弁護士になって、半年。
「この事件……」
玲の手が止まった。
「どうした? 玲」
向かいのデスクから、武蔵が顔を上げる。
玲は古い事件記録の表紙を見つめた。
『人気モデル刺傷事件』
原告(被害者)――神城エリサ。芸名、ELLIE。当時二十一歳。
左下腹部刺傷。
刃物は腹腔内まで達し、左卵巣を損傷。
緊急手術によって温存を試みたものの、損傷が激しく、摘出に至った。
【事件概要】
被告は、原告につきまとい等のストーカー行為を繰り返していた男性の交際相手。
原告が男性を誘惑したとの一方的な思い込みから逆恨みし、待ち伏せのうえ襲撃。
刃渡り約十二センチの小型ナイフを用い、至近距離から原告の左下腹部を刺した。
原告の身長は百七十四センチ。
被告は約百五十センチ。
刺創の深さ、約八センチ。
そして、その下。
玲の視線が、ある名前の上で止まった。
――原告訴訟代理人 弁護士・神城英一郎。
「この事件は確か……」
武蔵の声が少し低くなる。
「僕の叔母です」
「そうだったね」
「父の妹……当時、二十一歳でした」
玲が生まれる、ずっと前。
今から二十年ほど前の事件だ。
刑事事件もあったが、玲が今読んでいるのはその後の民事訴訟記録だった。
「刑事事件の記録は……あとで読もう」
正直、気になるのは刑事裁判の記録の方だ。
でも。
(冷静に、最後まで読める気がしない……)
叔母のエリサは、当時すでに人気モデルだった。
そのエリサに、執拗につきまとっていた男がいた。
何度拒絶されても、男は一方的に好意を募らせた。
しかも、その男には交際相手がいた。
にもかかわらず、その女が怒りを向けた先は、自分の恋人ではなかった。
エリサだった。
――あんたが誘惑したから。
――あんたさえいなければ。
そんな一方的な逆恨みの末に。
エリサは、刺された。
「職業柄、傷一つつくことだって命取りになりかねないのに……」
モデル。
身体そのものが仕事の一部だ。
もちろん、それ以前の問題でもある。
「健康だった身体の一部が、ある日突然なくなるって……」
玲は記録の文字を目で追った。
左卵巣摘出。
たった五文字。
記録上では、それだけだった。
けれど。
その五文字に至るまでに、どれだけの恐怖があったのか。
どれだけ痛かったのか。
目が覚めて、自分の身体の一部を失ったと知らされたとき、叔母は何を思ったのか。
「考えただけでも、やるせないです」
「玲……」
少しの沈黙のあと、武蔵が息を吐いた。
「しかしまあ……」
「はい?」
「君の身内は、よく刺されるな」
「……」
玲は無意識に、自分の右背部へ手を回した。
「僕もこの間刺されましたからね」
「そうだったな」
「しかも僕、職務中でしたけど」
「夜道には気をつけないとな」
「僕は白昼堂々でしたよ」
「ああ、そうだった」
「全然教訓にならないじゃないですか」
「玲は目立つからな」
「いや、目立つ目立たないの問題じゃなくないですか?」
「まあ、それはそうなんだけど」
「なんで一回理由を探そうとしたんですか」
「傾向として、君は事件に巻き込まれやすい気がして」
「何ですか、その不名誉な分類」
玲は小さくため息をついた。
そのまま、もう一度記録へ目を落とす。
そして。
祖父の名前を見つめた。
「……おじいちゃん」
「うん?」
「この法廷、どんな思いで立ったんだろう」
自分の娘だ。
しかも、何の落ち度もない。
勝手につきまとわれ。
勝手に恨まれ。
身体を傷つけられた。
そのうえ、一生取り戻すことのできないものまで奪われた。
玲には想像しきれなかった。
自分だったら、冷静でいられるのだろうか。
弁護士になった今だからこそ、その難しさがわかる。
「その法廷だけどさ」
「はい?」
武蔵が少しだけ懐かしむような目をした。
「僕、傍聴してたんだ」
「……え?」
玲は顔を上げた。
「その裁判」
「ええっ!?」
