リーガルウェポン


 相続放棄の手続きを進めていた、ある日のことだった。
 依頼者から、玲のスマートフォンに電話が入った。
「先生……」
「はい。どうしました?」
 返事がない。
 かすかな息遣いだけが、受話口の向こうで震えていた。

「先生……今、家の前に……あの人が来ているんです」
「落ち着いてください。あの人、というのは?」
「あの……次男さんの元交際相手です」
「え……」
 玲の思考が、一瞬止まった。

「どうして住所を……」
「わかりません。さっき急にインターホンを鳴らされて……何度も……」
 その時、玄関の向こうから何かを叩く音が響いた。
 依頼者が息を呑む気配が、電話越しにも伝わってくる。
「今も、そこに?」
「はい……帰ってくださいって言っても、ずっと……」
「玄関は開けていませんね?」
「開けてません。でも、怖くて……」
 そして。
 女性は、玄関越しにこう言ったという。

   ☆
「お金いらないんでしょ?」
 インターホン越しの声が、妙に近かった。
「……何の話ですか?」
「あいつと結婚しても、私には遺産入ってこないってわかったから」
「……」
「だから、あなたにお願いする」
「何をですか?」
「あなたが一旦相続してよ」
「は?」
「それで、そのお金を私にちょうだい」
 一瞬。
 本当に何を言われているのかわからなかった。

「……意味がわかりません」
「あいつさ、やることだけやって子ども孕ませといて、認知もしてくれないし、慰謝料も養育費も払ってくれないの」
「それは私には関係ありません」
「だから頼んでるんじゃん」
「……」
「法定相続人なんでしょ?」
「そうですが」
「しかも、お金いらないんでしょ?」
「だから何ですか」
「じゃあ私にくれればいいじゃん。この子のためにも」
「意味がわかりません」
 インターホンの向こうで、女が舌打ちした。
「お引き取りください」
「はあ?」
「私はあなたとは何の関係もありません」
「冷たくない?」
「冷たいとか、そういう問題ではありません」
「子どもがいるんだけど」
「それも私とは関係ありません」
「最低」
「何とでも言ってください」
 女は帰るどころか、玄関先に居座ったまま声を荒らげた。

「私は父とは何十年も接点がありません。あなたとも、あなたのお子さんとも赤の他人です」
「でも相続人なんでしょ」
「現在、相続放棄の手続き中です」
「だったらやめればいいじゃん」
「……何を?」
「相続放棄」
 女は当然のことのように言った。

「手続き中なら、まだ間に合うでしょ?」
「……」
「取り下げて。一旦あなたが遺産をもらって、それを私に渡してよ」
「いい加減にしてください」
「どうせいらないお金なんでしょ?」
「いらないから相続放棄しているんです!」
「じゃあ私にちょうだいって言ってるじゃん!」
「お帰りください!」
「帰らない」
「警察を呼びますよ」
「は?」
「これ以上居座るなら、通報します」
「脅しのつもり?」
「違います」
 女性は震える手でスマートフォンを握った。
「警告です」

   ☆

「……という状態で」
「……」
 玲は、しばらく言葉が出なかった。
「先生?」
「……すみません」
 一度、額を押さえる。

「ちょっと想像以上でした」
「ですよね……」
「今もいますか?」
「はい。ドアの外でずっと騒いでます。帰る気配がありません」
「玄関は絶対に開けないでください」
「はい」
「もう直接話す必要もありません。今から警察に通報してください」
「警察……」
「大丈夫です。『面識のない女性が突然自宅に押しかけ、帰るよう求めても玄関先に居座っている』と、そのまま説明してください」
「わかりました」
「僕も向かいます」
「先生も?」
「依頼人の自宅にまで押しかけている以上、このままにはできません」
「……ありがとうございます」
「ただし、僕が着くまで対応しようとしないでください」
「はい」
「何を言われてもドアを開けない。相続についても、もう説明しなくていいです」
「……」
「今後の窓口は僕です」
 玲の声が少し低くなった。

「あなたが直接、話をする必要はありません」
「わかりました」
「では、一度切ります。警察に連絡してください」
「はい」
 通話が切れた。

 数秒。

 玲はスマートフォンを見つめたまま、動かなかった。

「……なんだそれ」
 思わず、声が漏れた。