰にも見つからないようにしないといけないけれど。

スクールバッグの底からお弁当を取り出して彼女の方に振り返った。
彼女から声をかけてきたというのにまだ準備が終わっていなかったらしく、彼女はいそいそと自分の席にお弁当を取りに戻っていった。

「先に行っとくからねー!頑張って追いついてきて!」

彼女の背中に向かってそう声をかけて教室を後にする。
数歩歩いては後ろを振り向く、というのを繰り返しながら音楽室に向かっていると、彼女がバタバタと足音を立てながら必死に追いついてきた。そんな風に音を立てて走っていたら音楽室に辿り着く前に先生に捕まってしまいそうなものだけど、彼女は何故かいつも華麗に先生の目をかいくぐってルール違反ができてしまう人間なのだ。たとえ先生に見つかっても、お得意の話術によって簡単に解放してもらえるらしい。私はこういう人のことを、要領のいい人間と呼んでいる。

そんなことに思考を費やしながら歩いているうちに、音楽室が目前まで迫っていた。音を激しく立てないようドアを開き、電気のスイッチを手探りで押して音楽室に明かりを灯す。
彼女はそうやって電気をつけていた私のそばを通り抜けて、“お先ー!”なんて言いながらドカッと椅子に腰かけた。私もその後を追って彼女から見て向かい側の席に座り、机の上で弁当袋を開く。手を動かしながら、風に揺さぶられては葉っぱを落とす木々のしなりに目をやっていると、ふいに彼女が“そういえば、”と話を切り出した。

「なんか悩みとかないの?よくよく考えたら凪桜って、自分のこと全然話さないなーと思って」
「悩みかぁ~あ、一個あるかも」

本当は両手に抱えきれないほどあるけど、この子に話せそうな話題は一つくらいしか見当たらなかった。でもこれは初めて他人に打ち明ける心の内だ。緊張が体中に沸き立つのを感じながら、意を決して口を開く。

「最近親との関係が色々しんどくてさ。それこそ嫌いになっちゃいそうなくらい」

相手の返答を待つ間、行き場のなくなった視線がゆらゆらと宙を揺蕩う。どこに目線を向ければいいのか分からなかった。

「それでもご飯食べさせてもらってるんでしょ?ホント親に感謝しないとダメだよ。この世には不幸な人なんて山ほどいるんだからさ」
「まぁそれはそうだよね。でも最近本当に愛されてるのかもよく分からなくなってきて……」
「凪桜は幸せな部類だと思うよ?だってお母さんからは常に心配されてて、中学生の頃まではいっぱい習い事させてもらってたんでしょ?それって愛されてるってことじゃん」

返す言葉が見つからなかった。やはり、客観的な視点から見ても私はちゃんと愛されているんだ。安堵する気持ちとともに、少し腑に落ちないような妙な感覚にも襲われた。
愛されているはずなのに、どうして家に帰るのがこんなに虚しいんだろう。どうしてお母さんたちと過ごす時間がこんなにも苦しいのだろう。
自問自答に暮れてもその答えは雲隠れして見えないままだ。自他ともに認めるほど愛されているはずなのに、愛されている感覚がしない。それは奇妙な感覚なようで、ひどく普遍的な感覚である気もした。
きっと両親が口論を繰り返している家庭や、家に居場所がない人はみんな通る道なのだろう。でも、皆が同じ経験をしているからと言って自分の苦しみを解決しなくていい理由にはならない。なら、私はどうすればいいのだろう。

いつのまにか私が口を閉ざして無言を貫いていたからなのか、それからは沈黙が続いた。
少し空気が沈んでしまったような気がして彼女の表情に目をやったものの、当の彼女は特に何も感じていなさそうだ。いつも通り上機嫌でお弁当に目を輝かせながらご飯を口に運んでいる。まぁ、食事中なのだから黙っていても不自然ではないか、そう考えて私も昼食をとることに没頭した。

「ごちそうさまでしたー!!」

お腹に手を当てながら満足げな表情を浮かべた彼女は、今日も美味しかったぁと柔らかく笑みを浮かべた。その反応が微笑ましいと感じると同時に、私は咄嗟に彼女の口を軽く塞いだ。

「ちょ、大声出したら先生にバレるって……!」
「あーごめん、ごめん。ここ来ちゃダメなところなのすっかり忘れてた」

てへっ、なんてわざとらしい声を出しながらウィンクをして軽く舌を出した。こんな漫画でしか目にしたことがないようなポーズをやってのけてしまうのも、また彼女の魅力だと感じる。まあつまるところ、彼女の愛嬌に満ちた性格だからこそ許されるものなのだ。
机の上に広げていた弁当箱を片付けてからそれを手に持って、教室までの道のりを歩く。もうすでに昼食を食べ終わった人が多いからか、廊下や他の教室、グラウンドとどこを取っても色んな声で溢れている。

