僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 三日目・残りダイブ時間:約三十分

 市街地を離れ、電車でいくつも駅を過ぎ、さらに人が運転するタクシーへ乗り換えるまで。僕らの間では、どんな言葉も交わされなかった。
 タクシーの助手席にはお客様。そのすぐ後ろの窓側に奥様が座り、隣にすいさん。反対側の窓際には僕がいる。
 奥様はひたすら窓の外を見ていた。霜で真っ白に凍りついたガラスに指先を当て、円を描く。描いては消え、また描く。

 キュ、キュッ、キュゥ――

 湿った指先がガラスを擦る音が、密室の中でやけに鋭く響く。
 その沈黙を割ったのは、誰でもない運転手だ。

「着きましたよ」
「……はい。これでお願いします」

 お客様は、ほとんど聞こえない声で返事をし、現金を差し出した。それから先に車を降り、奥様側のドアを開けて待った。
 僕が最後にタクシーを降りるころには、空はもう薄暗く沈みはじめていた。
 日が落ちるにつれて、冷気はいっそう増していった。ダウンの隙間を縫って入り込む風が、生肌に鋭く刺さる。
 空港の正面の入口にはガラスの自動ドア。その上には、真っ青な案内板が掲げられ、〈1番出口〉と表示されている。
 その真下で、お客様は口を真一文字に結び、両手を拳にして立っている。それを見て、奥様は大きく息を吐く。

「寒くて死にそう。早く行こう?」

 すると、お客様が口を開いた。

「……そうですね。寒いですね。よければ、これでも」

 彼は右手を持ち上げる。手が震えているというより、かくん、かくんと不自然に跳ねている。
 そして次の瞬間、手元に淡い空色の薄手のマフラーが現れる。それを両手でつかみ、奥様のそばへ寄る。首へ巻く動きは、息を詰めるほど慎重だ。
 彼女はその手を両手で包み、下ろさせる。

「……やめて。そんなに震えないで。子どもじゃないんだから」

 一拍置いて、彼女は続ける。

「死ぬのは……わたしなのに。なんでトトさんが震えるの」

 彼女は彼の手を引いたまま、空港の中へ入っていく。
 その二人の後を追って中に足を踏み入れると、磨き上げられた真っ白な大理石の床が視界いっぱいに広がった。外とは対照的に、ここには暖気が満ちている。
 長いホールに、A、B、C、Dと並ぶ飛行機のチェックインカウンター。しかし、この広い空間のどこにも、人の姿はない。足音もない。あるのは、温風機の「ウウゥゥン……」という低い唸りだけ。
 そして正面――長いホールのちょうど中央に、〈保安検査場〉の看板が掲げられていた。その下に、巨大なガラスの自動ドアがひとつ。
 ところが、どういうわけか。ドアの向こうには黒い闇が沈んでいる。灯りはひとつもない。
 その奇妙さのさなか、保安検査場の上にある黒い横長の電光掲示板――〈出発便〉が、ぱっと点滅する。最上段の一枠に、真っ白な文字が浮かび上がる。

『18:00 行先:ひまわり星 便名:2017 まもなく保安検査通過締切』

 同時に、女性のアナウンスが場内に響く。

『ピヨピヨ航空、2017便、ひまわり星行き。まもなく保安検査場の通過締切時刻となります。ご搭乗のお客様は、お早めに保安検査場へお進みください。繰り返します――』

 ひまわり星が何を意味するのか、僕にはまだ分からない。なのに、あまりにも可愛らしいその響きが――その名が呼ばれるたび、胸の奥の深いところまで連動して、一緒に揺さぶられる気がする。
 奥様は電光掲示板を見上げ、ふっと笑う。それから首をめぐらせてお客様を見上げ、言う。

「なに、ちゃんと準備してたんじゃん」

 言い終えると、彼女は彼の手をそっと離し、背を向けて保安検査場のほうへ視線を向けた。その瞬間――ほんの一瞬だけ。奥様の輪郭に、ザザッ、とノイズが走った。
 けれど奥様は気にした様子もなく、背中で手を組んだまま、片足を上げて床をとん、とん、と軽く叩く。

「じゃ、わたし、行くね。あっちが……たぶん、旅の終着点」

 そう言って、彼女は前へゆっくり歩きだし、言葉を継ぐ。

「……三日間、楽しかったよ、トトさん。ピピちゃん、ププさんも」

 僕はお客様を盗み見る。
 彼は俯いたまま、手袋が潰れるほど拳を握りしめていた。強く噛んだ唇の間から、血が滲んでいる。
 奥様はもう一度、ノイズを纏うように揺れて――それでも足取りは止まらない。保安検査場のほうへ、ただ遠ざかっていく。
 そのとき、すいさんが僕の手を掴む。片手で目元を覆い、肩を震わせている。

