家の最寄り駅に戻り、改札の外へ出ると、真っ先に目に入ったのは石焼き芋のトラックだった。胃袋がねじれるような甘い匂いが漂ってくる。
僕は目の前にメニュー画面を開き、カレンダーを呼び出した。2057年11月20日、火曜日。給料日は……来週の日曜日。続けて家計簿アプリを開いて数字を一瞥し、アプリを閉じる。そしてただ静かに、トラックに背を向けて、灰色の雪が積もった道へ足を向けた。
***
どれくらい歩いただろう。
いつも見る、あちこち黄ばんで錆びついた階段。ぎし、ぎし、と軋む音を踏みしめて上がると、不規則に点滅するセンサーライトの下に、赤茶けた鉄の扉が待っていた。
家に入り、玄関で靴を脱いで上がると、曇りガラスの引き戸の向こうから温かな光が漏れていた
ずずず……
引き戸を開けると、出迎えたのは色の抜けた古い畳一枚と、小さなローテーブル一つ。綿がはみ出したソファと家具がいくつか。その部屋の中心には、正体不明のゆるキャラが描かれたヘアバンドで額を出し、黒髪を腰までだらりと垂らした女がひとり、うつ伏せになっている。
淡いレモン色の冬用のパジャマ。持ち上げている片足の爪は、青白くなっている。そして彼女は、皮が剥けて血管が露出した旧型ギアを目の前に置き、両手に細かな工具を何本も握ったまま、そこから一瞬たりとも視線を外さない。
「おい、ちゃんと靴下も履けって、何回言わせるんだ」
大きくため息をついてコートを脱ぎ、彼女の肩にばさりと投げかける。
「おかえり……ごはん作っといたから、適当に食べて」
目はギアに縫い付けられたまま、口だけが勝手に動いている。
僕はバッグを部屋の隅に放り投げ、彼女の横のローテーブルの前へ、どさりと座り込んだ。
白米は、やけに白かった。上から湯気だけがふわりと立つ。その横には、よく混ぜられた納豆。油がつやつや光る目玉焼きが一枚。小さなアルミのカップには水がなみなみと注がれている。
「彩羽、備蓄米でもあったの?」
「うん。スーパーで安かったから買った」
「いくら」
「5キロで七千円」
「……七千円?」
僕は聞き返しながら、床の隅でぐしゃぐしゃになっていたレシートを拾って広げる。
――税込み八千四百円。
黙ってそれを床に戻し、箸を取って口を開く。
「それよりさ。お前、本当に勉強しないの? もうすぐ〈統制適性試験〉だろ」
「……うん。めんどいし、今の大学でいいや」
彩羽は床にうつ伏せのまま、足先だけをぶらぶら揺らしている。僕はその背中を見下ろす。
「お前、もうちょっと頑張れば国立医大も首席だって。いつか医者になるって、あんなに言ってたくせに」
「それ昔の話。どうせ入学金も払えないし」
「だから僕が払うって言ってるだろ」
「……お兄ちゃん、貧乏じゃん」
聞き慣れた一言が、胸に重く刺さって抜けない。
「それでも僕が、お前を食わせて、ここまで育てて、学校だって通わせてきただろ」
「なにそれ。奨学免除で全額だし。イロハが好きでやってるだけなのに、なんで喧嘩ふっかけてくんの」
「……はぁ。だからって、VR工学部って。僕みたいになる気かよ」
すると、彼女は工具をそっと置き、欠伸ひとつしてから伸びをしつつ立ち上がる。
「お兄ちゃんみたいの、なにが悪いの。あと、毎回同じ話するのマジでやめて。ほら、風呂、沸かしといたから。さっさと入って寝て。……あ、それ、絶対触んないでね」
そう言い残して、彩羽は自分の部屋の奥へ歩いていく。僕はただ、首を落としたまま、味のしない白米を、無理やり口へ押し込んだ。
風呂を済ませ、部屋のドアを押して入った瞬間。無色無臭のいつもの空間が、何事もなかったみたいに僕を迎えた。
さっきまで赤く火照っていた体温が、一瞬で部屋の隅々へ吸い取られていく。
照明のスイッチを押す。五秒ほど沈黙したあと、ぱち、ぱち、と三、四回だけ点滅して、頼りない薄い白光が、ようやく部屋を満たした。
目に入るのは、木のテーブルがひとつ。右の床の隅には、一人用の室内スリープテント。僕はその中から茶色いフリースを一枚手に取り、テーブルの前に腰を下ろした。それから静かに、バッグの中の文庫本を取り出し、眺める。
『お前を殺さざるを得ない、終焉の世界にて』
