午後は始業式から始まった。
体育館で何一つ頭に残らない話をダラダラと聞いた後、教室に戻ればぶっ通しでの一年間の役割分担を決める学級会が始まり……。
年に一度の一番緊張する時間。
病的なまでのアガリ症な俺にとって、ただでさえ苦手な集団生活が絶望に変わるかどうかの運命の時間だ。
そして、年に一度、普段は信じていない神様に全身全霊で祈る時間でもある。
最初は担任が仕切っていた学級会だが、クラス委員が挙手と推薦で二名が決まり、書記と会計が挙手で一名ずつ決まった時点で担任は窓際の一番前でパイプ椅子に座り、クラス委員主導に変わった。
「黒板に書かれた委員会メンバーを決めていきます。順番に読みあげるので、参加したい委員会があればそこで挙手してください。どの委員会も二名必要です。定員オーバーはジャンケンで、足りないところは公平にクジ引きで決めたいと思います。先生も言ってましたが、明後日の放課後は委員会ごとに一年の流れの説明があるので、必ず出席してください」
委員長になった溌溂そうな女子の、張り上げ気味な声が響いた。
全委員会を板書し終わった地味な男子が、「ノート書くから戻るわ」と教壇を降りた。
「文句あるヤツは挙手! ないな。じゃあ、始めるぞ」
もう一人の委員長は、刈りあげの入ったショートヘアを立たせた男子で、常に笑顔だから、こうして目立つのが好きなんだろう。
「決まったら、自分で黒板に名前を書くこと。初めてクラスが一緒になるヤツも結構いて、名前わかんないのが多いし、一々席順の図を見て書くのも面倒なんだわ」
男子の委員長が席順のプリントが入ったソフトケースで、バンバンと教壇を叩いた。
ノリのいいヤツらが一緒になって笑っているが、前回同じクラスだった人間のほとんどを名字でしか言えない俺にとっては、全然笑えない。
クラスメイトどころか教師も興味がない俺の記憶には、時々ステージで話す教頭や校長の名前も顔も残っていない。
それと、手は挙げなかったけれど、クジ引きは断固反対だ。教師受けのいい陽キャ順で委員を決めるのが一番いいに決まっている。
万が一に俺が委員に当たったら、どうなるか。
俺に務まる委員なんて一つもない。小学校時代から高校一年生にかけて、一度でも俺と同じクラスになった人ならわかるはずだ。
「ほらほら、行くぞ~っ。まずは、風紀委員になりたい人、挙手」
委員長の男子がビシッと片手を挙げた。
「お前、風紀委員もやるのかよ」
委員長以外誰も手を挙げない現実に、委員長と友達だろうドア側で最前列の男子が野次を飛ばす。
「やるわけないだろ! お前、そんなこと言ってると風紀委員を引き当てるぞ」
「クラス委員が一般生徒を脅すってありえないんだけど」
楽し気なやり取りに笑いが広がっていく。
ハズレクジの数がこれで二以上と確定した。
俺は両手を握り合わせ、これ以上ハズレクジが増えないように祈るしかなかった。
ドアが開く音に、握った両手を見つめていた俺は顔をあげた。
担任がクラスを見渡しながら入ってきた。
出歩いていた生徒たちが、ダルそうに席へ戻っていく。
女子の委員長が続いて教室に入る。
岳人のまわりでずっと話しかけたそうに雑談していた女子たちも、未練がましそうに何度も振り返りながら席に着いていく。
机にうつ伏せて、寝てしまったのかと思うほど動かなかった岳人が上体を起こした。
最後に入った男子の委員長が、ドアを閉めた。
「西岡、俺にハズレクジをチョーダイ」
委員長の男子と一番親し気なドア側一番前の男子が、両手を前に伸ばした。
西岡が男子クラス委員の名字か。
覚えておかなきゃ。
「お前のハズレクジは委員会の書かれたクジだろ」
「違う。真っ白いのくれ」
「正々堂々と不正かよ。自引きしろ」
西岡が手にしている小さな紙袋を掲げた。
「は~い、この紙袋の中に出来たてホヤホヤのクジが入ってま~すっ。当たりのクジには委員会の名前が書いてあるから、当たったら速やかに黒板に名前を書けよ。じゃあ、出席番号一番と最後、ジャンケン。負けた方からまわってくからな」
無駄話を挟みつつもテキパキと進める西岡にすべてを任せたのか、女子の委員長は教卓で両腕をつき、西岡を眺めている。
「では始めようか。まずは、運命のクジ順を決めるジャンケ~ンッ。もうすぐ掃除時間に突入するから、急いで終わらせるぞ。両者立ってーっ。最初はグーな。行くぞ、最初はグーッ。ジャンケンポン!」
ジャンケン一つに異常に盛り上がる一部の連中がどよめいた。
勝負は三回目で決まった。
西岡が出席番号一番の席に向かう。
出席番号が早い順からのクジ引きが始まった。
小学一年生の大失態以来、俺の当たらないクジ運は連勝している。
だから、今回も絶対に大丈夫なはず。
バクバクする心臓と、カラカラに渇く喉。
浅くなる呼吸で息苦しくなった俺は、一度瞼を閉じるとゆっくり息を吸い込んだ。
西岡が紙袋を持ってまわってきた。
俺は座ったまま、潔く一枚のクジを引いた。俺みたいな人間は、さっさと引かないでいると迷惑にカウントされてしまう。
「大丈夫。絶対に大丈夫。絶対に何も書かれていない。大丈夫。絶対に大丈夫」
自分に言い聞かせながら、一度両手でクジを握りしめて念じた。
強張った指で引いたクジの最初の折り目を恐る恐る開く。
ヨシッ。
まだ白い。
文字らしきものは透けて見えない。
あと一折開いて、何も透けて見えなかったらほぼ勝利確定だ。
震える指でもう一折開く。
ヤッターッ!
