霞が関・外務省本庁舎。
佐藤秋人(さとう あきひと)刑事は、テレビでしか見たことのない重厚な石造りのエントランスを忌々しげにじろりと睨んだ。
自身を見れば、現場を走り回ってくたくたになった鼠色のスーツに、擦り切れた臙脂(えんじ)のネクタイ。踵がすり減った泥はね付きのビジネスシューズは、磨き上げられた大理石の床の上ではひどく場違いだった。
『職専免扱いだ。銃は置いていけ。警察手帳だけ持っていくように』
そう上司からは言われただけ。
何の説明もないまま、厳重なセキュリティゲートを抜け、案内されたのはしっかりとブラインドが下げられた無機質な応接室だ。
革張りのソファに深く腰を下ろし、貧乏ゆすりをするたびにゴムの靴底が軋む音を立てる。
(所轄の一刑事を、本省に直接呼びつけるたぁ、何様のつもりだ)
品の良い紺色のスーツの女性職員から出されたコーヒーの匂いは甘く香しいが、怪しさのほうが勝り、手を伸ばす気にもならず、佐藤は舌打ちをした。
コツ、コツ、コツ――。
硬質な足音が廊下から近づき、そして扉が開く。
佐藤は顔を上げた瞬間、名乗らずともそれが誰か分かった。
国際舞台の最前線を潜り抜けるにふさわしい、 一目で最上級とわかるネイビーのビスポークスーツを隙なく着こなし、中肉中背ながらも洗練された身のこなしから生来の品の良さがにじむ。 年齢は四十五、六だろうか。亜麻色の髪を後ろになでつけ、特徴的な青みがかった瞳を磨き上げられた眼鏡の奥に隠しているその男は、有栖川美知の父であり、外務省の若き中枢・有栖川琢磨(ありすがわ たくま)だった。
「お待たせしました。ようやくお会いできましたね。佐藤刑事」
思いのほか柔らかく、拍子抜けするほど穏やかな声が、耳をなでる。
スマートに差し出された右手に、佐藤はつられるように立ち上がり、無骨な手を重ねた。
「どうも……」
その言葉に、相手は口元を緩める。その柔らかな物腰こそ、初手で相手をからめとるための有栖川琢磨の武器であった。
***
有栖川が座ると、即座に新しいコーヒーが淹れ直された。
そして、外してくれ、との目線で女子職員は会釈をしてその場を辞す。
有栖川は、「どうぞ」と勧めてから優雅にカップを持ち一口飲んだ。
その所作に誘われるように無意識に口を付けたそれは、近所の喫茶店のものと同じコーヒーと思えないほど、えぐみなく香りだけが鼻を抜けた。
チン、と小さな音を立てて有栖川はカップを置く。
「さてと‥‥‥。君たち刑事は、『現場百回』と聞くけれど、それ、本当なんですか?」
対面に座り、有栖川は静かに口を開いた。
その素っ頓狂な言葉に、思わず佐藤は鼻でふっと笑い、背もたれに寄りかかった。
「驚きましたね。有栖川さん、刑事ドラマなんて見るんですか? 間違っちゃいませんが、現場でそんな昭和なこと言う奴は、今時いませんよ」
「ふっ。現場の刑事さんと話すのはこれが初めてで」
と対面の有栖川は微かに口角を上げた。
そしてスッと真顔に戻り、一瞬で空気が変わった。
「しかし、だからこそここに呼んだのです。
イワンに関する、君の報告書を読んだ時から。そして、あのイワンという少年と面会したときから確信した。
この一連の事件の発端である現場に一度、戻らなければならない。――ならばその時は、君と共にがいい、そう思ったんです」
有栖川の眼光から青い知性が火花散るように、言葉が研ぎ澄まされて鋭さを増す。
「彼らの背後にいるのは、ただの東欧のテロリストや身代金目的の外国人シンジケートではない。
この日本において、ヘビのようにひっそりと日常の影に潜む巨大な『何か』だ」
佐藤は無言で眉間にしわを寄せた。先日の「ゲームの達人」の調査が尻切れトンボのように収束したことを思い出した。
「率直に言おう。
君にはこれより神奈川県警を離れ、私の直轄として動く『特命』に就いてもらいたい」
「……は?」
佐藤は思わず腰を浮かせた。
「何の権限があってアンタ、そんな口を......!
