「それでは、これより契約プランの再確認をお願いいたします」
すいさんの声が、淡々と条項を並べ始める。
依頼したのは三つの小説世界・五感フルパッケージ・AI搭載NPCの数・納期。言葉自体は耳に入っているのに、僕の中ではただの機械音に変わっていく。
膝の上で、指先だけが落ち着かない。小さく開いて、閉じて、バッグの縫い目をなぞって、また離す。
機器説明、僕の役目。いつも通りの、退屈な作業。それでも今日は、胸の奥が妙に騒がしい。
「それでは、機器使用上の注意点は、エンジニアリングサポートチームの金子より説明いたします」
すいさんが言い終える前に、僕の背筋が勝手に伸びた。
「は、はい! エンジニアリングサポートチームの金子です。よろしくお願いし、ます……はは」
最後の語尾が、やけに薄く乾く。
普段の僕なら、口を縫い付けられたみたいに余計なことは言わずにいられるはずなのに。今日は喉の奥がむず痒くて、黙っていられなかった。
「その、急にすみません。うめぼし先生の小説、楽しく読ませてもらってます。……大ファンです!」
言い切った自分の声だけが、静かな部屋に場違いに浮いた。
「ありがとうございます。もう、長いこと筆を置いてるんですが……」
「ほんとに、エルフのシリーズも、終焉世界のシリーズも……全部――」
熱が上がりかけた瞬間、太腿に鋭い痛みが走り、背骨が勝手に跳ねた。僕は喉元まで出かかった悲鳴を噛み殺し、乱れた呼吸を無理やり整え直す。
「……失礼しました。本題に戻ります」
タブレットを持つ手が重い。
「事前にお伝えした通り、奥様のご状態――脳卒中による閉じ込め症候群……加えて、VRは精神的負荷が大きく、リスクが伴います。場合によっては生命に関わる可能性も否定できません。ただし弊社の場合、ギア使用中の死亡率はゼロです」
説明を続けながら、視線はタブレットに縫い留めたまま、彼を窺った。何度も繰り返してきた文言のはずなのに、この一節だけは毎回、つい横目で反応を探してしまう。
書類ファイルの上には、自社ロゴの隣に太字で並ぶ〈ユートピア〉〈幸福〉。けれど僕の目には、それよりもずっと小さな 〈死亡率 0〉 の文字だけが、勝手に白く浮き上がって見えた。
説明を続ける。
「病院のカルテと、社内の専門所見では……一日最大八時間、合計三日までの使用が推奨されています」
「……分かっています。大丈夫です」
迷いのない即答。
ページをめくる。
「次に、生成データの取り扱いについてです。お二人が当社提供の世界で体験されたログは、社内学習用に――」
「問題ありません」
「……畏まりました」
あまりの決断の早さに、背筋が粟立つ。
「最後に、強制ログアウト措置についてご説明いたします。患者様の状態をモニタリングし、これ以上の接続が危険と判断された場合、当社判断で強制終了となります……」
語尾をほんの少しだけ曇らせる。そのとき、視界にお客様の手が入った。
薄い銀の指輪。ところどころに細かな打ち傷の残るそれを、指先で静かに撫でている。
「……では、こちらにサインをお願いします」
僕が言い終えると、彼は迷わずペンを取り、タブレットに署名した。
「契約、ありがとうございます。実行日は本日でよろしいですね。ただちに機器の準備と調整を進めます」
すいさんはタブレットをしまいながらそう言い、僕に手招きする。
その合図に応じながら、僕は部屋の広さを目測する。白いベッドは一台。対して、接続者は四人。僕とすいさんはモニタリング担当のハーフダイブだから、座ったままで問題ない。
残るもう一人のために横たわれる場所を探して、視線が床を彷徨いかけたとき、お客様が静かに立ち上がる。
「余分のベッドなら、あります」
壁の一角へ歩き、ボタンをひとつ押す。すると壁がゆっくりめくれ、隠れていたものが下からせり上がってきた。現れたのは折り畳まれた簡易ベッドだった。
「お、おお……?」
驚きのあまり、間の抜けた声が漏れた。すると、すいさんが軽く咳払いをする。
僕は照れくさくなって後頭部をかき、言った。
「……ありがとうございます。では、接続準備に入らせていただきます」
ホログラムの画面に視線を落とし、オレンジ色で示された手順に沿って設置作業を進めた。
***
これで、いよいよ最後だ。