勝った。
まったく透けていないから完全勝利だ。
安心して頬が緩んだ俺は、最後の折り目を開いて固まった。
死角だ。
クジの中央の折り目に、小さな平仮名が丸で囲まれている。
「ぶ?」
『ぶ』ってなんだ。
顔をあげると、女子の委員長が黒板に何かを書き加えている。まだ決まっていない委員会の上にだけ、丸で囲った平仮名一文字が追加されていた。
『ぶ』は……文化祭実行委員会⁉
ちょっと待て、そんな目立ちそうな委員会、絶対に無理なんだけど。
俺はぬか喜び後の絶望に固まった。
去年以上に醜態を晒すことが決定した。
今年一年、お先真っ暗だ。
せめて、当たるなら美化委員が良かった。
もうお終いだ。
放心状態ギリギリ手前の俺の視界に、面倒そうに名前を書いて席に戻る生徒たちが映る。
「時間押してるよ。ハズレを引いた人はさっさと黒板に名前を書いて! ほらもう、チャイムが鳴った」
キレ気味の女子の委員長に、俺はビクッとした。
六時限目終了のチャイムは、奉仕時間と呼ばれる掃除開始の合図でもある。
「今日の掃除はいいから、委員会を決めてしまって」
担任がパイプ椅子を畳んで、端に立てかけた。
「掃除場所の分担表は席図の後ろに入ってるから、まだ確認してないヤツは見ておくように。全員いるのは確認したし、帰りのショートホームルームはやらないから、終わったら帰っていいぞ」
担任は何事もなかったように教室から出ていった。
「あと一人。文化祭実行委員を引き当てたの誰? 逃げられないんだから、さっさと名前書いて。ああもういいや、手を挙げてくれたら私が書くから」
「誰だよ。早速女帝を怒らせたヤツ。一生恨まれるぜ」
誰かの嘲りに、血の気が引いていく。
「みんなで逃げたヤツを探そうぜ」
「まだ捨ててないだろ? 全員机にクジを出せよ」
教室中が煩くなる。
ヤバい。
早く言わないと悪者扱いになる。
体が強張りすぎて、声が出ない。
「あっ……あの……」
俺は石になってしまったかのように重い右手を、無理矢理挙げた。
「お前、クジ当たってたの?」
俺の前の席の軽い天パの男が、一番に反応した。
途端、クラスが静まった。
けれど、すぐに騒ぎだした。
「なんだよ。早く言えよ」
「あっ、本当だ。ぶって書いてある。これ、文字が小さすぎだろ」
「これから断罪ごっこだったのに、解決早すぎだろ。もう少し粘れよ」
「里井なら逃げようとするわ。こういうの、一番向いてないもんな」
「だよなあ。毎回テストの点数はいいけど、他はクソなほどポンコツじゃん」
「マジでそれ」
馬鹿にされ、囃し立てられるのはいつものこと。けれど、いつまで経っても慣れない。
嘲笑やちょっとした文句さえ、俺には体罰のようにツラくて、息が詰まる。
「悪いと思ってんなら、名前、自分で書いてよ」
女子の委員長の蔑む目とキツイ言い方に、俺は机に震える両手の平をついた。
腕に力を入れて立ち上がろうとするけれど、下半身まで石のように重い。
それでも、どうにかこうにか立ち上がる。
「えっ? ちょっとマジ⁉ コイツと一緒なんて絶対に無理。生理的にマジでヤダ! コイツと一緒になるくらいなら、どこの委員会でもいいわ。誰か変わってくんない?」
一人の女子生徒の半狂乱気味な怒鳴り声に、俺は縮こまった。
中央の席で立ったまま俺を睨んでいるのは、去年同じクラスだった根津さんだ。下の名前は覚えていない。ヤンチャな女子グループにいて、席が近い時は率先して俺をクズ扱いしてきた。クズは本当だから耐えるしかないけれど、機嫌が悪いとバイキン扱いして俺を笑いものにしていた。
「こんなのと一緒なんて、根津さん可哀そう」
今年も同じクラスになった根津さんの友達の小林さんが、根津さんに寄り添う。
俺もそう思うよ。
俺なんてお荷物でしかないから。
「けど、公平に決まったんだから仕方ないだろ」
「俺が根津だったら、まったく同じこと言うわ。去年、コイツと同じクラスだったヤツは全員思うって。当てられても答えない。何かあると黙ったまま動かない。本読みは聞き取れない小声の早口言葉。黒板で問題を解くのに時間かけすぎ。なのに、貼りだされる成績順位表では結構な上位。カンニングを疑ったもんな」
「それなっ。実は俺、まだ疑ってんだけど」
「いやいや、毎回全科目カンニングは神業だろ。こんな臆病者に無理だって」
ゲラゲラと笑い者にされながら、俺は俯くしかなかった。時間が過ぎるのをひたすら待つ。
それしか解決方法がないと知っているから。
クラスが盛りあがる中、突然大きな音が響いた。
思わず、竦めていた肩をもっと竦めてしまう。
幾つかの小さな悲鳴の後、数秒の静けさが訪れた。
「何? 今の音」
「なんで机が倒れてんの?」
広がりだしたざわめきを、
「悪い。ウザすぎが我慢の限界超えて倒した」
岳人の昼間に聞いたのよりも低く暗めな声に、再び沈黙が生まれた。
やっぱり俺、岳人に心底嫌われているんだな。
わかっていることを再確認させられただけなのに、幼い頃の記憶がキラキラしすぎて鼻の奥がツンとしてきた。
恐る恐る顔を少し上げると、岳人が横に倒れた机を気怠げに起こしていた。
「だよなあ。里井ってウザいよなあ」
誰かが態とらしく話を合わせてきた。
それに釣られたように、笑いが起きる。
「ウザいのはお前らだよ」
吐き捨てた岳人が、歩きだして教壇に登った。
黒板消しを乱暴に掴むと、文化祭実行委員会に書かれている名前を上から一撫でで消した。黒板消しを置いて、白のチョークを手に取る。
クラス中が息を詰める中、岳人の文字を書く音が響く。
岳人はチョークを置くと、両手をパンパンと合わせてチョークの粉を払った。
岳人が席に戻って座る。
黒板に書かれているのは、俺と岳人のフルネーム。
どういうこと?
