第三の世界――小説『失われた西の王国にて』
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***
どれくらい経っただろう。闇が薄れていき、視界が少しずつ白んでいく。
「……さむ」
反射的に両腕で肩を抱く。けれど冷気は羽毛の隙間を縫い、骨の奥まで容赦なく染み込んできた。
目を完全に開くと、そこには見慣れない形の都市があった。葉を剥ぎ取られ、枝だけになった木々が、アスファルトの道路に沿って左右へまっすぐ並んでいる。
歩道を行き交う人々は、揃いも揃って視線を手元へ落としている。たぶん、かつてスマートフォンと呼ばれていた端末だ。
平凡といえば平凡な、人間だらけのその景色を見て、僕は自分の腕を覆う羽毛をもう一度確かめる。焦ってすぐに〈アバター認識阻害モード〉にチェックを入れる。すると隣ですいさんが、僕と同じように両腕で肩を抱えたまま声を上げる。
「うぅ……寒っ。なにここ……。何のワールド?」
「僕もわかりません。読んだことがない作品で、担当チームも違いますし」
鼻水が勝手に出てきて、片手で雑に拭いながら答えた。
僕はインベントリから、常備の冬用――黒いダウンジャケットと白い裏起毛のパンツを取り出し、すいさんの腕に押しつける。
「とりあえず、これでも着てください」
「……ありがとう」
すいさんが慌てて袖を通し始めた、そのときだった。
目の前に、お客様がいつの間にか姿を現し、こちらへ歩いてくる。相変わらずスーツ一式のまま。そして顔には、目のあたりに黒い玩具のボタンが付いた、奇妙な仮面。
そんな彼に、すいさんが先に声をかける。
「お客様、寒くないんですか……? よかったらダウン、出しましょうか」
「いえ。この程度は慣れているので」
彼はそう答えると、肩を軽く回してストレッチでもするような仕草を見せただけだった。
僕は思わず口を開けたまま、視線でワールドの気温表示を確認する。
『マイナス18度』
目を一度閉じて開く。表示が更新される。
『マイナス19度』
お客様は僕らの前で立ち止まり、手を差し出した。そこにはカイロが二つ。
「もし寒かったら、これでも使ってください」
「ありがとうございます。助かりました」
僕とすいさんは受け取るなり、何度か強く振ってから、ダウンのポケットへ手ごと押し込んだ。しばらくすると、指先から熱がじんわり広がってくる。
少しだけ息が戻り、思考が追いつき始めた頃、僕は小さく声を落とした。
「それより。ここ、どんな小説の世界なんですか。僕、読んだことがなくて……」
「……小説、と言えるほどのものじゃないんですが。有名な作品でもありませんし」
お客様は少しだけ俯いて答える。そんな横顔を見ながら、僕は言葉を継ぐ。
「僕、先生……じゃなくて、お客様の小説は一通り読んだつもりだったんですけど、ここだけは本当に知りませんでした。日本、じゃない感じですし」
「ええ。舞台は、もう存在しない国ですから。それと、呼び方は楽でいいですよ」
「いえ。少なくとも今日が終わるまでは、お客様はお客様です」
その言葉を置いて、僕は改めて周囲を見回す。
表示される看板や標識の文字は日本語だ。けれど歩いている人々の顔立ちは、同じアジア系でもどこか日本人と違う。髪型は皆よく似ていて、丸い眼鏡をかけている人がやけに多い――そんな印象が残る。
僕は世界地図アプリを呼び出し、日本の周辺を拡大した。真っ先に目に入ったのは、日本のすぐ西にある小さな半島だ。半島の中央には、南北に細い点線が一本走り、その南側に〈東海特別行政区〉と記されている。
前にすいさんが旅行に行って、やけに甘いアーモンドを土産にくれたことを思い出す。
視界の端にメッセージウィンドウが立ち上がる。
『モニタリングは大きな問題なし。でも、これはさすがに時間かかりすぎかも。奥様の同期状態、どう?』
『同期状態って、なんですか?』
『ごめん。最新型の機能でね。管理者権限なら、どこかに表示出てるはず。探してみて』
言われるまま視線を上げると、右上に小さく同期率が出ていた。
