裁判が始まってから、すでに三年が経っていた。
原告は当時六十四歳の男性だった。事故のあと、男性は半年間、ほぼ毎日のように病院へ通っていた。診断書も取り、交通事故が原因で後遺症が残った、治療費が支払われないのは納得できない、精神的苦痛に対する慰謝料も上乗せして払えと訴え続けていた。
しかし、その主張には不審な点が多かった。
争点と証拠の整理が進み、裁判はいよいよ本人尋問の日を迎えた。
三年ぶりに顔を合わせた二人は、法廷の中央で向かい合った。
冒頭、二人は嘘偽りのないことを証言すると宣誓した。
先に被告である女性の本人尋問が行われた。
事故当時の状況、男性から治療費を求められた経緯。祖父の問いに、彼女は震えながらも一つずつ答えていった。
そして、原告本人の尋問へ移った。
原告側代理人による主尋問が終わる。
「では、被告代理人から反対尋問を」
裁判長の声が響いた。
祖父は立ち上がり、手元の記録に目を落とした。男性へ視線を向けると、静かな声で問いを重ねていく。
「あなたは、事故の直後から手にしびれが出たと主張していますね」
「はい。事故の衝撃で、手に後遺症が残ったんです。だから半年間も通院した。治療費も慰謝料も、当然支払われるべきです」
男性は強い口調で言い切った。
祖父はすぐには反論しなかった。男性の答えを書き留め、提出された診断書を法廷のモニターに映した。
「では、確認します。こちらは、あなたが提出した診断書ですね」
「そうです」
「診断書には、手のしびれについて、こう記載されています。『糖尿病による手のしびれ』」
男性の表情が、わずかにこわばった。
「……それは、医師がそう書いただけです。事故のあとに症状が出たことに変わりはありません」
「あなたには、事故以前から中度の糖尿病の既往歴がありましたね」
「ありましたが、事故までは手のしびれなどありませんでした」
祖父は、男性の過去の診療記録を示した。そこには、事故の数年前から糖尿病の治療を受け、手足のしびれについて医師に相談していた記録が残されていた。
「こちらの診療記録には、事故の二年前から、手のしびれを訴えていたとあります。さらに、事故後に受診した医師も、しびれの原因を糖尿病によるものと判断している。あなたは、事故が原因で後遺症が残ったと主張していますが、診断書には事故が原因だとは書かれていません」
紙をめくる音が、やけに大きく聞こえた。傍聴席から小さなどよめきが起こり、裁判官の視線が男性へ向けられる。
男性は言葉に詰まり、額に汗を浮かべた。
玲の胸が、どくんと鳴った。怖いのに、目を逸らせなかった。
祖父は男性を責め立てなかった。声を荒らげることも、勝ち誇ることもない。ただ、事故当時の写真、車両の損傷状況、通院記録、診療記録、そして診断書を順番に示し、一つの事実から次の事実へと進んでいく。
「あなたは、事故によって手のしびれが残ったから、半年間ほぼ毎日通院したと証言しましたね」
「はい。痛みとしびれがひどかったからです」
「しかし、事故当時の車両の損傷は、ナンバープレートの一部が少しへこんだ程度です。車内の映像にも、あなたが強い衝撃を受けた様子はありません。事故の翌日に受診した際も、診療記録には『外傷なし』と記載されています」
男性は黙り込んだ。
「それでも、事故が原因で手のしびれが残ったと言い切れますか」
「……事故のあとに症状が出たんです」
「症状が事故のあとに確認されたことと、事故が症状の原因であることは、同じではありません」
祖父は淡々と続けた。
「では、あなたは事故による衝撃をどの程度感じましたか?」
「それはものすごい衝撃でした。バンッと後ろから思いきりぶつけられて。だから、むち打ちの症状が出たんです。首が痛くて回らないくらい。手もしびれて、未だに治りません」
男性はまくし立てるように話した。
「それだけ衝撃が大きいと言うことは、車のヘッドレストに頭を打ち付けるほどだったのですか?」
「……それは、覚えていません」
「はい?」
「だから、覚えていません。衝撃が強すぎて……」
「甲二号証の三、及び乙二号証の四。もう一度確認しましょうか。当時の車の損傷具合の写真です。ぱっと見、どこに損傷があるかもわかりません。双方の車のナンバープレートが少しへこんだ程度です。しかし、あなたは今こう証言しました。『ものすごい衝撃でした』と。でも、こうも言いました。車のヘッドレストに頭を打ち付けるほど強い衝撃を受けたのかという質問に、『覚えていません』と」
「それは……覚えていません。三年も前の話なので」
「三年前だということは覚えているんですね」
「……だから、それは。それくらいは……」
男性が言葉を濁し始めた。
祖父は顔色一つ変えない。そして続ける。
「あなたの診断書には、手のしびれの原因として『糖尿病』と記載されています。事故が原因だと裏付ける記載はありません。過去の診療記録にも、事故以前から手のしびれを訴えていた事実が残っている。これらを踏まえても、事故が原因だと主張するのですか」
男性は答えなかった。