目を大きくしてしまう俺と、振り返った岳人の目が合った。
「曽根崎くんが文化祭実行委員やるなら、私やるよ? 一緒に頑張ろう」
さっきまで俺を罵倒していた根津さんが、可愛い声を作って岳人に近寄った。
化け物級の変わり身の早さに、唖然としてしまう。
「なんで?」
岳人が冷めた目で根津さんを見上げた。
ブリッ子全開の根津さんは、恥じらうように体をくねらせた。
「だって曽根崎くん、文化祭実行委員会に立候補したんでしょ? だったら、一緒にやってもいいなって」
「上からの物言いかよ。お前、何様なわけ?やってもいいならやるなよ」
「はっ?」
根津さんの声が裏返った。
「俺は里井遥とだからやりたいの。お前とは死んでも無理。性格ブスだし、ヒステリーだし、目障りすぎ」
「曽根崎くん?」
信じられない顔をする根津さんに、岳人が「だからさあ」と面倒そうに声を荒げた。
「お前が決めるのは二択。里井遥と一緒に委員をやるか、やらないか」
「だから、私は曽根崎くんと一緒にやりたいなって」
根津さんが岳人の袖へと手を伸ばした。
岳人が容赦なくそれを払った。
教室中の空気が痛いほど張り詰めた。
「マジで怖すぎ」
「曽根崎ってあんなヤツだっけ?」
「無口でやる気ないのがデフォだろ?」
「怒るとこ初めて見た」
「根津のヤツ、前にも何かやらかしたんじゃね? アイツ、前から曽根崎に猛烈アピールしてたじゃん」
「いつものことだけど、ブリッ子がキモすぎて笑える」
まわりのコソコソ話は、俺も登校するたびにやられる隠す気のない話だ。聞かせることで相手の心を痛めつけて、笑い者にするための聞こえる話し方。
「だってそうでしょう? 私は親切で言ってるの。曽根崎くんは里井と同じクラスになったことないしょう? あんなのと同情で一緒に仕事したら、疲れるのは曽根崎くんなんだよ?」
根津さんが叫んだ。剥きだし部分の肌は、すべて赤く染まっていた。
「わかった」
ボソリと低い声で岳人が告げた。
「良かったあ」
満面の笑顔になった根津さんが、両手を口元で合わせた。
岳人が面倒そうに大きく息を吐いた。
「お前が性格ブスじゃなくて、ドブスなのがわかった」
「なっ!」
絶句した根津さんが、岳人を睨みつけた。
「里井遥のことは誰よりも知ってるし、同じクラスだったこともある。それに、毎日のように遊んだこともある。これなら、俺が里井遥と一緒に文化祭実行委員会をやりたいって言っても、文句ないんだろ?」
岳人が立ちあがり、俺へと近づいてきた。
俺は真っ直ぐな岳人の瞳から目を逸らせずにいた。
チャイムが鳴る。
掃除終了とショートホームルーム開始の合図だ。七時限目がある場合は、休憩の合図になる。
「遥はどっちがいい?」
岳人が俺の前で足を止めた。
遥呼びされたのは、俺が失態を犯した日以来だ。
もう二度と、岳人が俺の名前を口にすることはないと思っていた。
けれど、今日だけで何回岳人は俺の名前を口にしたのだろう。
そして今、目を合わせて直接呼ばれるなんて……。
こんなに近くで真っ直ぐに岳人と顔を合わせるのは、小学一年生の俺が失態を犯した日以来だ。
これは夢かもしれない。
夢じゃなきゃ説明がつかない。
「ヒステリックなドブスと俺、どっちと一緒に委員をやりたい?」
ガラスのように綺麗な瞳に見下ろされながら、俺はどう答えていいかわからなくて言葉に詰まった。
集中するクラスメイトの視線よりも、ただ一人の視線が熱くて心臓が痛い。
「俺は……その…出来れば…だけど、俺を嫌ってない人と……やりたい」
それが精一杯の答えだった。
だから、俺を毛嫌いする根津さんとも、俺を心底嫌っている岳人ともやりたくない。
「西岡と稲葉、文化祭実行委員は俺と遥で決まりな」
岳人が教壇にいる二人に大きめな声をかけると、席に戻っていた。
濁した俺が悪いのはわかっているけれど、岳人に俺の本音は伝わらなかったみたいだ。
岳人が黙ってリュックに必要な物を詰め込んでいく。
岳人以外は全員、取り残されたように狼狽えていた。
「これで終わり?」
「まあ、根津が納得してないみたいだけど、里井と一緒が嫌ならこれしかなくない?」
「曽根崎と里井に接点なんてあったのかよ」
「初耳なんだけど」
「貧乏クジを自分で引きに行くなんて、後で後悔しても無視しようぜ」
「それな。前からお高く染まっててムカついてたんだよ」
「これから、里井のことは全部曽根崎に任せようか」
「そうしよう」
男子たちのやっかみと、
「曽根崎くん、本当は委員会やりたくなかったんでしょう? ゴメンね。でも、曾根崎くんが立候補してくれて助かったよ」
「大変だったら、いつでも声かけてね。手伝うから」
「これから、みんなでカラオケ行かない? 曽根崎くんも行こうよ。一緒のクラスになれた親睦会だと思ってさ」
岳人の気を引こうと切り替えの早い女子たちの可愛い子ぶる声が混じる。
それに一切応じず、岳人が立ちあがった。
注目が途切れて、ようやく普通に呼吸ができてきた俺は、そっと席に着いた。
放心したいけれど、ここは教室だ。まだ、気が抜けない。
俺もとっとと帰ろう。
家も居心地がいいわけじゃないけれど、一人部屋があるだけここよりマシだ。机に入っている物をだそうと、収納部に手を突っ込んだ。
同時に、俺の目の前に黒に近い灰色のリュックが音を立てて置かれた。
ビクッとして見上げると、前の席の人は俺に背を向けていた。
横へと視線を動かせば、岳人が立っていた。
「あの……これだと俺の荷物が置けないんだけど……」
恐る恐る震える声を漏らしたら、
「悪い」
岳人がリュックを肩にかけた。
机から退かしてもらえるのは助かるんだけれど、もしかして俺、これから岳人にイジメられる?
