ほとんど一時間が過ぎたころ、お客様と奥様がいくつものビニール袋を提げて戻ってきた。食材だけじゃない。空色の毛糸がいくつかと、編み針まで一緒に入っている。
帰ってくるなり、奥様は袖をまくり、エプロンを結ぶと、袋から食材を取り出して小さなキッチンで動き始めた。
お客様はその背に近づき、静かに声をかける。
「僕も、お手伝いしましょうか」
彼女は、キッチンへ入ってそのまま伸びてきた彼の手首をひょいと掴む。
「手も洗ってないのに? トトさんは、座ってて」
「……はい」
今度は奥様がリビングの方を振り返り、僕らを見る。
「ピピちゃんとププさん、料理できる?」
僕はすいさんに視線を投げる。彼女は目を丸くして、首を横に振る。
仕方なく僕は立ち上がり、キッチンへ向かう。
手を洗う。
シンクとガスバーナーの間の狭いスペースに、材料が並んでいた。鶏もも肉一パック、じゃがいも、にんじん、しいたけ。唐辛子粉に醤油、調味料もいくつか。
頭の中でいくつか料理を組み立てようとしてみるが、どれも形にならない。
「僕、何をすれば」
小さく尋ねると、奥様はボウルにコチュジャンや唐辛子粉、醤油、にんにくチューブを放り込みながら答える。
「じゃがいも。皮むいて。五個くらい」
「はい」
ピーラーを手に取り、じゃがいもへ手を伸ばしたその瞬間、彼女の手が僕の手首を押さえた。
「ちょっと。ふざけてるの?」
「はい……?」
肩をびくりと跳ねさせて顔を上げると、彼女は手にしたボウルへ視線を戻し、「言わないでおこうと思ったけど、ピピちゃんは可愛いのに、ププさんは……正直、キツい」と付け加える。
苦し紛れの言い訳をいくつも喉元までせり上げた途端、視界にメッセージが弾ける。
『アバター変えていいって。ごめんって伝えて、だって』
すいさんからのお客様の伝言だ。
いつものアバターに切り替える。瞬きをひとつしただけで、腕を覆っていた毛が消えた。現れたのは、少し茶色味のあるごつごつした手。
肩を一度回し、改めてじゃがいもの皮を剥き始める。
隣では奥様が、指先をきちんと丸めてにんじんやきのこを押さえ、トントントンと、速く規則正しい音を立てて刻んでいる。
視線はまな板に落としたまま。湯の沸く音と刃の音に紛れそうな、小さな声で奥様が言う。
「手際いいね。料理、よくするの?」
「最近はあまり……。でも昔、父の介護をしていたときは、よく作ってましたよ」
「ふぅん」
短い沈黙のあと、彼女がもう一度だけ、ぼそりと言う。
「ピピちゃんに、優しくしてあげて」
「……どういうことですか?」
彼女は手を止めずに続ける。
「薔薇園で彼女と話したとき、ずっとププさんの話ばっかりしてたよ」
「僕の話……ですか? え、陰口とか……」
すいさんが僕の黒歴史を次々と並べ立てる姿が、真っ先に脳裏へ浮かぶ。
「見た目のわりに、ほんと鈍いんだね。まあいい。それより、昨日渡した手紙、ちゃんと届けてね」
「はい。もちろんです」
インベントリを開き、昨日受け取った手紙が入っているのを確かめる。
A4用紙一枚に、文字がびっしりと書き込まれている。
料理がひと段落した。
椅子が足りなくて、僕らは床に器を並べ、輪になるように座る。雑穀米が四つ。作った料理は、大きいガラスの皿に盛られている。
濃い赤色のスープに、鶏肉と野菜がたっぷり沈んでいる。見ているだけで舌がひりつきそうな色だった。じゃがいもとにんじんは驚くほど均一に切り揃えられ、赤く染まったきのこが汁の表面に浮かんでいる。
匂いは、見た目とは正反対だった。長く煮出した鶏だしの、香ばしくて丸い旨み。そこへ、ほのかなきのこの香りと胡麻油の気配が混じる。