僕がいちばん好きなシリーズで、明日接続するマップの背景にもなっている、有名な小説。
……けれど、これは〈それ〉とは別物だ。
中古の闇市で、ようやく手に入れた一冊。どこにも売っていない過去の遺物。うめぼし先生がまだ無名だったころ、表紙制作から推敲まで全部自分でやり切ったという、刊行前の原本。
表紙には、古びた灰色の服をまとった少女がひとり。真っ白な髪に、ところどころ混じる青い筋が淡く明滅している。鋭いのに、猫みたいに可愛げのある吊り目。青い左目の下に、涙ぼくろがひとつ。
何百回も見たはずのイラストなのに、今日はなぜか、妙な既視感が残った。
本の中ほど、少しだけ開き癖のついた隙間を指で押さえて開くと、いつもの、僕の好きな一文が現れる。
『どんなに世界が不条理でも、その代償が地獄でも、お前だけは俺が守ってやる』
現実では、世界の不条理に抗えるはずがないのに。
憧れの小説の主人公が、ヒロインを守るときに言う台詞。僕は、どうしてこの言葉がこんなに好きだったんだろう。その理由さえもう、記憶の奥で色を失いはじめていた。
本を閉じ、机の引き出しに差し込んだ。椅子の上で足を伸ばし、背中を預ける。それから視線を移し、読書アプリを起動する。
『フォロー中小説の新着情報:68件』
アプリを開いた途端、目の前に浮かんだ通知を適当に消し、閲覧履歴のいちばん上にある〈VR臨床安全管理士(第2種)一ヶ月で合格!〉をクリックしかけた、そのとき。視界の端に、業務アラートが滑り込んでくる。
『5分後、21:00 日次報告・業務スケジュールが開始されます』
「はぁ……」
長い欠伸を吐き出して立ち上がり、机の棚の横に置いた小さな写真立ての埃を指で払う。それからテントの中のマットレスへ、体を放り投げる。
布団で体をぐるぐる巻きにする。
左手だけ伸ばして電気マットのスイッチを入れ、右手でギアを取り、頭に被せる。電源を入れ、ハーフダイブボタンを押す。
いつも通りの音声が耳に落ちる。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
視界に、無機質な白い文字のメニューが滑り込んでくる。
――同期中の機器:一台
――接続可能ワールド:スタジオ・ジェネシス共用オフィス
僕は視線でそのオフィスワールドをなぞり、選択した。いつもの手順の先に、いつものローディング画面が浮かぶだけだった。
***
ほどなくして、視界いっぱいに床がせり上がってきた。その先に、巨大なエレベーターが一基。近づいて扉の前に立つと、センサーが反応して無音で開いた。内壁は傷ひとつない純白。僕が乗り込むと同時に、隙間なく密閉される。
出荷される肉塊になった気分だ。
『カネコ・サク様。どの島へ移動なさいますか?』
いつも聞く、あの女性のアナウンス。僕は投げやりに答える。
「医療事業部の島」
『承知しました。移動を開始します』
言い終わるより早く、チン、と到着音。扉が開きはじめる。
そこには白いテーブルが、左右に何十台も、平行線を描くように並んでいた。テーブルの上には、持ち主の癖がそのまま形になったようなものが散らばっている。
本の山。
手のひらサイズの動物フィギュア。
アニメのキャラクターグッズ。
時間が遅いせいか、社員はほとんどいない。馴染みの場所に馴染みの顔が、ホログラムモニターを瞬きひとつせずにぼんやり見つめている。
巨大な窓の外には、針葉樹がびっしりと密集し、枝という枝に雪がこんもり積もって、砂糖を散らした砂浜の白さが広がっていた。
その窓の真正面。そこが僕の席だ。
白い机の上には、ホログラムモニター兼作業用端末。その隣に、起動用の黒いボタンがひとつ。ノートが二冊に、鉛筆が一本。会社の福利厚生で、AIモデリング機から出力した小説キャラクターのアクリルスタンドが二体、仲良く並んでいた。
椅子に腰を下ろしてボタンを押すと、空中に淡い青の四角いホログラムパネルが立ち上がり、手元には黒いキーボードとマウスが現れる。
僕は黙って社内の業務ポータルを開き、日次報告の管理画面へ飛んだのだが……今日の報告書は、すでに〈提出済み〉になっていた。