『ありました。奥様、95%で止まってます』
『……やっぱり、昨夜あんなことがあった直後のダイブは、脳への負担が大きいのかも。いったん再接続を試したほうがいいかもしれない』
その返事を見たまま、僕はお客様に声をかけようとして振り向いたが、言葉が喉で固まった。
彼は背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。両手をきつく握りしめ、下唇を白くなるほど噛み、歩道の端の一点をじっと見つめている。
『もう少し、待ちますか。95%なら……すぐ、ですよね』
送信するより早く、お客様の視線の先――枯れ枝だけ残った街路樹の足元に、小さな光の粒がゆっくり集まり始める。
昨日よりも明らかに遅い。集まった光は不規則に明滅し、ノイズを噛みながら歪んでいる。その光の塊は、少しずつ形を結び、やがて一人の女性の輪郭になる。
奥様だ。
昨日と変わらない、白い半袖に緑のパンツ。首元のネックレスだけが、朝の光を受けてやけに眩しくきらめいている。
彼女は現れた瞬間、その場に力なく座り込んだ。
お客様は、すぐさま空中から黒いロングダウンを取り出し、早足で彼女のもとへ向かう。肩ごと包み込むように羽織らせ、続けて淡い緑のニット帽を取り出し、頭に被せる。
それから、膝をつく。目の前でうなだれる彼女に、揺れのない声で告げる。
「姫様。昨夜は……少し問題があって、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」
何の反応もなく座り込んでいた彼女は、ようやく、ゆっくりと震える両腕を持ち上げた。そしてお客様の首に縋りつくように抱きつく。
「お願い……殺して。もう、無理……お願いします……」
お客様は左手を彼女の後頭部に添え、さらに体を寄せて抱きしめ直した。右手は彼女の腰へ伸びかけ、途中で止まった。指先が迷った末、拳をきつく握りしめる。
「……もちろんです。約束ですから。今夜、姫様を――地獄から解放して差し上げます」
僕はその背中を見ていることしかできなかった。言葉も動きも差し挟む余地はなく、僕らはその場に立ち尽くした。
奥様の震えが止まるまで、どれくらいの時が過ぎただろうか。 永遠にも思える沈黙の中では、氷点下20度に迫る寒さでさえ、いつしか感じなくなっていた。
***
三日目・残りダイブ時間:約六時間
お客様のあとを追って辿り着いたのは、灰色の三階建てのマンションだった。
中は、二人がようやくすれ違えるほどの細い廊下を挟み、左右に扉がずらりと並んでいた。僕らはその一階の一室へ足を踏み入れた。
玄関のすぐ横に、ガスコンロが一口だけの小さなキッチン。リビングは、六畳あるかないかの広さだった。左の壁際には、真っ白なセミダブルベッドが寄せられている。右手、窓の正面には小さな衣装棚。その隣に、白い机と椅子。机の上には黒いノートPCが一台――葵が使っていたものに似ているが、少しだけ小さい。さらに脇には、〈日本語基礎〉と書かれた紙の教材が数冊と、筆記具がきちんと並べられている。
気づけば四人とも、狭い部屋いっぱいに立ち尽くしていた。
お客様が僕をちらりと見て、口元を緩める。
「いやあ……僕と荷物持ちのププさんは、体格がいいせいか、余計に狭く感じますよね。はは」
言われて僕は肩をすぼめ、部屋の隅で壁に背を預ける。すると奥様が僕を一度見て、さらりと言う。
「でも、わたしは落ち着くから好き。それより、わたしだけ半袖なんだけど。着るもの、ないですか?」
「失礼しました。もちろん、用意しております」
お客様は衣装棚を開け、服を取り出して奥様に手渡した。青いシャツに、紺のセーター。灰色のスカートと、冬用のタイツも一緒だ。
彼女は受け取ると、「着替えてくる」とだけ言い残して、浴室の方へ消えていった。
ほどなくして、浴室の扉が開いた。奥様が顔だけを覗かせ、部屋の中を一度ぐるりと見回す。それから、歩き出す。
セーターもスカートも、彼女の身体にきれいに馴染んでいた。