覚悟が出来てなくて、俺は生唾を飲み込んだ。
「そこまで一緒に帰ろう」
岳人の飛んでもない提案に、俺はポカンとしてしまった。
岳人の考えていることがわからない。
一つわかるのは、ここで岳人の提案を聞かなかったことにして逃げたら、岳人を狙う女子を全員敵にまわすことになる。
「えっと……その……」
答えは一択しないのに、離れた場所から睨んでくる女子の圧が強くてシドロモドロになってしまう。
「……あの……お願いします」
俺が頭を下げた瞬間、二人の大爆笑が教室中に響いた。
一つは朝聞いた男子のけたたましい笑い声にそっくりで、もう一人も朝のに似ている。
「えっ? えっ?」
挙動不審にまわりを見遣った俺は、岳人の後ろから左右にバッと現れた男子二人に驚きすぎて椅子から転げ落ちそうになった。
俺の腕を掴んで引っ張り、反動のまま俺を抱きとめるのは岳人。
ちょっと待て。
なんだこれ。
「ゴメン」
岳人がすぐに俺から腕を離した。
その間も、二人が大爆笑を続ける。
一人は俺の席をバンバン叩き、一人は腹を抱えて蹲った。
「あの、大丈夫ですか?」
何が起きているかわからないまま、とりあえず大爆笑を続ける二人に声をかけた。
岳人とは全然違うイケメン二人が、「ヤバい。笑い死ぬ」「腹筋崩壊した」と息を荒げて俺を見てくる。
この二人、一年の時に岳人と同じクラスで、女子にキャーキャー言われていた人たちだ。有名すぎて、俺でもフルネームを知っている。
岳人より少しだけ背が高く、金髪で、全体的に少し髪が長めでチャラそうなのが灰田夏生。二人ほどではないけれど身長があり、アイドルのような可愛い顔立ちで黒髪が艶々なのが館川深露だ。
三人一緒のことが多く、三人まとめてお近づきになりたい女子たちが廊下で騒いで、よく通行の邪魔になっていた。
「遥、コイツらは無視していいから」
岳人は言うなり、机の横にかかるヨレヨレで激安の俺のリュックを机に置いた。
「俺、里井ちゃんのこと気に入ったわ」
灰田に両手を握られて、俺は固まった。一生対面することがないと思っていた有名人にいきなり手を掴まれたら、絶対にこうなる。
「俺も俺も。同じ可愛い者属性で親近感が湧くし、俺より背が低くて小動物みたいなの、庇護欲搔き立てられるわ。今日から友達ね」
俺の手を握る灰田の上に、館川が両手を置いた。
「俺たちも一緒に帰りたいけど、なんか睨まれてるし、今日は久々の幼馴染で帰りなよ」
なんで、館川が俺と岳人が幼馴染って知っているの?
同じ小学校や中学校だった?
いやいや、それはない。
いくらなんでも、こんなに可愛い子と一緒の学校だったら、みそっかすな俺でも覚えているはずだ。
遠巻きに女子がワーキャー騒いでいるけれど、今はそれどころじゃない。
二人が俺から手を離した。
「困ったことがあったら、俺とミロは隣の一組だから駆け込んでこいよ。それにしても可愛いなあ。ウチの愛犬に似てる」
灰田は俺の頭を乱暴に撫でた後、
「明日、里井ちゃんも俺たちと昼飯一緒な」
ポンと俺の頭を軽く叩いた。
「じゃあ、バイバイ」
灰田と、
「また明日な。いっぱい話せるの楽しみにしてる」
館川が俺に手を振りながら教室を去っていった。
驚きの連続で声が出ないまま、手だけ釣られて振り返したけれど、間違ってないよね。
イケメン二人に嫌われたら、二人とお近づきになりたい女子たちに何をされるか……。
男子たちは驚いた顔でこっちを見ているし……。
何もしていないのに、イケメンが押し寄せて目立ちまくりだよ。
明日からは、何もしなくても女子たちから睨まれる日々確定だ。
俺は深々と溜め息をついた。
なんだか体が重い。
極限状態がピークを超えたまま維持されると、家に帰って部屋に籠る前から脱力が襲ってくるんだな。
「ゴメン。いいヤツらなんだけど、賑やかすぎて疲れたよな」
岳人が困ったように笑った。
「ちょっとビックリしたというか……俺こそ何も話せなくて申し訳ないというか……」
「言葉にしなくても表情に全部出てたから、ちゃんと伝わってるよ」
初めて聞く柔らかな岳人の声と微笑みに、俺は驚いた。
昔の岳人はニコニコ全開って感じで笑っていたけれど、いつの間にかこんな優しい表情を浮かべられるようになったんだな。
「だったらいいけど」
帰る準備を終えた俺が立ちあがると、岳人が俺のリュックを自分の肩にかけた。
「あっ」
声をあげたものの、俺は口籠った。
誰かが進んで俺の荷物を持ってくれることなんて久しぶりで、「返して」なのか、「持ってくれてありがとう」なのか、「自分で持つよ」なのか、なんて言っていいのかわからない。
自分を卑下しながら誰かに声をかけるのには慣れているけれど、それは違うってことだけはわかる。
「これは、朝の時みたいに遥が先に行ってしまわないよう、分かれ道までの人質な」
そう言って振り返った岳人は、仲良かった時と変わらない笑顔を浮かべていた。
途端、女子たちが一斉に悲鳴をあげた。
耳がキーンとして顔を顰めた俺の腕を、岳人が掴んだ。
「行こう」
岳人に引っ張られながら、俺は教室を後にした。
昔の俺は、こうして岳人に引っ張られるのが好きだった。ヒーローに助けてもらうヒロインや仲間の気持ちになったり、一緒に冒険へと出掛けるような高揚感に心臓が高鳴りすぎて苦しくなったり。二人だけで楽しい発見を共有するのも好きだった。あの頃は、ちょっとしたイジメや罵りはあったけれど、毎日が幸せだった。
……だから、思いだしたくなかった。
岳人との過去はキラキラしすぎて眩しくて、俺の大切な宝物であると同時に、今の自分が惨めで絶望しかないと強く思い知らされるパンドラの箱だから。
その日、俺と岳人は分かれ道まで黙って歩いた。
今の自分は惨めでどうしようもない底辺な人間なのを思い知って、涙が溢れてくるのを堪えながら俯いてトボトボと歩いた。
そんなゆっくり歩く俺の横で、岳人もゆっくりと歩いてくれた。
それが余計に俺を惨めにさせた。
「さよなら」
早口で告げながら岳人をチラリと見た俺に、
「また明日」
岳人は消えそうな笑顔を浮かべた。
俺の知らない岳人の表情だ。