一度まばたきして、三秒置いてもう一度見ても、表示は変わらない。
(え……? まだ半分も書いてないはずじゃ……)
そう考えたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「さっちゃんさん、こんばんは!」
椅子を回して振り向くと、鮮やかな青の、肩まで落ちるウルフカット。意味が分からないことに、サングラスを逆向きに、後頭部へ引っかけている。寝起きみたいに重たいまぶた。背は少しあるのに、やたら細く骨ばった体つき。薄いスラックスは骨盤のラインが出るくらい細くて、紺色の長袖ニットがやけに浮いて見えた。
僕の大学の後輩でもあり、職場でも後輩の村上葵ちゃんだ。
彼女は僕の隣の椅子へ、べたん、と座り込む。同時に、鼻を殴る臭気がくる。混ぜたプロテインを一年放置したみたいな匂いが、肺の奥をえぐってくる。
「……葵ちゃん。悪いけど、マジでタバコくさい。現実でもそうなの?」
僕は片目を細め、息を詰めて言った。
「アタシ、現実では禁煙・禁酒・禁欲の三位一体ですよ! で、今はどうです?」
そう言った瞬間、匂いはふっと消えた。なのに残り香だけが、まだ鼻の中で転がっている。
「まあ、先よりはマシかな……それより、やることもないくせに、なんで毎日こんな時間までいるの」
「やることがないなんて、ひどい! アタシはさっちゃんさんの顔を見ないと退勤できないんですぅ」
僕は足を組み、前髪を耳のほうへ払ってから、もう一度口を開く。
「またその観相修行? 飽きないね。それで、今日は何か見えるの?」
足を組んでつま先を揺らすと、彼女は顔を近づけ、瞳をじっと覗き込んでくる。透き通った彼女の瞳孔の奥に、眉にかかる黒髪で、目つきの悪い男の姿が、やけにくっきり映っている。
「むむ、これはっ! 大変です!!」
「……今度は何。何が大変なの」
「あなたは今、運命の選択の岐路に立たされています。周りに流されず、自分が信じる道を歩くべきでしょう」
具体性ゼロの、ふわっとした予言。僕はそんなもの信じないはずなのに、口だけは自然に動いてしまった。
「選択の岐路って……何か、悪いことでもあるの?」
「それ、アタシが分かるわけないじゃないですか」
僕は眉間をつまんで、黙った。すると葵ちゃんが、何か思い出したように言う。
「そうだ。すすちゃんさんが、さっちゃんさんの分の報告書まで提出しといたって、伝えとけって言ってましたよ」
「……すいさんが?」
「はい」
今夜、僕はすいさんに散々迷惑をかけたまま、別れたはずだ。きっと僕のことを邪魔だと思ったはずだ。そう考えたのに……
記憶をたどって別れ際の彼女の顔を思い出そうとしても、なぜか輪郭が掴めない。胸の片隅が痛む。
「それより、早く帰りましょ! 疲れた~」
葵ちゃんは両手を組んで肩の上までぐっと持ち上げ、目をぎゅっと閉じて言う。
「……うん。葵ちゃんは先に帰って。僕は次の案件の制作物テスト、回さないと」
「うぇっ……だから言ったじゃないですか! 兼務やめろって! ワールド開発チームに、エンジニアリングサポート? 給料増えないのに、ほんと狂ってる~」
彼女は大げさに顔をしかめ、僕の足を軽く、とんとんとつつきはじめる。
「いや、意外とやりがいあるし。ていうか、いつ〈兼務やめろ!〉なんて言ったの? あの時も運命がどうとか変なことしか言ってなかったでしょ」
「それが言ったってことなんですよ~ ほんと、何も分かってないなぁ。それより、もういいから、うちの部署来ません? 席、空いてるし」
彼女はにやっと笑って、身を乗り出した。僕は喉まで上がってきた反論を、無理やり押し込む。
「行こうと思って行ける部署じゃないし。行けたとしても、今より忙しくなるだけだ。僕、そこまで頭回らないからさ」
「アタシが手伝えばいいのに……。ま、いいや。アタシはもう帰ります。疲れました。アディオス」
彼女は露骨に唇を尖らせ、勢いよく席を立つ。
「うん。おつかれ」
葵ちゃんの姿が消えたあと、残ったのは――相変わらず無表情で、微動だにしない数人の社員だけ。
肩は重く、まぶたも落ちてくる。でも次の評価日が近いのを思い出し、僕は両頬をぱちんと叩いた。乾いた手で顔をこすり、もう一度画面に向き直る。