一県警の刑事が、外務省の一存で引っ張られるなんておかしな話、警察の縦割りが許すわけねえだろうが! 警視庁の公安はどうした!」
その一声に、底冷えする瞳を向けられて、思わず佐藤は黙る。
有栖川は声のトーンを極限まで落とした。
「静かにしていただきたい。……公安は使えない」
地を這うようなその低い声が、応接室の空気を凍らせた。
「……何?」
「確証はないが、警視庁公安部は……すでに奴らに『取り込まれている』」
佐藤は息を呑んだ。国の最高峰であるはずの治安維持組織が、すでに敵の掌の上にあるというのか。
「……一人。
私と共に極秘で内偵を進めていた公安部外事課の人間が一人、今、行方不明だ。
彼の担当は、東欧の某国だった。
もし正規のルートで動けば、こちらの情報は一歩踏み出す前に筒抜けになる可能性がある。私もどうなるか‥‥‥。今はそれほど危険なバランスの上にある」
有栖川は一度窓の外を見た。その目にはやるせない感情がにじんでいるように見える。その目は、現場の佐藤が何度も味わったものだった。
有栖川は静かに佐藤へ視線を戻した。
「だからこそ、中央の論理やしがらみに染まっていない、しかし事件の内情を知る人間が必要だった。君のような、直観力に優れた現場の叩き上げがね」
「……」
「君の所轄の県警本部長には、すでに内閣情報調査室を通じた極秘の通達がいっている。君は表向き『内調への出向』となるが、指示はすべて私から直接下す。警察の階層(ヒエラルキー)は完全に無視して構わない」
「根回し済みかよ……」
佐藤はどかっとソファに座り直し、天井を仰いだ。 国家権力という見えない巨大な手が、自分の首根っこを掴んで持ち上げている感覚だった。
「わかりましたよ……。そこまでして、いったい俺に何をしろってんです?」
佐藤が軽く睨みつけると、有栖川はゆっくりと銀縁の眼鏡を外し、なんとも複雑な笑みを見せた。
「とりあえず、私と行動を共にしてもらおう。護衛もかねて」
今度こそ佐藤は、ぐっと声を詰まらせた。
思わず、あの赤茶けたトタン屋根の古びた部室で、愚直なドーベルマンとすばしっこいキツネのような二人の上級生を従える、姫のような少女を思った。
(……そっくりだ、あの生意気なお嬢ちゃんと)
佐藤は、心の中だけで毒づき、ネクタイの結び目を乱暴に緩めた。
【幕間】共闘・了
佐藤秋人(さとう あきひと)刑事は、テレビでしか見たことのない重厚な石造りのエントランスを忌々しげにじろりと睨んだ。
自身を見れば、現場を走り回ってくたくたになった鼠色のスーツに、擦り切れた臙脂(えんじ)のネクタイ。踵がすり減った泥はね付きのビジネスシューズは、磨き上げられた大理石の床の上ではひどく場違いだった。
『職専免扱いだ。銃は置いていけ。警察手帳だけ持っていくように』
そう上司からは言われただけ。
何の説明もないまま、厳重なセキュリティゲートを抜け、案内されたのはしっかりとブラインドが下げられた無機質な応接室だ。
革張りのソファに深く腰を下ろし、貧乏ゆすりをするたびにゴムの靴底が軋む音を立てる。
(所轄の一刑事を、本省に直接呼びつけるたぁ、何様のつもりだ)
品の良い紺色のスーツの女性職員から出されたコーヒーの匂いは甘く香しいが、怪しさのほうが勝り、手を伸ばす気にもならず、佐藤は舌打ちをした。
コツ、コツ、コツ――。
硬質な足音が廊下から近づき、そして扉が開く。
佐藤は顔を上げた瞬間、名乗らずともそれが誰か分かった。
国際舞台の最前線を潜り抜けるにふさわしい、 一目で最上級とわかるネイビーのビスポークスーツを隙なく着こなし、中肉中背ながらも洗練された身のこなしから生来の品の良さがにじむ。 年齢は四十五、六だろうか。亜麻色の髪を後ろになでつけ、特徴的な青みがかった瞳を磨き上げられた眼鏡の奥に隠しているその男は、有栖川美知の父であり、外務省の若き中枢・有栖川琢磨(ありすがわ たくま)だった。
「お待たせしました。ようやくお会いできましたね。佐藤刑事」
思いのほか柔らかく、拍子抜けするほど穏やかな声が、耳をなでる。
スマートに差し出された右手に、佐藤はつられるように立ち上がり、無骨な手を重ねた。
「どうも……」
その言葉に、相手は口元を緩める。その柔らかな物腰こそ、初手で相手をからめとるための有栖川琢磨の武器であった。
