忘却大正神話伝 ~堕ちた神の恋~

「雨宿りでもしませんか?」

 静かに降り続ける雨の中。
 裏路地の細い通り。
 そこに倒れ込んでいる泥塗れの女を、少年は和傘で包んだ。

────────それが、全ての始まりだった。


「________貴方は、だれ。」

 学ランを纏った黒髪の青年。
 彼は一歩その女に近付く。

「あぁ、申し遅れました。御免なさい。えっと、こういう時に何と言えば良いのか分かりませんが、
私の名は天津速真と申します。」

 速真と名乗る青年はその女の前に手の平を出す。女はその手を見るだけで、倒れたまま動かない。
 上品な着物も泥で汚され、廃れて見える。

「貴方は?」
「_______分からない。せ、お、………」

 速真はそれに対して首を傾げる。
 女は彼の手に己の手を出そうと、震えながらも腕を上げた。彼の手に指先が差し掛かった所で腕が落ちる。

「おっと。」

 だが速真が女のその手を両手で抱えた。
 速真の手と触れた瞬間、女の中で一際大きな鼓動が鳴った。
 苦しく、悍ましく、溺れてしまいそうな感覚。

「……っ!」

 そして速真も息が少し乱れ、荒くなる。

「一先ず、そうお呼びしても…?セオさん。」

 セオの返事はなかった。だが、小さな頷きが見えた気がする。

「兎に角、場所を移しましょう。」

 セオは落ちそうな瞼を必死に上げる。それでも、限界は直ぐにやって来た。

(息っ、がっ……)

 泥が顔に飛んだと共に、視界は暗闇に包まれていく。
 意識が失ったセオの様子を見て、速真は和傘を閉じた。セオの身体を起こし、横抱きにした。

「どうして、息切れなんて…」

 自身の様子に疑いを持つ。
 速真は傘を再び差して、表通りへと出て行った。
 天気は雨なのに、わいわいと賑わう通り。
 速真の他にも学ランを着た男子生徒や、袴を着た女子生徒が多い。そしてその視線を速真は一身に浴びていた。
 しかし、速真の視線はその腕の中にいるセオに注がれている。
 泥で汚された着物。ギシギシになった黒髪。痩せ細った身体。髪で隠れているが薄らと見える色味の悪い顔。
 そして、

(記憶がない女性と、この息切れ…
さて、どうしたものか…)

***

「うっ、、」
「あ、目が覚めましたか?」

 セオの意識が戻ってくる。目の前には襖。顔を上げればあの青年。
 速真は襖に手を掛け、横に引いた。

「私の家、と言うよりは部屋ですね。」

 速真はその一室に足を踏み入れた。

「あの、降ろして、大丈夫、です。」

 速真はそう言うセオの顔を一瞥してから、ゆっくりと床へと降ろした。
 離れた瞬間、互いに体が楽になる。
 息の荒いこともなく、苦しさもない。
 だが、何か、、

「直ぐ湯を沸かします。どうぞ寛いで下さい。」

 セオは床に座り、辺りを見渡す。
 小さな卓と窓。地面に置かれた大量の本。小さな窓から見える外の景色。部屋の奥にある細い廊下。
 速真はその廊下を歩いて行く。
 セオは俯いて、先程視界に入ったものを思い出す。己に向き合った青年の学ラン。自分を抱えたせいで泥が付いていた。

(お人好し。)

 ふと、セオは天井の端に視線を移す。
 黒い大きな蜘蛛。その蜘蛛は巣を少しずつ広げているように見えた。
 セオは息を吐いてそれを人差し指で指した。

(恩返しぐらい…)

 指を横に引く。
 その瞬間、その蜘蛛も横に裂かれた。地面に落ちた蜘蛛の体はゆっくりと崩れ、消えていく。
 最後にセオへと黒い糸のようなものを鼻先まで伸ばしたが、そらがセオへと届くことはなかった。
 それを無表情で、セオは見下ろしていた。

「驚いた。」

 セオは振り返る。
 すぐ後ろで速真が一つの籠を持ってそこに立っていた。

「あれを祓えるなんて。
それに、貴方も見えるんですね。妖が。」

 セオは頷き分かりやすく、彼を警戒する。
 速真は籠をセオの前にある卓に置いて座った。

「ありがとうございます。どうしようか悩んでいた所でしたので。」

 速真は籠の中から黄色い菓子を皿に取り、セオの前に置いた。

「どうぞ、カステラです。」
「かす、てら?」

 セオは首を傾げる。

「ええ。少し前に西洋から流行った菓子です。貰い物なのですが。」

 速真は照れながらそう言う。
 セオは一緒に差し出されたフォークを不可思議な目で見つめ、カステラに刺す。崩れながらも一欠片を取り、口に入れた。
 ザラメやスポンジから甘さが感じられ、セオの顔に少しだけ血色が戻ったように見える。

