僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 第一の世界――小説『エルフの心臓が欲しい』

 それは、〈ゲート〉の発生によってエルフの世界と人間の世界が重なり合い、同じ空の下で共存していた時代の物語。
 体格も髪も顔立ちも、何もかもが完璧に見えるのに、肝心なところがどこか抜けているエルフ・メル。そして、身寄りのない女子大生・ほたる。二人は恋をして、互いの欠けを埋め合っていく。
 しかしほたるは、どうしてもメルのことを信じきれず、疑っては、ひとりで傷ついていく。それでも最後に気づくのだ。エルフの愛の証――ダイヤモンドみたいに青く輝くエルフの第二の心臓、エルフ石は、最初からずっと、自分のすぐ傍にあったのだと。

***

 ローディングバーが最後まで満ちて、少し経った頃。
 瞼の隙間から、強烈な緑が差し込んできた。それと同時に、鼻先をかすめる匂い。どこか生臭いのに、砂糖を塗った朝のトーストの甘さを帯びた、不思議な草の匂い。
 反射的に手を上げ、ゆっくりと目を開いた。
 視界に飛び込んできたのは、北欧神話に出てきそうな巨木(きょぼく)だった。一本一本が、軽く数十メートル、いや百メートル級に見える。そんな木々が四方を埋め尽くし、空を丸ごと覆っている。
 なのに暗くない。葉は薄いエメラルドの光を散らし、周囲は南向きの部屋の午前十時を思わせる明るさと暖かさに満ちている。

 「……ん?」

 足を見下ろして、息が止まる。
 裸足だ。その足の甲を、青緑色に光る小さな虫が這っている。しかも自分の足には、パステル調の薄い緑の毛が、妙にきれいに生えている。

「う、うわあああっ!」

 反射的に虫を払い落とそうと足をばたつかせた瞬間、バランスが崩れ、そのまま後ろにひっくり返る。
 仰向けの視界に、今度は〈それ〉が入ってくる。
 人の形をしている。なのに髪は塗りたての白ペンキみたいに真っ白で、全身を覆う羽毛も同じ色だ。その白のあいだに、サファイア色の羽が毒々しく差し込まれている。手首から腰にかけては、羽がふさふさと伸びている。
 人であって、どこか人ではない。

「なにこれ。接続、間違えた……?」

 僕が入ったのは、お客様が依頼した第一の世界『エルフの心臓が欲しい』のはずだ。関係者以外の侵入は弾かれる設定のはず。なのに目の前には、見たこともない何かがいる。

「お前、なにしてんだ?」

 耳に届いたのは、聞き慣れた声。
 白い羽のそれが、しゃがみ込んで僕の顔を覗き込む。
 近い。やたら近い。

「……すいさん?」
「うん」
「その格好は……?」

 僕は首を傾げながら、すいさんの顔を凝視する。真ん丸な瞳に、子犬を思わせる、ちょこんと小さな鼻と口。とぼけたアバターを被っているのに、それは確かに、すいさんの顔だ。

「……お前、ワールド開発側だから知らないのか。今回はお客さんの特別依頼でさ。同行者のアバターも全部、制作オーダー入ってるよ。もちろん追加オプション」

 ようやく理解が追いついた僕は、慎重に起き上がる。見れば、僕も僕で手首から腰にかけて青緑の毛がびっしり。ところどころ灰色の毛も混じっている。

「で、これ何のアバターなんですか」
「さあ? セキセイインコがモチーフって言ってたけどね」

 すいさんが首を傾げる。

(腕振ったら飛べたりする?)

 そんなことを考えて腕を動かしかけた、その瞬間。空間のノイズが収束していくように光の粒子が集まり、目の前で人の形を結んだ。揺らぎが晴れると、そこにひとりの男が立っていた。
 身長は180に少し届かないくらい。きっちりした黒いスーツの内側に、過剰じゃない程度の引き締まった体が見える。両手には真っ白な手袋。髪は光を含んだビール色の淡い茶。
 そして顔には、舞踏会で見るような目尻の両端が尖った白い仮面。目の位置には、黒い玩具のボタンみたいな飾りがついていて、表情が読めない。
 男はただ、自分の左手を見つめ、握っては開き、また握っては開く動作を繰り返していた。右手の指先は、あるはずのない指輪を探るように、左手の薬指をそっと撫で回している。
 間違いない。あのお客様だ。見た目は二十代くらい。
 僕はホログラムチャットで、すいさんに文字を打つ。

