リーガルウェポン

 玲は今、病院のベッドの上にいる。

 先日、初めて依頼を受け、無事に勝訴。依頼者の男性から、後日改めて玲にお礼がしたいと挨拶に来られた。
「最後まで、律儀な人だったな」

 結婚詐欺被害に遭ってしまった彼。彼にはどうか、彼の純粋な優しさをないがしろにすることなく、お互いが思いやれる素敵な人に出会って、幸せな結婚をしてほしい――と、玲は心から願った。

 そして、現在。
 玲はとある事件に巻き込まれ、命の危機は逸したものの……傷が癒えるまでの間は入院生活を余儀なくされた。

「まだ、結構痛むな……」

 左肩と右背部。

 左肩は軽傷。右背部の傷は思いのほか深く、肺損傷の経過観察と創傷管理、体力回復を含め、一か月ほど時間を要すると医師から告げられた。

「まさか、僕が刺されるとはね……」

 そんなことは思いもしなかった。

 弁護士として法廷に立ち始めてまだ一か月ほどしか経っていない。
 社会人としても、まだ一か月。
 一か月で、休職することになろうとは。

「有給だけじゃ足りないよな……。欠勤扱いになったら給料も減るし。入ったばっかりなのに、何やってんだろ」


 悪いのは、玲を刺した人物。

 頭ではわかっていたが――玲の脳裏には新卒社会人ならではの苦悩がつきまとう。

「刃物持った相手の前にとび出るなんて、無謀すぎたのかな」

 咄嗟だった。

 遙花と蒼生。

 考えるよりも、身体が先に動いた。

 それほどまでに、二人を守りたいと思った。

 命の危険なんて、二の次だった。
 
 というより、考える余裕もなかった。


 今思えば、かなり恐ろしい。
 
 それでも。

 二人を脅威から守れたことの方が、玲にとっては重要だった。

 たとえ、両親や姉にこっぴどく叱られても。


 彼女が子どもを抱きながら、毎日のように見舞いに来るのも。

 仕事から離れ、ただの「神城玲」としての時間を、改めてかみしめていた。

 早く退院したい気持ちはある。それでも、こういう時間も悪くないと思えた。

 ☆


「玲君?」

 懐かしい声――玲は名前を呼ばれ、振り向いた。

「先輩?」

 佐伯遙花(さえきはるか)。玲より三つ年上の、バイト先の先輩だった人。
 
 そして、彼女の腕に抱かれた、小さな赤ちゃん。

「久しぶりね」

「うん、久しぶり」

 玲が大学生の時の、バイト先の先輩スタッフだった彼女との再会。これが、すべての始まりだった。

 どこか疲れた様子の彼女。

「夫は仕事で疲れているの。それに、この子を育てるのは、私の仕事だしね」
「え?」

 何となく違和感を覚えた玲は、遙花を呼び止めて言った。

「これ、僕の名刺。先輩、連絡先、変わってないよね?」
「え、うん。特には……あ、今は名字が『近藤』になってるくらいかな」
「そっか。ならよかった。もし、僕が力になれることがあれば言って」
「ありがとう」
「じゃあ、またね」

  *

 その数日後、遙花から玲のスマホに一通のメッセージが届いた。

〈助けて〉


 玲は、いても立ってもいられず、遙花に電話をかけた。

〈……玲君?〉

〈玲君、私……殺されるかも、しれない……〉

〈せめて、蒼生だけでも……〉


 このままでは危険だ――玲の本能が叫んだ。


 玲の職場である日下部法律事務所の前で蒼生を抱きながら立ちすくむ彼女。

 腕には複数の打撲痕。

「とりあえず、中で話そう」


 先輩弁護士の武蔵に相談し、同席のもと遙花の相談対応に移った。

「夫と離婚したいけど、逃げられなくて……」
 腕の他にも、身体には複数の暴力の痕があると話した。警察にはまだ相談できていないという。


 遙花の夫は、子どもが生まれても育児には一切関わらなかった。理由は、女の子ではなかったから。

「は? 何て身勝手な……」
「玲」
「あ、すみません」
 武蔵の制止で留まる玲。

 感情が抑えられないほど、玲はひどく心を痛めた。


 遙花から語られる、夫からの壮絶な暴言暴力の実態。


「酷い……酷すぎる」
「玲、今は抑えて。最後まで聞くんだ」
「すみません。あまりに酷すぎて……」
「そうだね。かなり酷い話だ。僕でも許せない。でも、その感情に呑まれてはいけない」
 武蔵に諭され、玲は何とか平静を保とうとした。


「私が、全部悪いんです」
 遙花は続けた。


「私が女の子を産めなかったから。私が、息子を泣き止ませることができないから。私が――」
「先輩は悪くない!」
 玲が声を張った。
 限界だった。

「今回の依頼は、僕が――」
「玲、待ちなさい」
「でも、先生」
「玲の気持ちはわかる。だけど、そこに私情を持ち込むのは絶対にダメだ。今回の依頼と、玲の私情とは、切り離して考えなければいけない。今の玲に、それができる?」
「それは……」
 玲は言葉を詰まらせた。どんなに救いたくても、勢いだけではどうにもならない。それを痛感した。

 そして、夫との離婚を望む遙花は――
 法テラスの民事法律扶助を利用し、離婚問題に強い女性の阿部弁護士に担当してもらうことになった。

 さらに、女性相談支援センターともつながり、母子の安全確保のために避難に向けて動き始めた。

 念には念を。
 万が一夫が逆上した場合にも備えて、なるべく早いうちに警察にも相談することにした。

 遙花の答えは決まっており、荷物は既にまとめていた。

「もう、あの家には帰りたくない」


 夫から繰り返し責められるうち、遙花自身も自分を責めるようになっていた。それでも蒼生を守ろうとする意思だけは失っていなかった。

 そして、夫の留守中に女性相談支援センターの職員と一緒に荷物をまとめて母子で避難することになった。

 何も残さず、何も言わず。


 一時保護中、遙花は仕事も探していた。託児所が併設された職場、あるいは保育園を利用しながらフルタイムで働ける仕事を希望したが、なかなか見つからない。

 両親には頼れない。
 元々が反対された結婚であり、駆け落ち同然で夫婦になった。初めは幸せだった結婚生活も、子どもが生まれた途端に破綻した。

 それでも、外面の良い夫は――外出するときは妻を気遣い、積極的に子どもを抱っこする。
 周囲からは「理想の旦那さんで羨ましい」と言われ、遙花はそれが余計に苦しくもあった。

  *
 
 その後、なるべく期間を空けずに職員と役所で支援措置の手続きをした。しかし、その帰り道。

「見つけた」

 聞き覚えのある声に、遙花の身体が強張った。

「あ……」

 手には光るものが握られている。

「きゃああ!!」

 夫が手にした刃先を見て遙花は悲鳴をあげた。