「すごい。美味しい。こんなに味のある物初めて食べた。」
「_____普段は何を食べているのですか?」

 セオは首を横に振った。
 小さく、自信なさげに声を出す。

「分からない。何も、覚えてない。」

 速真は口を開け、再び閉じて、言おうとした言葉を呑み込んだ。

「そうですか。」

 沈黙が流れる。
 その間も、セオは口にカステラを含み続けていた。
 最後の一口に差し掛かった時、

「貴方は…速真さんは、一人でここにお住まいなのですか?」
「はい。親は先に他界しまして、今はこの店で住み込みで働いています。」
「この店?」

 速真は立ち上がりながら、

「宿屋兼豆腐屋です。お茶を淹れてきますね。」

 速真は再び細い廊下へと歩いて行く。

「とうふ?」

コンコンコン

「速真〜入るぞ〜。」

 突然のノック音に声。
 セオが反応する間もなく、セオ達が入って来た扉が横に開いた。

「____え?」

 現れた男はセオを見た瞬間声を漏らす。

「ん?あれ、速真の部屋じゃなかったっけか?あいや、ここいんのあいつしか居ねぇか。_____え?」

 その男とセオの視線がかち合う。男は立ち尽くしたまま。
 セオもどうすれば良いか分からず動かない。

「って颯太何で居るんだよ。」
「おー速真!あれっ、えっじゃぁこの子は…?」

 速真は茶が入った二つのコップを卓に置いて、足早に突如現れた彼へと向かう。

「悪いけど、今日は帰ってくれ。」

 速真は襖を強引に閉じようとするが、颯太という少年はそれを憚る。

「あいや待てって!その子ボロボロじゃん。」

 速真の手が止まる。その隙に颯太は襖を開いた。

「うち来る?風呂屋。なんなら麗子ん家でその着物」

バタッ

 速真は颯太を押して襖を閉めた。

「もしかしたら伺うかもしれないけどその時はよろしく。けど今はダメ。」
「______わあったよ。今日の所は一旦帰る!」

 速真は強くそう言い、颯太もそれに応じた。

「あの、私、お邪魔、、でしたか?」
「いえいえとんでもありません!申し訳ないです。私の配慮が行き届いていませんでした。」

 セオは雲がかかった速真の表情を横目で見つつ、最後のカステラを口に入れた。
 もぐもぐと口を動かし終えてから、床に座った速真の顔を覗き込んだ。

「失礼なことは承知で聞かせて欲しいのですが、、
貴方、もしかして貧しいのですか?」

 セオの真剣な表情。
 速真はそれを見つめる。
 だが、速真は口角を上げ、

「………ぷっ、あはははっ!」
「えっ?!」
(なっ、何で笑って)

 速真は笑いながら浮かんだ涙を指で拭いた。

「御免なさい。あまりにも正直で。ふふっ。
あぁ、お恥ずかしい。こんなに笑ってしまって。」

 卓に置かれた一個のコップを、速真はセオの前に置いた。

「どうぞ、熱いので気を付けて下さい。」
「あ、ありがとう、御座います。」

 セオはその陶器製のコップに手を当てて、温かさを感じる。
 茶から湯気が出ているのをぼんやりと眺めていた。

「ええ。私は今、非常に貧しいですよ。」

 セオの視線は再び彼へと向かう。

「学校に通えているのも、成績が優秀だと学校に金銭面の支給を受けているからですし、ここで住み込みで働かなくてはお金も家もない状態です。」

 速真は、それが何でもないかのような表情で語る。彼の現状を理解した時、セオの中で何かがドクンッと跳ねた。
 瞳がだんだんと曇っていき、光を失う。身体が一気に重たくなり、頭痛がする。
 それでも、何故か、口が勝手に動いた。
 その言葉を発するために。

「______苦しくはありませんか。
死にたいとは思いませんか。
他者が憎らしいとは思いませんか。」

 速真は小さく口を開けて呆然とする。
 セオの急な饒舌。さらにこのような内容。
 セオ自身も自分に驚いて、勢いよく下を俯く。

(私、今。なんて、ことを…)

 セオはまだ、顔を上げられなかった。
 速真が座り直して、胡座をかく。
 セオの身体に徐々に罪悪感が蔓延り始めた時、

「一度は思ったことがあったかもしれませんが、今は全く思いませんよ。」

 セオはおそるおそる顔を上げた。
 速真の表情は、セオが思っていたものとは違った。

「嬉しいことに、私の周りには友人がいます。私は苦しい生活でも、今こうして笑って過ごせている。
私自身、今を幸せと感じているのです。」

 そんな顔で言われ、セオは自身の発言を恥じる。

「御免なさい。色々と、失礼なことを言って。」
「いえいえ構いませんよ。それ程僕の境遇に関心を持ってくれるのは嬉しいですし。」

 光を放っているような、輝く笑顔。セオをも照らしてしまいそうな程の、太陽のような…

「御免なさい。嘘を吐きました。
私、一つ、覚えていることがあるのです。」

 速真は手に取ったコップを卓に置いた。

「私、色々あって堕ちてしまいました。

──────────禍津神に。」


「………え?」

 二人の口は動かない。だが、速真の脳内は即座に回転し始める。
 そして速真がパニックに陥ったことに、セオも気付いたようで、茶を一口啜りながら、速真の焦る顔を見る。

(禍津神というのは災難や災厄、不運といった悪いことを引き起こす神様。そう。神様。
彼女は“堕ちた”と言った。禍津神に。ということは……)

 行き着いてしまった。その答えに。

「セオさん。貴方は神様なのですか?」

 コップを卓に置いて、速真に向き合う。
 この時、速真は初めて、目にした。

「ええ。一応、そうですね。」


(─────────これが、神様の、微笑み。)


 ボロボロになっているとは言え、その中に眠る儚さや近寄り難さ、高貴さが感じられた。

「けど、それぐらいしか覚えていません。何の神だったのかも…」

 みるみるセオの顔は曇って行く。それを察した速真が口を開けた瞬間、

「ハクシュンッ!」

 セオは口を抑えた。だが籠ったその音が室内に響く。

「失礼、しました…」
「その格好だと寒いですよね。」

 速真は窓を見る。
 窓には水滴がついているが、雨が降っている様子はない。

「雨も上がったみたいですし、颯太の…風呂屋に、行きましょう。」

 セオは口を手で覆ったまま、ゆっくりと頷いた。
 速真が卓に置いた茶と菓子を持って、細い廊下から続く台所へと持っていく。

(神様もくしゃみするんだな。)