罪悪感に襲われた俺は、走って逃げた。
息を切らして部屋に入り、そのままベッドへ飛び込む。
罪悪感が口から溢れて叫びたくなるのを我慢して、何度も布団を叩く。
それでもやり過ごせない罪悪感に、俺は布団に顔を埋めて叫んだ。
岳人はどんな気持ちで、「また明日」と言ったのだろう。
今にも泣きそうな笑みだった。
それがツラい。
もう、俺たちはあの頃に戻れない。
わかっていたことだけれど、今日は知らない岳人を見過ぎて気持ちが乱れた。
どうして、岳人は今更俺に話しかけてきたのだろう。
俺をイジメようとする顔には見えなかった。
けれど、昔の岳人とは明らかに違う。
俺はリュックを背負ったまま目を閉じた。
体育館で何一つ頭に残らない話をダラダラと聞いた後、教室に戻ればぶっ通しでの一年間の役割分担を決める学級会が始まり……。
年に一度の一番緊張する時間。
病的なまでのアガリ症な俺にとって、ただでさえ苦手な集団生活が絶望に変わるかどうかの運命の時間だ。
そして、年に一度、普段は信じていない神様に全身全霊で祈る時間でもある。
最初は担任が仕切っていた学級会だが、クラス委員が挙手と推薦で二名が決まり、書記と会計が挙手で一名ずつ決まった時点で担任は窓際の一番前でパイプ椅子に座り、クラス委員主導に変わった。
「黒板に書かれた委員会メンバーを決めていきます。順番に読みあげるので、参加したい委員会があればそこで挙手してください。どの委員会も二名必要です。定員オーバーはジャンケンで、足りないところは公平にクジ引きで決めたいと思います。先生も言ってましたが、明後日の放課後は委員会ごとに一年の流れの説明があるので、必ず出席してください」
委員長になった溌溂そうな女子の、張り上げ気味な声が響いた。
全委員会を板書し終わった地味な男子が、「ノート書くから戻るわ」と教壇を降りた。
「文句あるヤツは挙手! ないな。じゃあ、始めるぞ」
もう一人の委員長は、刈りあげの入ったショートヘアを立たせた男子で、常に笑顔だから、こうして目立つのが好きなんだろう。
「決まったら、自分で黒板に名前を書くこと。初めてクラスが一緒になるヤツも結構いて、名前わかんないのが多いし、一々席順の図を見て書くのも面倒なんだわ」
男子の委員長が席順のプリントが入ったソフトケースで、バンバンと教壇を叩いた。
ノリのいいヤツらが一緒になって笑っているが、前回同じクラスだった人間のほとんどを名字でしか言えない俺にとっては、全然笑えない。
クラスメイトどころか教師も興味がない俺の記憶には、時々ステージで話す教頭や校長の名前も顔も残っていない。
それと、手は挙げなかったけれど、クジ引きは断固反対だ。教師受けのいい陽キャ順で委員を決めるのが一番いいに決まっている。
万が一に俺が委員に当たったら、どうなるか。
俺に務まる委員なんて一つもない。小学校時代から高校一年生にかけて、一度でも俺と同じクラスになった人ならわかるはずだ。
「ほらほら、行くぞ~っ。まずは、風紀委員になりたい人、挙手」
委員長の男子がビシッと片手を挙げた。
「お前、風紀委員もやるのかよ」
委員長以外誰も手を挙げない現実に、委員長と友達だろうドア側で最前列の男子が野次を飛ばす。
「やるわけないだろ! お前、そんなこと言ってると風紀委員を引き当てるぞ」
「クラス委員が一般生徒を脅すってありえないんだけど」
楽し気なやり取りに笑いが広がっていく。
ハズレクジの数がこれで二以上と確定した。
俺は両手を握り合わせ、これ以上ハズレクジが増えないように祈るしかなかった。
ドアが開く音に、握った両手を見つめていた俺は顔をあげた。
担任がクラスを見渡しながら入ってきた。
出歩いていた生徒たちが、ダルそうに席へ戻っていく。
女子の委員長が続いて教室に入る。
岳人のまわりでずっと話しかけたそうに雑談していた女子たちも、未練がましそうに何度も振り返りながら席に着いていく。
机にうつ伏せて、寝てしまったのかと思うほど動かなかった岳人が上体を起こした。
最後に入った男子の委員長が、ドアを閉めた。
「西岡、俺にハズレクジをチョーダイ」
委員長の男子と一番親し気なドア側一番前の男子が、両手を前に伸ばした。
西岡が男子クラス委員の名字か。
覚えておかなきゃ。
「お前のハズレクジは委員会の書かれたクジだろ」
「違う。真っ白いのくれ」
「正々堂々と不正かよ。自引きしろ」
西岡が手にしている小さな紙袋を掲げた。
「は~い、この紙袋の中に出来たてホヤホヤのクジが入ってま~すっ。当たりのクジには委員会の名前が書いてあるから、当たったら速やかに黒板に名前を書けよ。じゃあ、出席番号一番と最後、ジャンケン。負けた方からまわってくからな」
無駄話を挟みつつもテキパキと進める西岡にすべてを任せたのか、女子の委員長は教卓で両腕をつき、西岡を眺めている。
「では始めようか。まずは、運命のクジ順を決めるジャンケ~ンッ。もうすぐ掃除時間に突入するから、急いで終わらせるぞ。両者立ってーっ。最初はグーな。行くぞ、最初はグーッ。ジャンケンポン!」
ジャンケン一つに異常に盛り上がる一部の連中がどよめいた。
勝負は三回目で決まった。
西岡が出席番号一番の席に向かう。
出席番号が早い順からのクジ引きが始まった。
小学一年生の大失態以来、俺の当たらないクジ運は連勝している。
だから、今回も絶対に大丈夫なはず。
バクバクする心臓と、カラカラに渇く喉。
浅くなる呼吸で息苦しくなった俺は、一度瞼を閉じるとゆっくり息を吸い込んだ。
西岡が紙袋を持ってまわってきた。
俺は座ったまま、潔く一枚のクジを引いた。俺みたいな人間は、さっさと引かないでいると迷惑にカウントされてしまう。
「大丈夫。絶対に大丈夫。絶対に何も書かれていない。大丈夫。絶対に大丈夫」
自分に言い聞かせながら、一度両手でクジを握りしめて念じた。
強張った指で引いたクジの最初の折り目を恐る恐る開く。
ヨシッ。
まだ白い。
文字らしきものは透けて見えない。
あと一折開いて、何も透けて見えなかったらほぼ勝利確定だ。
震える指でもう一折開く。
ヤッターッ!
