リーガルウェポン


 百日祝いから、数日後。

 深愛は、もう一度、日下部法律事務所を訪れた。
 今度、彼女と向き合ったのは玲ではなく、武蔵だった。
「今日は、改めて確認させてもらうね」
「はい」
「これは、橋本さんたちが千愛ちゃんを大切に育ててくれているから、とか。周りから勧められたから、とか。そういう理由だけで決めたことじゃない?」
「違います」
 深愛は、はっきり答えた。
「私が決めました」
「うん」
「千愛を、橋本さんたちの子どもとして育ててもらいたいです」
 武蔵は、それでもすぐには頷かなかった。
「特別養子縁組が成立すれば、原則として、深愛さんと千愛ちゃんとの法律上の親族関係は終了する」
「はい」
「橋本夫妻が、法律上の父親と母親になる」
「はい」
「将来、やっぱり自分で育てたいと思っても、簡単に元へ戻せる制度じゃない」
「わかっています」
「それでも?」
 深愛は、一度だけ目を伏せた。
 そして。

「お願いします」
 顔を上げた。
「千愛を、橋本さんたちの娘にしてあげてください」
 声は震えていた。
 けれど。
 そこに迷いはなかった。

   *

 深愛の意思を改めて確認したうえで、児童相談所との協議が進められた。
 それまで千愛は、一時保護委託という形で橋本夫妻のもとで暮らしていた。
 その後、深愛の意思や千愛の養育状況、橋本夫妻の意向などを踏まえ、児童相談所は橋本夫妻への養子縁組里親委託へと養育方針を切り替えた。
 
 同時に。
 家庭裁判所では、千愛について「特別養子適格の確認」の手続が進められた。
 その後、家庭裁判所の手続の中でも、深愛の意思は改めて慎重に確認された。

 実母である深愛が、自ら養育することが困難な事情。
 父親が特定されておらず、認知もされていないこと。
 深愛から事情を聴いたものの、父親を特定することが困難であること。
 千愛にとって、特別養子縁組を成立させることが本当に必要なのか。
 そして。
 深愛自身が、特別養子縁組を希望していること。
 一つひとつ。
 慎重に確認されていった。

   *

 その後も。
 千愛は、橋本夫妻の家で育っていった。

 一か月。
 二か月。
 三か月。

 児童相談所の職員は定期的に家庭を訪問した。
 千愛の健康状態。
 発育。
 生活環境。
 夫婦の養育状況。
 赤ちゃんを迎えたことで、家庭に無理が生じていないか。
 橋本夫妻が、千愛をどのように受け止めているのか。
 細かく確認されていった。

「千愛ちゃん、よく笑うようになりましたね」
「そうなんです」
「あー!」
「ほら。最近、誰にでも笑うんですよ」
「人見知りが始まったら、また変わるかもしれませんね」
「それも楽しみです」

 夜泣きもした。
 ミルクを飲まない日もあった。
 熱を出して、夫婦そろって慌てたこともあった。
 それでも。
 二人は、一つずつ向き合った。
 わからなければ聞いた。
 困れば相談した。
 そして何より。
 千愛を、自分たちの願いを叶えるための存在としてではなく。
 一人の子どもとして育て続けた。

   *

 そして。
 千愛が生まれて、八か月。

「玲」
「はい?」
「審判が確定したよ」
 武蔵が、一通の書面を玲に差し出した。
「……え」
 玲は受け取る。
 書面を開いた。
 ゆっくりと。
 一文字ずつ追う。

「……成立?」
「うん」

 生後間もない頃から続いてきた、橋本夫妻による六か月以上の監護。
 その間の児童相談所による継続的な確認。
 千愛の発育。
 家庭環境。
 橋本夫妻の養育能力。
 そして。
 千愛と夫妻との間に築かれてきた関係。

 それらを踏まえ、家庭裁判所は――

 橋本夫妻と千愛との間に、特別養子縁組を成立させることが、千愛の利益のために必要であると判断した。

「……よかった」
 玲は、思わず息を吐いた。

 あの日。
 産院から一本の電話が入った。

 十八歳の母親が、生まれたばかりの娘を――養子に出したいと言っている。
 そこから始まった。

 千愛。
 千の愛を受けて。
 幸せに生きてほしい。
 私がいなくても。
 そう願って。
 深愛がつけた名前。

「佐々木先生」
「うん?」
「これで……橋本さんたちが」
「ああ」
 武蔵は、静かに頷いた。

「千愛ちゃんのお父さんと、お母さんになった」

 法律の上でも。
 家族になった。
 玲は、書面に記された千愛の名前を見つめた。

「……よかったね、千愛ちゃん」
 もう、深愛の腕に抱かれていた頃より、ずっと大きくなっただろう。
 寝返りもできるようになったかもしれない。
 離乳食も始まっている頃だ。
 橋本夫妻の顔を見れば、笑うようになっているかもしれない。
 深愛は。
 このことを知ったら、何を思うだろう。

 きっと、泣くのだろう。
 それでも。
 あの日と同じように。
 最後には、笑うのだろう――と、玲は思った。

 自分の腕から千愛を手放すことが、どれほど怖く、苦しい決断だったのか。
 玲には、深愛の胸の内をすべて知ることはできない。
 けれど、千愛が誰かに愛され、安心して眠り、笑い、いつか自分の人生を自分の足で歩いていけるように――深愛が託した祈りに込められた、彼女の芯の強さと愛情に、深い敬意を抱いていた。
 玲もまた、その祈りがこれから先も千愛を守っていくことを願った。

 橋本夫妻のもとで、たくさんの愛情に包まれて。
 自分が生まれてきたことを、たくさんの人が喜び、大切にしてくれたのだと、いつか知ることができるように。
 
 玲は、静かに目を閉じた。

 ――千の愛を受けて。
 どうか。
 幸せに。