「凪桜は今から何するの?」
「私は特に何も。まだ時間あるし一緒に何かしようよ」
「でも何がいいかな。スマホもいじれなければ、お菓子も持ってきちゃダメだし、この学校自由なさすぎ~」

何かできることはないか想像を巡らせているのか、瞳を天井の方へ向かって上げた彼女がぶつぶつと何かを呟く。“何か思いついた?”そう聞き返そうとしたその時、クラスの入り口でたむろしている女の子たちのグループの姿が視界に飛び込んできた。
その子たちがひそひそと何かを話し込んでいたのもあり、声をかけるかどうか迷って立ち尽くした。そうして躊躇っている間に、私たちの気配に気づいたようだった。

「あ、東雲さんたちじゃん。いたんだ」

グループのリーダー的存在の子が振り向きざまに発した言葉に、体が強張るのを感じた。特別違和感のある言葉ではないけれど、その声色はどこまでも冷たくて硬い。目をつけられてしまったかもしれない、瞬時にそう察した。

「邪魔しちゃってごめんね~ほらどうぞ」
「あ、ありがとう。ごめんね、わざわざどいてもらっちゃったりして」
「ううん、全然大丈夫だよ!東雲さんたちって今昼食べて帰ってきたとこ?」
「そうそう。さっきお昼ご飯食べ終わってちょうど色々話しながら帰ってきたところ」

言葉で上手く形容するのが難しいけれど、なんとなくやりづらいのだ。会話は滞ることなく流れ続けているはずなのに、それにはどこか息が詰まるような閉塞感がある。これも普段会話を交わすことのないこの子相手だからなのだろうか。でもそれだけでは説明できないほどの違和感が胸には燻っている。

「そうなんだ。でさ、さっきの話なんだけど~」

目をつけられてしまったかも、という予想に反して会話はそこであっさりと終了し、彼女は仲間の方に向き直って元の話を再開した。その瞬間にふっと肩の力が抜けてようやく浅かった息が元に戻った。やっぱり、無意識のうちに過度な緊張状態に陥っていたみたいだ。

「わ、私、先生から頼まれてた用事思い出したから行ってくるね。じゃあ、また後で」

背後で今の会話をただ見守っていた彼女は、顔を真っ青にして逃げるようにこの場を去っていった。その時、ようやく私は彼女の過去を思い出した。そうだ、彼女は今の子たちに昔いじめられていたのだ。同じ中学校に通っていたらしく、その頃に悲惨な目に遭ったと彼女から聞いたことがある。もっと先に気づいていれば彼女が顔色を悪くすることもなかったはずなのに。私はなんて鈍感なんだろう。

でももう起きてしまったことは仕方ないか、と無理やり結論付けて自分の席に戻った。完全に手持ち無沙汰になり、ぼんやりと外を眺めていると、私の席のすぐそばの机にさっきのグループの子たちが移動してきた。また心拍数が上昇し、手には汗が滲むのが分かった。

「あ、ここ東雲さんの席だっけ?隣、お邪魔しま~す」

そう口にしながら私の方へ顔を向けた瞬間、なにがおかしいのか、なぜか彼女は突き刺すような視線を私の右手首に注いできた。私もつられて右手首に目をやった瞬間、彼女の目線がそこに向いている理由に気がついて血の気が引いた。あらわになった右手首には当時の苦しみの名残を感じさせる生々しい無数の傷跡がある。
しまった、体育の後に手を洗う時、アームカバーをずらしたまま元の位置に戻すのを忘れていたみたいだ。今まで誰にも指摘されなかったのが不思議なくらいだけど、きっとみんな見て見ぬふりをしてくれたのだろう。

「なにそれ、病みアピ?普通に痛いよ」

その言葉が鼓膜に届いた瞬間、ぐるぐると意識が円を描いてぼやけていくとともに世界の輪郭が崩れていく音がした。違う、そんなのじゃない。早く弁明したいのに唇が上手く動いてくれない。

「ちが、そんなんじゃ……なくて」
「それ、かまちょがやるやつでしょ。東雲さんってそういうタイプだったっけ?」

人からの注目を得るためにしているのだと誤解されていることが何より鋭い刃となって心に突き刺さった。本当に人の気を引くためにしていることだとしたら、アームカバーを買ってまで隠そうとするはずなんてないのに。

「なんで何も言わないのー?東雲さーん」
「ご、ごめんなさ…………」

彼女に対する恐怖心に煽られて、声が激しく震える。なぜ、私は訳も分からず謝罪の言葉を並べているのだろう。

「ねぇ、みんなもこれヤバくない?私リスカとか初めて見た~」

その声を皮切りに、彼女の取り巻きと思われる子たちが周囲から続々と集まってきた。みんなの視線はもれなく私の右手首に注がれている。ここで純粋に傷つく必要なんてないのに、目が潤むのが分かった。
お願いだからこぼれ落ちないでほしい、そんな切実な願いに反して留まることなく涙の膜は膨らんでいって、ついに水滴となり頬に線を描いた。落ちていった涙が木製の床に触れてシミをつくる。