勝った。
まったく透けていないから完全勝利だ。
安心して頬が緩んだ俺は、最後の折り目を開いて固まった。
死角だ。
クジの中央の折り目に、小さな平仮名が丸で囲まれている。
「ぶ?」
『ぶ』ってなんだ。
顔をあげると、女子の委員長が黒板に何かを書き加えている。まだ決まっていない委員会の上にだけ、丸で囲った平仮名一文字が追加されていた。
『ぶ』は……文化祭実行委員会⁉
ちょっと待て、そんな目立ちそうな委員会、絶対に無理なんだけど。
俺はぬか喜び後の絶望に固まった。
去年以上に醜態を晒すことが決定した。
今年一年、お先真っ暗だ。
せめて、当たるなら美化委員が良かった。
もうお終いだ。
放心状態ギリギリ手前の俺の視界に、面倒そうに名前を書いて席に戻る生徒たちが映る。
「時間押してるよ。ハズレを引いた人はさっさと黒板に名前を書いて! ほらもう、チャイムが鳴った」
キレ気味の女子の委員長に、俺はビクッとした。
六時限目終了のチャイムは、奉仕時間と呼ばれる掃除開始の合図でもある。
「今日の掃除はいいから、委員会を決めてしまって」
担任がパイプ椅子を畳んで、端に立てかけた。
「掃除場所の分担表は席図の後ろに入ってるから、まだ確認してないヤツは見ておくように。全員いるのは確認したし、帰りのショートホームルームはやらないから、終わったら帰っていいぞ」
担任は何事もなかったように教室から出ていった。
「あと一人。文化祭実行委員を引き当てたの誰? 逃げられないんだから、さっさと名前書いて。ああもういいや、手を挙げてくれたら私が書くから」
「誰だよ。早速女帝を怒らせたヤツ。一生恨まれるぜ」
誰かの嘲りに、血の気が引いていく。
「みんなで逃げたヤツを探そうぜ」
「まだ捨ててないだろ? 全員机にクジを出せよ」
教室中が煩くなる。
ヤバい。
早く言わないと悪者扱いになる。
体が強張りすぎて、声が出ない。
「あっ……あの……」
俺は石になってしまったかのように重い右手を、無理矢理挙げた。
「お前、クジ当たってたの?」
俺の前の席の軽い天パの男が、一番に反応した。
途端、クラスが静まった。
けれど、すぐに騒ぎだした。
「なんだよ。早く言えよ」
「あっ、本当だ。ぶって書いてある。これ、文字が小さすぎだろ」
「これから断罪ごっこだったのに、解決早すぎだろ。もう少し粘れよ」
「里井なら逃げようとするわ。こういうの、一番向いてないもんな」
「だよなあ。毎回テストの点数はいいけど、他はクソなほどポンコツじゃん」
「マジでそれ」
馬鹿にされ、囃し立てられるのはいつものこと。けれど、いつまで経っても慣れない。
嘲笑やちょっとした文句さえ、俺には体罰のようにツラくて、息が詰まる。
「悪いと思ってんなら、名前、自分で書いてよ」
女子の委員長の蔑む目とキツイ言い方に、俺は机に震える両手の平をついた。
腕に力を入れて立ち上がろうとするけれど、下半身まで石のように重い。
それでも、どうにかこうにか立ち上がる。
「えっ? ちょっとマジ⁉ コイツと一緒なんて絶対に無理。生理的にマジでヤダ! コイツと一緒になるくらいなら、どこの委員会でもいいわ。誰か変わってくんない?」
一人の女子生徒の半狂乱気味な怒鳴り声に、俺は縮こまった。
中央の席で立ったまま俺を睨んでいるのは、去年同じクラスだった根津さんだ。下の名前は覚えていない。ヤンチャな女子グループにいて、席が近い時は率先して俺をクズ扱いしてきた。クズは本当だから耐えるしかないけれど、機嫌が悪いとバイキン扱いして俺を笑いものにしていた。
「こんなのと一緒なんて、根津さん可哀そう」
今年も同じクラスになった根津さんの友達の小林さんが、根津さんに寄り添う。
俺もそう思うよ。
俺なんてお荷物でしかないから。
「けど、公平に決まったんだから仕方ないだろ」
「俺が根津だったら、まったく同じこと言うわ。去年、コイツと同じクラスだったヤツは全員思うって。当てられても答えない。何かあると黙ったまま動かない。本読みは聞き取れない小声の早口言葉。黒板で問題を解くのに時間かけすぎ。なのに、貼りだされる成績順位表では結構な上位。カンニングを疑ったもんな」
「それなっ。実は俺、まだ疑ってんだけど」
「いやいや、毎回全科目カンニングは神業だろ。こんな臆病者に無理だって」
ゲラゲラと笑い者にされながら、俺は俯くしかなかった。時間が過ぎるのをひたすら待つ。
それしか解決方法がないと知っているから。
クラスが盛りあがる中、突然大きな音が響いた。
思わず、竦めていた肩をもっと竦めてしまう。
幾つかの小さな悲鳴の後、数秒の静けさが訪れた。
「何? 今の音」
「なんで机が倒れてんの?」
広がりだしたざわめきを、
「悪い。ウザすぎが我慢の限界超えて倒した」
岳人の昼間に聞いたのよりも低く暗めな声に、再び沈黙が生まれた。
やっぱり俺、岳人に心底嫌われているんだな。
わかっていることを再確認させられただけなのに、幼い頃の記憶がキラキラしすぎて鼻の奥がツンとしてきた。
恐る恐る顔を少し上げると、岳人が横に倒れた机を気怠げに起こしていた。
「だよなあ。里井ってウザいよなあ」
誰かが態とらしく話を合わせてきた。
それに釣られたように、笑いが起きる。
「ウザいのはお前らだよ」
吐き捨てた岳人が、歩きだして教壇に登った。
黒板消しを乱暴に掴むと、文化祭実行委員会に書かれている名前を上から一撫でで消した。黒板消しを置いて、白のチョークを手に取る。
クラス中が息を詰める中、岳人の文字を書く音が響く。
岳人はチョークを置くと、両手をパンパンと合わせてチョークの粉を払った。
岳人が席に戻って座る。
黒板に書かれているのは、俺と岳人のフルネーム。
どういうこと?