「このままは……いやだ……」

 息混じりの、言葉にならない呟き。その次の瞬間、すいさんの姿が光の粒となって、消えた。
 代わりに、視界の端へ無機質な通知がふわりと浮かぶ。

『1台のギアの接続が終了しました』

 僕は反射的にすいさんへメッセージを送ろうとしたが、目の前を見て止まった。
 保安検査場の自動ドアの手前。闇との境目。そこに立つ奥様の手首を、お客様が転ぶような勢いで駆け寄り、掴み止めた。

「……何してるんですか。約束、守らないとでしょう?」

 奥様は振り返らない。背を向けたまま、乾いた声で言う。それでも、彼はその手を離さない。

「姫様は……あなたは……幸せ、でしたか……」

 返事はない。続くのは、沈黙だけ。
 数十秒が過ぎて、ようやく奥様が振り向いた。半分伏せた瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
 彼女はお客様の手を振りほどいた。空港の静寂を裂く声で叫ぶ。

「バカ……バカバカ! 何が幸せなの……!!」

 彼女は一歩踏み出し、言葉を叩きつける。

「その鬱陶(うっとう)しい仮面つけてさ! 三日間、どこに行っても、隅っこで突っ立って。振り返ったら、しょんぼりした顔ばっかりして! それで、わたしがどうやって幸せになれるっていうの……?」

 奥様は両手を握りしめ、片足で床を踏みつける。
 こん、こん――小さな足音が、彼女の鋭い声に混じって響く。

「わたしが、そんなにバカに見えた?  記憶なんてなくても……誰かが毎日、髪洗って、オムツ替えて、背中掻いて、マッサージしてくれてることくらい、わかるよ!!」

 彼女は自分の胸を強く叩く。

「何も見えない、何も聞こえない暗闇の中で……その手の感触だけが、世界の全てだった! 毎日、毎日、ずっと……!」

 奥様はひとつ息を吸い、今度は指先でお客様の胸を、こつこつと突く。そのたびに彼の体は押し戻され、また元の位置へ戻る。

「……でも、あなた。わたし以外にも、見守らなきゃいけない存在がいるんじゃないの? そんなあなたが毎日、半分死んだわたしの世話だけして……。しかも、わたしはそれが誰なのかすら思い出せない。……その気持ち、わかる?」

 叫びは、だんだん細くなっていく。やがて嗚咽に溶け、肩の震えだけが残る。
 お客様は彼女の肩を抱き、喉の奥から絞り出すような声で言う。

「……じゃあ、僕は。どうすればいい……?」

 彼女は涙に濡れたまま、答える。

「……もう、いいの。放して。……そして、あなたがしたいことをして。あなたが、幸せに生きて」
「……でも」

 彼は言いかけて、一度言葉を呑み込む。それから、震える声で続ける。

「……あなたがいないと、僕は幸せになれない」

 すると奥様の手が上がり――

 ――ぱちん。

 乾いた音が、空港全体に響き渡る。
 お客様は、叩かれた勢いで顔を横に向けたまま、何も言わない。ゆっくりと正面へ戻す。
 奥様の輪郭に、またノイズが走りはじめる。不規則に消えかけては戻り、また消えかける。

「最悪……。じゃあ、わたしと過ごした時間って……あなたにとって、幸せじゃなかったってこと?」
「それは……」

 奥様は一歩詰め、返事をする隙も与えず畳みかける。

「わたしと一緒にいて。あなた、幸せだった?」
「……はい」
「なんで? わたし、何した?」
「毎日、世話して……ご飯作って……咳するなって、マフラーも……服も作って。何から何まで、僕のために……」

 その言葉を聞いて、彼女は両目を拭い、小さく頷く。

「……うん。そう。……それでいいの」

 赤く充血した瞳を上げ、まっすぐ彼を見据えて言う。

「今日、料理して、編み物して……わかったの。わたしがやりたくてやっただけなのに、わたし自身は食べられないくらい辛い料理とか。別に好きでもない青い服とか……作ってみたら、結局ぜんぶ、あなたのためのものだった」