思わず立ち上がる。
「佐々木先生が!?」
「ああ。当時、僕は弁護士になったばかりだったからね。自己研鑽も兼ねて、いろんな裁判を傍聴してたんだ。……英一郎先生が、自分の娘の事件をどう扱うのか……気になってた」
「……どうだったんですか」
武蔵の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「ひどいものだったよ」
「……」
「被告側は最後まで、自分にも事情があったと言い続けていた。『彼を取られると思った』とか、『原告にも原因がある』とかね」
玲の眉間に力が入った。
「叔母は、何度もストーカー行為を拒絶してるのに」
「そう」
「誘惑した証拠なんて」
「なかった」
玲の胸の奥が、ざらりと波立つ。
「それでも、賠償責任を少しでも軽くしたかったんだろう。だから原告側にも非があったように見せようとした」
「おじいちゃん……怒らなかったんですか」
「怒っていただろうね」
「え?」
「父親としては」
武蔵は静かに言った。
「でも、法廷では一度も見せなかった」
玲は黙って続きを待った。
「声を荒らげない。机を叩かない。相手を罵倒しない」
武蔵の指が机を軽く叩く。
「相手の証言を確認する」
トン。
「客観的証拠と照合する」
トン。
「食い違った部分を指摘する」
トン。
「逃げ道を一つ塞ぐ」
そして。
「次の証拠を出す」
トン。
「また一つ、塞ぐ」
玲は何も言えなかった。
「静かだったよ」
武蔵が言う。
「ものすごく静かだった」
だからこそ。
「怖かった」
「……おじいちゃんが?」
「ああ」
武蔵が小さく笑う。
「怒鳴る弁護士なら、まだ感情が見える。でも英一郎先生は違った」
淡々と。
ただ事実だけを置いていったのだという。
「『あなたは、原告があなたの交際相手に好意を示し、交際を迫ったと主張していますね』」
武蔵の声が、当時の記憶をなぞる。
「『では、その事実を裏づける証拠を示してください』」
当然、出なかった。
「『原告はあなたの交際相手に対し、接触を拒絶する意思を事務所を通して複数回明示しています。このメッセージ履歴について、どう説明しますか』」
次。
「『あなたは偶然遭遇したと述べています。しかし事件の三日前から原告の仕事先を調べていますね』」
次。
「『そして事件当日、あなたは刃物を購入している』」
次。
「『その刃物を所持した状態で、原告が現れる場所で待っていた』」
玲の背筋に、かすかな寒気が走った。
「感情論は、一切なかった」
「……」
「最後まで、証拠と証言だけ」
玲は祖父の名前を見つめた。
神城英一郎。
「相手が何を言っても、英一郎先生は『では、それを裏づけるものは?』で返した」
「……逃げられない」
「そう」
武蔵が頷く。
「一つずつ矛盾を潰していって、最後には何も残らなかった」
静かに。
相手の逃げ道を塞ぎ。
証拠だけで。
とどめを刺す。
「……なんか」
「ん?」
「僕と、似てますね」
「気づいた?」
「え」
「玲。君が法廷で相手を追い詰めるとき、そっくりだよ」
玲は少し眉を寄せた。
「そんなつもりは……」
「言い返すんじゃない。証拠を出す。相手が誤魔化したら、その誤魔化し自体を次の材料にする」
武蔵は一拍置いて言った。
「血かな」
「そこ遺伝するんですか?」
「少なくとも、君のお父さん経由でその切れ味はだいぶ濃縮されてる気はする」
「父さんを何だと思ってるんですか」
「神城家の血は怖いよ」
「佐々木先生」
「冗談だよ」
そう言ってから、武蔵はもう一度記録を見た。
「でもね、玲」
「はい」
「あの裁判を見て、僕は一つ覚えた」
「何をですか」
「本当に怒っているときほど、弁護士は冷静でなきゃいけない」
玲は黙って聞く。
「感情は、依頼人のために使うものだ。法廷で自分が気持ちよくなるためにぶつけるものじゃない」
その言葉が、玲の中に静かに落ちた。
