僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 一日目・残りダイブ時間:約五時間

 しばらく飛び続けると、果てがないと思っていた大河にも、ようやく終わりが見えはじめた。その先で川はぐるりと輪を描き、真ん中に直径数百メートルはありそうな島を抱えている。
 お客様がその島へ降下するのを見て、僕らも後を追った。

「うわ……すいさん、見てください。ここがさわやか酸味のオアシスです」

 湿った草地に足裏が触れた、その瞬間。踏みしめた苔の隙間から、見えない香りがぱっと弾ける。鼻の奥で小さな風船がぱちぱち割れるみたいな、鋭い酸味。

「うっ……なにこの匂い」

 すいさんは逆に鼻を押さえ、唇をきゅっとしかめる。

「トマトちゃん、逆から読んでもトマト〜」

 そのすぐ前で奥様が、トマトくんの大きな頬を両手で撫で回しながら笑っていた。さらさらと白い粉――鱗(うろこ)めいたものが、彼女の髪にぱらぱら落ちる。

「では、荷物持ちさんたちも揃ったことですし、そろそろお腹も空いてきましたよね。何か食べに行きましょうか」

 お客様はそう言いながら、彼女の髪についた白い粒を、髪一本すら揺らさないほど慎重に指先でそっと払ってから、こちらを見る。
 ……いつから万能お手伝いが荷物持ちに格下げされたのか。
 彼はトマトくんを島の端に待たせ、足元に赤いナッツみたいな粒をざらりと撒いてから、島の内側へ歩き出す。

「ねぇねぇ、トトさん。なに食べるの? あの果物、食べられるの?」

 奥様は吸い寄せられるように彼の手のひらを握り、指をきゅっと絡めたまま、きらきらした目で見上げる。

「もちろんです。もう少し奥へ行くと、もっといろんなものがありますよ」
「てか、トマトちゃん以外のインコはいないの? トマトちゃんも一緒に来られないの?」
「トマトくんは大きいので、この先は通れません。好きな粟を置いてきましたから大丈夫ですよ、姫様。それに、ほかの子たちにも、すぐ会えます」

 道はだんだん細くなる。やがて視界がぱっと開け、淡い黄緑の草地の真ん中に、周囲の景色をそのまま映す、澄みきった巨大な池が現れた。
 池の周りには、水面を叩く小さな水音。三本角の鹿が草を噛む、湿った咀嚼音(そしゃくおん)。青い虫たちの羽音。
 そして池の中央。すっと伸びた一本の巨木――見上げれば十メートルはありそうな枝に、黄金色の実が揺れていた。

「さあ、僕たちも食べてみましょうか。ピクくん、ピオくん」

 お客様がパン、と二度手を叩くと、ピヨッ、ピヨッと短い声が返り、池の木から拳ほどの大きさのインコが二羽、黄金の実をそれぞれ一つずつ抱えて飛んでくる。
 一羽は真っ白で、ところどころにサファイア色。もう一羽は、くすんだ青緑の羽毛に、灰色が混じっている。
 妙に目が離せない。僕は無意識に自分の腹の羽毛を撫で、それからそのインコへ視線を移した。同じ色だ。
 二羽が運んできた実のうち一つを、お客様と奥様が二人で受け取った。残ったもう一つを、青緑のインコが僕の手のひらにすとんと落とす。次いで、すっとお客様の肩へ移って、静かに留まった。
 両手に収まらないほど大きいのに、表面は艶やかで、指がすべる。硬さはクルミより少し柔らかい――そんな不思議な手触りだ。

「すいさん、これ何か分かります?」
「知らん」
「これですね……エルフが百歳になる年に食べるっていう生命の実。ゴールドプラムというものですよ」

 僕は得意げに続けかけて、口をつぐんだ。すいさんは半歩だけ距離を取ったまま、目を細めて僕を見下ろしていた。眉は動かないのに、口元だけがわずかに引きつっている。

「……コホン。とにかく、めちゃくちゃ美味いってことです。ほら、ここ。いちばん上の、ちょっと凹んだところに親指置いて――こう」

 僕はその場に腰を落として、実の頂点をぐっと押した。ぱき、と刃物で切ったみたいに綺麗に皮が割れて、中から現れたのは濃い赤の、皺だらけの塊。
 種を持ち上げて、すいさんを見る。

「先に食べます?」
「いや、お前が全部食べて。あと、その匂いどうにかして……」

 匂いは、鼻の奥にわさびを薄く塗ったような刺激を残した。唾が勝手に湧くタイプの酸っぱさなのに、すいさんにはただの災害らしい。

 シャキッ――

 見ると奥様はもう、先に一口齧(かじ)っていた。目をぎゅっと閉じ、でも噛むのをやめない。

「トトさんは食べないの?」
「僕は……お腹がいっぱいなので、大丈夫です」

 そう言いながら彼女は、胡坐(あぐら)しているお客様の右脚――その膝を、自分の左膝の内側にかちりと噛ませて固定した。華奢な見た目に似合わない締めつけが、布越しにじわりと伝わってくる。お客様が身じろぎしようとすると、彼女はさらに力を込めて、逃げ道をきれいに塞いだ。
 そして、齧り跡のついた種を、彼の口元に行ったり来たりさせる。

「あーん」
「僕は本当に大丈夫ですので……」

 ギャギャギャッ!