***
有栖川が座ると、即座に新しいコーヒーが淹れ直された。
そして、外してくれ、との目線で女子職員は会釈をしてその場を辞す。
有栖川は、「どうぞ」と勧めてから優雅にカップを持ち一口飲んだ。
その所作に誘われるように無意識に口を付けたそれは、近所の喫茶店のものと同じコーヒーと思えないほど、えぐみなく香りだけが鼻を抜けた。
チン、と小さな音を立てて有栖川はカップを置く。
「さてと‥‥‥。君たち刑事は、『現場百回』と聞くけれど、それ、本当なんですか?」
対面に座り、有栖川は静かに口を開いた。
その素っ頓狂な言葉に、思わず佐藤は鼻でふっと笑い、背もたれに寄りかかった。
「驚きましたね。有栖川さん、刑事ドラマなんて見るんですか? 間違っちゃいませんが、現場でそんな昭和なこと言う奴は、今時いませんよ」
「ふっ。現場の刑事さんと話すのはこれが初めてで」
と対面の有栖川は微かに口角を上げた。
そしてスッと真顔に戻り、一瞬で空気が変わった。
「しかし、だからこそここに呼んだのです。
イワンに関する、君の報告書を読んだ時から。そして、あのイワンという少年と面会したときから確信した。
この一連の事件の発端である現場に一度、戻らなければならない。――ならばその時は、君と共にがいい、そう思ったんです」
有栖川の眼光から青い知性が火花散るように、言葉が研ぎ澄まされて鋭さを増す。
「彼らの背後にいるのは、ただの東欧のテロリストや身代金目的の外国人シンジケートではない。
この日本において、ヘビのようにひっそりと日常の影に潜む巨大な『何か』だ」
佐藤は無言で眉間にしわを寄せた。先日の「ゲームの達人」の調査が尻切れトンボのように収束したことを思い出した。
「率直に言おう。
君にはこれより神奈川県警を離れ、私の直轄として動く『特命』に就いてもらいたい」
「……は?」
佐藤は思わず腰を浮かせた。
「何の権限があってアンタ、そんな口を......!
一県警の刑事が、外務省の一存で引っ張られるなんておかしな話、警察の縦割りが許すわけねえだろうが! 警視庁の公安はどうした!」
その一声に、底冷えする瞳を向けられて、思わず佐藤は黙る。
有栖川は声のトーンを極限まで落とした。
「静かにしていただきたい。……公安は使えない」
地を這うようなその低い声が、応接室の空気を凍らせた。
「……何?」
「確証はないが、警視庁公安部は……すでに奴らに『取り込まれている』」
佐藤は息を呑んだ。国の最高峰であるはずの治安維持組織が、すでに敵の掌の上にあるというのか。
「……一人。
私と共に極秘で内偵を進めていた公安部外事課の人間が一人、今、行方不明だ。
彼の担当は、東欧の某国だった。
もし正規のルートで動けば、こちらの情報は一歩踏み出す前に筒抜けになる可能性がある。私もどうなるか‥‥‥。今はそれほど危険なバランスの上にある」
有栖川は一度窓の外を見た。その目にはやるせない感情がにじんでいるように見える。その目は、現場の佐藤が何度も味わったものだった。
有栖川は静かに佐藤へ視線を戻した。
「だからこそ、中央の論理やしがらみに染まっていない、しかし事件の内情を知る人間が必要だった。君のような、直観力に優れた現場の叩き上げがね」
「……」
「君の所轄の県警本部長には、すでに内閣情報調査室を通じた極秘の通達がいっている。君は表向き『内調への出向』となるが、指示はすべて私から直接下す。警察の階層(ヒエラルキー)は完全に無視して構わない」
「根回し済みかよ……」
佐藤はどかっとソファに座り直し、天井を仰いだ。 国家権力という見えない巨大な手が、自分の首根っこを掴んで持ち上げている感覚だった。
「わかりましたよ……。そこまでして、いったい俺に何をしろってんです?」
佐藤が軽く睨みつけると、有栖川はゆっくりと銀縁の眼鏡を外し、なんとも複雑な笑みを見せた。
「とりあえず、私と行動を共にしてもらおう。護衛もかねて」
今度こそ佐藤は、ぐっと声を詰まらせた。
思わず、あの赤茶けたトタン屋根の古びた部室で、愚直なドーベルマンとすばしっこいキツネのような二人の上級生を従える、姫のような少女を思った。
(……そっくりだ、あの生意気なお嬢ちゃんと)
佐藤は、心の中だけで毒づき、ネクタイの結び目を乱暴に緩めた。
【幕間】共闘・了