「腹が立つからこそ証拠を集める。許せないからこそ、一つも取りこぼさない。そして――」
武蔵は人差し指で、記録を軽く叩いた。
「最後は法に言わせる」
玲は、もう一度祖父の名前を見つめた。
そうか。
だから、おじいちゃんは怒鳴らなかったのだ。
娘を傷つけられて。
身体の一部まで奪われて。
本当なら、誰よりも怒鳴りたかったはずなのに。
法廷に立った瞬間。
父親の怒りを、証拠に変えた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
「おじいちゃん」
「ああ」
「僕も……そうなれるかな」
武蔵が少しだけ笑った。
「もう片足くらいは突っ込んでると思うけどね」
「片足だけですか」
「君の場合、もう片方の足がたまに“最終兵器”になるから」
「……」
「刺しすぎるなよ。言葉で」
「刺された経験なら、もう十分です」
「うまいこと言ったつもり?」
「全然」
玲は再び、記録へ視線を落とした。
――原告訴訟代理人 神城英一郎。
玲が弁護士になる、ずっと前。
玲が生まれるよりも前から。
祖父は法廷に立っていた。
守りたい人のために。
怒りを叫ぶのではなく。
証拠へ変えて。
そして法に、答えを出させるために。
玲は、記録の上にそっと指を置いた。
怒りを、忘れない。
けれど、怒りに飲まれない。
証拠を集める。
一つも取りこぼさない。
逃げ道を、一つずつ塞ぐ。
そして最後は、法に言わせる。
「……なれるよ」
玲は小さく呟いた。
祖父に向けてか。
叔母に向けてか。
それとも、これから法廷に立つ自分自身に向けてか。
答えは、もう必要なかった。
この名前の続きを、自分が生きていく。
神城英一郎の孫としてではなく。
神城玲という、一人の弁護士として。
玲は記録を閉じた。
乾いた音が、静かな事務所に落ちる。
遠い日の法廷は、まだ胸の奥にある。
そして玲は、次の事件記録へ手を伸ばした。
「この事件……」
玲の手が止まった。
「どうした? 玲」
向かいのデスクから、武蔵が顔を上げる。
玲は古い事件記録の表紙を見つめた。
『人気モデル刺傷事件』
原告(被害者)――神城エリサ。芸名、ELLIE。当時二十一歳。
左下腹部刺傷。
刃物は腹腔内まで達し、左卵巣を損傷。
緊急手術によって温存を試みたものの、損傷が激しく、摘出に至った。
【事件概要】
被告は、原告につきまとい等のストーカー行為を繰り返していた男性の交際相手。
原告が男性を誘惑したとの一方的な思い込みから逆恨みし、待ち伏せのうえ襲撃。
刃渡り約十二センチの小型ナイフを用い、至近距離から原告の左下腹部を刺した。
原告の身長は百七十四センチ。
被告は約百五十センチ。
刺創の深さ、約八センチ。
そして、その下。
玲の視線が、ある名前の上で止まった。
――原告訴訟代理人 弁護士・神城英一郎。
「この事件は確か……」
武蔵の声が少し低くなる。
「僕の叔母です」
「そうだったね」
「父の妹……当時、二十一歳でした」
玲が生まれる、ずっと前。
今から二十年ほど前の事件だ。
刑事事件もあったが、玲が今読んでいるのはその後の民事訴訟記録だった。
「刑事事件の記録は……あとで読もう」
正直、気になるのは刑事裁判の記録の方だ。
でも。
(冷静に、最後まで読める気がしない……)
叔母のエリサは、当時すでに人気モデルだった。
そのエリサに、執拗につきまとっていた男がいた。
何度拒絶されても、男は一方的に好意を募らせた。
しかも、その男には交際相手がいた。
にもかかわらず、その女が怒りを向けた先は、自分の恋人ではなかった。
エリサだった。
――あんたが誘惑したから。
――あんたさえいなければ。
そんな一方的な逆恨みの末に。
エリサは、刺された。
「職業柄、傷一つつくことだって命取りになりかねないのに……」
モデル。
身体そのものが仕事の一部だ。
