叔母のエリサは、当時すでに人気モデルだった。
そのエリサに、執拗につきまとっていた男がいた。
何度拒絶されても、男は一方的に好意を募らせた。
しかも、その男には交際相手がいた。
にもかかわらず、その女が怒りを向けた先は、自分の恋人ではなかった。
エリサだった。
――あんたが誘惑したから。
――あんたさえいなければ。
そんな一方的な逆恨みの末に。
エリサは、刺された。
「職業柄、傷一つつくことだって命取りになりかねないのに……」
モデル。
身体そのものが仕事の一部だ。
もちろん、それ以前の問題でもある。
「健康だった身体の一部が、ある日突然なくなるって……」
玲は記録の文字を目で追った。
左卵巣摘出。
たった一行。
記録上では、それだけだった。
けれど。
その一行に至るまでに、どれだけの恐怖があったのか。
どれだけ痛かったのか。
目が覚めて、自分の身体の一部を失ったと知らされたとき、叔母は何を思ったのか。
「考えただけでも、やるせないです」
「玲……」
少しの沈黙のあと、武蔵が息を吐いた。
「しかしまあ……」
「はい?」
「君の身内は、よく刺されるな」
「……」
玲は無意識に、自分の右背部へ手を回した。
「僕もこの間刺されましたからね」
「そうだったな」
「しかも僕、職務中でしたけど」
「夜道には気をつけないとな」
「僕は白昼堂々でしたよ」
「ああ、そうだった」
「全然教訓にならないじゃないですか」
「玲は目立つからな」
「いや、目立つ目立たないの問題じゃなくないですか?」
「まあ、それはそうなんだけど」
「なんで一回理由を探そうとしたんですか」
「傾向として、君は事件に巻き込まれやすい気がして」
「何ですか、その不名誉な分類」
玲は小さくため息をついた。
そのまま、もう一度記録へ目を落とす。
そして。
祖父の名前を見つめた。
「……おじいちゃん」
「うん?」
「この法廷、どんな思いで立ったんだろう」
自分の娘だ。
しかも、何の落ち度もない。
勝手につきまとわれ。
勝手に恨まれ。
身体を傷つけられた。
そのうえ、一生取り戻すことのできないものまで奪われた。
玲には想像しきれなかった。
自分だったら、冷静でいられるのだろうか。
弁護士になった今だからこそ、その難しさがわかる。
「その法廷だけどさ」
「はい?」
武蔵が少しだけ懐かしむような目をした。
「僕、傍聴してたんだ」
「……え?」
玲は顔を上げた。
「その裁判」
「ええっ!?」
思わず立ち上がる。
「佐々木先生が!?」
「ああ。当時、僕は弁護士になったばかりだったからね。自己研鑽も兼ねて、いろんな裁判を傍聴してたんだ。……英一郎先生が、自分の娘の事件をどう扱うのか……気になってた」
「……どうだったんですか」
武蔵の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「ひどいものだったよ」
「……」
「被告側は最後まで、自分にも事情があったと言い続けていた。『彼を取られると思った』とか、『原告にも原因がある』とかね」
玲の眉間に力が入った。
「叔母は、何度もストーカー行為を拒絶してるのに」
「そう」
「誘惑した証拠なんて」
「なかった」
玲の胸の奥が、ざらりと波立つ。
「それでも、賠償責任を少しでも軽くしたかったんだろう。だから原告側にも非があったように見せようとした」
「おじいちゃん……怒らなかったんですか」
「怒っていただろうね」
「え?」
「父親としては」
武蔵は静かに言った。
「でも、法廷では一度も見せなかった」
玲は黙って続きを待った。
「声を荒らげない。机を叩かない。相手を罵倒しない」
武蔵の指が机を軽く叩く。
「相手の証言を確認する」
トン。
「客観的証拠と照合する」
トン。
「食い違った部分を指摘する」
トン。
「逃げ道を一つ塞ぐ」
そして。
「次の証拠を出す」
トン。
「また一つ、塞ぐ」
玲は何も言えなかった。
「静かだったよ」
武蔵が言う。
「ものすごく静かだった」
だからこそ。
「怖かった」
「……おじいちゃんが?」
「ああ」
武蔵が小さく笑う。
「怒鳴る弁護士なら、まだ感情が見える。でも英一郎先生は違った」
淡々と。
ただ事実だけを置いていったのだという。



