千愛が生まれて、一か月。
その日は、深愛の産後一か月健診と、千愛の一か月健診の日だった。
深愛は、里親の橋本夫人と児童相談所の職員とともに、千愛を出産した産院を訪れていた。
「悪露の状態も、子宮の戻りも特に問題ありません。もう入浴してもらって大丈夫ですよ」
「はい」
「ほかに、気になるところはありますか?」
「切ったところが、まだ痛いです」
「会陰のところ?」
「はい」
「傷自体はきれいに治ってきています。トイレのときに染みたりします?」
「はい。前よりはマシになりましたけど」
「まだ少し痛みが残ってるんですね」
「はい」
「ほかには?」
「……」
深愛は、少し考えた。
「私、本当に……出産したんだなって思います」
「え?」
「この歳で、妊娠も出産もするなんて、思ってなかったから」
深愛は、自分の腹部にそっと手を置いた。
もう、そこに千愛はいない。
「結局、育てる自信がなくて……今は、千愛を橋本さんにお願いしてるんですけど」
少し離れたところで、橋本夫人が千愛を抱いていた。
「最初は私……また逃げたんだって思っていました」
「……」
「でも」
深愛は、千愛を見る。
「千愛を産んだことは……後悔していません」
「深愛さん……」
「私は、あまり人に大切にされた経験がないから。千愛をどうやって育てたらいいのか、わからなかったのもあります」
声が少し震えた。
「でも、もしこの先に、私よりも千愛のことを大切にしてくれる人がいるなら」
深愛は、橋本夫人を見る。
「千愛には、その人のところで。その人の家族として、幸せに生きていってほしい」
「……」
「それだけは、この子が生まれる前から、変わっていません」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「橋本さん」
「はい」
「……橋本さんさえ、よければですけど」
「はい」
「私は、千愛の……両親になっていただきたいです」
「……え?」
橋本夫人が目を見開く。
「橋本さんたちなら、きっと千愛を大切に育ててくれると思ったから」
深愛は続けた。
「千愛の一時預かりを、急だったのに引き受けてくれたから」
「……」
「それに」
深愛の瞳に、涙が滲む。
「もし私の気持ちが変わって、私が千愛を育てたいと思ったら。それでもいいって、言ってくれたから」
橋本夫人の表情が揺れた。
「私は、実の両親からも……大切にされた記憶がありません」
「……」
「でも、千愛には、そんな思いをさせたくない」
涙が一粒、頬を伝った。
「だから」
深愛は、千愛を見つめる。
「私の気持ちまで大切にしてくれる人のそばで……愛されながら、生きていってほしい」
そして、深く頭を下げた。
「これからも、千愛のことを……よろしくお願いします」
「深愛さん」
橋本夫人は、千愛を抱いたまま、ゆっくり深愛のそばへ歩み寄った。
「ありがとう」
「……」
「そんなふうに思ってくれたこと、本当に嬉しいです」
「……はい」
「でもね」
深愛が顔を上げる。
「今すぐ、全部を決めなくてもいいのよ」
「……」
「私たちは今、千愛ちゃんを預かっている里親です」
橋本夫人は、腕の中の千愛を見る。
「この先、本当に家族になれるかもしれない。そうなれたら、私たちも嬉しい」
「……」
「でも、深愛さんがこれから先、どう思うかも大切にしてほしいの」
「私は――」
「今の気持ちを疑ってるわけじゃないのよ」
橋本夫人は、やさしく笑った。
「ただ、深愛さんだって、まだ十八歳でしょう?」
「……はい」
「これから学校に行ったり、働いたり、いろんな人に出会ったりして。今までとは違う人生を生きていくことになる」
「……」
「その中で、それでもやっぱり千愛ちゃんを私たちに託したいと思ってくれたなら」
橋本夫人は、千愛を少し抱き直した。
「そのときは、私たちもきちんと向き合います」
「……はい」
「それまでは」
橋本夫人は微笑む。
「私たちが、千愛ちゃんを大切に育てます」
「……お願いします」
「はい」
千愛は何も知らず、橋本夫人の腕の中で眠っていた。
深愛はその寝顔を見つめる。
小さな指も、ふっくらした頬も、かすかな寝息も、すべて自分の身体から生まれた命なのだと思うと、胸の奥が引き裂かれるようだった。
本当なら、この腕で抱きしめていたい。
泣けばあやし、眠ればそばで見守り、毎日の成長を一番近くで見届けたい。
けれど、自分にはそれができない。
千愛を手放すことは、千愛を愛していないからではなかった。
愛しているからこそ、自分の不安定な手の中に閉じ込めてしまうことが怖かった。
深愛は、震えそうになる指を握りしめた。
この子を自分の子だと言い切れないことが、何より苦しかった。
それでも、橋本夫人の腕の中で眠る千愛を見ていると、迷いの奥に確かな思いが生まれた。
この人たちなら、千愛が自分を必要とするとき、迷わず抱きしめてくれる。
自分がそばにいられない時間も、この人たちが千愛を守ってくれる。
そう思えた。
だから、手放すのは怖いのに、託すことは怖くなかった。
深愛は、眠る千愛に向かって、声にならない言葉をそっと落とす。
ごめんね。
大好きだよ。
涙を拭うこともできないまま、それでも千愛がこの人の腕の中にいることを、もう怖いとは思わなかった。
自分の手から離れていく現実を受け止めながら、深愛は千愛の未来を、この人たちに託す。
そして初めて、千愛を失うのではなく、守ってもらえるのだと思えた。
深愛は、滲む千愛の寝顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
胸の奥に残る葛藤を抱えたまま、それでも安心していた。
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