もちろん、それ以前の問題でもある。
「健康だった身体の一部が、ある日突然なくなるって……」
玲は記録の文字を目で追った。
左卵巣摘出。
たった五文字。
記録上では、それだけだった。
けれど。
その五文字に至るまでに、どれだけの恐怖があったのか。
どれだけ痛かったのか。
目が覚めて、自分の身体の一部を失ったと知らされたとき、叔母は何を思ったのか。
「考えただけでも、やるせないです」
「玲……」
少しの沈黙のあと、武蔵が息を吐いた。
「しかしまあ……」
「はい?」
「君の身内は、よく刺されるな」
「……」
玲は無意識に、自分の右背部へ手を回した。
「僕もこの間刺されましたからね」
「そうだったな」
「しかも僕、職務中でしたけど」
「夜道には気をつけないとな」
「僕は白昼堂々でしたよ」
「ああ、そうだった」
「全然教訓にならないじゃないですか」
「玲は目立つからな」
「いや、目立つ目立たないの問題じゃなくないですか?」
「まあ、それはそうなんだけど」
「なんで一回理由を探そうとしたんですか」
「傾向として、君は事件に巻き込まれやすい気がして」
「何ですか、その不名誉な分類」
玲は小さくため息をついた。
そのまま、もう一度記録へ目を落とす。
そして。
祖父の名前を見つめた。
「……おじいちゃん」
「うん?」
「この法廷、どんな思いで立ったんだろう」
自分の娘だ。
しかも、何の落ち度もない。
勝手につきまとわれ。
勝手に恨まれ。
身体を傷つけられた。
そのうえ、一生取り戻すことのできないものまで奪われた。
玲には想像しきれなかった。
自分だったら、冷静でいられるのだろうか。
弁護士になった今だからこそ、その難しさがわかる。
「その法廷だけどさ」
「はい?」
武蔵が少しだけ懐かしむような目をした。
「僕、傍聴してたんだ」
「……え?」
玲は顔を上げた。
「その裁判」
「ええっ!?」
思わず立ち上がる。
「佐々木先生が!?」
「ああ。当時、僕は弁護士になったばかりだったからね。自己研鑽も兼ねて、いろんな裁判を傍聴してたんだ。……英一郎先生が、自分の娘の事件をどう扱うのか……気になってた」
「……どうだったんですか」
武蔵の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「ひどいものだったよ」
「……」
「被告側は最後まで、自分にも事情があったと言い続けていた。『彼を取られると思った』とか、『原告にも原因がある』とかね」
玲の眉間に力が入った。
「叔母は、何度もストーカー行為を拒絶してるのに」
「そう」
「誘惑した証拠なんて」
「なかった」
玲の胸の奥が、ざらりと波立つ。
「それでも、賠償責任を少しでも軽くしたかったんだろう。だから原告側にも非があったように見せようとした」
「おじいちゃん……怒らなかったんですか」
「怒っていただろうね」
「え?」
「父親としては」
武蔵は静かに言った。
「でも、法廷では一度も見せなかった」
玲は黙って続きを待った。
「声を荒らげない。机を叩かない。相手を罵倒しない」
武蔵の指が机を軽く叩く。
「相手の証言を確認する」
トン。
「客観的証拠と照合する」
トン。
「食い違った部分を指摘する」
トン。
「逃げ道を一つ塞ぐ」
そして。
「次の証拠を出す」
トン。
「また一つ、塞ぐ」
玲は何も言えなかった。
「静かだったよ」
武蔵が言う。
「ものすごく静かだった」
だからこそ。
「怖かった」
「……おじいちゃんが?」
「ああ」
武蔵が小さく笑う。
「怒鳴る弁護士なら、まだ感情が見える。でも英一郎先生は違った」
淡々と。
ただ事実だけを置いていったのだという。
「『あなたは、原告があなたの交際相手に好意を示し、交際を迫ったと主張していますね』」
武蔵の声が、当時の記憶をなぞる。
「『では、その事実を裏づける証拠を示してください』」