 お客様の肩で、ピオとピクが金属を引っ掻くような高い声を上げた。

「ほら! ピオちゃんとピクちゃんも食べないから怒ってる!」
「……承知しました。では、僕も一口」

 彼が種を噛むと、仮面の下で頬がひきつった。たまらず咳き込み、喉仏が大きく上下する。

「んっ……おいし……げほっ、ん゛……おいしいですね、はは……」
「……まずいんだ。わたしが食べさせてあげたのに?」

 奥様が目を細めて睨む。

「いえ、本当に美味しいです! もう一口、いただいてもよろしいでしょうか……?」
「もういい。わたしが食べる」

 彼女は種を取り返し、上半身ごと彼の胸にぴたりと貼りついたまま、また齧り始める。

「じゃ、僕らも食べましょう」

 そう言って横を向くと、すいさんがいつの間にか僕から十メートルくらい離れた場所に座っていた。近づこうとすると、全力で手を振られる。

「来ないで! ほんと無理!」
「えぇ……」

 仕方なく、僕は自分の種にかぶりついた。
 見た目は硬そうなのに、歯を立てた感触がほとんど残らない。舌に乗せた瞬間、とろりとほどける。まず、鋭い酸味が身体の芯まで走って――遅れて、採れたての蜂蜜をそのまま含んだような甘さが、喉から胸の奥までやわらかく広がっていく。
 比喩するなら――そう、この世にあり得るはずの〈完璧な梅干し〉の味だった。
 その瞬間、ふとよぎる。
 お客様、酸っぱいの苦手そうなのに、どうしてペンネームが〈うめぼし〉なんだろう。答えが浮かぶより先に、その疑問は口の中の甘酸っぱさにまぎれて、するりと溶けて消えた。

「……やば、これまじでおいしい」

 僕はそのまま、拳大の種を一気に食べ切ってしまった。

***

 一日目・残りダイブ時間:約三時間

 異形の動物たちに囲まれ、酸っぱくて甘い果実で腹を満たしたあと。僕はただ、草の上にしゃがみ込み、目の前の大木を見上げて、飛び交う鳥の数をぼんやり数えていた。
 そのときだった。お客様は、膝の上で眠る奥様の背中と膝裏に、音もなく腕を差し入れた。
 持ち上げられた彼女の純白のワンピースは、泥と草の汁、それに鳥の糞で無惨に汚れている。それが自分の服に擦れて汚れようと、彼はまるで気に留めなかった。

「今から、あと三時間くらいですね」

 お客様が僕を見る。

「あ、はい。三時間です。ピヨッ……?」

 僕は跳ねるように立ち上がって答えてしまい、語尾をつけた自分に遅れて気づく。

「……僕と話すときは、ピヨッ、付けなくても結構です」
「……はい。すみません」

 顔が一気に熱くなる。

「次の予定は〈異界百貨店・異界炭(いかいたん)〉ですけど、歩いて行きますか?」

 背後からすいさんが歩み寄りながら言った。

「いや。ワープでお願いします」

 お客様が奥様を見下ろしながら答える。
 僕は彼の様子をうかがいながらワープボタンを探し、口を開く。

「承知しました。では、今すぐ――」
「すみません、少しだけ待ってください。三十分だけ、もう少しここで休んでからお願いします」
「分かりました」

 お客様はそれだけ言うと座り直し、腕の中の奥様を、ただ黙って見つめ続ける。
 僕も、また草の上にへたり込む。気づけば、僕の視線は勝手にすいさんへチャットを飛ばしていた。

『記憶がないって、どんな気分なんですかね。奥様、頭では分かってないのに、身体だけはお客様を覚えてるみたいな気もします』

 少し間を置いて返信が来る。

『閉じ込め症候群に伴う記憶障害だと、知能は保たれることが多い。リンゴが何か、病院が何か、そういう一般的な意味記憶は残ってるのに、自分の名前など、自分に関する出来事だけが真っ白になる感じ。でも大事な人に会うとさ、頭では分からなくても、理由のない響きだけが先に来ることもあるらしいよ。感情の痕跡が、どこかに残ってるんだろうね』
『AIっぽすぎません? AIって、信用できないっていうか……』
『それ、ボクの知識かもしれないでしょ! ていうかAIが何。いい加減、受け入れなよ』

