☆
「先生、助けてください。俺は、里香を殺していない!」
司法修習期間を終了し、二回試験にも無事合格。二十六歳の誕生日直前に弁護士になった武蔵は、その年の四月から日下部法律事務所に入所した。
初めての依頼人は、殺人事件の容疑者だった。
結婚を彼女の両親に反対された腹いせに、彼女を撲殺したとして逮捕された男。当時の先輩弁護士は、無理なら担当しなくてもいいと言った。しかし、武蔵は依頼を受けた以上、最後まで弁護をすると決めた。
「佐々木先生、俺はただ。里香と一緒になりたかったんだ」
「俺がもっとそばにいてやれれば、彼女は襲われなくて済んだのに」
「俺は、里香を殺したやつが許せない。俺が一番里香のことを思っていたのに、どうして俺が逮捕されるんだ」
依頼人の男性は泣きながら、武蔵に訴える。
「俺は、絶対に里香を殺したりなんかしていない。先生なら、信じてくれるだろう?」
信じたかった。結婚したいくらい好きな女性を急に亡くして、しかも自分が殺人の容疑で留置されるなんて。
彼の無実を、証明したかった。
その後、男は殺人罪で起訴された。
証拠を精査していくにつれ、武蔵が信じていた男の供述は、少しずつ崩れていった。
彼は、重要な事実をひた隠しにしていた。
というより、武蔵自身が依頼人を疑うことから、目を背けていた。
依頼人を信じることこそが、弁護士としての正義と信じて疑わなかったからだ。
今回の事件の真相は――。
被害女性は、依頼人から日常的にDVを受けていたこと。
その事実を知った彼女の両親は、彼と別れることをすすめた。
しかし、彼女は彼から繰り返し暴力を受けるうちに、暴力を振るわれること自体が異常なのだと思えなくなっていた。「彼には私がいないとダメだから」「これは、あの人の愛だから。叩かれるのは、私が悪いから仕方ないの」と繰り返すばかりで、もう両親の言葉すらも響かなくなってしまっていた。
そんな中、彼は彼女の両親に結婚の挨拶に行った。
そして、酷く反対された。今すぐ娘と別れて欲しいと。
彼女の両親に対する憎悪が、一気に溢れ出した。
そして、彼女の部屋で。
いつもの暴行の末――。
彼女の頭部を、殴打した。
彼女が大切にしていた、アンティークの置き時計で。
何度も、何度も。
そして、その時を刻む音は、二度と聞こえることはなかった。
彼女の時間もまた――。
「……そうだよ」
彼は、ひどくあっさり認めた。
「里香は、俺が殺した」
武蔵は、一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。
目の前にいる男は、泣いていなかった。
昨日まで見せていた悲痛な顔も、そこにはなかった。
「……今、なんて」
「俺が殺したって言ったんだよ」
男は、薄く笑った。
「あんた、本当に信じてたんだな」
「……」
そして、男は言った。
「騙される方が悪い」と。
「あいつの親も、俺のことを馬鹿にしやがって。だから、全部――奪ってやった」
そして、殺害直後の状況を、嬉々として語り始めた。
彼の手に、べっとりと付着した里香の血。
室内に鉄のような生臭さが充満する中、彼は凶器に使ったアンティークの置き時計を水で洗い、証拠を隠滅しようとした。
だが、その置き時計は強い衝撃で壊れ、事件が起きたとされる時刻で針を止めていた。
さらに、室内の血痕には不自然に途切れている箇所があった。
何者かが、その部分だけ血痕を拭き取ったか、血の付着した物を洗浄した可能性がある。
鑑識が置き時計を調べた結果、洗い流された血液の痕跡が検出された。
わずかに残されていた血痕についてDNA型鑑定が行われ――被害者、里香のものと一致した。
男がどれだけ洗っても。
里香を殺した痕跡までは、消せなかった。
武蔵は言葉を失った。
「……」
たった今明らかになった事実を必死に整理しようとする。
頭ではわかっている。
証拠は、目の前の男を指していると。
そして今、男自身の口から真実を聞いた。
それでも、思考が追いつかない。
昨日まで自分に縋るように見せた彼の涙は、一体何だったのだろうか……。