『思ったより平気そうですね。普通、最初は酔って立ってられない人も多いのに』

 すぐ返信がくる。

『制作オーダーの時、会社の予備機借りてただろ。プレイ時間、もう五百時間超えるし、そりゃ慣れてるよ』
『うげ……あのクソつまんない体験版マップですか?』

 研修期間を過ごした、思い出すだけで気が重くなる場所が脳裏をよぎる。2000年代初期の古い映画めいた、薄く安っぽい画面だ。

『てかそれより、奥様の接続遅いな……』

 すいさんからまた返信が来た、その頃だった。
 お客様の正面、ざっと五メートルほど先。黄色い花がエメラルド色の光を弾いてきらめく場所に、さな光の粒が集まり、ひとりの女性が降ってくる。
 出現した瞬間、糸が切れた操り人形みたいに膝がふにゃりと折れる。花畑に押し倒されるように、彼女はその場にへたり込む。
 胸元あたりまである真っ黒な長髪が、絹糸(けんし)のようなさらりとした艶で揺れる。目元は少し鋭い。子猫が目だけで睨むみたいな、可愛げのある切れ味。小さく彫りの整った鼻とふっくらした唇。そして左目の下に涙ぼくろがひとつ。
 二の腕があらわになる真っ白なワンピースの隙間から覗く肌は、それでも乳白の色を失わなかった。
 体格も驚くほど小さい。すいさんより、わずかに小さく見える。百五十を少し超えるくらいだろう。
 彼女の荒い息遣いがこちらにまで聞こえる。全身も小刻みに震えていた。
 すいさんにチャットを送る。

『セーフティモード、合ってますよね? 震え方が……』
『うん。でも、こういうケースはボクも初めてだね……聴覚までないって聞いてる。五年ぶりに感覚が戻るなら、脳が追いつかなくても不思議じゃないよ。少し待ってみよう』

 その返信の向こうで、ちらりとお客様を見る。白手袋の皺が、握り込まれた拳の形に深く刻まれている。
 事前共有された三日間の詳細スケジュール。担当者はサポート中心でという念押し。そして最後に添えられた、奇妙な注文。語尾に〈ピヨ〉をつけてください。
 でも、この状況なら今は僕が先に声をかけるべきだと判断した。
 そう思って口を半分開いた、その瞬間。

「ようこそでございまーす! どこへでも、どこまでも。お姫様をお連れする、夢のVR旅行社! ピヨピヨツアーに〜〜っ!」

 お客様の声が、跳ねる。そして花畑の女性――奥様の前に進み出て、片膝をつく。
 僕の半開きの口は、そのまま固まってしまった。

「え……っ、けほっ、けほっ!」

 彼女は顔を上げ、唇を少し開いたまま、咳き込む。咳のたびに、華奢な肩が今にも壊れそうに揺れる。
 すると彼は、ホログラム端末すら使ったことがないはずの五十代とは思えない手際で、空中からコップと水を呼び出す。
 水を注ぎ、そっと差し出す。

 ごく、ごく、ごく――

 飲んだ水が、彼女の口元からつうっとこぼれ、白い顎を伝って落ちる。

(……喉の渇きなんて、あるはずないのに)

 お客様が空っぽのカップを受け取った瞬間、カップも水も跡形もなく消えた。
 少しの間が空き、彼女は小さく声を出した。

「あ……あ……」

 次の瞬間、堰(せき)が切れたみたいに。

「……っ、あ! あ! あぁぁぁぁっ!!」

 本来なら澄んでよく通るはずの声が、絶叫に変わって鼓膜を刺してくる。
 彼女は片手で顔を掴み、もう片方で自分のこめかみを叩き始めた。

 ゴン、ッ、ゴッ、ガン!

 肉と骨がぶつかる鈍い音が、アバターの聴覚補正を突き抜けて脳髄(のうずい)に響く。

「これ……無理ですよ。止めないと」

 慌てて強制一時停止ボタンへ手を伸ばしかけた、その手首をすいさんが掴む。

「待って。生命兆候(バイタルサイン)はまだ大丈夫。今切ると、逆に反動が出るかもしれない」

 そして次の瞬間。

「大丈夫ですよ、姫様。僕がいます」

 お客様が奥様の両手を掴む。抑え込むほど強く。そのまま自分の身体に引き寄せ、ぴたりと密着させる。

「いや……! いや! 死ななきゃ、死ななきゃ!! いやぁっ!!」

 悲鳴というより、絶叫だ。涙と鼻水の区別もつかないものが頬を濡らし、髪が絡まりついて顔に貼り付く。
 僕はただ奥歯を噛みしめて、見つめるしかなかった。呼吸が速くなり、視界が狭まっていく。

「大丈夫……ゆっくり息して。しんどかったら一回ログアウトしていい。落ち着いたら連絡するから」

 すいさんは僕の手首を掴んだまま、僕の反応をうかがいながら言った。その手も、かすかに震えている。

「いえ……大丈夫です」

 そう言いながら、僕は言われた通りに大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。すると少しだけ、身体の感覚が戻ってきた。
 それでも、その光景を目の当たりにしてなお、僕にできたのは指先だけをぎこちなく動かしながら、その場で固まることだけだった。

