数日後。
「父には、借金などはないそうです。預貯金などを合わせて、遺産は一千万円ほどだと聞いています」
「なるほど」
玲は手元の資料に目を落とした。
被相続人には、再婚した妻がいる。
五十八歳。フィリピン出身の女性。
その妻との間に、三十歳と二十七歳の息子が二人。
「お父様の現在の奥様と、そのお子さんが二人。そして、あなたと妹さん」
「はい」
「お父様のお子さんは、全部で四人という認識で間違いありませんか?」
「探偵さんの調査では、そうでした」
「わかりました」
玲は簡単な家族関係図を作る。
「現時点で確認できている範囲では、お父様の配偶者と、四人のお子さんが相続人になります。戸籍でも確認していきますね」
「私たちも……ですよね」
「はい。ご両親が離婚されていても、親子関係そのものがなくなるわけではありません。長年交流がなかったとしても、実子である以上、原則として相続人になります」
女性は複雑そうに視線を落とした。
「二歳の時に離婚しているので……正直、父親という感覚すらなくて」
「そうですよね」
「顔も、ほとんど覚えていません」
妹にいたっては、生後六か月だった。
父親についての記憶そのものがない。
「それなのに、亡くなったから相続人ですって突然言われても……」
「戸惑いますよね」
「はい。それで、父のことを少し調べたんです」
「探偵に依頼されたんですね」
「はい」
そこで初めて知った。
父が再婚していたこと。
新しい妻との間に、二人の息子がいたこと。
長男はすでに結婚し、二人の娘がいる。
次男にも、一歳になる男の子がいるという。
ただし――。
「その次男の方は、お子さんのお母さんとは結婚されていないんですね」
「そうみたいです。今はもう別れていて、子どもは女性側が育てているそうです」
「認知については?」
「そこまでは、まだわかりません」
「次男の方がご存命ですから、そのお子さんは今回のお父様の相続人にはなりません。ただ、家族関係を整理するため、情報として確認しておきます」
女性は頷いた。
「それで……その女性が、お父さんが亡くなったことを知ったらしくて」
「はい」
「遺産があるとわかった途端、その次男の人に結婚を迫っているそうなんです」
「……なるほど」
「結婚すれば、自分も遺産をもらえると思っているみたいで」
玲は一瞬、目を伏せた。
「そこは、少し誤解がありますね」
「え?」
「仮に今、その次男の方と結婚しても、その女性がお父様の相続人になるわけではありません」
「そうなんですか?」
「はい。今回のお父様の相続について、息子さんのお嫁さんになったからといって、その女性が直接遺産を相続できるわけではありません」
「じゃあ……結婚しても、遺産はもらえない?」
「少なくとも、今回のお父様の相続人にはなりません。次男の方が相続した財産が、その後の生活に影響する可能性はありますが、それとは別の話です」
「なるほど……」
「それで、結婚を断られた後は?」
「慰謝料と養育費を払えと言っているそうです」
「それについては、相続とは完全に別の問題ですね」
「やっぱり、面倒ですよね」
「少なくとも、いくつかの法律問題が重なっています」
女性は大きく息を吐いた。
「だから、嫌なんです」
「はい」
「父とは何十年も会っていないんです。それなのに、亡くなった途端に、知らない人たちの家族問題に巻き込まれて……」
女性は膝の上で手を握った。
「一千万円あると聞きました。でも、いりません」
「……」
「妹とも話しました。私たちは一円もいらないから、そちらの家族だけでやってほしいって」
「相続放棄をしたい、と」
「はい」
玲は静かに頷いた。
「わかりました」
そして、改めて通知書の日付を確認する。
「この通知を受け取ったのが一週間前。それ以前には、お父様が亡くなったことをご存じなかった」
「はい」
「遺産には一切手をつけていない?」
「もちろんです」
「預金を引き出したり、財産を売却したり、お父様名義のものを持ち帰ったりも?」
「何もしていません。そもそも何がどこにあるのかも知りません」
「それなら、その状態を維持してください」
「はい」
「相続放棄をするのであれば、相続財産を勝手に処分しないことが大切です。処分の仕方によっては、相続を承認したものとみなされる可能性があります」
「触らないほうがいい、ということですね」
「はい。判断に迷うことがあれば、必ず先に確認してください」
「わかりました」
「今後、先方から『とりあえず印鑑だけ押してください』とか、『この書類に署名してください』と言われても、僕に確認するまでは何もしないでください」
「はい」
「それと――」
玲は女性をまっすぐ見た。
「先方とは、直接会わなくて大丈夫です」
「……本当ですか?」
「はい」
その瞬間。
女性の肩から、わずかに力が抜けた。
「こちらで受任すれば、今後の連絡窓口は僕に一本化します。相手方の弁護士から連絡が来た場合も、僕が対応します」
「よかった……」
「あなたと妹さんについては、それぞれ家庭裁判所に相続放棄の申述をします」
「お願いします」
女性は、深く頭を下げた。
「もう、父の家族とは関わりたくありません」
「わかりました」
玲は静かに答えた。
「では、そのための手続きをしましょう」
遺産を得るためではない。
遺産から、離れるための依頼。
弁護士の仕事には、こんな形もある。
「これ以降、先方との連絡は僕を通してください」
「はい」
「相続放棄の申述が家庭裁判所に受理されるところまで、僕が担当します」
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