僕は三台目のニューロダイブ・ギアの配置と設定を終え、額ににじんだ冷や汗を袖でぬぐった。
かつて数値を一桁間違えた時に浴びせられた罵声が、鼓膜の奥で蘇る。胃の腑がきゅうっと冷たくなる。
念のため、もう一度だけ設定項目を最初からなぞる。視線で数値を追い、ひとつずつ潰していく。
「よし……問題ない」
確認を終えると、最後の一台を手に取り、白いベッドの横へ運んだ。
目の前に横たわる奥様の髪は、妙なくらい整っていて、余計な油分を感じさせなかった。長い黒髪は整然と梳かれ、産毛まで丁寧に処理されていて、頬のこけた輪郭さえどこか清潔に見える。
肌は雪みたいに白く、半開きの黒い瞳が、焦点の合わないまま虚空を見つめている。左目の下には涙ぼくろがひとつ。そしてかすかに苺のような、病室の消毒の匂いとは別の、やわらかい甘さが鼻先をよぎる。
首元には、銀のチェーン。米粒ほどのダイヤが一粒。左手の薬指には、指の節にぴたりと合うように整えられた指輪がはまっている。お客様の指輪とは違う向きの傷が、規則正しく刻まれていた。
「……美人でしょう」
背後から落ちてきた声に、僕は息を飲んだ。さっきまでの砂を噛むような乾いた声は影を潜め、そこには熱を帯びた湿り気が滲んでいる。
「はい! 三十代くらいかと思いましたよ」
存在しない前髪を払うような仕草を二度もしてしまい、すぐに手を下ろす。
「では、装着します」
新品の円筒形ニューロダイブ・ギアを持ち上げる。数十回、いや数百回も扱ってきたはずなのに、今日は掌に薄い違和感が残る。
奥様の頭へ手を添え、ゆっくり、ゆっくりとギアを固定する。ギア側面の神経侵襲用フルダイブボタンに指をかけ、そのまま押し込む。
ウウゥゥン……
規則正しい駆動音が、部屋の静けさを薄く削る。
すぐに正面のステータス表示が、赤から青へ切り替わる。
僕は汗で濡れた掌をズボンにこすりつけながら、モニターの心拍数に目を走らせた。さっきまで〈75〉だった数字が、じわりと〈90〉に届く。
カルテには、脳卒中、具体的には脳底動脈閉塞による脳梗塞――閉じ込め症候群。運動、視覚、聴覚の機能はほぼ失われ、記憶さえも欠落し、残るのは知性と触覚のみ。この程度の神経侵襲でも、頭を締め付けるような圧として敏感に拾うのだろう。
「大丈夫ですよ。医師が状態確認をするときも、九十くらいまでは上がります」
背後から、お客様の声が落ちてくる。
「……はい」
胸の奥の張りが、少しだけほどける。
「心拍、問題なし。抗痙攣薬と筋弛緩薬もオーケー。TPN濃度、β遮断薬。担当医の承認、すべて確認済みです」
背後で、すいさんが書類をめくる音だけを立てて言った。
「今すぐ接続できます。よろしいですか」
「お願いします……アバター設定、マップ設定、スケジュール共有も、問題ないですよね」
お客様の声は、まだ落ち着ききらない。
「はい。テストはすべて完了しています。ご安心ください」
言い切ったすいさんに促されるように、お客様は簡易ベッドへ歩き、ゆっくり身体を横たえる。ギアを装着し、両手を腹の上で組んだ。その十本の指の節が、白くなるほど力が入っている。
彼に近づいて、声を落とす。
「フルダイブボタンを押すと、一時的に視界が遮断されます。正常な反応です。すぐに接続が始まりますので」
「……はい」
返事は短く、呼吸だけがわずかに浅くなっていく。
その気配を背中に残したまま、僕は自分の席へ戻る。すいさんはすでにギアを装着し、椅子に深く腰を下ろしている。
僕も静かにヘッドギアを被り、フルダイブの隣にあるハーフダイブボタンを押し込んだ。同時に、ニット帽をぐっと引き下ろされたみたいな圧が頭を締め、視界が暗転する。
耳に馴染んだ軽快なメロディに乗って、硬質で高めの女性の声が流れ出す。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
視界に、無機質な白い文字のメニューが滑り込んでくる。
――同期中の機器:四台
――接続可能ワールド:20571120_岩本様_G1192830
視線でそのワールドをなぞり、選択する。
『管理者権限で実行しますか?』
確認の問いに、もう一度だけ目で応える。すると画面が暗転し、ローディングバーが静かに伸び始める。
いつもと同じ手順、見慣れた画面。けれど、視界を覆う暗闇は、いつもより深く、どこまでも沈んでいきそうな色をしていた。