白い肌に、少し鋭い目元。
「……ねえ。なんで何も言わないの?」
彼女は、ぽかんと見惚れたままのお客様を見上げ、唇をわずかに尖らせる。彼は一度だけ奥様の頭へ手を伸ばしかけ、途中で引っ込める。それから答える。
「とてもお似合いです、姫様。もっとも、姫様が着るものなら、何でも似合いますが」
「もう……口だけは上手いんだから」
彼女は小さく笑う。
「それよりさ。お腹空いた。近くにスーパーある? 買い物してきたい」
「買い物、ですか?」
「うん。料理したい」
彼は一度キッチンを見てから、改めて言う。
「お金のことなら心配しなくて大丈夫です。食べたいものがあれば――」
「やだ。買い物、行く。……だめ?」
彼が言い終えるより早く、奥様がきっぱりと遮った。
彼はしばらく黙り、やがて小さく頷く。それを見て、奥様はようやく微笑む。いったん部屋に戻ってニット帽を被り、ロングダウンを羽織ると、ベッドの上に行儀よく腰かけていた僕とすいさんの方を振り向いた。
「ピピちゃんと……ププさんは、留守番。二人で行ってくるから仲良くしていてね」
「承知しました。お気をつけて」
僕の返事を背に、奥様はお客様の手を引き、そのまま玄関へ連れていった。
……が、廊下に出てもなお、二人の会話――というより、ほとんど小さなお説教が続いて聞こえる。
「それよりトトさん、上着は?」
「僕はこれで十分です」
「はぁ……ほんと頑固。ほら、これでも着て」
「いえ。姫様が着てください。僕はこれで」
「……わかった。じゃあ帽子も」
「大丈夫です」
「もう……!」
微笑ましい攻防は、廊下に響く足音と一緒にだんだん遠ざかっていき、ふっと消える。
静けさが戻った瞬間、隣ですいさんが声をかけてくる。
「……なんか、気まずくてやばいね」
「わかります。昨日までは実感がなかったのに。もうすぐ、本当に別れになるかもしれないって思うと、どう接したらいいのか……」
少しの沈黙。今度は僕が先に口を開く。
「でも奥様、思ったより淡々としてません? 意外と……大丈夫そうに見えますけど」
僕が言い終えるより早く、すいさんは僕の手を掴んだ。
「それは、当事者じゃないとわからないよ。そういうこと、言っちゃだめ」
「……すみません」
黙って俯き、自分の手の上に重なった彼女の手だけを見つめる。
「最後まで、二人がちゃんと過ごせるように支える。それがボクたちの役目」
「……はい」
僕がまだ俯いたままでいると、すいさんが話題を変えてくる。
「それよりさ。ここ……東海区っぽくない?」
「やっぱり東海区なんですか。僕、行ったことなくて」
「うん。ボクが行ったときとは全然違うけど。たぶん、数十年前の景色じゃないかな」
「なるほど」
その言葉の端で、お客様の本名――ハヌル、という音がふっと脳裏をかすめる。
漢字じゃない。カタカナの名前だ。
会社でたまに見かける、東海区出身の人たちの名にも、どこか似た響きがあった。
それだけじゃない。その名前を、僕はたしかにどこかで目にしている。そう思って、以前よく覗いていた、うめぼし先生の個人ブログを開こうとした。だが、いつの間にかリンクは消えていて、もう辿れない。
移転したのかと手当たり次第に探しているうちに、すいさんが急に身を乗り出す。
「ていうか、ここのご飯、ほんっと美味しいんだよ!」
「そうなんですか」
「うん! 今度、一緒に旅行いく? 案内してあげる」
「いいですね。……え? 一緒に?」
「うん。まあ、お前がよければだけど」
慌てて視線を上げると、彼女が赤い瞳で僕の目をじっと見ていた。口元だけが、ほんのわずかに持ち上がっている。
「この件がちゃんと終わったら行きましょう。ちょうど年末年始ですし」
「へぇ。鈍感バカだと思ってたけど、そうでもないんだ?」
「鈍感バカ……僕がですか?」
僕は目をぱちくりさせて、自分の顔を指さす。
「うん。やっぱ鈍感バカで決定」
「え、なんでですか」
「教えない」
僕らは狭い部屋に二人きりで取り残され、些細な言い合いを続けながら時間を潰した。お客様と奥様が買い物から戻ってくる、その足音を待ちながら。
