「『あなたは、原告があなたの交際相手に好意を示し、交際を迫ったと主張していますね』」
武蔵の声が、当時の記憶をなぞる。
「『では、その事実を裏づける証拠を示してください』」
当然、出なかった。
「『原告はあなたの交際相手に対し、接触を拒絶する意思を事務所を通して複数回明示しています。このメッセージ履歴について、どう説明しますか』」
次。
「『あなたは偶然遭遇したと述べています。しかし事件の三日前から原告の仕事先を調べていますね』」
次。
「『そして事件当日、あなたは刃物を購入している』」
次。
「『その刃物を所持した状態で、原告が現れる場所で待っていた』」
玲の背筋に、かすかな寒気が走った。
「感情論は、一切なかった」
「……」
「最後まで、証拠と証言だけ」
玲は祖父の名前を見つめた。
神城英一郎。
「相手が何を言っても、英一郎先生は『では、それを裏づけるものは?』で返した」
「……逃げられない」
「そう」
武蔵が頷く。
「一つずつ矛盾を潰していって、最後には何も残らなかった」
静かに。
相手の逃げ道を塞ぎ。
証拠だけで。
とどめを刺す。
「……なんか」
「ん?」
「僕と、似てますね」
「気づいた?」
「え」
「玲。君が法廷で相手を追い詰めるとき、そっくりだよ」
玲は少し眉を寄せた。
「そんなつもりは……」
「言い返すんじゃない。証拠を出す。相手が誤魔化したら、その誤魔化し自体を次の材料にする」
武蔵は一拍置いて言った。
「血かな」
「そこ遺伝するんですか?」
「少なくとも、君のお父さん経由でその切れ味はだいぶ濃縮されてる気はする」
「父さんを何だと思ってるんですか」
「神城家の血は怖いよ」
「佐々木先生」
「冗談だよ」
そう言ってから、武蔵はもう一度記録を見た。
「でもね、玲」
「はい」
「あの裁判を見て、僕は一つ覚えた」
「何をですか」
「本当に怒っているときほど、弁護士は冷静でなきゃいけない」
玲は黙って聞く。
「感情は、依頼人のために使うものだ。法廷で自分が気持ちよくなるためにぶつけるものじゃない」
その言葉が、玲の中に静かに落ちた。
「腹が立つからこそ証拠を集める。許せないからこそ、一つも取りこぼさない。そして――」
武蔵は人差し指で、記録を軽く叩いた。
「最後は法に言わせる」
玲は、もう一度祖父の名前を見つめた。
そうか。
だから、おじいちゃんは怒鳴らなかったのだ。
娘を傷つけられて。
身体の一部まで奪われて。
本当なら、誰よりも怒鳴りたかったはずなのに。
法廷に立った瞬間。
父親の怒りを、証拠に変えた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
「おじいちゃん」
「ああ」
「僕も……そうなれるかな」
武蔵が少しだけ笑った。
「もう片足くらいは突っ込んでると思うけどね」
「片足だけですか」
「君の場合、もう片方の足がたまに“最終兵器”になるから」
「……」
「刺しすぎるなよ。言葉で」
「刺された経験なら、もう十分です」
「うまいこと言ったつもり?」
「全然」
玲は再び、記録へ視線を落とした。
――原告訴訟代理人 神城英一郎。
玲が弁護士になる、ずっと前。
玲が生まれるよりも前から。
祖父は法廷に立っていた。
守りたい人のために。
怒りを叫ぶのではなく。
証拠へ変えて。
そして法に、答えを出させるために。
玲は、記録の上にそっと指を置いた。
怒りを、忘れない。
けれど、怒りに飲まれない。
証拠を集める。
一つも取りこぼさない。
逃げ道を、一つずつ塞ぐ。
そして最後は、法に言わせる。
「……なれるよね」
玲は小さく呟いた。
祖父に向けてか。
叔母に向けてか。
それとも、これから法廷に立つ自分自身に向けてか。
答えは、もう必要なかった。
この名前の続きを、自分が生きていく。
神城英一郎の孫としてではなく。
神城玲という、一人の弁護士として。
玲は記録を閉じた。
乾いた音が、静かな事務所に落ちる。
遠い日の法廷は、まだ胸の奥にある。
そして玲は、次の事件記録へ手を伸ばした。