続けるしかなかった。
僕は目の前にメニュー画面を開き、カレンダーを呼び出した。2057年11月20日、火曜日。給料日は……来週の日曜日。続けて家計簿アプリを開いて数字を一瞥し、アプリを閉じる。そしてただ静かに、トラックに背を向けて、灰色の雪が積もった道へ足を向けた。
***
どれくらい歩いただろう。
いつも見る、あちこち黄ばんで錆びついた階段。ぎし、ぎし、と軋む音を踏みしめて上がると、不規則に点滅するセンサーライトの下に、赤茶けた鉄の扉が待っていた。
家に入り、玄関で靴を脱いで上がると、曇りガラスの引き戸の向こうから温かな光が漏れていた
ずずず……
引き戸を開けると、出迎えたのは色の抜けた古い畳一枚と、小さなローテーブル一つ。綿がはみ出したソファと家具がいくつか。その部屋の中心には、正体不明のゆるキャラが描かれたヘアバンドで額を出し、黒髪を腰までだらりと垂らした女がひとり、うつ伏せになっている。
淡いレモン色の冬用のパジャマ。持ち上げている片足の爪は、青白くなっている。そして彼女は、皮が剥けて血管が露出した旧型ギアを目の前に置き、両手に細かな工具を何本も握ったまま、そこから一瞬たりとも視線を外さない。
「おい、ちゃんと靴下も履けって、何回言わせるんだ」
大きくため息をついてコートを脱ぎ、彼女の肩にばさりと投げかける。
「おかえり……ごはん作っといたから、適当に食べて」
目はギアに縫い付けられたまま、口だけが勝手に動いている。
僕はバッグを部屋の隅に放り投げ、彼女の横のローテーブルの前へ、どさりと座り込んだ。
白米は、やけに白かった。上から湯気だけがふわりと立つ。その横には、よく混ぜられた納豆。油がつやつや光る目玉焼きが一枚。小さなアルミのカップには水がなみなみと注がれている。
「彩羽、備蓄米でもあったの?」
「うん。スーパーで安かったから買った」
「いくら」
「5キロで七千円」
「……七千円?」
僕は聞き返しながら、床の隅でぐしゃぐしゃになっていたレシートを拾って広げる。
――税込み八千四百円。
黙ってそれを床に戻し、箸を取って口を開く。
「それよりさ。お前、本当に勉強しないの? もうすぐ〈統制適性試験〉だろ」
「……うん。めんどいし、今の大学でいいや」
彩羽は床にうつ伏せのまま、足先だけをぶらぶら揺らしている。僕はその背中を見下ろす。
「お前、もうちょっと頑張れば国立医大も首席だって。いつか医者になるって、あんなに言ってたくせに」
「それ昔の話。どうせ入学金も払えないし」
「だから僕が払うって言ってるだろ」
「……お兄ちゃん、貧乏じゃん」
聞き慣れた一言が、胸に重く刺さって抜けない。
「それでも僕が、お前を食わせて、ここまで育てて、学校だって通わせてきただろ」
「なにそれ。奨学免除で全額だし。イロハが好きでやってるだけなのに、なんで喧嘩ふっかけてくんの」
「……はぁ。だからって、VR工学部って。僕みたいになる気かよ」
すると、彼女は工具をそっと置き、欠伸ひとつしてから伸びをしつつ立ち上がる。
「お兄ちゃんみたいの、なにが悪いの。あと、毎回同じ話するのマジでやめて。ほら、風呂、沸かしといたから。さっさと入って寝て。……あ、それ、絶対触んないでね」
そう言い残して、彩羽は自分の部屋の奥へ歩いていく。僕はただ、首を落としたまま、味のしない白米を、無理やり口へ押し込んだ。
風呂を済ませ、部屋のドアを押して入った瞬間。無色無臭のいつもの空間が、何事もなかったみたいに僕を迎えた。
さっきまで赤く火照っていた体温が、一瞬で部屋の隅々へ吸い取られていく。
照明のスイッチを押す。五秒ほど沈黙したあと、ぱち、ぱち、と三、四回だけ点滅して、頼りない薄い白光が、ようやく部屋を満たした。
目に入るのは、木のテーブルがひとつ。右の床の隅には、一人用の室内スリープテント。僕はその中から茶色いフリースを一枚手に取り、テーブルの前に腰を下ろした。それから静かに、バッグの中の文庫本を取り出し、眺める。
『お前を殺さざるを得ない、終焉の世界にて』
僕がいちばん好きなシリーズで、明日接続するマップの背景にもなっている、有名な小説。
