守りたい。
その思いは、いつからこんなにも強くなったのだろう。
遙花が一人で不安を抱え込んでしまうことも。
蒼生が傷つくことも。
もう、見過ごしたくない。
自分がそばにいることで、少しでも二人の不安を減らせるのなら。
何か起こる前に手を伸ばせるのなら。
それだけでいいと思っていた。
けれど、遙花を思う時に胸の奥に生まれる感情は、もう単なる同情でも義務感でもなかった。
彼女を守りたい。
一人の女性として、大切にしたい。
そして蒼生も含めた二人のいる場所を、自分の帰る場所にしたい。
そう思っている。
「……あ、わかります?」
「急に顔に出ました」
「え」
玲は慌てて頬に触れる。
「そんなに?」
「はい。さっきまでずっと弁護士さんの顔だったのに」
「……しまった」
玲は小さく笑った。
「これもオフレコでお願いします」
「はい」
「絶対ですよ」
「わかりました」
「……なら、いいです」
そう言いながら。
玲の顔は、まだ少しだけ緩んでいた。
*
それからしばらくして。
依頼者と妹の相続放棄の申述は、無事に家庭裁判所に受理された。
「これで、お二人とも今回の相続からは外れました」
「……終わったんですね」
「はい」
玲が受理通知書を机の上に置くと、女性は大きく息を吐いた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ。無事に終わってよかったです」
これで、父の遺産について話し合う必要もない。
再婚相手や異母弟たちと、顔を合わせる必要もない。
依頼者が最初に望んでいた形で、この件は終わった。
――はずだった。
「ただ、一件だけ」
「……まだ何かあるんですか?」
女性の顔に、一瞬警戒が浮かぶ。
「あ、大丈夫です。トラブルではありません」
「よかった……」
「先方の代理人弁護士から連絡がありまして」
「はい」
「お父様の再婚相手の次男さんから、あなたにお伝えしたいことがあるそうです」
「……あの女性の元交際相手の方ですか?」
「はい」
玲は書面に目を落とす。
「先日の件で、ご自身の元交際相手が突然こちらへ押しかけ、怖い思いをさせてしまったことについて、直接謝罪したいとのことです」
「……」
「それから、相続とは別に、お詫びとして金銭をお渡ししたいとも」
「金銭……」
「はい。もちろん、受け取る必要も、お会いになる必要もありません」
「……そうですか」
「どうされます?」
女性は少しの間、黙っていた。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「……もう、赤の他人なので」
「はい」
「その方自身が悪いわけではないのかもしれません。でも……もう、これ以上関わりたくないです」
「わかりました」
「お金も、いりません」
「謝罪についても?」
「気持ちだけで十分です」
玲は静かに頷いた。
「では、直接お会いすることも、お詫びの金銭を受け取ることもせず、代理人を通して、お気持ちだけ受け取ったとお返事しましょうか」
「はい。それでお願いします」
「承知しました」
玲はメモを取る。
「謝罪の意向は承った。ただし、依頼人は本件をもって一切の関係を終了させたい意向であり、直接の面会と金銭の受領は辞退する――そのような趣旨で伝えておきます」
「お願いします」
「はい」
女性は、しばらく受理通知書を見つめていた。
「なんというか……」
「はい?」
「父が亡くなったって連絡が来た時は、こんなことになるなんて思ってませんでした」
「そうですよね」
「知らない家族がいて、知らない人が突然家に来て、お金をくれって言われて……」
「かなり濃かったですね」
「本当に」
二人とも、思わず苦笑する。
「でも」
女性は受理通知書をそっと鞄にしまった。
「これで、本当に終わりですよね」
「はい」
玲は頷いた。
「相続については、これで終了です」
「……よかった」
その一言に、これまで張り詰めていたものがすべて滲んでいた。
「お疲れさまでした」
「神城先生も」
「ありがとうございます」
女性は立ち上がる。
「先生にお願いしてよかったです」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
「新人さんとは思えませんでした」
「……それ、まだ覚えてたんですね」
「もちろん」
「できれば忘れてください」
「無理です」
「ですよね」
二人で少し笑った。
女性を見送ったあと。
玲は、机の上に残った事件ファイルを閉じた。
この事件で、依頼者が求めていたのは、遺産でも、謝罪でも、金銭でもなかった。
父の死をきっかけに突然押し寄せてきた、知らない家族との関係。
そこから、離れることだった。
以前の玲なら、相続できる財産を確保することや、謝罪や金銭を受け取れるようにすることが、依頼者の利益なのだと考えていたかもしれない。
けれど、依頼者は相続放棄を選んだ。
面会も、お詫びの金銭も断った。
得られるものがあるからといって、必ず受け取らなければならないわけではない。
権利を使うことだけが、依頼者を守る方法でもない。
関わらない。
受け取らない。
離れる。
その選択を、法的に確かな形で実現することもまた、弁護士の仕事なのだ。
玲は、閉じた事件ファイルにそっと手を置いた。
依頼者が何を得るかだけではなく。
何を手放し、何から離れたいのかまで見届ける。
その決断を正しいか間違っているかで裁くのではなく、本人が望む終わりとして形にする。
かつての玲は、依頼者のためを思うほど、より多くを得させ、より強く争わせることが弁護士の役割だと考えていた。
けれど今は違う。
依頼者が選んだ道を、自分の価値観で上書きしないこと。
弁護士が決めるのではない。
決めるのは、依頼者自身だ。
自分にできるのは、その決断が誰かに踏みにじられないよう、法の届くところで支えることだけだった。
玲は、閉じた事件ファイルから手を離した。
依頼者が手放したものを、惜しいとは思わなかった。
その人が自分の人生を取り戻すために選んだのなら、その選択は、もう十分に価値がある。
窓の外では、夕暮れの光が静かに街を包んでいた。
玲はしばらくその光を見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
次の依頼者が、どんな答えを選ぶとしても。
その答えを、最後まで尊重できる弁護士でありたい。
そう思えるようになったことを、玲はまだ誰にも話していなかった。