 彼女はほんの少しだけ口元を持ち上げ、震える手を持ち上げる。指先で、慎重に彼の頬を撫でる。

「だから……あなたは、あなたの好きなことをして。わたしのことは、もう気にしなくていい。好きなことをして笑ってるあなたを見たら……わたしも、少しは幸せになれる気がする」

 そのとき、視界に通知が割り込んだ。

『新しいデバイスからの接続が確認されました』
「すい……」

 僕は反射的に視線を逸らし、言いかけて――すぐに口を閉じた。
 そこに立っていたのは、僕の腰ほどの高さ。人形みたいに小さな影。腰まで届く黒い髪。白い肌。一重なのに切れ長で大きい目。白いワンピース。
 素材リストにあった、謎の五つ目のアバター。
 説明なんて要らなかった。言葉がなくても、この場所で彼女の存在が示す先は、ひとりしかいない。
 そして、その少女は体にぐっと力を入れ、肩を上げると、前へ歩き出す。
 誰かが近づいていることにも気づかないまま、お客様は自分の頬に置かれた奥様の手を握り直し、震える声で言葉を続ける。

「……でも。僕は、僕は……金もなくて、いい服の一着すら買ってあげられなくて……。いつもひとりで小説ばかり書いて……あなたが倒れることにも――」

 だが、最後まで言い切るより先に。少女――娘さんが、お客様の真後ろまで来て、迷いなく、ぐいっ、と彼の足を踏んだ。そして、ちょこちょこと駆け寄って、奥様の胸に飛び込む。

「……ママ……っ、うぅ……」

 奥様は最初、両手を宙に上げたまま目を丸くして娘さんを見つめた。けれど、すぐに小さく微笑んで、何も言わずに、泣きじゃくる小さな背をそっと引き寄せて抱きしめる。
 何度か背中を撫でてから、奥様は顔を上げ、お客様を見る。反対の手を開き、胸元を少し晒すような仕草で言う。

「ほら、早く。最後だよ。仮面も、外して。トトさん」

 お客様の右手が仮面へ伸びかけて、いったん止まる。それでも次の瞬間、ためらいを断ち切るように掴んだ。
 さらり、と真っ白な仮面が光にほどけて、空へ消える。
 背中側にいるせいで顔は見えない。見えないのに、見えてしまう気がする。
 その顔を正面から見つめた奥様は、目をぎゅっと細める。瞳が埋もれてしまいそうなほどに。
 開いたままの手を両目に押し当て、声にならない息をこぼす。

「……ほんと、バカ……。ずっと、そんな顔してたの……?」

 するとお客様は何も言わず、両腕を広げて奥様と娘さんをまとめて抱きしめた。
 三人の影が、ようやくひとつに重なる。
 気づけば僕は、片手で目を覆って俯いていた。だが、ほどなくして掌(てのひら)を突き抜けるみたいに、メッセージが浮かんでくる。

『そっちはどう……? もう……奥様、長くないかも。状態、かなり悪い』

 それを読んだ瞬間、僕ははっと顔を上げ、前を見る。
 奥様の輪郭が、ぱち、ぱち、と点滅している。もうノイズなんて生易しいものじゃない。光の粒――データの原型に近いものが、心拍みたいな間隔で明滅しはじめていた。
 そして視界に、工場出荷直後の機器特有の、英語混じりの文言が割り込む。

『ALERT:USER2に連動した生命兆候(バイタルサイン)に持続的な異常値を検知』

 ところが、次に来るはずの指示がない。あるのはただ、「ピッ、ピッ、ピッ」という鈍い警報音だけだ。耳の奥で、しつこく鳴りつづける。
 僕は警告ウィンドウを消し、視界の片隅の〈強制終了〉を見つめる。そしてもう一度、目の前の奥様を見る。

 瞬きひとつで、人の命が左右される。

 そんな重圧に、奥歯を噛みしめすぎて顎が痙攣する。
 いったん、目を閉じる。深く息を吸って、吐いて。何度も繰り返す。
 浮かぶのは、父と翡翠姉さん。彩羽、そして、すいさん。思い出すだけで、胸の片隅が鋭く疼く。

 ……でも。

 静かに目を開けて、前を見る。
 そこには、互いに手を取り合う三人の姿がある。闇に飲まれそうなドアの前でも、天井の白い光の下でも、その輪郭だけははっきりと見える。

 ――幸福って、たぶん。

 糸巻(いとま)きを抱えて、自分が進みたい方向へ進んでいくうちに、いつの間にか糸が周りの糸と絡まり合って、かたちになっているもの。逆に、誰かの背中だけを追いかけていると、ほどけてしまうもの。
 そう思うと同時に、僕は視界の〈強制終了〉ボタンを非表示にする。
 それを合図に、お客様が小さく一歩だけ後ずさる。手の中に仮面を取り出し、また装着する。天井を一度だけ見上げ、すぐに視線を落として――