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どれくらい経っただろう。闇が薄れていき、視界が少しずつ白んでいく。
「……さむ」
反射的に両腕で肩を抱く。けれど冷気は羽毛の隙間を縫い、骨の奥まで容赦なく染み込んできた。
目を完全に開くと、そこには見慣れない形の都市があった。葉を剥ぎ取られ、枝だけになった木々が、アスファルトの道路に沿って左右へまっすぐ並んでいる。
歩道を行き交う人々は、揃いも揃って視線を手元へ落としている。たぶん、かつてスマートフォンと呼ばれていた端末だ。
平凡といえば平凡な、人間だらけのその景色を見て、僕は自分の腕を覆う羽毛をもう一度確かめる。焦ってすぐに〈アバター認識阻害モード〉にチェックを入れる。すると隣ですいさんが、僕と同じように両腕で肩を抱えたまま声を上げる。
「うぅ……寒っ。なにここ……。何のワールド?」
「僕もわかりません。読んだことがない作品で、担当チームも違いますし」
鼻水が勝手に出てきて、片手で雑に拭いながら答えた。
僕はインベントリから、常備の冬用――黒いダウンジャケットと白い裏起毛のパンツを取り出し、すいさんの腕に押しつける。
「とりあえず、これでも着てください」
「……ありがとう」
すいさんが慌てて袖を通し始めた、そのときだった。
目の前に、お客様がいつの間にか姿を現し、こちらへ歩いてくる。相変わらずスーツ一式のまま。そして顔には、目のあたりに黒い玩具のボタンが付いた、奇妙な仮面。
そんな彼に、すいさんが先に声をかける。
「お客様、寒くないんですか……? よかったらダウン、出しましょうか」
「いえ。この程度は慣れているので」
彼はそう答えると、肩を軽く回してストレッチでもするような仕草を見せただけだった。
僕は思わず口を開けたまま、視線でワールドの気温表示を確認する。
『マイナス18度』
目を一度閉じて開く。表示が更新される。
『マイナス19度』
お客様は僕らの前で立ち止まり、手を差し出した。そこにはカイロが二つ。
「もし寒かったら、これでも使ってください」
「ありがとうございます。助かりました」
僕とすいさんは受け取るなり、何度か強く振ってから、ダウンのポケットへ手ごと押し込んだ。しばらくすると、指先から熱がじんわり広がってくる。
少しだけ息が戻り、思考が追いつき始めた頃、僕は小さく声を落とした。
「それより。ここ、どんな小説の世界なんですか。僕、読んだことがなくて……」
「……小説、と言えるほどのものじゃないんですが。有名な作品でもありませんし」
お客様は少しだけ俯いて答える。そんな横顔を見ながら、僕は言葉を継ぐ。
「僕、先生……じゃなくて、お客様の小説は一通り読んだつもりだったんですけど、ここだけは本当に知りませんでした。日本、じゃない感じですし」
「ええ。舞台は、もう存在しない国ですから。それと、呼び方は楽でいいですよ」
「いえ。少なくとも今日が終わるまでは、お客様はお客様です」
その言葉を置いて、僕は改めて周囲を見回す。
表示される看板や標識の文字は日本語だ。けれど歩いている人々の顔立ちは、同じアジア系でもどこか日本人と違う。髪型は皆よく似ていて、丸い眼鏡をかけている人がやけに多い――そんな印象が残る。
僕は世界地図アプリを呼び出し、日本の周辺を拡大した。真っ先に目に入ったのは、日本のすぐ西にある小さな半島だ。半島の中央には、南北に細い点線が一本走り、その南側に〈東海特別行政区〉と記されている。
前にすいさんが旅行に行って、やけに甘いアーモンドを土産にくれたことを思い出す。
視界の端にメッセージウィンドウが立ち上がる。
『モニタリングは大きな問題なし。でも、これはさすがに時間かかりすぎかも。奥様の同期状態、どう?』
『同期状態って、なんですか?』
『ごめん。最新型の機能でね。管理者権限なら、どこかに表示出てるはず。探してみて』
言われるまま視線を上げると、右上に小さく同期率が出ていた。
