僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 三日目・残りダイブ時間:約二時間三十分。

 結局、寝坊した僕らは、慌てて上着を引っ掴んで羽織り、マンションから少し歩いたところにある市街地へ向かった。
 頭上には、半透明の白い屋根がアーケード状に伸び、そこに吊られた色とりどりの古めかしい電光掲示が、ちかちか瞬いている。
 人の流れも途切れない。奥様と似たロングダウンを着込んだ、十代から二十代くらいの若い人たちが、笑い声とスマホの光を散らしながら行き交っている。
 先に口を開いたのは、お客様だった。

「……申し訳ございません、姫様。僕がうっかり寝過ごしてしまって。あちこちは回れないので、せめて一か所だけ、見たいところに行きませんか」
「うん、大丈夫。わたしも寝てたし」

 その返事のあと、彼は周囲を見渡しながら、ほんの少しだけ肩の力を抜く。

「ここがこの世界でもっとも賑やかな場所です。カラオケ、化粧品、服……何でもあります。姫様の行きたいところにしましょう」

 奥様はゆっくり歩き出し、上着の首元を指でつまんで、息が通るように少しだけ引き下げる。何度も、確かめるみたいに辺りを見回している。
 隣で親指同士をこすり合わせていたお客様が、もう一度提案する。

「……それか、デザートでもいかがでしょう。近くに美味しいケーキのお店があるそうです」

 奥様はふと通りの片側へ目を留めた。

「あそこ、行きたい」

 指差した先は、灰色がかった雑居ビルの一階。ガラス越しに小さな灯りが見えて、入口の上には〈リング工房〉と書かれた木製看板が下がっていた。
 お客様は一度立ち止まり、頷く。

「承知しました。では、姫様。あちらへ行きましょう」

 そうして店の扉を開けた途端、空気が変わった。
 削りたての木屑(きくず)の、少し甘い香り。そこへ、金属粉の乾いた匂いと、磨き油の匂いが薄く重なり、鼻の奥がきゅっとする。
 壁には工具が整然と掛けられ、作業台は分厚い木の天板で、角が丸く磨かれている。
 気づけば僕とすいさんも、流れでそのまま席についた。小さな四角いテーブルに、四人でぎゅっと収まる。
 周囲にも、カップルらしい客が何組か腰を下ろしていて、あちこちから「トントントン」と鈍い槌音が聞こえる。
 テーブルの上には、指輪のサンプル写真が印刷された紙と、料金表。仕上げや幅が少しずつ違うらしいけれど、僕の目にはどれも似て見えた。
 奥様はそれを手に取り、半分顔を隠すようにして眺める。
 そこへ、店員がやってくる。

「ご興味のあるプランはございますか?」
「……時間がなくて。今日中にできるのは、どれですか。一時間くらいで」

 紙を下ろしながら奥様が言うと、店員は銀色のサンプルを指で示す。

「一時間ですと……ベーシックプランが限界かもしれません。刻印まで入れるとなると、少し急ぎになります」
「じゃあ、それでお願いします。ベーシックプランで」

 店員が僕らを見回す。

「四名様、制作されますか?」
「いえ、僕たちは――」

 僕が言いかけた瞬間、奥様がさらりと遮る。

「はい。四人です」

 ほどなくして店員が、さまざまな指輪が整然と並ぶ箱を運んできた。奥様は数秒だけそれを見つめ、それから迷いのない手つきで選び取った。細くて、ところどころ規則的な凹凸が入った、飾りのないシンプルな銀の指輪。
 店員は箱を引き上げ、今度は小さな数字のついたリングが何十個も連なった道具を二つ持ってくる。リングゲージだ。

「こちらでサイズを測れます。測れたら、教えてくださいね」

 そう言い残すと、店員はまた別のテーブルへ足早に向かい、忙しなく店内を動き始める。
 奥様はリングゲージを手に取り、お客様の左手を取る。薬指にいくつも通しては外し――それを繰り返した末、〈18〉と刻まれたものをはめる。関節のところで少し引っかかり、すっと抜けないのを確かめてから、彼女は言う。

「どう。ぴったり?」

 お客様は自分の手だけを見つめたまま、返事をしない。はっきりとは分からないが、唇がかすかに震えているようにも見える。

「ちょっと、なんで無視するんですか。ほら、時間ないんでしょ」
「はい。ぴったりです」

 彼女はリングゲージを抜き取り、彼に渡すと、何も言わずに自分の右手を差し出す。
 彼は一瞬だけ動きを止め、それから迷いなく〈8〉と刻まれたゲージを取り、彼女の薬指に当てる。押し込めば入るのに、抜こうとすると関節に少し引っかかった。