沈黙が、法廷の中央に重く落ちた。
原告は当時六十四歳の男性だった。事故のあと、男性は半年間、ほぼ毎日のように病院へ通っていた。診断書も取り、交通事故が原因で後遺症が残った、治療費が支払われないのは納得できない、精神的苦痛に対する慰謝料も上乗せして払えと訴え続けていた。
しかし、その主張には不審な点が多かった。
争点と証拠の整理が進み、裁判はいよいよ本人尋問の日を迎えた。
三年ぶりに顔を合わせた二人は、法廷の中央で向かい合った。
冒頭、二人は嘘偽りのないことを証言すると宣誓した。
先に被告である女性の本人尋問が行われた。
事故当時の状況、男性から治療費を求められた経緯。祖父の問いに、彼女は震えながらも一つずつ答えていった。
そして、原告本人の尋問へ移った。
原告側代理人による主尋問が終わる。
「では、被告代理人から反対尋問を」
裁判長の声が響いた。
祖父は立ち上がり、手元の記録に目を落とした。男性へ視線を向けると、静かな声で問いを重ねていく。
「あなたは、事故の直後から手にしびれが出たと主張していますね」
「はい。事故の衝撃で、手に後遺症が残ったんです。だから半年間も通院した。治療費も慰謝料も、当然支払われるべきです」
男性は強い口調で言い切った。
祖父はすぐには反論しなかった。男性の答えを書き留め、提出された診断書を法廷のモニターに映した。
「では、確認します。こちらは、あなたが提出した診断書ですね」
「そうです」
「診断書には、手のしびれについて、こう記載されています。『糖尿病による手のしびれ』」
男性の表情が、わずかにこわばった。
「……それは、医師がそう書いただけです。事故のあとに症状が出たことに変わりはありません」
「あなたには、事故以前から中度の糖尿病の既往歴がありましたね」
「ありましたが、事故までは手のしびれなどありませんでした」
祖父は、男性の過去の診療記録を示した。そこには、事故の数年前から糖尿病の治療を受け、手足のしびれについて医師に相談していた記録が残されていた。
「こちらの診療記録には、事故の二年前から、手のしびれを訴えていたとあります。さらに、事故後に受診した医師も、しびれの原因を糖尿病によるものと判断している。あなたは、事故が原因で後遺症が残ったと主張していますが、診断書には事故が原因だとは書かれていません」
紙をめくる音が、やけに大きく聞こえた。傍聴席から小さなどよめきが起こり、裁判官の視線が男性へ向けられる。
男性は言葉に詰まり、額に汗を浮かべた。
玲の胸が、どくんと鳴った。怖いのに、目を逸らせなかった。
祖父は男性を責め立てなかった。声を荒らげることも、勝ち誇ることもない。ただ、事故当時の写真、車両の損傷状況、通院記録、診療記録、そして診断書を順番に示し、一つの事実から次の事実へと進んでいく。
「あなたは、事故によって手のしびれが残ったから、半年間ほぼ毎日通院したと証言しましたね」
「はい。痛みとしびれがひどかったからです」
「しかし、事故当時の車両の損傷は、ナンバープレートの一部が少しへこんだ程度です。車内の映像にも、あなたが強い衝撃を受けた様子はありません。事故の翌日に受診した際も、診療記録には『外傷なし』と記載されています」
男性は黙り込んだ。
「それでも、事故が原因で手のしびれが残ったと言い切れますか」
「……事故のあとに症状が出たんです」
「症状が事故のあとに確認されたことと、事故が症状の原因であることは、同じではありません」
祖父は淡々と続けた。
「では、あなたは事故による衝撃をどの程度感じましたか?」
「それはものすごい衝撃でした。バンッと後ろから思いきりぶつけられて。だから、むち打ちの症状が出たんです。首が痛くて回らないくらい。手もしびれて、未だに治りません」
男性はまくし立てるように話した。
「それだけ衝撃が大きいと言うことは、車のヘッドレストに頭を打ち付けるほどだったのですか?」
「……それは、覚えていません」
「はい?」
「だから、覚えていません。衝撃が強すぎて……」
「甲二号証の三、及び乙二号証の四。もう一度確認しましょうか。当時の車の損傷具合の写真です。ぱっと見、どこに損傷があるかもわかりません。双方の車のナンバープレートが少しへこんだ程度です。しかし、あなたは今こう証言しました。『ものすごい衝撃でした』と。でも、こうも言いました。車のヘッドレストに頭を打ち付けるほど強い衝撃を受けたのかという質問に、『覚えていません』と」
「それは……覚えていません。三年も前の話なので」
「三年前だということは覚えているんですね」
「……だから、それは。それくらいは……」
男性が言葉を濁し始めた。
祖父は顔色一つ変えない。そして続ける。
「あなたの診断書には、手のしびれの原因として『糖尿病』と記載されています。事故が原因だと裏付ける記載はありません。過去の診療記録にも、事故以前から手のしびれを訴えていた事実が残っている。これらを踏まえても、事故が原因だと主張するのですか」
男性は答えなかった。
沈黙が、法廷の中央に重く落ちた。