『ありました。奥様、95%で止まってます』
『……やっぱり、昨夜あんなことがあった直後のダイブは、脳への負担が大きいのかも。いったん再接続を試したほうがいいかもしれない』
その返事を見たまま、僕はお客様に声をかけようとして振り向いたが、言葉が喉で固まった。
彼は背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。両手をきつく握りしめ、下唇を白くなるほど噛み、歩道の端の一点をじっと見つめている。
『もう少し、待ちますか。95%なら……すぐ、ですよね』
送信するより早く、お客様の視線の先――枯れ枝だけ残った街路樹の足元に、小さな光の粒がゆっくり集まり始める。
昨日よりも明らかに遅い。集まった光は不規則に明滅し、ノイズを噛みながら歪んでいる。その光の塊は、少しずつ形を結び、やがて一人の女性の輪郭になる。
奥様だ。
昨日と変わらない、白い半袖に緑のパンツ。首元のネックレスだけが、朝の光を受けてやけに眩しくきらめいている。
彼女は現れた瞬間、その場に力なく座り込んだ。
お客様は、すぐさま空中から黒いロングダウンを取り出し、早足で彼女のもとへ向かう。肩ごと包み込むように羽織らせ、続けて淡い緑のニット帽を取り出し、頭に被せる。
それから、膝をつく。目の前でうなだれる彼女に、揺れのない声で告げる。
「姫様。昨夜は……少し問題があって、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」
何の反応もなく座り込んでいた彼女は、ようやく、ゆっくりと震える両腕を持ち上げた。そしてお客様の首に縋りつくように抱きつく。
「お願い……殺して。もう、無理……お願いします……」
お客様は左手を彼女の後頭部に添え、さらに体を寄せて抱きしめ直した。右手は彼女の腰へ伸びかけ、途中で止まった。指先が迷った末、拳をきつく握りしめる。
「……もちろんです。約束ですから。今夜、姫様を――地獄から解放して差し上げます」
僕はその背中を見ていることしかできなかった。言葉も動きも差し挟む余地はなく、僕らはその場に立ち尽くした。
奥様の震えが止まるまで、どれくらいの時が過ぎただろうか。 永遠にも思える沈黙の中では、氷点下20度に迫る寒さでさえ、いつしか感じなくなっていた。
***
三日目・残りダイブ時間:約六時間
お客様のあとを追って辿り着いたのは、灰色の三階建てのマンションだった。
中は、二人がようやくすれ違えるほどの細い廊下を挟み、左右に扉がずらりと並んでいた。僕らはその一階の一室へ足を踏み入れた。
玄関のすぐ横に、ガスコンロが一口だけの小さなキッチン。リビングは、六畳あるかないかの広さだった。左の壁際には、真っ白なセミダブルベッドが寄せられている。右手、窓の正面には小さな衣装棚。その隣に、白い机と椅子。机の上には黒いノートPCが一台――葵が使っていたものに似ているが、少しだけ小さい。さらに脇には、〈日本語基礎〉と書かれた紙の教材が数冊と、筆記具がきちんと並べられている。
気づけば四人とも、狭い部屋いっぱいに立ち尽くしていた。
お客様が僕をちらりと見て、口元を緩める。
「いやあ……僕と荷物持ちのププさんは、体格がいいせいか、余計に狭く感じますよね。はは」
言われて僕は肩をすぼめ、部屋の隅で壁に背を預ける。すると奥様が僕を一度見て、さらりと言う。
「でも、わたしは落ち着くから好き。それより、わたしだけ半袖なんだけど。着るもの、ないですか?」
「失礼しました。もちろん、用意しております」
お客様は衣装棚を開け、服を取り出して奥様に手渡した。青いシャツに、紺のセーター。灰色のスカートと、冬用のタイツも一緒だ。
彼女は受け取ると、「着替えてくる」とだけ言い残して、浴室の方へ消えていった。
ほどなくして、浴室の扉が開いた。奥様が顔だけを覗かせ、部屋の中を一度ぐるりと見回す。それから、歩き出す。
セーターもスカートも、彼女の身体にきれいに馴染んでいた。
白い肌に、少し鋭い目元。