僕は箸でじゃがいもをつまんでみる。口元まで運びかけたものの、真っ赤な調理過程を思い出し、いったん器へ戻す。
奥様の隣に座るお客様は、皿を数秒じっと見つめたあと、食べ始めた。何も言わず、一口、また一口と、噛みしめる暇さえ惜しんで食べ続けている。
いつの間にか普段のアバターに戻っていたすいさんも、頬を赤くしながら水をごくごく飲み、忙しなく箸を動かした。そして、口にものを入れたまま言う。
「……これ、ほんと美味しいです!」
「ほんと?」
奥様は満足そうに笑ってから、今度は僕を見た。ただ見られているだけなのに、気づけば手には、さっき戻したはずのじゃがいもを挟んだ箸が握られていた。
ふう、ふう、と何度か息を当ててから、口に入れる。
じゃがいもは、舌の上でほくりと崩れる。淡い甘さと、やさしい塩気。ほっとする旨みが口いっぱいに広がる。
――ごくん。
飲み込んだ、その瞬間。遅れて辛さが爆発する。舌が焼け、熱が喉の奥を這って、胃まで一気に落ちていく。
「っ、げほ……」
水を一杯、ほとんど一息で飲み干す。
それを見て奥様が、ぷっと笑う。
「ププさん、辛いの苦手なんだ」
「これは、辛いの域じゃないです……」
「そう? でもププさん以外、みんな普通に食べてるよ」
横を見る。僕がじゃがいも一個に苦戦している間に、お客様はもう二杯目に入っていた。すいさんも、すでに茶碗の半分以上を平らげている。
「……まさか、食べ残すわけではないよね?」
「た、食べます! 美味しいです!」
彼女のじっとした視線に負けて、僕は箸を握り直し、半ば意地で口へ運んだ。
すると彼女はふいに少しだけ俯き、小さく息を吐く。
「……インコたちも一緒なら、もっと良かったのに」
その言葉に、お客様が箸を置いて即答する。
「トマトくんは大きすぎますが……ピオとピクくんなら、呼びましょうか」
彼女は彼を一度見て、また手元へ目を落とす。
「だめ。寒いから、呼ばないで。風邪ひく」
「……承知しました」
それきり、誰も口を開かなかった。
静寂に響くのは、赤く染まった食器と箸が触れ合う音だけだった。
***
昼食を終えたあと。結局、激辛料理に完敗してほとんど残してしまった僕は、せめてもの償いに皿洗いを引き受けた。いちばん残していたのは奥様だった気もするが……。僕は何も言わず、スポンジで皿を黙々とこすり続けた。
洗い物を終えてリビングに戻ると、部屋はすっかり静かになっていた。
お客様は壁に背を預けたまま、こくり、こくりと首を落として眠っている。すいさんはベッドの上で、壁にぴたりと身体を寄せて横になっていた。呼吸に合わせて肩が細く上下し、眠りの浅さだけが伝わってくる。
そしてベッドの縁に腰をかけた奥様は、空色の毛糸と編み針を手に、無言で編み物を続けていた。ただ、まばたきが不規則だった。閉じて、開いて――そのたびに、瞳の焦点がわずかに揺れる。
今日のスケジュール・ウィンドウを開いて予定を確認する。
午前:化粧品を見に行く
昼:タッカルビパーティ
午後:市街地散策→空港
次に、時間を確かめる。もう午後二時を回っていた。
このままでは、午後の予定をまともにこなせない。
僕はお客様の方へ近づき、肩に手を置こうとしたが、正面の奥様が低い声で制する。
「起こさないで。疲れてるんでしょ」
そう言って彼女は、自分の隣のスペースを軽く叩く。僕が恐る恐る隣に腰を下ろすと、彼女は視線を編み針に据えたまま、慎重に口を開いた。
「昨日。わたし、また死にかけたんだよね」
その言葉で、背筋がひやりとした。彼女はさらに言う。
「……わたしのせいで、トトさん、寝られなかったでしょ」
奥様は編む手を止め、天井を仰ぐ。
