そして、さらに一か月が過ぎた。
千愛は、あやすと声を出して笑うようになった。
「あー、あー」
手足を元気いっぱいにばたつかせ、ときにはその勢いで身体をよじらせる。
深愛は、橋本夫妻の自宅を定期的に訪れ、千愛の成長を見守っていた。
「千愛」
「あー、あー」
「お喋り、増えたね」
「あー」
「うんうん」
深愛が笑いながら返事をすると――。
ブリブリッ!
「あ……」
一瞬、部屋が静かになる。
「千愛、ウンチした?」
「あー、あー」
千愛は何事もなかったように声を上げた。
「深愛さん、オムツ替えしてみる?」
「はい」
深愛は千愛をオムツ替え用のマットに寝かせる。
「えっと……」
テープを外して。
汚れたオムツを開いて。
「うわっ!」
「どうしたの?」
「千愛に、オシッコかけられました」
「あらら」
「あー、あー」
「千愛、やってくれたね」
「あー」
「あー、じゃないよ」
思わず笑いながら、深愛はおしりふきで手を拭いた。
「ちょっと待っててね」
今度は慎重にオムツを交換していく。
「赤ちゃんのウンチって、こんなに緩いんですね」
「そうなのよ」
「これ、漏れたら大惨事ですよね」
「昨日、盛大に背中から漏れて大変だったわよ」
「え、マジですか?」
「服まで全部お着替え」
「うわあ……」
「だから今、いろいろ試してるの」
「いろいろ?」
「背中側に隙間ができないようにしたり、オムツのメーカーを変えてみたり」
「メーカーで違うんですか?」
「全然違うわよ。赤ちゃんによって合う形が違うみたい」
「へえ……」
「今使ってるのを使い切ったら、別のに変えてみようかと思ってるの」
「なるほど……」
深愛は、新しいオムツを千愛につける。
「こんな感じですか?」
「うん。上手」
「できた」
「あー」
「千愛、どう? 快適?」
「あー!」
「絶対わかってないでしょ」
深愛が笑う。
橋本夫人もつられて笑った。
以前なら。
千愛の世話をすることは、怖かった。
泣いたらどうすればいい。
ミルクを飲まなかったら。
熱を出したら。
自分に、この子を守れるのか。
考えれば考えるほど、不安ばかりが膨らんだ。
けれど今は。
千愛の泣き声を聞くと、胸を締めつけていた恐怖より先に、「どうしたの」と手を伸ばしたくなる。
小さな身体を抱き上げると、壊してしまいそうで震えていた手が、今では自然に背中を支え、あやすリズムを覚えている。
オムツを替え、声をかけ、返ってくる「あー」に笑う。
その一つひとつが、かつては怖くて仕方のなかったことなのに、今は千愛と過ごす日常になっていた。
完璧にできているわけではない。
それでも、千愛の表情が変わるたび、手を握り返してくれるたび、胸の奥に小さな灯がともる。
怖いから遠ざかりたいと思っていたはずなのに。
今は、もっと知りたい。
もっとそばにいたい。
この子の成長を、一つも見逃したくない。
「オムツ替えって、意外と楽しいですね」
「毎日何回もやってると、そんなこと言ってられなくなるわよ」
「えー」
「夜中の三時にウンチされてみなさい」
「それは……キツそう」
「でしょう?」
二人で笑い合う。
完璧にできる人なんて、いないのかもしれない。
橋本夫妻だって。
千愛を育てながら、迷って、失敗して、試して。
少しずつ、この子のことを知っていっている。
深愛は、そんなことを思った。
「橋本さん」
「何?」
「千愛、夜はちゃんと寝てます?」
「最近は少しまとまって寝るようになってきたわよ」
「本当ですか?」
「それでも夜中に何回か起きるけどね」
「大変ですね……」
「大変よ」
橋本夫人は笑った。
「でも、可愛いから」
「……」
深愛は、千愛を見る。
「あー」
「そうだね」
小さな頬を指でそっと撫でる。
「可愛いね」
千愛は、深愛の指を握った。
「……」
深愛は少しだけ目を細めた。
「握った」
「深愛さんのこと、ちゃんと覚えてるのかもね」
「……そうだったら、嬉しいです」
小さな手は、思ったよりも強かった。
離そうとしても、しばらく指を握ったままだった。
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