「……ねえ。なんで何も言わないの?」
彼女は、ぽかんと見惚れたままのお客様を見上げ、唇をわずかに尖らせる。彼は一度だけ奥様の頭へ手を伸ばしかけ、途中で引っ込める。それから答える。
「とてもお似合いです、姫様。もっとも、姫様が着るものなら、何でも似合いますが」
「もう……口だけは上手いんだから」
彼女は小さく笑う。
「それよりさ。お腹空いた。近くにスーパーある? 買い物してきたい」
「買い物、ですか?」
「うん。料理したい」
彼は一度キッチンを見てから、改めて言う。
「お金のことなら心配しなくて大丈夫です。食べたいものがあれば――」
「やだ。買い物、行く。……だめ?」
彼が言い終えるより早く、奥様がきっぱりと遮った。
彼はしばらく黙り、やがて小さく頷く。それを見て、奥様はようやく微笑む。いったん部屋に戻ってニット帽を被り、ロングダウンを羽織ると、ベッドの上に行儀よく腰かけていた僕とすいさんの方を振り向いた。
「ピピちゃんと……ププさんは、留守番。二人で行ってくるから仲良くしていてね」
「承知しました。お気をつけて」
僕の返事を背に、奥様はお客様の手を引き、そのまま玄関へ連れていった。
……が、廊下に出てもなお、二人の会話――というより、ほとんど小さなお説教が続いて聞こえる。
「それよりトトさん、上着は?」
「僕はこれで十分です」
「はぁ……ほんと頑固。ほら、これでも着て」
「いえ。姫様が着てください。僕はこれで」
「……わかった。じゃあ帽子も」
「大丈夫です」
「もう……!」
微笑ましい攻防は、廊下に響く足音と一緒にだんだん遠ざかっていき、ふっと消える。
静けさが戻った瞬間、隣ですいさんが声をかけてくる。
「……なんか、気まずくてやばいね」
「わかります。昨日までは実感がなかったのに。もうすぐ、本当に別れになるかもしれないって思うと、どう接したらいいのか……」
少しの沈黙。今度は僕が先に口を開く。
「でも奥様、思ったより淡々としてません? 意外と……大丈夫そうに見えますけど」
僕が言い終えるより早く、すいさんは僕の手を掴んだ。
「それは、当事者じゃないとわからないよ。そういうこと、言っちゃだめ」
「……すみません」
黙って俯き、自分の手の上に重なった彼女の手だけを見つめる。
「最後まで、二人がちゃんと過ごせるように支える。それがボクたちの役目」
「……はい」
僕がまだ俯いたままでいると、すいさんが話題を変えてくる。
「それよりさ。ここ……東海区っぽくない?」
「やっぱり東海区なんですか。僕、行ったことなくて」
「うん。ボクが行ったときとは全然違うけど。たぶん、数十年前の景色じゃないかな」
「なるほど」
その言葉の端で、お客様の本名――ハヌル、という音がふっと脳裏をかすめる。
漢字じゃない。カタカナの名前だ。
会社でたまに見かける、東海区出身の人たちの名にも、どこか似た響きがあった。
それだけじゃない。その名前を、僕はたしかにどこかで目にしている。そう思って、以前よく覗いていた、うめぼし先生の個人ブログを開こうとした。だが、いつの間にかリンクは消えていて、もう辿れない。
移転したのかと手当たり次第に探しているうちに、すいさんが急に身を乗り出す。
「ていうか、ここのご飯、ほんっと美味しいんだよ!」
「そうなんですか」
「うん! 今度、一緒に旅行いく? 案内してあげる」
「いいですね。……え? 一緒に?」
「うん。まあ、お前がよければだけど」
慌てて視線を上げると、彼女が赤い瞳で僕の目をじっと見ていた。口元だけが、ほんのわずかに持ち上がっている。
「この件がちゃんと終わったら行きましょう。ちょうど年末年始ですし」
「へぇ。鈍感バカだと思ってたけど、そうでもないんだ?」
「鈍感バカ……僕がですか?」
僕は目をぱちくりさせて、自分の顔を指さす。
「うん。やっぱ鈍感バカで決定」
「え、なんでですか」
「教えない」
僕らは狭い部屋に二人きりで取り残され、些細な言い合いを続けながら時間を潰した。お客様と奥様が買い物から戻ってくる、その足音を待ちながら。