すいさんの声が、淡々と条項を並べ始める。
依頼したのは三つの小説世界・五感フルパッケージ・AI搭載NPCの数・納期。言葉自体は耳に入っているのに、僕の中ではただの機械音に変わっていく。
膝の上で、指先だけが落ち着かない。小さく開いて、閉じて、バッグの縫い目をなぞって、また離す。
機器説明、僕の役目。いつも通りの、退屈な作業。それでも今日は、胸の奥が妙に騒がしい。
「それでは、機器使用上の注意点は、エンジニアリングサポートチームの金子より説明いたします」
すいさんが言い終える前に、僕の背筋が勝手に伸びた。
「は、はい! エンジニアリングサポートチームの金子です。よろしくお願いし、ます……はは」
最後の語尾が、やけに薄く乾く。
普段の僕なら、口を縫い付けられたみたいに余計なことは言わずにいられるはずなのに。今日は喉の奥がむず痒くて、黙っていられなかった。
「その、急にすみません。うめぼし先生の小説、楽しく読ませてもらってます。……大ファンです!」
言い切った自分の声だけが、静かな部屋に場違いに浮いた。
「ありがとうございます。もう、長いこと筆を置いてるんですが……」
「ほんとに、エルフのシリーズも、終焉世界のシリーズも……全部――」
熱が上がりかけた瞬間、太腿に鋭い痛みが走り、背骨が勝手に跳ねた。僕は喉元まで出かかった悲鳴を噛み殺し、乱れた呼吸を無理やり整え直す。
「……失礼しました。本題に戻ります」
タブレットを持つ手が重い。
「事前にお伝えした通り、奥様のご状態――脳卒中による閉じ込め症候群……加えて、VRは精神的負荷が大きく、リスクが伴います。場合によっては生命に関わる可能性も否定できません。ただし弊社の場合、ギア使用中の死亡率はゼロです」
説明を続けながら、視線はタブレットに縫い留めたまま、彼を窺った。何度も繰り返してきた文言のはずなのに、この一節だけは毎回、つい横目で反応を探してしまう。
書類ファイルの上には、自社ロゴの隣に太字で並ぶ〈ユートピア〉〈幸福〉。けれど僕の目には、それよりもずっと小さな 〈死亡率 0〉 の文字だけが、勝手に白く浮き上がって見えた。
説明を続ける。
「病院のカルテと、社内の専門所見では……一日最大八時間、合計三日までの使用が推奨されています」
「……分かっています。大丈夫です」
迷いのない即答。
ページをめくる。
「次に、生成データの取り扱いについてです。お二人が当社提供の世界で体験されたログは、社内学習用に――」
「問題ありません」
「……畏まりました」
あまりの決断の早さに、背筋が粟立つ。
「最後に、強制ログアウト措置についてご説明いたします。患者様の状態をモニタリングし、これ以上の接続が危険と判断された場合、当社判断で強制終了となります……」
語尾をほんの少しだけ曇らせる。そのとき、視界にお客様の手が入った。
薄い銀の指輪。ところどころに細かな打ち傷の残るそれを、指先で静かに撫でている。
「……では、こちらにサインをお願いします」
僕が言い終えると、彼は迷わずペンを取り、タブレットに署名した。
「契約、ありがとうございます。実行日は本日でよろしいですね。ただちに機器の準備と調整を進めます」
すいさんはタブレットをしまいながらそう言い、僕に手招きする。
その合図に応じながら、僕は部屋の広さを目測する。白いベッドは一台。対して、接続者は四人。僕とすいさんはモニタリング担当のハーフダイブだから、座ったままで問題ない。
残るもう一人のために横たわれる場所を探して、視線が床を彷徨いかけたとき、お客様が静かに立ち上がる。
「余分のベッドなら、あります」
壁の一角へ歩き、ボタンをひとつ押す。すると壁がゆっくりめくれ、隠れていたものが下からせり上がってきた。現れたのは折り畳まれた簡易ベッドだった。
「お、おお……?」
驚きのあまり、間の抜けた声が漏れた。すると、すいさんが軽く咳払いをする。
僕は照れくさくなって後頭部をかき、言った。
「……ありがとうございます。では、接続準備に入らせていただきます」
ホログラムの画面に視線を落とし、オレンジ色で示された手順に沿って設置作業を進めた。
***
これで、いよいよ最後だ。
僕は三台目のニューロダイブ・ギアの配置と設定を終え、額ににじんだ冷や汗を袖でぬぐった。