男は、吐き捨てるように言った。
「弁護士って、意外と馬鹿なんだな」と。
武蔵は、彼の無実を晴らそうと奔走していただけに――怒りよりも、ただただ、悲しかった。
依頼人に裏切られた。
そう思った。
けれど、本当にそれだけだったのだろうか。
彼の言葉を疑いたくなかった。
信じている自分の方が、正しい弁護士なのだと思いたかった。
真実から目を背けていたのは、武蔵自身でもあった。
そんな武蔵に、先輩弁護士は言った。
「依頼人を信じることは、決して悪いことじゃない」
武蔵は顔を上げた。
「でもな。依頼人を信じることと、依頼人の言葉を何も考えずに信じ込むことは、同じじゃない」
「……」
「証拠と供述が食い違っているなら、そこから目を逸らすな。依頼人にとって都合の悪い事実ほど、弁護士が知らなければならない」
「先生……」
「疑うことは、裏切ることじゃない」
先輩は静かに続けた。
「疑問を一つずつ潰して、それでも残った言葉を信じる。それが、弁護士として人を信じるってことだ」
そして、もう一つ。
「佐々木。覚えておけ」
「はい」
「俺たちは、善人だけの弁護士じゃない」
武蔵は息を呑んだ。
「罪を犯した人間にも、法律で保障された権利がある。その権利を守るのも、俺たちの仕事だ」
そして、迎えた初公判。
武蔵は、初めて弁護人席に座った。
隣にいるのは、もう無実だとは思っていない男だった。
それでも。
武蔵は、弁護人としてそこにいた。
緊張で震える手を、膝の上で強く握りしめる。
――これが、弁護士なんだ。
無実の人だけを守る仕事じゃない。
自分が好きになれる人間だけを守る仕事でもない。
法の下で、その人に認められた権利を守る。
それが。
佐々木武蔵が、弁護士になって初めて知った――刑事弁護の重さだった。
☆
「結構、初っ端から重い案件だったんですね」
「ああ、とっても……重い事案だったよ」
開廷まで、あと十五分。
「玲、そろそろ行くよ」
「……はい!」
「焦らずに、ね」
「先生、助けてください。俺は、里香を殺していない!」
司法修習期間を終了し、二回試験にも無事合格。二十六歳の誕生日直前に弁護士になった武蔵は、その年の四月から日下部法律事務所に入所した。
初めての依頼人は、殺人事件の容疑者だった。
結婚を彼女の両親に反対された腹いせに、彼女を撲殺したとして逮捕された男。当時の先輩弁護士は、無理なら担当しなくてもいいと言った。しかし、武蔵は依頼を受けた以上、最後まで弁護をすると決めた。
「佐々木先生、俺はただ。里香と一緒になりたかったんだ」
「俺がもっとそばにいてやれれば、彼女は襲われなくて済んだのに」
「俺は、里香を殺したやつが許せない。俺が一番里香のことを思っていたのに、どうして俺が逮捕されるんだ」
依頼人の男性は泣きながら、武蔵に訴える。
「俺は、絶対に里香を殺したりなんかしていない。先生なら、信じてくれるだろう?」
信じたかった。結婚したいくらい好きな女性を急に亡くして、しかも自分が殺人の容疑で留置されるなんて。
彼の無実を、証明したかった。
その後、男は殺人罪で起訴された。
証拠を精査していくにつれ、武蔵が信じていた男の供述は、少しずつ崩れていった。
彼は、重要な事実をひた隠しにしていた。
というより、武蔵自身が依頼人を疑うことから、目を背けていた。
依頼人を信じることこそが、弁護士としての正義と信じて疑わなかったからだ。
今回の事件の真相は――。
被害女性は、依頼人から日常的にDVを受けていたこと。
その事実を知った彼女の両親は、彼と別れることをすすめた。
しかし、彼女は彼から繰り返し暴力を受けるうちに、暴力を振るわれること自体が異常なのだと思えなくなっていた。「彼には私がいないとダメだから」「これは、あの人の愛だから。叩かれるのは、私が悪いから仕方ないの」と繰り返すばかりで、もう両親の言葉すらも響かなくなってしまっていた。
そんな中、彼は彼女の両親に結婚の挨拶に行った。
そして、酷く反対された。今すぐ娘と別れて欲しいと。