「さあ。まだ、最後の目的地には到着しておりません。それでは――ピヨピヨツアー担当、トト。最後まで、二人の姫君の旅を責任をもってお守りいたします!」

 これまでで一番、明るく軽やかな声。きっちり腰を折って礼をした、その瞬間。

「ピヨォッ!!」

 赤いサンタ服のトマトくんが、空港の正面扉をぶち壊して突っ込んできた。
 轟音とともに、分厚いガラス壁が粉々に弾け飛ぶ。
 外からは、「ウゥゥゥ――」というサイレンの音。パトカーの赤と青が明滅している。

『巨大怪獣を確認! まだ空港内にいる方は、速やかに避難してください! 緊急事態です!』

 焦ったスピーカーの声が、外から割れたように聞こえる。そこへ消防車のサイレン、人々のざわめき、足音が雪崩れ込み――静まり返っていた空港は一瞬で、無数の音に埋め尽くされる。

「ピヨッ、ピヨッ」

 そんな騒然(そうぜん)とした空気の中で、トマトくんの背後から、ピオとピクがのんきにひょい、と姿を現す。その二羽は奥様の肩へ行儀よく留まり、軽やかに囀(さえず)りはじめる。

「ピオ……ピク……そしてトマトちゃんも」

 彼女は目を潤ませる。
 その姿を見て、お客様はかすかに笑う。それから二人の背後へ回り、右の奥様と左の娘さんを腰から抱き寄せるように支える。
 そして、跳ぶ。トマトくんの背へ、乗り移る。

「それでは、お姫様たち。次の目的地、ひまわり星へ。安全にお連れします」
「きゃっ!」

 鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、お客様に張り付いて叫ぶ娘さん。
 奥様は上着を脱ぎ、娘さんの肩に掛けてあげた。続けて首元のネックレスを外し、マフラーの隙間から引き出して、娘さんの首へかける。
 それから、滲む瞳のまま、やわらかな声で言う。

「……大丈夫。娘……には、わたしがいるから」

 娘さんはお客様の膝に身を預けたまま、上半身だけを左へ傾け、奥様の胸に顔を押しつける。
 そのまま声を殺して泣く。

「娘ってなに……。私、ことり。ことり、だよ……」
「……ごめんね。ことり。きれいな名前……」
「ことりちゃん」
「……ことりちゃん」

 それから奥様は娘さんを右手で胸元へ、抱き上げた。
 そのまま、右手薬指の指輪を静かに外す。娘さんへ差し出しかけて――だが、すぐに引っ込める。
 そして自分の左手薬指へ、はめ直す。月光が指輪に鈍く反射し、その光が奥様の瞳の奥で、淡い燐光となって揺れている。
 そのとき、頭上からお客様の声が降ってきた。

「さあ、ププさんもお早く。もう出国しちゃいますよ!」
「え……? 僕は大丈夫です……!」

 両手を胸の前で上げ、左右に小さく振ってみせる。すると今度は彼の右に座る奥様が、僕を見下ろし。腫れきった瞼。
 それでも、あの鋭さだけは残っていて、その視線に押されて、僕は何も言えなくなった。
 結局、僕もトマトくんの背へ。
 三人の背中から少し離れたところに腰を下ろした、その瞬間。翼が「ばさっ、ばさっ」と空気を叩きはじめる。
 それと同時にトマトくんは、保安検査場の闇を背にして、反対側――破壊されたガラスの向こうに広がる、夜空へ向かって飛び出した。
 そのまま僕らは冬の空へ滑り込んでいく。
 雲を突き抜けたあたりで、世界の温度がふっと変わる。さっきまで遠くに見えていた星々が、頭のすぐ上で瞬いている。
 下には雲の海。丸い満月の光を受けて、青白くうねりながら地平線のほうへ波打っている。
 僕らはその中を進む。トマトくんの背に乗り、隣ではピオとピクが風を切りながら空を泳いでいる。
 耳の奥ではまだ、奥様のバイタル異常を知らせる警告音だけが「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴り続けていた。しかし、その音さえも、雲の波に溶け込み、ひとつの背景音になっていく。
 片手を上げて風を遮りながら、前を見る。
 奥様は、ぱちぱちと明滅しながら、ぎりぎり輪郭を保っていた。お客様の隣へぴたりと寄り、腕が触れ合うくらいの距離に座っている。右手は、娘さんの頭をそっと包むように添えたままだ。
 奥様はさらに彼の体へ身を寄せながら言った。

