一方、玲は裁判を終え事務所に戻るところだった。
「何だ?」
緊迫した空気を感じた玲。
聞き覚えのある声の先にいたのは――遙花と蒼生。
「あれは……!」
女性相談支援センターの職員。その向かいに、刃物を持った男が。
「先輩!」
気がつけば、玲は走り出していた。
そして、遙花と蒼生の元へ駆け寄る。
「玲君?」
「先輩、下がって」
玲は、遙花の前に立った。
「玲君……」
「蒼生君を抱いて。絶対、離さないで」
男の手には、刃物。
「おい、お前……不倫相手か。お前、俺に隠れてこの男と不倫していたんだな」
男は一方的にまくし立て、逆上する。
「僕は弁護士です」
「嘘つくんじゃねえよ」
(話、通じなさそうだな)
自分の妻と子に刃を向ける時点で論外だ。
常軌を逸している。
玲は目の前の男を一瞥する。
遙花の腕の中では、生後四カ月の蒼生が泣いていた。
この男が、先輩の夫。
そして、蒼生君の……実父。
遙花を傷つけ、蒼生の存在を否定した。
(許さない、絶対に)
玲は、溢れ出しそうな感情をぐっと堪えた。
次の瞬間。
男が踏み込んだ。
「玲君!」
玲はとっさに左腕を上げる。
刃が、左肩を走った。
「っ……!」
鋭い痛みに、身体が揺れる。
「玲君!」
「来ないで!」
珍しく強い声だった。
玲の左肩から、血が滲んでいる。
それでも玲は、一歩も退かなかった。
むしろ遙花と蒼生を庇うように、さらに前へ出る。
「先輩」
息を整えながら、低く言う。
「職員さんのところまで下がって」
「でも――」
「早く!」
遙花が息を呑む。
玲がこんな声を出すのを、初めて聞いた。
蒼生君が激しく泣き出す。
「ああああっ!」
その声に、玲の表情が一瞬だけ歪んだ。
怖がらせている。
早く終わらせなければ。
「大丈夫だからね、蒼生君」
玲は小さく呟いた。
「パパじゃないけど……」
ほんの一瞬。
苦しそうに笑う。
「守るくらいは、させてよ」
玲は左肩を押さえながら、遙花たちから距離を取らせるように動いた。
自分が狙われるなら、それでいい。
先輩に近づかなければ。
蒼生に刃が向かなければ。
それだけでいい。
「色目使って弁護士に取り入ろうってか。馬鹿な女だ」
「彼女を侮辱するな」
「部外者は黙ってろ」
部外者、か。
妻に刃を向け、子どもすら切り捨てる。
もう、夫でも父親でもない。
目の前にいるのは――ただの加害者だ。
部外者の自分の方が、ずっと――
二人を守りたいと思っている。
「先輩は、蒼生君を守って」
玲は男から視線を逸らさない。
「僕は二人を守るから」
「玲君……!」
「部外者に用はない。これは、俺とそこにいる女の問題だ。赤の他人が口出すんじゃねえよ。こいつをどうしようが、俺の勝手だ。ガキはどうでもいい。この女が死のうが、俺の知ったことじゃねえ。お前も死にたくなかったら、二度と関わるな」
男は玲に刃先を向けて言い放った。
「それ以上は、あなたが余計に不利になりますよ」
玲は毅然と返す。
「うるせえ、この減らず口が! 部外者は黙ってろって言ってるだろうが!」
男がナイフを振りかざす。
その直後。
通りの向こうから警察官の声が聞こえた。
「警察です!」
玲の緊張が、ほんのわずかに緩む。
複数の警察官がこちらへ駆けてくる。
――間に合った。
玲の肩から、わずかに力が抜けた。
あとは警察に任せればいい。
そう思って。
ほんの一瞬だけ、振り返った。
遙花と――
その腕の中の蒼生を確かめるために。
「玲君!」
「え……」
次の瞬間。
右の背中に、凄まじい衝撃が走った。
「……っ」
息が止まった。
何が起きたのか、すぐには分からない。
ただ。
背中が、刺すように熱い。
「先、輩……」
膝から力が抜ける玲。
「玲君! 嫌ああ!!」
遙花が駆け寄ろうとする。
それでも玲は、最後まで遙花ではなく、その腕の中を見ていた。
(蒼生君、泣いている……でも、生きている。無事だ)
「……よかっ、た……」
「何がよかったのよ!」
遙花の声が震える。
「玲君がこんなことになって、何が――!」
玲はそれ以上答えられなかった。
背中にナイフが刺さったまま。
崩れるように、路上へ倒れる。
それでも。
倒れた玲の身体は最後まで、遙花と蒼生と男の間にあった。