目を大きくしてしまう俺と、振り返った岳人の目が合った。
「曽根崎くんが文化祭実行委員やるなら、私やるよ? 一緒に頑張ろう」
さっきまで俺を罵倒していた根津さんが、可愛い声を作って岳人に近寄った。
化け物級の変わり身の早さに、唖然としてしまう。
「なんで?」
岳人が冷めた目で根津さんを見上げた。
ブリッ子全開の根津さんは、恥じらうように体をくねらせた。
「だって曽根崎くん、文化祭実行委員会に立候補したんでしょ? だったら、一緒にやってもいいなって」
「上からの物言いかよ。お前、何様なわけ?やってもいいならやるなよ」
「はっ?」
根津さんの声が裏返った。
「俺は里井遥とだからやりたいの。お前とは死んでも無理。性格ブスだし、ヒステリーだし、目障りすぎ」
「曽根崎くん?」
信じられない顔をする根津さんに、岳人が「だからさあ」と面倒そうに声を荒げた。
「お前が決めるのは二択。里井遥と一緒に委員をやるか、やらないか」
「だから、私は曽根崎くんと一緒にやりたいなって」
根津さんが岳人の袖へと手を伸ばした。
岳人が容赦なくそれを払った。
教室中の空気が痛いほど張り詰めた。
「マジで怖すぎ」
「曽根崎ってあんなヤツだっけ?」
「無口でやる気ないのがデフォだろ?」
「怒るとこ初めて見た」
「根津のヤツ、前にも何かやらかしたんじゃね? アイツ、前から曽根崎に猛烈アピールしてたじゃん」
「いつものことだけど、ブリッ子がキモすぎて笑える」
まわりのコソコソ話は、俺も登校するたびにやられる隠す気のない話だ。聞かせることで相手の心を痛めつけて、笑い者にするための聞こえる話し方。
「だってそうでしょう? 私は親切で言ってるの。曽根崎くんは里井と同じクラスになったことないしょう? あんなのと同情で一緒に仕事したら、疲れるのは曽根崎くんなんだよ?」
根津さんが叫んだ。剥きだし部分の肌は、すべて赤く染まっていた。
「わかった」
ボソリと低い声で岳人が告げた。
「良かったあ」
満面の笑顔になった根津さんが、両手を口元で合わせた。
岳人が面倒そうに大きく息を吐いた。
「お前が性格ブスじゃなくて、ドブスなのがわかった」
「なっ!」
絶句した根津さんが、岳人を睨みつけた。
「里井遥のことは誰よりも知ってるし、同じクラスだったこともある。それに、毎日のように遊んだこともある。これなら、俺が里井遥と一緒に文化祭実行委員会をやりたいって言っても、文句ないんだろ?」
岳人が立ちあがり、俺へと近づいてきた。
俺は真っ直ぐな岳人の瞳から目を逸らせずにいた。
チャイムが鳴る。
掃除終了とショートホームルーム開始の合図だ。七時限目がある場合は、休憩の合図になる。
「遥はどっちがいい?」
岳人が俺の前で足を止めた。
遥呼びされたのは、俺が失態を犯した日以来だ。
もう二度と、岳人が俺の名前を口にすることはないと思っていた。
けれど、今日だけで何回岳人は俺の名前を口にしたのだろう。
そして今、目を合わせて直接呼ばれるなんて……。
こんなに近くで真っ直ぐに岳人と顔を合わせるのは、小学一年生の俺が失態を犯した日以来だ。
これは夢かもしれない。
夢じゃなきゃ説明がつかない。
「ヒステリックなドブスと俺、どっちと一緒に委員をやりたい?」
ガラスのように綺麗な瞳に見下ろされながら、俺はどう答えていいかわからなくて言葉に詰まった。
集中するクラスメイトの視線よりも、ただ一人の視線が熱くて心臓が痛い。
「俺は……その…出来れば…だけど、俺を嫌ってない人と……やりたい」
それが精一杯の答えだった。
だから、俺を毛嫌いする根津さんとも、俺を心底嫌っている岳人ともやりたくない。
「西岡と稲葉、文化祭実行委員は俺と遥で決まりな」
岳人が教壇にいる二人に大きめな声をかけると、席に戻っていた。
濁した俺が悪いのはわかっているけれど、岳人に俺の本音は伝わらなかったみたいだ。
岳人が黙ってリュックに必要な物を詰め込んでいく。
岳人以外は全員、取り残されたように狼狽えていた。
「これで終わり?」
「まあ、根津が納得してないみたいだけど、里井と一緒が嫌ならこれしかなくない?」
「曽根崎と里井に接点なんてあったのかよ」
「初耳なんだけど」
「貧乏クジを自分で引きに行くなんて、後で後悔しても無視しようぜ」
「それな。前からお高く染まっててムカついてたんだよ」
「これから、里井のことは全部曽根崎に任せようか」
「そうしよう」
男子たちのやっかみと、
「曽根崎くん、本当は委員会やりたくなかったんでしょう? ゴメンね。でも、曾根崎くんが立候補してくれて助かったよ」
「大変だったら、いつでも声かけてね。手伝うから」
「これから、みんなでカラオケ行かない? 曽根崎くんも行こうよ。一緒のクラスになれた親睦会だと思ってさ」
岳人の気を引こうと切り替えの早い女子たちの可愛い子ぶる声が混じる。
それに一切応じず、岳人が立ちあがった。
注目が途切れて、ようやく普通に呼吸ができてきた俺は、そっと席に着いた。
放心したいけれど、ここは教室だ。まだ、気が抜けない。
俺もとっとと帰ろう。
家も居心地がいいわけじゃないけれど、一人部屋があるだけここよりマシだ。机に入っている物をだそうと、収納部に手を突っ込んだ。
同時に、俺の目の前に黒に近い灰色のリュックが音を立てて置かれた。
ビクッとして見上げると、前の席の人は俺に背を向けていた。
横へと視線を動かせば、岳人が立っていた。
「あの……これだと俺の荷物が置けないんだけど……」
恐る恐る震える声を漏らしたら、
「悪い」
岳人がリュックを肩にかけた。
机から退かしてもらえるのは助かるんだけれど、もしかして俺、これから岳人にイジメられる?