……けれど、これは〈それ〉とは別物だ。
中古の闇市で、ようやく手に入れた一冊。どこにも売っていない過去の遺物。うめぼし先生がまだ無名だったころ、表紙制作から推敲まで全部自分でやり切ったという、刊行前の原本。
表紙には、古びた灰色の服をまとった少女がひとり。真っ白な髪に、ところどころ混じる青い筋が淡く明滅している。鋭いのに、猫みたいに可愛げのある吊り目。青い左目の下に、涙ぼくろがひとつ。
何百回も見たはずのイラストなのに、今日はなぜか、妙な既視感が残った。
本の中ほど、少しだけ開き癖のついた隙間を指で押さえて開くと、いつもの、僕の好きな一文が現れる。
『どんなに世界が不条理でも、その代償が地獄でも、お前だけは俺が守ってやる』
現実では、世界の不条理に抗えるはずがないのに。
憧れの小説の主人公が、ヒロインを守るときに言う台詞。僕は、どうしてこの言葉がこんなに好きだったんだろう。その理由さえもう、記憶の奥で色を失いはじめていた。
本を閉じ、机の引き出しに差し込んだ。椅子の上で足を伸ばし、背中を預ける。それから視線を移し、読書アプリを起動する。
『フォロー中小説の新着情報:68件』
アプリを開いた途端、目の前に浮かんだ通知を適当に消し、閲覧履歴のいちばん上にある〈VR臨床安全管理士(第2種)一ヶ月で合格!〉をクリックしかけた、そのとき。視界の端に、業務アラートが滑り込んでくる。
『5分後、21:00 日次報告・業務スケジュールが開始されます』
「はぁ……」
長い欠伸を吐き出して立ち上がり、机の棚の横に置いた小さな写真立ての埃を指で払う。それからテントの中のマットレスへ、体を放り投げる。
布団で体をぐるぐる巻きにする。
左手だけ伸ばして電気マットのスイッチを入れ、右手でギアを取り、頭に被せる。電源を入れ、ハーフダイブボタンを押す。
いつも通りの音声が耳に落ちる。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
視界に、無機質な白い文字のメニューが滑り込んでくる。
――同期中の機器:一台
――接続可能ワールド:スタジオ・ジェネシス共用オフィス
僕は視線でそのオフィスワールドをなぞり、選択した。いつもの手順の先に、いつものローディング画面が浮かぶだけだった。
***
ほどなくして、視界いっぱいに床がせり上がってきた。その先に、巨大なエレベーターが一基。近づいて扉の前に立つと、センサーが反応して無音で開いた。内壁は傷ひとつない純白。僕が乗り込むと同時に、隙間なく密閉される。
出荷される肉塊になった気分だ。
『カネコ・サク様。どの島へ移動なさいますか?』
いつも聞く、あの女性のアナウンス。僕は投げやりに答える。
「医療事業部の島」
『承知しました。移動を開始します』
言い終わるより早く、チン、と到着音。扉が開きはじめる。
そこには白いテーブルが、左右に何十台も、平行線を描くように並んでいた。テーブルの上には、持ち主の癖がそのまま形になったようなものが散らばっている。
本の山。
手のひらサイズの動物フィギュア。
アニメのキャラクターグッズ。
時間が遅いせいか、社員はほとんどいない。馴染みの場所に馴染みの顔が、ホログラムモニターを瞬きひとつせずにぼんやり見つめている。
巨大な窓の外には、針葉樹がびっしりと密集し、枝という枝に雪がこんもり積もって、砂糖を散らした砂浜の白さが広がっていた。
その窓の真正面。そこが僕の席だ。
白い机の上には、ホログラムモニター兼作業用端末。その隣に、起動用の黒いボタンがひとつ。ノートが二冊に、鉛筆が一本。会社の福利厚生で、AIモデリング機から出力した小説キャラクターのアクリルスタンドが二体、仲良く並んでいた。
椅子に腰を下ろしてボタンを押すと、空中に淡い青の四角いホログラムパネルが立ち上がり、手元には黒いキーボードとマウスが現れる。
僕は黙って社内の業務ポータルを開き、日次報告の管理画面へ飛んだのだが……今日の報告書は、すでに〈提出済み〉になっていた。
一度まばたきして、三秒置いてもう一度見ても、表示は変わらない。