 言い返そうとした口を、僕はつぐんだ。ただ空を見上げる。
 あの二人の悲劇は、こんなにも生々しいのに。それを眺めている僕は、作り物の羽をつけたデータでしかない。へらへら笑って、この世界を綺麗だなんて消費しているだけだ。
 奥様の気持ちに触れたくて、いっそ自分の輪郭を消しゴムで消してしまいたい、と目を閉じる。でも、消えるわけがない。僕はただ、目を閉じて座っているだけだ。
 他人の痛みを勝手に覗き込んでいる、という薄い罪悪感。きらびやかな仮想世界の中で、僕だけ空っぽの殻が浮いているような気持ち悪さ。それらが一緒くたになって、食道の先に湿った重みのような吐き気が貼りついた。

***

 異界炭(いかいたん)へワープした僕は、口を半分開けたまま、周囲を見回していた。
 巨木が立ち並び、その幹は天井の暗がりまで伸びている。頭上では枝葉が絡み合い、空間を覆っていた。外からの光はほとんど届かず、壁や柱に埋め込まれた青い宝石が辺りを照らしている。
 その自然の建築物の腹の中で、無数の商人が行き交い、物を売っていた。耳の長いエルフ。毛だらけの獣人たち。そこに、丸い耳の人間が混じる。

「……ん」

 そのとき、隣を歩くお客様に背負われた奥様が、うっすら目を開いた。

「起きました? 姫様」
「ここ、どこ……?」
「エルフ世界の百貨店、異界炭(いかいたん)です」
「トマトちゃんと、ピオとピクちゃんは……?」

 彼女は目をこすり、顔をちょこんと出して周りを探す。

「彼らは、もう自然へ戻る時間です」
「え、もっと一緒にいたいのに……」

 眉がしゅんと落ち、唇がぷくっと前に出る。

「明日、また会えます。それまで、我慢できますか?」
「……うん。分かった。でも、なんで百貨店?」
「買い物ですよ。姫様の服が汚れてしまったので、新しい服を探しに来ました」

 その言葉に、奥様は自分のスカートを見下ろし、顔をしかめる。そしてぽんっと飛び降りる。裾を持ち上げ、汚れを確認してからお客様の手を掴んで引き寄せ、見上げる。

「最悪。こんな格好で百貨店連れてくるとか、まじありえないんだけど……?」

 奥様は片方の目と口角だけを歪めて、今度は僕らを見る。

「……で。荷物持ちさんたちは、なんで人がいるのに裸なんですか……?」
「はは……すみません、姫様……ピヨッ。ですけど、ボクら毛があるので、これが服ですよ……ピヨッ?」

 すいさんが僕の腕の羽毛を撫でながら、妙なイントネーションで言う。僕は、気まずくて後頭部を掻くふりをして、斜めに笑うしかなかった。

「ええ……でも、みんな服着てるのに……」

 その一言で、周囲の視線が一斉に突き刺さった気がした。 確かに、獣人でさえシルクや革の服を纏(まと)っている。このきらびやかな文明社会で、僕らだけが野生のまま放り出されているのだ。

「失礼しました、姫様。では姫様の新しい服を買うついでに、田舎くさい僕らの服も選んでいただけますか」
「しょうがない。じゃあ、荷物持ちさんたちの服から選びに行きましょ」

 奥様は小さくため息をつき、汚れた裾を隠すように持ち上げたまま歩き出した。そして、再び振り返る。

「それより、そのピヨ……って、わざとですか? しなくていいのに」

 僕はちらりとお客様を見る。彼はただ、静かに頷いた。

「……ははっ。すみません! じゃあ、これからは普通に喋ります!」

 そう言いながら歩き出したはずなのに、百貨店の景色は、ひとつも目に入ってこなかった。



 いったい、どれくらい経ったんだろう。

「姫様、そのお召し物もとてもお似合いです。いかがです? こちらで購入なさいますか」

 お客様がそう言うと、奥様は鏡の前でワンピースを胸に当て、ふっと口元をゆるめた。しかし、値札を指でくるりと裏返した瞬間、笑みが凍る。手がぴたりと止まり、迷いなくワンピースを棚へ戻し、踵(きびす)を返した。

「うーん……やっぱり、さっきのスタンダード・エルフの白い半袖と、緑のズボンがいい」

 即決だ。潔い。僕は顎に手を当て、うんうんと頷くしかない。なのに、その様子を見ているお客様の肩だけが、なぜだか少しだけ沈んで見えた。

『……似たようなの何回見た?』

 すいさんからチャットが飛ぶ。

『値段って大事なんで。何度も見比べるのが普通ですよ』
『でもVRだし、どうせ全部タダじゃん』
『タダでも癖って抜けないんですよ。分かってないですね』

 僕は自分の胸元を引っぱった。さっき〈50%オフ〉の札がついていた、身体にぴったり張り付く黄緑のTシャツ。意味なんてほとんどないのに、なぜかちょっと誇らしい。
 その間も、前の二人の会話は続く。