彼女の両親に対する憎悪が、一気に溢れ出した。
そして、彼女の部屋で。
いつもの暴行の末――。
彼女の頭部を、殴打した。
彼女が大切にしていた、アンティークの置き時計で。
何度も、何度も。
そして、その時を刻む音は、二度と聞こえることはなかった。
彼女の時間もまた――。
「……そうだよ」
彼は、ひどくあっさり認めた。
「里香は、俺が殺した」
武蔵は、一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。
目の前にいる男は、泣いていなかった。
昨日まで見せていた悲痛な顔も、そこにはなかった。
「……今、なんて」
「俺が殺したって言ったんだよ」
男は、薄く笑った。
「あんた、本当に信じてたんだな」
「……」
そして、男は言った。
「騙される方が悪い」と。
「あいつの親も、俺のことを馬鹿にしやがって。だから、全部――奪ってやった」
そして、殺害直後の状況を、嬉々として語り始めた。
彼の手に、べっとりと付着した里香の血。
室内に鉄のような生臭さが充満する中、彼は凶器に使ったアンティークの置き時計を水で洗い、証拠を隠滅しようとした。
だが、その置き時計は強い衝撃で壊れ、事件が起きたとされる時刻で針を止めていた。
さらに、室内の血痕には不自然に途切れている箇所があった。
何者かが、その部分だけ血痕を拭き取ったか、血の付着した物を洗浄した可能性がある。
鑑識が置き時計を調べた結果、洗い流された血液の痕跡が検出された。
わずかに残されていた血痕についてDNA型鑑定が行われ――被害者、里香のものと一致した。
男がどれだけ洗っても。
里香を殺した痕跡までは、消せなかった。
武蔵は言葉を失った。
「……」
たった今明らかになった事実を必死に整理しようとする。
頭ではわかっている。
証拠は、目の前の男を指していると。
そして今、男自身の口から真実を聞いた。
それでも、思考が追いつかない。
昨日まで自分に縋るように見せた彼の涙は、一体何だったのだろうか……。
男は、吐き捨てるように言った。
「弁護士って、意外と馬鹿なんだな」と。
武蔵は、彼の無実を晴らそうと奔走していただけに――怒りよりも、ただただ、悲しかった。
依頼人に裏切られた。
そう思った。
けれど、本当にそれだけだったのだろうか。
彼の言葉を疑いたくなかった。
信じている自分の方が、正しい弁護士なのだと思いたかった。
真実から目を背けていたのは、武蔵自身でもあった。
そんな武蔵に、先輩弁護士は言った。
「依頼人を信じることは、決して悪いことじゃない」
武蔵は顔を上げた。
「でもな。依頼人を信じることと、依頼人の言葉を何も考えずに信じ込むことは、同じじゃない」
「……」
「証拠と供述が食い違っているなら、そこから目を逸らすな。依頼人にとって都合の悪い事実ほど、弁護士が知らなければならない」
「先生……」
「疑うことは、裏切ることじゃない」
先輩は静かに続けた。
「疑問を一つずつ潰して、それでも残った言葉を信じる。それが、弁護士として人を信じるってことだ」
そして、もう一つ。
「佐々木。覚えておけ」
「はい」
「俺たちは、善人だけの弁護士じゃない」
武蔵は息を呑んだ。
「罪を犯した人間にも、法律で保障された権利がある。その権利を守るのも、俺たちの仕事だ」
そして、迎えた初公判。
武蔵は、初めて弁護人席に座った。
隣にいるのは、もう無実だとは思っていない男だった。
それでも。
武蔵は、弁護人としてそこにいた。
緊張で震える手を、膝の上で強く握りしめる。
――これが、弁護士なんだ。
無実の人だけを守る仕事じゃない。
自分が好きになれる人間だけを守る仕事でもない。
法の下で、その人に認められた権利を守る。
それが。
佐々木武蔵が、弁護士になって初めて知った――刑事弁護の重さだった。
☆
「結構、初っ端から重い案件だったんですね」
「ああ、とっても……重い事案だったよ」
開廷まで、あと十五分。
「玲、そろそろ行くよ」
「……はい!」
「焦らずに、ね」