「……うん。ぴったり。わたしは8号で」

 彼女はそう言うと、今度は向かいに座る僕らのほうへ視線を向ける。

「何しょぼくれてるの。測らないの?」
「は、はいっ。今……!」

 慌てて、もう片方のリングゲージを掴んだ。すいさんを見ると、彼女はほんの少し目を伏せ、静かに右手を差し出す。
 僕は左手をそっと彼女の手前に運んだ。指先で人差し指と薬指の間を迷った末に、意を決して薬指を取る。
 同じ人間の体温のはずなのに。そこから伝わってきたのは、夏の日差しを含んだ砂の温かさだった。
 慎重にゲージを通しては外し、また通しては外した。そして〈9〉と刻まれたものを通したとき、指の関節でぴたりと引っかかり、簡単には抜けなくなった。
 今度はすいさんがリングゲージを取り、ためらいもなく僕の右手の薬指を掴んで測り始める。動きが速い。

 ――20号。

 それが、僕のサイズだ。
 四人分のサイズが揃うと、奥様が店員を呼んで数字を伝えた。それから十分ほど経っただろうか。店員が、僕の指よりひと回り太い、細長い金属の棒を四本持って現れた。
 それぞれの棒には、艶消しの銀色をした無骨な金属の輪が、一つずつ通されていた。
 店員は一本ずつ僕らの手に渡しながら、テーブル下の収納から小さな金槌(かなづち)を四つ、そして真っ黒な紙やすりを取り出す。

「本日はお時間が限られているので、基本の工程はこちらで進めてあります。ここからは、この指環棒(リングゲージ棒)に通してあるリングを、棒に刻まれた号数の目盛りまで、金槌で少しずつ叩いて広げていってください」

 そう言って店員は紙やすりを取り上げ、こちらに示しながら、続きを話す。

「サイズが合ったら、この紙やすりで角を整えて、手触りがざらつかないように磨いてくださいね」

 そうして僕らは、手にした指環棒(リングゲージ棒)に視線を落とし、作業に集中する。

 カン、カン、カン。

 鋭い金属同士が打ち合う硬い響きが、広がっていく。
 棒の細い先端に引っかかっていたリングが、叩くたびに少しずつ下へ落ちていく。形は少しずつ整い、角が取れて丸みを帯びる。
 一打ごとに輪はわずかに広がり、表面には筋のような不規則な線が刻まれていく。
 模様に決まったパターンはない。深いところもあれば、浅いところもある。叩いた角度のぶんだけ、銀色が記憶していく。
 そうして五分ほど慎重に叩き続けたところで、リングが〈9〉と書かれた黒いラインの位置でぴたりと止まり、それ以上、下がらなくなった。
 僕はそれを棒から外し、紙やすりを手に取って、磨き始める。すると、尖っていた槌痕の角が少しずつ丸くなり、銀色の鈍い艶を帯びて整っていった。
 思っていたほど派手にきらめくわけじゃない。けれど光を受けると、無数の槌痕がそれぞれ別の角度で反射して、細かな光の粒を跳ね返す。
 そこで、頭の中に小さな疑問が浮かぶ。

(僕が作ったの、9号……? でも、僕は20号のはず……)

 最初から僕が作っていたのは、すいさんの指輪だった。そう気づいた瞬間、心臓が小さく跳ねる。
 指輪を手にしたまま、ぼんやり見つめていると、隣で先に作業を終えていたすいさんが、淡々と言う。

「はい、できたよ」

 そして彼女は、僕の右手の薬指を取って、出来たばかりの指輪をはめる。まだ微かな熱が残っているのか、指を包む感触が温かい。
 同じ工程で作ったはずなのに――そこに刻まれた模様は、僕のものとはまるで違っていた。僕が作った指輪の槌痕は右へ流れ、すいさんが作った指輪の槌痕は左へ流れている。
 僕も指輪を持ち上げ、すいさんの右手の薬指へ、慎重に通す。
 何度か視線を上げても、彼女は微妙に顔を逸らし、僕の目を避けたままだ。髪の隙間から覗く耳だけが、ひそかに赤くなっているのが見える。
 視線を前に戻すと、いつの間にかお客様と奥様も、それぞれ指輪をはめていた。お客様は左手の薬指、奥様は右手の薬指。
 四つのリング。形も、槌痕の流れも、向きも――全部、少しずつ違う。
 みんなが互いの手元を見ている中、奥様が口を開く。

「……思ってたのとはちょっと違ったけど。でも、楽しかったですね。で、次はどこ行くんです?」

 お客様は少し間を置いて答える。

「次の目的地は……空港です、姫様」
「空港? じゃあ、早く行こうか」

 彼女はそう言って椅子から立ち上がった。僕らもそれに合わせて立ち上がる。だが、お客様だけが、まだ椅子に座ったまま動かなかった。

「行かないんですか。時間、ないんでしょう」
「はい……すみません」

 彼もようやく立ち上がる。
 それから僕らは工房を出て、歩きながらも左手の薬指ばかりを握りしめているお客様の背中を追った。
 外はまだ完全に日が落ちたわけじゃない。それでも通りの角に立つ街灯が、ひとつ、またひとつと白い光を灯し始めている。
 だけど、その光でさえ、目の前を歩く彼の背中に落ちた影の奥までは届かなかった。