(え……? まだ半分も書いてないはずじゃ……)
そう考えたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「さっちゃんさん、こんばんは!」
椅子を回して振り向くと、鮮やかな青の、肩まで落ちるウルフカット。意味が分からないことに、サングラスを逆向きに、後頭部へ引っかけている。寝起きみたいに重たいまぶた。背は少しあるのに、やたら細く骨ばった体つき。薄いスラックスは骨盤のラインが出るくらい細くて、紺色の長袖ニットがやけに浮いて見えた。
僕の大学の後輩でもあり、職場でも後輩の村上葵ちゃんだ。
彼女は僕の隣の椅子へ、べたん、と座り込む。同時に、鼻を殴る臭気がくる。混ぜたプロテインを一年放置したみたいな匂いが、肺の奥をえぐってくる。
「……葵ちゃん。悪いけど、マジでタバコくさい。現実でもそうなの?」
僕は片目を細め、息を詰めて言った。
「アタシ、現実では禁煙・禁酒・禁欲の三位一体ですよ! で、今はどうです?」
そう言った瞬間、匂いはふっと消えた。なのに残り香だけが、まだ鼻の中で転がっている。
「まあ、先よりはマシかな……それより、やることもないくせに、なんで毎日こんな時間までいるの」
「やることがないなんて、ひどい! アタシはさっちゃんさんの顔を見ないと退勤できないんですぅ」
僕は足を組み、前髪を耳のほうへ払ってから、もう一度口を開く。
「またその観相修行? 飽きないね。それで、今日は何か見えるの?」
足を組んでつま先を揺らすと、彼女は顔を近づけ、瞳をじっと覗き込んでくる。透き通った彼女の瞳孔の奥に、眉にかかる黒髪で、目つきの悪い男の姿が、やけにくっきり映っている。
「むむ、これはっ! 大変です!!」
「……今度は何。何が大変なの」
「あなたは今、運命の選択の岐路に立たされています。周りに流されず、自分が信じる道を歩くべきでしょう」
具体性ゼロの、ふわっとした予言。僕はそんなもの信じないはずなのに、口だけは自然に動いてしまった。
「選択の岐路って……何か、悪いことでもあるの?」
「それ、アタシが分かるわけないじゃないですか」
僕は眉間をつまんで、黙った。すると葵ちゃんが、何か思い出したように言う。
「そうだ。すすちゃんさんが、さっちゃんさんの分の報告書まで提出しといたって、伝えとけって言ってましたよ」
「……すいさんが?」
「はい」
今夜、僕はすいさんに散々迷惑をかけたまま、別れたはずだ。きっと僕のことを邪魔だと思ったはずだ。そう考えたのに……
記憶をたどって別れ際の彼女の顔を思い出そうとしても、なぜか輪郭が掴めない。胸の片隅が痛む。
「それより、早く帰りましょ! 疲れた~」
葵ちゃんは両手を組んで肩の上までぐっと持ち上げ、目をぎゅっと閉じて言う。
「……うん。葵ちゃんは先に帰って。僕は次の案件の制作物テスト、回さないと」
「うぇっ……だから言ったじゃないですか! 兼務やめろって! ワールド開発チームに、エンジニアリングサポート? 給料増えないのに、ほんと狂ってる~」
彼女は大げさに顔をしかめ、僕の足を軽く、とんとんとつつきはじめる。
「いや、意外とやりがいあるし。ていうか、いつ〈兼務やめろ!〉なんて言ったの? あの時も運命がどうとか変なことしか言ってなかったでしょ」
「それが言ったってことなんですよ~ ほんと、何も分かってないなぁ。それより、もういいから、うちの部署来ません? 席、空いてるし」
彼女はにやっと笑って、身を乗り出した。僕は喉まで上がってきた反論を、無理やり押し込む。
「行こうと思って行ける部署じゃないし。行けたとしても、今より忙しくなるだけだ。僕、そこまで頭回らないからさ」
「アタシが手伝えばいいのに……。ま、いいや。アタシはもう帰ります。疲れました。アディオス」
彼女は露骨に唇を尖らせ、勢いよく席を立つ。
「うん。おつかれ」
葵ちゃんの姿が消えたあと、残ったのは――相変わらず無表情で、微動だにしない数人の社員だけ。
肩は重く、まぶたも落ちてくる。でも次の評価日が近いのを思い出し、僕は両頬をぱちんと叩いた。乾いた手で顔をこすり、もう一度画面に向き直る。
続けるしかなかった。