「何回か、あるの。心臓をぎゅっと絞られる感じとか……頭の中に釘を打ち込まれるみたいな痛みとか。で、気づいたら何かがひとつずつ、なくなってる」
僕は何も言えず、視線を落として自分の膝の上だけを見つめる。
「昨日は……目が覚めたら、もう何も感じられなくなってたの。痛いほうがマシって思うくらい。だから今日、もし何が起きても……止めないで。お願い。トトさんが止めろって言っても」
横目で見ると、編み針を握る彼女の両手が小さく震えていた。いつの間にか顔を伏せ、横髪が表情を隠している。
喉が詰まり、すぐには声が出ない。 それでも、喉に引っかかった言葉をどうにか押し出す。
「最善は……尽くします」
その返事のあと、気まずい沈黙が落ちた。
どれくらい経っただろう。奥様は深く息を吸い込み、ゆっくり顔を上げた。手にしていたのは淡い空色のニット。襟元だけがきれいに編まれていて、そこから先は途中で止まっている。
彼女はそれを、お客様の胸元に重ねるように持ち上げてみせる。
「この色……トトさんに、似合うよね」
「はい。きっと、よく似合います」
答えながら、僕は現実のお客様が着ている、首元まで詰まった空色の古いニットを思い出した。けれど、今彼女の手にあるそれは、首元が詰まる形じゃない。
奥様はすぐに言葉を継ぐ。
「それで、もうひとつお願いしてもいい?」
「僕にできることなら」
彼女は編みかけのニットに加えて、数字がいくつか書かれた紙切れも差し出す。
「これ。残りも同じ編み方で仕上げられる? 段数も編み方も、紙に全部書いておいたから」
その言葉で、会社の福利厚生で使えるAIモデリング機のことが頭をよぎった。社内の3Dプリンターと連動して、現実側へ出力までできる最新型だ。
「できると思います」
「じゃあ、今日が終わったら……完成させて、トトさんに渡して」
「はい。その程度なら……」
僕はそれを受け取った。
繊維にはまだ彼女の手の温度が残り、掌をじんわりと温めた。
それをインベントリにしまい、隣へ目を向ける。奥様はいつの間にかお客様の横へ移動していた。床に座り、彼の肩に頭を預けたまま、こちらを見て囁く。
「……また寝ちゃいそう。ごはんもほとんど食べてないのに……。少しだけ目を閉じるから、三十分後に起こして」
「わかりました」
返事をするより早く、彼女は目を閉じた。あとは静かな呼吸だけが、小さな部屋に残る。
僕は毛布を取り出し、寄り添って座る二人にそっとかけた。
すいさんにも同じように毛布をかけ、僕は彼女の近くに腰を下ろした。
昨夜、僕も死にかけたはずなのに。頭はむしろ冴えている。
僕は、A社が開発した統合型AIサービス〈All AI〉を呼び出した。簡単な登録を済ませ、ワールドの素材リストを開く。
NPCは数百。ワールド専用アバターが五つ。召喚体が三つ。そして召喚体のピオとピクは、なぜか奥様のアバターに帰属している。
次に〈素材情報をAll AIに連携〉を押すと、注意喚起が浮かんだ。
『選択した素材の編集権限は、依頼主に帰属します。外部連携の前に、著作権に関する規定をご確認ください』
僕は〈確認〉を押し、短い指示を打ち込む。
『素材リスト内の召喚体〈トマト/ピオ/ピク〉に、適切な冬服を生成して装着させて』
少しして、素材リストの中で、三羽のインコたちの体にぴたりと沿う赤いサンタ服が生成されていた。頭には小さな帽子まで乗っている。
「寒いから、呼ばないで」――奥様はそう言った。なら、寒くないようにすればいい。
次はこの事実をお客様に伝える番だ。とはいえ、お客様は端末を持っていない。代わりに〈素材更新〉のVRアラートを送っておいた。
口元が緩む。