当然、出なかった。
「『原告はあなたの交際相手に対し、接触を拒絶する意思を事務所を通して複数回明示しています。このメッセージ履歴について、どう説明しますか』」
次。
「『あなたは偶然遭遇したと述べています。しかし事件の三日前から原告の仕事先を調べていますね』」
次。
「『そして事件当日、あなたは刃物を購入している』」
次。
「『その刃物を所持した状態で、原告が現れる場所で待っていた』」
玲の背筋に、かすかな寒気が走った。
「感情論は、一切なかった」
「……」
「最後まで、証拠と証言だけ」
玲は祖父の名前を見つめた。
神城英一郎。
「相手が何を言っても、英一郎先生は『では、それを裏づけるものは?』で返した」
「……逃げられない」
「そう」
武蔵が頷く。
「一つずつ矛盾を潰していって、最後には何も残らなかった」
静かに。
相手の逃げ道を塞ぎ。
証拠だけで。
とどめを刺す。
「……なんか」
「ん?」
「僕と、似てますね」
「気づいた?」
「え」
「玲。君が法廷で相手を追い詰めるとき、そっくりだよ」
玲は少し眉を寄せた。
「そんなつもりは……」
「言い返すんじゃない。証拠を出す。相手が誤魔化したら、その誤魔化し自体を次の材料にする」
武蔵は一拍置いて言った。
「血かな」
「そこ遺伝するんですか?」
「少なくとも、君のお父さん経由でその切れ味はだいぶ濃縮されてる気はする」
「父さんを何だと思ってるんですか」
「神城家の血は怖いよ」
「佐々木先生」
「冗談だよ」
そう言ってから、武蔵はもう一度記録を見た。
「でもね、玲」
「はい」
「あの裁判を見て、僕は一つ覚えた」
「何をですか」
「本当に怒っているときほど、弁護士は冷静でなきゃいけない」
玲は黙って聞く。
「感情は、依頼人のために使うものだ。法廷で自分が気持ちよくなるためにぶつけるものじゃない」
その言葉が、玲の中に静かに落ちた。
「腹が立つからこそ証拠を集める。許せないからこそ、一つも取りこぼさない。そして――」
武蔵は人差し指で、記録を軽く叩いた。
「最後は法に言わせる」
玲は、もう一度祖父の名前を見つめた。
そうか。
だから、おじいちゃんは怒鳴らなかったのだ。
娘を傷つけられて。
身体の一部まで奪われて。
本当なら、誰よりも怒鳴りたかったはずなのに。
法廷に立った瞬間。
父親の怒りを、証拠に変えた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
「おじいちゃん」
「ああ」
「僕も……そうなれるかな」
武蔵が少しだけ笑った。
「もう片足くらいは突っ込んでると思うけどね」
「片足だけですか」
「君の場合、もう片方の足がたまに“最終兵器”になるから」
「……」
「刺しすぎるなよ。言葉で」
「刺された経験なら、もう十分です」
「うまいこと言ったつもり?」
「全然」
玲は再び、記録へ視線を落とした。
――原告訴訟代理人 神城英一郎。
玲が弁護士になる、ずっと前。
玲が生まれるよりも前から。
祖父は法廷に立っていた。
守りたい人のために。
怒りを叫ぶのではなく。
証拠へ変えて。
そして法に、答えを出させるために。
玲は、記録の上にそっと指を置いた。
怒りを、忘れない。
けれど、怒りに飲まれない。
証拠を集める。
一つも取りこぼさない。
逃げ道を、一つずつ塞ぐ。
そして最後は、法に言わせる。
「……なれるよ」
玲は小さく呟いた。
祖父に向けてか。
叔母に向けてか。
それとも、これから法廷に立つ自分自身に向けてか。
答えは、もう必要なかった。
この名前の続きを、自分が生きていく。
神城英一郎の孫としてではなく。
神城玲という、一人の弁護士として。
玲は記録を閉じた。
乾いた音が、静かな事務所に落ちる。
遠い日の法廷は、まだ胸の奥にある。
そして玲は、次の事件記録へ手を伸ばした。