***

  何分経っただろう。奥様の嗚咽が、ようやく細くなり、止まりはじめた。

「少し、落ち着きましたか」

 お客様が、柔らかく言う。

「あなたは……だ、だれ? ここ、どこ……?」

 声が、錆びついた蝶番(ちょうつがい)のようにぎこちなく軋んでいる。
 お客様は、変わらず片膝をついたまま、もう一度だけ丁寧に名乗る。

「改めまして。夢のVR旅行社、ピヨピヨツアー担当、トトと申します。今日から三日間、姫様に最高の旅をご提供いたします」

 揺れない声。

「VR……? じゃあ、まだ……生きてるんですか……?」
「ええ。もちろんです」
「姫様は……? わたしが? 何の、どこの姫……? わたしは……わたしは、なんなんですか……」

 奥様はただ、ぼんやりと自分の手の甲と掌を見比べている。

「はい。姫様は、僕を雇ってくださったご主人の姫様です」

 彼の言葉の余韻を背に、そこでいったん沈黙が落ちた。
 数十秒ほどして、今度は奥様が先に口を開く。

「でも、なんで今さら……どうして……」

 声がひゅっと掠れ、次の言葉が崩れ落ちる。

「わたし、罪を背負った姫なんですか……? うぅ……どれだけ、どれだけ苦しかったと思うんですか……」

 彼女は両腕で自分を抱き、細かく首を振る。

「それより三日? 三日なら……三日後には、結局あの地獄に戻るんですよね……嫌だ。いっそ、殺して……それか、あの地獄から……出してください。いや、ここでもいいから……ここで生きちゃ、だめですか……お願いします……」

 また嗚咽(おえつ)がこぼれ、お客様の手をぎゅっと掴む。震える彼女の手の甲には、緑がかった血管まで浮き上がっている。
 お客様は一度、深く頭を垂れ、彼女の髪と手を見下ろした。それから顔を上げ、淡々と告げる。

「……申し訳ありません。姫様は現実では、極めて危険な状態にあります。治療で回復する見込みはありません。だから、誰であっても、あの地獄から姫様を連れ出すことはできません」

 言葉を選んでいるようで、選んでいない。

「そのため、今回のVR旅行にも制限があります。接続は一日八時間、期間は三日」

 宣告を聞いた奥様は、唇をきゅっと結んだまま、頭を深く垂れ、足元の花を見つめているだけだった。お客様の手を握り締めていた華奢な両手も、ふっと力を失って垂れた。

「そこまで……死にたいのですか」
「はい……はい!! お願いします! もう、お願いだから……!」

 〈死〉という単語が出た瞬間。 濁っていた彼女の瞳の奥に、死にものぐるいの生気が差す。

「承知しました」

 お客様の口元が、ほんのわずかに持ち上がる。その一方で、太腿を掴んだもう片方の手は、スーツの生地が悲鳴をあげるほど強くねじり上げられていた。

 ――そんな、簡単に死ねるはずがないのに。

 お客様は奥様の手を握り、言葉を続ける。

「では、約束をしてください。これから三日間。僕たちと旅を楽しんでください。そうすれば三日後、旅の終わりに、僕が姫様を殺して差し上げます」
「……はい!」

 奥様が小さく頷く。
 ついさっきまで迷子だった声に、ようやく生きている人の温度が混じり始める。
 そうして二人は手を取り合い、ゆっくりと立ち上がる。 降り注ぐ陽光だけが、何も知らないふりをして、綺麗に二人を照らしていた。
 そのあと、奥様の視線が僕のくちばしから足先までをゆっくり往復する。眉間には深い皺(しわ)。

「……で、えっと……その……怪物は、何ですか?」

 その一言に、肩がびくりと跳ねる。言い返そうとして舌がもつれた途端、横からすいさんが飛び出してくる。

「アハハ! ご挨拶が遅れました……ピヨッ!」

 芝居(しばい)がかった身振りで胸を張る。同時に頬が赤く染まり、全身の羽毛がぶわっと膨れ上がる。

「ボクはピヨピヨ旅行社の万能お手伝い……ピピで〜す!」

 僕の視界の隅にもメッセージが浮かぶ。

『ねえ、早く。お前はこれから〈ププ〉ね。語尾はピヨッ、忘れないで』

 ピヨッ。そうだ、事前のお願いにあった。適当に読み流した、あの妙な指定。
 口が重い。けれど僕は、その重さを理性だけで無理やり押し切った。

「僕は、プ……ププです! ……ピヨッ!」

 言った瞬間、空気が止まる。自分の声の残響だけが、虚しく木霊(こだま)する。
 お客様の口元は、完璧な弧(こ)を描いて微笑んでいる。奥様の表情はまるでニュースの一面で見る凶悪犯でも見つけたみたいに、引きつっていた。
 こうして僕はピヨピヨ旅行社の万能お手伝い、ププになった。ピヨッ。