「ねぇ、出る前に、これ、トトさんも着てみて」

 奥様が差し出したのは、淡い空色のセーター。胸の片隅に、尻だけ突き出したインコのロゴが刺繍されている。

「僕はスーツがあるので大丈夫です」
「いいから。ほら」
「……承知しました」

 お客様はセーターを受け取ると、渋々、試着室へ入っていった。本来ならインベントリ操作ひとつで、着替えなんて一秒で終わる。それでも試着室の中からは、わざとらしい衣擦(きぬず)れが聞こえてきた。
 数分ほどして、やがてカーテンがふわりと揺れ、彼が出てくる。奥様はほんの少し笑って、こちらへ手招きする。

「こっち来て。腕、広げて」

 お客様は黙って両腕を水平に広げる。すると奥様は片目をつむり、袖口に自分の手のひらを当てる。肩幅を目測し、背中の布の余りを確かめるように、背筋へ指先をすべらせる。

「これくらいか……よし。じゃ、戻していいよ。暑そうだし」
「……承知しました、姫様」

 そうして彼は、もう一度だけ淡々と試着室へ戻っていった。
 長くて、妙に真剣なショッピングも、ようやく終わりが見えてくる。

***

 異界炭を歩いて出たころ、空がゆっくり沈み始めていた。点々と配置された発光虫が周期的にちらつき、頭上では巨大な紫の月盤が空を覆ってくる。
 向かいに立つ奥様は、体のラインがきれいに出る白い半袖に、脛あたりまで落ちる少し太めの緑のパンツ。青いヘアクリップで後ろ髪をまとめている。
 視線を動かすと、残り時間が浮かんでいた。

 一日目・残りダイブ時間:約四分

 接続終了が、喉元まで来ている。僕はお客様の隣へ寄り、声を落とした。

「……あの。そろそろ時間です」
「分かっています。合図しますので、少し待ってもらえますか」
「はい……」

 ふと振り返ると、奥様はいつの間にかすいさんの横に並んで歩いていた。そして、不意に、ぴたりと止まる。

「今日は、ここまで……?」

 お客様がゆっくり近づき、彼女の手を取る。

「はい、姫様。本日はここまでです。今日は、楽しく、幸せに過ごせましたか」

 奥様は顔を上げる。

「幸せかは……分かんない。でもそれなりに、楽しかった。明日も、迎えに来るの?」
「もちろんです。その前に、少し目を閉じてもらえますか」
「目? なんで」
「……あります。お願いします」

 彼女は疑いながらも瞼を閉じる。
 お客様は祈るように両手を握り――ゆっくりと開いた。 掌の中に、青い星が生まれる。薄くきらめくシルバーチェーン。その先で、大豆ほどの小さな欠片が、淡く脈打つように光っている。
 ダイヤ……じゃない。でも、僕は既にそれを知っている気がした。挿絵もない。現物を見たことだってないはずなのに。喉の奥から、たった一つの言葉が転がり出る。

 ――エルフの石。

 お客様はそれを両手で持ち、奥様の首に回して留めた。

「目を開けてください、姫様」
「……これ、なに?」

 奥様は首元を指先で触り、じっと見下ろす。瞳の中で、青い光が小さく揺れる。

「僕が明日、必ず迎えに来るという約束の印です。つらくて、苦しくて……どうしようもないとき。これを思い出してください。そのときは、必ず探しに行きます」

 奥様は、半月みたいに目を細めて彼の目――仮面のボタンを静かに見つめた。それから、無表情のまま、それでも何かが読めない顔で口を開いた。

「ふーん。分かった。じゃ、また明日……」
「はい。では姫様。おやすみなさい。良い夢を」

 それが合図だった。
 僕は接続終了のボタンを押す。

『本当に管理者権限で接続を終了しますか? 注意:リンクされた四台の機器がすべて切断されます』

 視線で一回、選ぶだけ。それだけで、この魔法は解ける。それなのに、瞼が不自然なほど重く、うまく閉じられない。
 とはいえ、明日のこともある。僕は無理やり一度だけ瞬きを挟んで、最後のクリックを叩き込んだ。

 ピィィィ――

 鋭い機械音の余韻(よいん)が鼓膜の内側を引っかく。そして、世界が唐突に死んだ。色も、音も、匂いも。すべてが暗闇に吸い込まれて、完全な無へと還っていく。