「ありがとう。わがままなお願い、聞いてくれて」
「とんでもありません」

 少しの沈黙のあと、彼女は言葉を継ぐ。

「……最後にもう一つだけ。お願いしていい?」
「もちろんです。何でも」
「……名前、教えて。たぶん、聞いたところで何も思い出せない気がして……聞かないつもりだったのに……。でも、やっぱり、知りたい」
「僕は――」

 お客様は一瞬だけ迷って、それから静かに言う。

「ハヌル、です」
「へえ……ハヌル、ハヌル……か。呼びにくいから、ハヌでいい?」
「……もちろんです」
「じゃ、ハヌ!」

 僕はただ、二人の背中を見ていた。
 お客様の背筋は相変わらずまっすぐで、前だけを見ている。
 その隣の奥様の輪郭は、少しずつ薄くなっていく。やがて体が透けはじめ、肩を寄せているはずなのに、前で奥様に抱かれている娘さんの姿まで、透き通ってうっすら見えてくる。
 彼はただ前だけを見つめたまま、もう一度だけ口を開いた。声は、驚くほど柔らかい。

「僕も最後に、質問があります」
「なに?」
「姫様――いや。琴羽(ことは)。君は……幸せだったか?」

 すると彼女は、お客様の右手に自分の左手を絡め、指をきゅっと固く組む。
 組み合った指先から、輪郭がさらさらと崩れはじめる。
 そして――

『ALERT:USER2の心拍数急激低下』
『VITAL:30… 20… ERROR』

 残酷なほど鮮明な赤い警告ウィンドウが、僕の網膜へ滝のように降り注ぐ。
 奥様の声が、今にも途切れそうに震える。

「わたし――」

 それきり。声はちりちりとノイズに攫(さら)われ、途切れた。
 奥様の身体が、数え切れない光の粒へとほどけていく。
 きらきらと、ゆっくり、ゆっくり。
 一粒一粒の中に、微細なデータの亀裂が走る。その亀裂は文字となり、小説の夜空の奥へ静かに刻まれていった。
 そして、それとほとんど同時に――

『SYSTEM:USER2の生体信号消失』
「ピ――――――――」

 耳の奥で、一定の電子音だけが鳴り続ける。この世界の風の音も、インコたちの囀りも、少しずつ遠のいていった。
 眼前には、星明かりへほどけていく光。耳元には、生命の終わりを告げる電子音。
 その二つだけが、最後まで残る。
 視界が滲んだ。僕はとっさに手を伸ばして、何かを掴もうとする。しかし指先に触れたのは、鋭く吹き抜ける風のうねりだけ。
 次の瞬間、視界の片隅に無機質な通知が浮かぶ。

『1台のギアの接続が終了しました』

 そのとき、不思議なことが起きた。
 自由に空を飛んでいたピオとピクが、接続終了のアラートと同時にぱっと輝き、データの粒子へとほどけた。奥様とは違う、青い光と淡い若草色(わかくさいろ)の粒。
 そして迷いなく、すでに遠くへ散っていた奥様の光の中へ飛び込んでいく。
 それぞれ違う色の粒が、ひとつに混ざって。一瞬だけ虹色に閃いたあと、星明かりの中でも光を失わないまま、どんどん小さくなって――最後はひとつの点になり、消える。
 涙で濡れた視界を、僕は乱暴に拭う。
 前を見る。
 娘さんはお客様の太ももの上にうつ伏せになり、両拳を強く握りしめたまま、小刻みに震えている。
 お客様は、宙に残った右手を不自然に開いたまま、指先だけをわずかに丸めて、その姿勢を保ち続ける。
 そして、ぽつりと呟く。

「……それは。よかった」

 何に対する返事なのだろう。彼にだけ聞こえたのか。それとも、彼がそう信じると決めただけなのか。どちらにせよ、それは僕が踏み入るべき領域じゃない気がした。
 その言葉を背に、僕らはしばらく――長くはないはずなのに、永遠のような時間を過ごした。
 星に手が届くその瞬間まで、ただ黙って、泳ぎ続ける。

 忘れられない依頼。
 そしてこれは、僕が長い夜を越えて、新しい夜明けへ踏み出すための――始まりの物語でもあった。