かつて数値を一桁間違えた時に浴びせられた罵声が、鼓膜の奥で蘇る。胃の腑がきゅうっと冷たくなる。
念のため、もう一度だけ設定項目を最初からなぞる。視線で数値を追い、ひとつずつ潰していく。
「よし……問題ない」
確認を終えると、最後の一台を手に取り、白いベッドの横へ運んだ。
目の前に横たわる奥様の髪は、妙なくらい整っていて、余計な油分を感じさせなかった。長い黒髪は整然と梳かれ、産毛まで丁寧に処理されていて、頬のこけた輪郭さえどこか清潔に見える。
肌は雪みたいに白く、半開きの黒い瞳が、焦点の合わないまま虚空を見つめている。左目の下には涙ぼくろがひとつ。そしてかすかに苺のような、病室の消毒の匂いとは別の、やわらかい甘さが鼻先をよぎる。
首元には、銀のチェーン。米粒ほどのダイヤが一粒。左手の薬指には、指の節にぴたりと合うように整えられた指輪がはまっている。お客様の指輪とは違う向きの傷が、規則正しく刻まれていた。
「……美人でしょう」
背後から落ちてきた声に、僕は息を飲んだ。さっきまでの砂を噛むような乾いた声は影を潜め、そこには熱を帯びた湿り気が滲んでいる。
「はい! 三十代くらいかと思いましたよ」
存在しない前髪を払うような仕草を二度もしてしまい、すぐに手を下ろす。
「では、装着します」
新品の円筒形ニューロダイブ・ギアを持ち上げる。数十回、いや数百回も扱ってきたはずなのに、今日は掌に薄い違和感が残る。
奥様の頭へ手を添え、ゆっくり、ゆっくりとギアを固定する。ギア側面の神経侵襲用フルダイブボタンに指をかけ、そのまま押し込む。
ウウゥゥン……
規則正しい駆動音が、部屋の静けさを薄く削る。
すぐに正面のステータス表示が、赤から青へ切り替わる。
僕は汗で濡れた掌をズボンにこすりつけながら、モニターの心拍数に目を走らせた。さっきまで〈75〉だった数字が、じわりと〈90〉に届く。
カルテには、脳卒中、具体的には脳底動脈閉塞による脳梗塞――閉じ込め症候群。運動、視覚、聴覚の機能はほぼ失われ、記憶さえも欠落し、残るのは知性と触覚のみ。この程度の神経侵襲でも、頭を締め付けるような圧として敏感に拾うのだろう。
「大丈夫ですよ。医師が状態確認をするときも、九十くらいまでは上がります」
背後から、お客様の声が落ちてくる。
「……はい」
胸の奥の張りが、少しだけほどける。
「心拍、問題なし。抗痙攣薬と筋弛緩薬もオーケー。TPN濃度、β遮断薬。担当医の承認、すべて確認済みです」
背後で、すいさんが書類をめくる音だけを立てて言った。
「今すぐ接続できます。よろしいですか」
「お願いします……アバター設定、マップ設定、スケジュール共有も、問題ないですよね」
お客様の声は、まだ落ち着ききらない。
「はい。テストはすべて完了しています。ご安心ください」
言い切ったすいさんに促されるように、お客様は簡易ベッドへ歩き、ゆっくり身体を横たえる。ギアを装着し、両手を腹の上で組んだ。その十本の指の節が、白くなるほど力が入っている。
彼に近づいて、声を落とす。
「フルダイブボタンを押すと、一時的に視界が遮断されます。正常な反応です。すぐに接続が始まりますので」
「……はい」
返事は短く、呼吸だけがわずかに浅くなっていく。
その気配を背中に残したまま、僕は自分の席へ戻る。すいさんはすでにギアを装着し、椅子に深く腰を下ろしている。
僕も静かにヘッドギアを被り、フルダイブの隣にあるハーフダイブボタンを押し込んだ。同時に、ニット帽をぐっと引き下ろされたみたいな圧が頭を締め、視界が暗転する。
耳に馴染んだ軽快なメロディに乗って、硬質で高めの女性の声が流れ出す。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
視界に、無機質な白い文字のメニューが滑り込んでくる。
――同期中の機器:四台
――接続可能ワールド:20571120_岩本様_G1192830
視線でそのワールドをなぞり、選択する。
『管理者権限で実行しますか?』
確認の問いに、もう一度だけ目で応える。すると画面が暗転し、ローディングバーが静かに伸び始める。
いつもと同じ手順、見慣れた画面。けれど、視界を覆う暗闇は、いつもより深く、どこまでも沈んでいきそうな色をしていた。