僕はアラームを開き、午後2時30分にセットした。それから、すいさんの隣に座ったまま静かに目を閉じた。
帰ってくるなり、奥様は袖をまくり、エプロンを結ぶと、袋から食材を取り出して小さなキッチンで動き始めた。
お客様はその背に近づき、静かに声をかける。
「僕も、お手伝いしましょうか」
彼女は、キッチンへ入ってそのまま伸びてきた彼の手首をひょいと掴む。
「手も洗ってないのに? トトさんは、座ってて」
「……はい」
今度は奥様がリビングの方を振り返り、僕らを見る。
「ピピちゃんとププさん、料理できる?」
僕はすいさんに視線を投げる。彼女は目を丸くして、首を横に振る。
仕方なく僕は立ち上がり、キッチンへ向かう。
手を洗う。
シンクとガスバーナーの間の狭いスペースに、材料が並んでいた。鶏もも肉一パック、じゃがいも、にんじん、しいたけ。唐辛子粉に醤油、調味料もいくつか。
頭の中でいくつか料理を組み立てようとしてみるが、どれも形にならない。
「僕、何をすれば」
小さく尋ねると、奥様はボウルにコチュジャンや唐辛子粉、醤油、にんにくチューブを放り込みながら答える。
「じゃがいも。皮むいて。五個くらい」
「はい」
ピーラーを手に取り、じゃがいもへ手を伸ばしたその瞬間、彼女の手が僕の手首を押さえた。
「ちょっと。ふざけてるの?」
「はい……?」
肩をびくりと跳ねさせて顔を上げると、彼女は手にしたボウルへ視線を戻し、「言わないでおこうと思ったけど、ピピちゃんは可愛いのに、ププさんは……正直、キツい」と付け加える。
苦し紛れの言い訳をいくつも喉元までせり上げた途端、視界にメッセージが弾ける。
『アバター変えていいって。ごめんって伝えて、だって』
すいさんからのお客様の伝言だ。
いつものアバターに切り替える。瞬きをひとつしただけで、腕を覆っていた毛が消えた。現れたのは、少し茶色味のあるごつごつした手。
肩を一度回し、改めてじゃがいもの皮を剥き始める。
隣では奥様が、指先をきちんと丸めてにんじんやきのこを押さえ、トントントンと、速く規則正しい音を立てて刻んでいる。
視線はまな板に落としたまま。湯の沸く音と刃の音に紛れそうな、小さな声で奥様が言う。
「手際いいね。料理、よくするの?」
「最近はあまり……。でも昔、父の介護をしていたときは、よく作ってましたよ」
「ふぅん」
短い沈黙のあと、彼女がもう一度だけ、ぼそりと言う。
「ピピちゃんに、優しくしてあげて」
「……どういうことですか?」
彼女は手を止めずに続ける。
「薔薇園で彼女と話したとき、ずっとププさんの話ばっかりしてたよ」
「僕の話……ですか? え、陰口とか……」
すいさんが僕の黒歴史を次々と並べ立てる姿が、真っ先に脳裏へ浮かぶ。
「見た目のわりに、ほんと鈍いんだね。まあいい。それより、昨日渡した手紙、ちゃんと届けてね」
「はい。もちろんです」
インベントリを開き、昨日受け取った手紙が入っているのを確かめる。
A4用紙一枚に、文字がびっしりと書き込まれている。
料理がひと段落した。
椅子が足りなくて、僕らは床に器を並べ、輪になるように座る。雑穀米が四つ。作った料理は、大きいガラスの皿に盛られている。
濃い赤色のスープに、鶏肉と野菜がたっぷり沈んでいる。見ているだけで舌がひりつきそうな色だった。じゃがいもとにんじんは驚くほど均一に切り揃えられ、赤く染まったきのこが汁の表面に浮かんでいる。
匂いは、見た目とは正反対だった。長く煮出した鶏だしの、香ばしくて丸い旨み。そこへ、ほのかなきのこの香りと胡麻油の気配が混じる。
僕は箸でじゃがいもをつまんでみる。口元まで運びかけたものの、真っ赤な調理過程を思い出し、いったん器へ戻す。
