リーガルウェポン


 橋本夫妻は、何も言わなかった。
 ただ、少し離れたところから二人を見守っていた。
「この三か月、楽しかった」

 オムツを替えた。
 おしっこをかけられた。
 抱っこした。
 泣いている千愛をあやした。
 名前を呼べば、声を返してくれた。
 百日のお祝いもした。

 たった三か月。
 それでも、自分は確かに、この子の母親だった。
 だからこそ、手放すことが、胸を引き裂かれるほど苦しかった。
「千愛」
 もう一度、名前を呼ぶ。

「これから、いっぱい愛してもらってね」
「あー」
「いっぱい笑って」
「あー」
「いっぱい泣いて」
 深愛の唇が震えた。

「誰かを好きになって、誰かに愛されて」
 涙が、次から次へとこぼれる。
「幸せになってね」
 その幸せの中に、自分がいなくても。
 千愛が自分を知らなくても。
 それでも、どうか。
 深愛は、千愛の額にそっと唇を触れた。

「大好き」
 最初で最後の、母から娘への口づけだった。
 離れた唇が、もう一度触れそうになる。
 けれど深愛は、震える身体を押しとどめた。
 これ以上、離れられなくなる前に。
 深愛はゆっくり顔を上げた。

「橋本さん」
「……はい」
「お願いします」
 声にした瞬間、胸の奥が崩れ落ちた。
 橋本夫人が、両腕を差し出す。
 深愛は、その腕へ千愛を渡した。
 腕から温もりが消えていく。

 指先から、千愛の重みが失われていく。

 三か月前と同じだった。
 自分の腕から。
 橋本夫人の腕へ。
 けれど、あの日とは違う。
 あの日は、怖かった。
 この子を手放したら、もう自分には何も残らない気がした。

 今も、怖い。
 千愛を手放した瞬間、自分の中の何かまで失われてしまうようだった。
 それでも、深愛は手を伸ばさなかった。

 千愛は、奪われるのではない。
 この人たちのもとで、生きていく。
 守られて。
 愛されて。
 自分の知らない明日を、ひとつずつ重ねていく。
 その未来を選ぶことが、今の自分にできる、たったひとつの母親としての愛だった。

「……今日で」
 深愛は涙を拭った。
 拭っても、すぐにまた溢れてくる。
「千愛に会うのは、最後にします」
「深愛さん」
「私がそうしたいんです」
 声が折れそうになる。
 それでも、言葉を止めなかった。

「私が会い続けたら、きっと私は、千愛を手放せなくなるから」
 橋本夫人を見る。
「この先、千愛が橋本さんたちの娘として生きていくなら」
 そして、橋本夫人の腕の中にいる千愛を見る。

「私は、遠くから幸せを願っていたい」
「……」
「千愛の人生に、私が影を落としたくないんです」
 深愛は、胸の痛みに耐えながら微笑んだ。
「私がいなくても、千愛が笑っていられるように。私のことを知らなくても、愛されていると感じられるように」
 そして、心の中で何度も言い聞かせる。
 これでいい。
 これが、千愛のためなのだと。

「もし、いつか」
 深愛は少しだけ笑った。
「千愛自身が、私に会いたいって思う日が来たら」
 そのとき初めて。
「会いたいです」

 橋本夫人の瞳にも、涙が浮かんだ。
「わかりました」
「ありがとうございます」
 その言葉を聞いて、深愛はようやく息を吐いた。
 会えない未来を選んだ。
 それでも、千愛が望む未来だけは閉ざしたくなかった。
「あー」
 千愛が声を上げる。
 二人は、思わず笑った。
「最後まで千愛らしいね」
「本当に」
 笑いながら、深愛の胸はまた痛んだ。
 この声を聞くのも、これが最後。
 この顔を見られるのも、これが最後。
 それでも、最後に笑えたことを、深愛は忘れない。
 深愛は、もう一度だけ、その名前を呼んだ。
「千愛」

 千の愛を受けて。
 どうか。
 私がそばにいなくても。
 幸せに。

 深愛は、千愛の姿を目に焼きつけた。
 そして、今にも崩れ落ちそうな足を前へ進めるために、両手を強く握りしめた。
 振り返れば、きっと戻ってしまう。
 だから深愛は、それ以上振り返らなかった。