「ちょっと、これだけで泣くとかやめてよ。こっちがいじめてるみたいじゃん」

言葉尻には薄ら笑いを含んでいた。彼女は必死に口角が上がるのを堪えているけど、隠しきれなかったのだろう。別に暴力を振られたわけでも、明確な暴言を吐かれたわけでもない。だけど、確かに傷ついている自分がいる。これこそ、まさに中途半端な痛みだ。これも皆が普通に経験する、普通の出来事。人から軽く嘲笑されるなんてありふれた出来事のはずなのに、どうして涙が止まってくれないんだろう。この程度の痛みにも耐えられない自分が嫌で嫌で仕方ない。

それから放課後までどう乗りきったのか、全くと言っていいほど覚えていない。気づけば浜辺に立っていて、佑月が私に視線を向けていた。

「ねぇ、なんか疲れてる?」

「え?どうしたの、急に」

開口一番に私の思考を見透かしているような言葉をかけてきたことに、肩がビクッと飛び跳ねた。佑月には心配をかけたくないから、気づかれたくなかったのに。やっぱり私は秘密事を隠すのが得意じゃない。特に勘の鋭い佑月にはすべて筒抜けなのだろう。

「なんとなく、君の様子がおかしい気がして」
「なに、心配してくれてるの~?佑月にしては珍しいね」
「そんなんじゃない。ただ、気になっただけ」
「ふふっ、でも大丈夫だよ!こんなに美人で優しくて明るい女の子が苦しんでるわけなかろうがっ!」

妙なくらい明るい声色で発した言葉で何とか誤魔化す。普段の私を熟知している人なら違和感しか覚えないであろう声色であることは何より自分が理解している。でも、不器用な私にはこれくらいしか誤魔化す手立てがなかった。

「そんなの、取り繕わなくていい。君って嘘つくの下手だよね」

佑月はすべてを見抜いているようだった。これ以上誤魔化したところで無駄か。なんだかすべてを見抜かれている状況で目を合わせ続けるのも気まずくなって、視線を下に落とした。
でも、今なら家族との間にある溝のことも、学校に行くのが辛いことも話せるかもしれない。そんな希望が私の心中では確かに瞬いたのだ。

「あの、さ。生きるのが最近色々と辛くて。特に家族がね、ずっと機嫌悪いんだ。ため息とか舌打ちで圧をかけてきたりとか事あるごとにキツい言葉をかけてきたりとか」

こんなことを誰かに打ち明けたのは初めてのことだった。佑月はどんな表情をしているだろう。それを確かめるのが怖くて俯いたままの視界には、砂だけが映っている。

「それから学校に行くのも辛いの。理由は明確に分からないけど、学校って場所に行って一日を過ごすのがしんどくて仕方なくて。今日なんか、クラスメイトの言葉で涙出てきちゃってさ。その子から具体的に悪口を言われたとかではないんだけどね」

佑月は口をつぐんでいて何も言葉を紡ごうとしない。何を考えていて、何を言いたいのか、まるで掴めないのだ。ついに耐えきれなくなって、顔を上げて佑月の表情を伺った。そこにいる佑月の表情は、ひどく傷ついたように歪んでいた。

「……辛いって、そんなことで?」
「え…………?」

辺りにこだまする音の全てが私の世界から消え失せたような錯覚に襲われる。私の目に映るもの、耳に入っていた音が全て崩れ落ちて輪郭を失った。他では到底経験できない衝撃に私は自分を奪われている。

「家族がいるくせに、愛されてるくせにその程度で弱音を吐こうとするとか、ずるいんだよ」

佑月の憎悪を込めたような眼差しが私に突き刺さる。それは悲しみを帯びているようにも、憂いを纏っているようにも見えた。

「普通を持ってるくせに、それくらいで苦しいとか辛いとか黙れよ……っ!」

あまりの勢いに圧倒されて、“ごめん”という謝罪の一言すら絞り出せなかった。ただ、何も言えないまま時だけがそばを流れて、私を強引に未来へ連れていく。

「ボクは愛も家族も持ってないのに」

喉から絞り出すように声を吐き捨てた佑月は、下唇をぎゅっと噛んで私に背を向けた。ここから貴方のところまでは手を伸ばせば届く距離だ。私が傷つけてしまったのだから、他でもない私が手を伸ばして今すぐに抱きしめるべきなのに、今はそれができなかった。

「ついてきたいならついてくればいいよ」

風に攫われて今にも消えてしまいそうなほど小さな声で一言だけ呟いて、佑月は海へと消えていった。追いかけるべきか、しばらくの間悩んだのちに、私は後ろ髪を引かれるような思いに押しつぶされそうになりながら踵を返してその場を後にした。今、私の泥に塗れた手で佑月の心に触れようとしても、汚してしまうだけ。その心の傷が落ち着くまでは、お互いのために離れている方がいいはずだ。帰路についた私は、離れた場所にいる佑月を想いながらそっと目を伏せた。