奥様の隣に座るお客様は、皿を数秒じっと見つめたあと、食べ始めた。何も言わず、一口、また一口と、噛みしめる暇さえ惜しんで食べ続けている。
いつの間にか普段のアバターに戻っていたすいさんも、頬を赤くしながら水をごくごく飲み、忙しなく箸を動かした。そして、口にものを入れたまま言う。
「……これ、ほんと美味しいです!」
「ほんと?」
奥様は満足そうに笑ってから、今度は僕を見た。ただ見られているだけなのに、気づけば手には、さっき戻したはずのじゃがいもを挟んだ箸が握られていた。
ふう、ふう、と何度か息を当ててから、口に入れる。
じゃがいもは、舌の上でほくりと崩れる。淡い甘さと、やさしい塩気。ほっとする旨みが口いっぱいに広がる。
――ごくん。
飲み込んだ、その瞬間。遅れて辛さが爆発する。舌が焼け、熱が喉の奥を這って、胃まで一気に落ちていく。
「っ、げほ……」
水を一杯、ほとんど一息で飲み干す。
それを見て奥様が、ぷっと笑う。
「ププさん、辛いの苦手なんだ」
「これは、辛いの域じゃないです……」
「そう? でもププさん以外、みんな普通に食べてるよ」
横を見る。僕がじゃがいも一個に苦戦している間に、お客様はもう二杯目に入っていた。すいさんも、すでに茶碗の半分以上を平らげている。
「……まさか、食べ残すわけではないよね?」
「た、食べます! 美味しいです!」
彼女のじっとした視線に負けて、僕は箸を握り直し、半ば意地で口へ運んだ。
すると彼女はふいに少しだけ俯き、小さく息を吐く。
「……インコたちも一緒なら、もっと良かったのに」
その言葉に、お客様が箸を置いて即答する。
「トマトくんは大きすぎますが……ピオとピクくんなら、呼びましょうか」
彼女は彼を一度見て、また手元へ目を落とす。
「だめ。寒いから、呼ばないで。風邪ひく」
「……承知しました」
それきり、誰も口を開かなかった。
静寂に響くのは、赤く染まった食器と箸が触れ合う音だけだった。
***
昼食を終えたあと。結局、激辛料理に完敗してほとんど残してしまった僕は、せめてもの償いに皿洗いを引き受けた。いちばん残していたのは奥様だった気もするが……。僕は何も言わず、スポンジで皿を黙々とこすり続けた。
洗い物を終えてリビングに戻ると、部屋はすっかり静かになっていた。
お客様は壁に背を預けたまま、こくり、こくりと首を落として眠っている。すいさんはベッドの上で、壁にぴたりと身体を寄せて横になっていた。呼吸に合わせて肩が細く上下し、眠りの浅さだけが伝わってくる。
そしてベッドの縁に腰をかけた奥様は、空色の毛糸と編み針を手に、無言で編み物を続けていた。ただ、まばたきが不規則だった。閉じて、開いて――そのたびに、瞳の焦点がわずかに揺れる。
今日のスケジュール・ウィンドウを開いて予定を確認する。
午前:化粧品を見に行く
昼:タッカルビパーティ
午後:市街地散策→空港
次に、時間を確かめる。もう午後二時を回っていた。
このままでは、午後の予定をまともにこなせない。
僕はお客様の方へ近づき、肩に手を置こうとしたが、正面の奥様が低い声で制する。
「起こさないで。疲れてるんでしょ」
そう言って彼女は、自分の隣のスペースを軽く叩く。僕が恐る恐る隣に腰を下ろすと、彼女は視線を編み針に据えたまま、慎重に口を開いた。
「昨日。わたし、また死にかけたんだよね」
その言葉で、背筋がひやりとした。彼女はさらに言う。
「……わたしのせいで、トトさん、寝られなかったでしょ」
奥様は編む手を止め、天井を仰ぐ。
「何回か、あるの。心臓をぎゅっと絞られる感じとか……頭の中に釘を打ち込まれるみたいな痛みとか。で、気づいたら何かがひとつずつ、なくなってる」