覚悟が出来てなくて、俺は生唾を飲み込んだ。
「そこまで一緒に帰ろう」
岳人の飛んでもない提案に、俺はポカンとしてしまった。
岳人の考えていることがわからない。
一つわかるのは、ここで岳人の提案を聞かなかったことにして逃げたら、岳人を狙う女子を全員敵にまわすことになる。
「えっと……その……」
答えは一択しないのに、離れた場所から睨んでくる女子の圧が強くてシドロモドロになってしまう。
「……あの……お願いします」
俺が頭を下げた瞬間、二人の大爆笑が教室中に響いた。
一つは朝聞いた男子のけたたましい笑い声にそっくりで、もう一人も朝のに似ている。
「えっ? えっ?」
挙動不審にまわりを見遣った俺は、岳人の後ろから左右にバッと現れた男子二人に驚きすぎて椅子から転げ落ちそうになった。
俺の腕を掴んで引っ張り、反動のまま俺を抱きとめるのは岳人。
ちょっと待て。
なんだこれ。
「ゴメン」
岳人がすぐに俺から腕を離した。
その間も、二人が大爆笑を続ける。
一人は俺の席をバンバン叩き、一人は腹を抱えて蹲った。
「あの、大丈夫ですか?」
何が起きているかわからないまま、とりあえず大爆笑を続ける二人に声をかけた。
岳人とは全然違うイケメン二人が、「ヤバい。笑い死ぬ」「腹筋崩壊した」と息を荒げて俺を見てくる。
この二人、一年の時に岳人と同じクラスで、女子にキャーキャー言われていた人たちだ。有名すぎて、俺でもフルネームを知っている。
岳人より少しだけ背が高く、金髪で、全体的に少し髪が長めでチャラそうなのが灰田夏生。二人ほどではないけれど身長があり、アイドルのような可愛い顔立ちで黒髪が艶々なのが館川深露だ。
三人一緒のことが多く、三人まとめてお近づきになりたい女子たちが廊下で騒いで、よく通行の邪魔になっていた。
「遥、コイツらは無視していいから」
岳人は言うなり、机の横にかかるヨレヨレで激安の俺のリュックを机に置いた。
「俺、里井ちゃんのこと気に入ったわ」
灰田に両手を握られて、俺は固まった。一生対面することがないと思っていた有名人にいきなり手を掴まれたら、絶対にこうなる。
「俺も俺も。同じ可愛い者属性で親近感が湧くし、俺より背が低くて小動物みたいなの、庇護欲搔き立てられるわ。今日から友達ね」
俺の手を握る灰田の上に、館川が両手を置いた。
「俺たちも一緒に帰りたいけど、なんか睨まれてるし、今日は久々の幼馴染で帰りなよ」
なんで、館川が俺と岳人が幼馴染って知っているの?
同じ小学校や中学校だった?
いやいや、それはない。
いくらなんでも、こんなに可愛い子と一緒の学校だったら、みそっかすな俺でも覚えているはずだ。
遠巻きに女子がワーキャー騒いでいるけれど、今はそれどころじゃない。
二人が俺から手を離した。
「困ったことがあったら、俺とミロは隣の一組だから駆け込んでこいよ。それにしても可愛いなあ。ウチの愛犬に似てる」
灰田は俺の頭を乱暴に撫でた後、
「明日、里井ちゃんも俺たちと昼飯一緒な」
ポンと俺の頭を軽く叩いた。
「じゃあ、バイバイ」
灰田と、
「また明日な。いっぱい話せるの楽しみにしてる」
館川が俺に手を振りながら教室を去っていった。
驚きの連続で声が出ないまま、手だけ釣られて振り返したけれど、間違ってないよね。
イケメン二人に嫌われたら、二人とお近づきになりたい女子たちに何をされるか……。
男子たちは驚いた顔でこっちを見ているし……。
何もしていないのに、イケメンが押し寄せて目立ちまくりだよ。
明日からは、何もしなくても女子たちから睨まれる日々確定だ。
俺は深々と溜め息をついた。
なんだか体が重い。
極限状態がピークを超えたまま維持されると、家に帰って部屋に籠る前から脱力が襲ってくるんだな。
「ゴメン。いいヤツらなんだけど、賑やかすぎて疲れたよな」
岳人が困ったように笑った。
「ちょっとビックリしたというか……俺こそ何も話せなくて申し訳ないというか……」
「言葉にしなくても表情に全部出てたから、ちゃんと伝わってるよ」
初めて聞く柔らかな岳人の声と微笑みに、俺は驚いた。
昔の岳人はニコニコ全開って感じで笑っていたけれど、いつの間にかこんな優しい表情を浮かべられるようになったんだな。
「だったらいいけど」
帰る準備を終えた俺が立ちあがると、岳人が俺のリュックを自分の肩にかけた。
「あっ」
声をあげたものの、俺は口籠った。
誰かが進んで俺の荷物を持ってくれることなんて久しぶりで、「返して」なのか、「持ってくれてありがとう」なのか、「自分で持つよ」なのか、なんて言っていいのかわからない。
自分を卑下しながら誰かに声をかけるのには慣れているけれど、それは違うってことだけはわかる。
「これは、朝の時みたいに遥が先に行ってしまわないよう、分かれ道までの人質な」
そう言って振り返った岳人は、仲良かった時と変わらない笑顔を浮かべていた。
途端、女子たちが一斉に悲鳴をあげた。
耳がキーンとして顔を顰めた俺の腕を、岳人が掴んだ。
「行こう」
岳人に引っ張られながら、俺は教室を後にした。
昔の俺は、こうして岳人に引っ張られるのが好きだった。ヒーローに助けてもらうヒロインや仲間の気持ちになったり、一緒に冒険へと出掛けるような高揚感に心臓が高鳴りすぎて苦しくなったり。二人だけで楽しい発見を共有するのも好きだった。あの頃は、ちょっとしたイジメや罵りはあったけれど、毎日が幸せだった。
……だから、思いだしたくなかった。
岳人との過去はキラキラしすぎて眩しくて、俺の大切な宝物であると同時に、今の自分が惨めで絶望しかないと強く思い知らされるパンドラの箱だから。
その日、俺と岳人は分かれ道まで黙って歩いた。
今の自分は惨めでどうしようもない底辺な人間なのを思い知って、涙が溢れてくるのを堪えながら俯いてトボトボと歩いた。
そんなゆっくり歩く俺の横で、岳人もゆっくりと歩いてくれた。
それが余計に俺を惨めにさせた。
「さよなら」
早口で告げながら岳人をチラリと見た俺に、
「また明日」
岳人は消えそうな笑顔を浮かべた。
俺の知らない岳人の表情だ。
罪悪感に襲われた俺は、走って逃げた。
息を切らして部屋に入り、そのままベッドへ飛び込む。
罪悪感が口から溢れて叫びたくなるのを我慢して、何度も布団を叩く。
それでもやり過ごせない罪悪感に、俺は布団に顔を埋めて叫んだ。
岳人はどんな気持ちで、「また明日」と言ったのだろう。
今にも泣きそうな笑みだった。
それがツラい。
もう、俺たちはあの頃に戻れない。
わかっていたことだけれど、今日は知らない岳人を見過ぎて気持ちが乱れた。
どうして、岳人は今更俺に話しかけてきたのだろう。
俺をイジメようとする顔には見えなかった。
けれど、昔の岳人とは明らかに違う。
俺はリュックを背負ったまま目を閉じた。