僕は何も言えず、視線を落として自分の膝の上だけを見つめる。
「昨日は……目が覚めたら、もう何も感じられなくなってたの。痛いほうがマシって思うくらい。だから今日、もし何が起きても……止めないで。お願い。トトさんが止めろって言っても」
横目で見ると、編み針を握る彼女の両手が小さく震えていた。いつの間にか顔を伏せ、横髪が表情を隠している。
喉が詰まり、すぐには声が出ない。 それでも、喉に引っかかった言葉をどうにか押し出す。
「最善は……尽くします」
その返事のあと、気まずい沈黙が落ちた。
どれくらい経っただろう。奥様は深く息を吸い込み、ゆっくり顔を上げた。手にしていたのは淡い空色のニット。襟元だけがきれいに編まれていて、そこから先は途中で止まっている。
彼女はそれを、お客様の胸元に重ねるように持ち上げてみせる。
「この色……トトさんに、似合うよね」
「はい。きっと、よく似合います」
答えながら、僕は現実のお客様が着ている、首元まで詰まった空色の古いニットを思い出した。けれど、今彼女の手にあるそれは、首元が詰まる形じゃない。
奥様はすぐに言葉を継ぐ。
「それで、もうひとつお願いしてもいい?」
「僕にできることなら」
彼女は編みかけのニットに加えて、数字がいくつか書かれた紙切れも差し出す。
「これ。残りも同じ編み方で仕上げられる? 段数も編み方も、紙に全部書いておいたから」
その言葉で、会社の福利厚生で使えるAIモデリング機のことが頭をよぎった。社内の3Dプリンターと連動して、現実側へ出力までできる最新型だ。
「できると思います」
「じゃあ、今日が終わったら……完成させて、トトさんに渡して」
「はい。その程度なら……」
僕はそれを受け取った。
繊維にはまだ彼女の手の温度が残り、掌をじんわりと温めた。
それをインベントリにしまい、隣へ目を向ける。奥様はいつの間にかお客様の横へ移動していた。床に座り、彼の肩に頭を預けたまま、こちらを見て囁く。
「……また寝ちゃいそう。ごはんもほとんど食べてないのに……。少しだけ目を閉じるから、三十分後に起こして」
「わかりました」
返事をするより早く、彼女は目を閉じた。あとは静かな呼吸だけが、小さな部屋に残る。
僕は毛布を取り出し、寄り添って座る二人にそっとかけた。
すいさんにも同じように毛布をかけ、僕は彼女の近くに腰を下ろした。
昨夜、僕も死にかけたはずなのに。頭はむしろ冴えている。
僕は、A社が開発した統合型AIサービス〈All AI〉を呼び出した。簡単な登録を済ませ、ワールドの素材リストを開く。
NPCは数百。ワールド専用アバターが五つ。召喚体が三つ。そして召喚体のピオとピクは、なぜか奥様のアバターに帰属している。
次に〈素材情報をAll AIに連携〉を押すと、注意喚起が浮かんだ。
『選択した素材の編集権限は、依頼主に帰属します。外部連携の前に、著作権に関する規定をご確認ください』
僕は〈確認〉を押し、短い指示を打ち込む。
『素材リスト内の召喚体〈トマト/ピオ/ピク〉に、適切な冬服を生成して装着させて』
少しして、素材リストの中で、三羽のインコたちの体にぴたりと沿う赤いサンタ服が生成されていた。頭には小さな帽子まで乗っている。
「寒いから、呼ばないで」――奥様はそう言った。なら、寒くないようにすればいい。
次はこの事実をお客様に伝える番だ。とはいえ、お客様は端末を持っていない。代わりに〈素材更新〉のVRアラートを送っておいた。
口元が緩む。
僕はアラームを開き、午後2時30分にセットした。それから、すいさんの隣に座ったまま静かに目を閉じた。

