『すべての国民が公平に、秩序正しく。AI資本主義が牽引する、AI時代のリーダー、幸福な日本』
***
――2057年11月20日 東京都
ガタン、ゴトン……
いつも乗る朝の通勤電車。真冬で、誰もが厚手のコートやマフラーに身を固めているはずなのに、車内は妙に生々しい。隣の人の体温どころか、肌の気配まで伝わってくるような圧迫感が、じわりと身体を包みこむ。
窓の外の風景は、相変わらずだ。ぺたんと潰れた玩具みたいな車が、やけに広くてよく整備された道路を、すいすい滑っていく。
それでも、今日は、なぜだか口元が上がったまま戻らない。
もう少しだけ進めば、ずっと期待して、指折り数えてきたあのお客様に会える。そう思った瞬間――視界の端に、ホログラムのメッセンジャーがふわりと浮かび上がる。
『正気? だからタクシーで行こうって言ったじゃん』
送り主は、同じ職場の上司であり、今まさに僕の真後ろでぴたりと張りついている杉浦すいさん。
僕はすぐに目線で文字を追い、返信を打ち込む。
『ダメですって。前に見たじゃないですか、制御エラーで事故ったタクシー』
『はぁ〜 あれはたまにだろ。じゃあ電車はどうなんだよ、って話だよ(#^ω^)』
その直後、背後から腰のあたりを、つん、つん、と小突かれる。苛立っているはずの絵文字も、抗議のつつきも、僕には全部子どもの悪戯にしか見えなかった。
電車はガタンゴトンと騒音を吐き続け、会話はその揺れの中に溶けていく。
どれくらい経っただろう。目的の駅に着き、先輩と僕はホームへ足を踏み出した。
「よいしょ」
僕は片手で、ずしりと重い黒い特殊梱包の輸送用バッグを持ち上げた。
いつも目にするバッグの端に貼られた青い丸印――その中に〈G〉と刻まれたロゴ。普段なら野暮ったくて、むしろ隠したくなる代物だ。だが、今日に限っては違う。僕はその印が、妙に誇らしく見えてならなかった。
改札を抜けて歩き出そうとした、そのとき。
「おい……ちょ、もう少しゆっくり……」
背後から、情けないうめき声。
振り返ると、肩にかかる艶のある中途半端なボブ。丸い眼鏡の奥、強い度のせいか不格好に歪曲された、やけに真ん丸な瞳。ぎゅうぎゅうに巻いたマフラーの上から、冷気で鼻先だけを赤くした、すっと高い鼻が覗いている。
「貸してください。だから運動のときも一緒に来いって言ったじゃないですか。だから背も伸びないんですよ」
僕は先輩のところへ駆け寄り、身長180を少し超える僕の胸元あたりに来る先輩の頭を、ぽん、と撫でた。そのまま荷物も受け取る。
「ほんと最悪。ボクが変なんじゃなくて、お前が変なんだよ! てか身長は遺伝! 遺伝だから!」
「はいはい。じゃ、行きましょ。出発!」
まずは目的地、二子玉川病院へ向かうのが最優先だ。
雑踏は相変わらず、海苔巻きみたいにぎゅうぎゅうで、息をするだけで肩が擦れる。分厚いコート越しに当たる肘はどれも同じ硬さだが、歩幅だけが妙に正確だったり、振り向きもせずにぴたりと避けたり――今のが人か、ヒューマノイドか、見分ける暇もなく押し流される。
ところが、病院までの道だけは不思議と迷わない。僕はまっすぐ歩いていた。
***
「でっか……」
目的地の病院の前に着いた瞬間、すいさんが顔を上げて、低い声を漏らした。
目の前にあるのは、一目では収まりきらないほどの巨大な建物だった。病院というより、大きな展示会場に来たような圧倒感。
正門の脇で、ホログラムの電光掲示板がちかちかと瞬いている。
〈第3世代AI医師導入・認証病院〉――その文句だけが、不自然なほど明るく光って見えた。
「ふーん……大学病院って、もともとこういうもんですよ」
僕はごくり、と唾を飲み込んでから口を開く。
「そんなもん、来たことないんだから分かるわけないでしょ」
「まぁ、とにかく入りましょうか」
そう言って建物の中に足を踏み入れると、真っ白な大理石の床が広がっていた。あちこちに配置されたキオスク端末が、無機質にこちらを迎える。
「訪問受付番号、何番だっけ」
すいさんの声が、ぼうっとしていた僕を現実に引き戻す。
「訪問受付番号ですか。ちょっと待ってください……N-2017です」
僕が慌ててホログラム端末を開き、メモしておいた番号を目で追うと、すいさんが急かしてくる。
「……受付、通ってる。部屋は301。受付した電話番号にナビ連動したって。見える?」
「はいはい、出てます。僕、先導しますね。行きましょう」
地図アプリを起動すると、すぐにオレンジ色のラインが伸びて、進むべき方向を示す。
矢印に導かれるまま、足が自然と動く。
十分ほど歩いただろうか。入院病棟・第七別館の三階に着いたとき、暗い緑地に白文字の案内板が目に入る。
――重症 脳神経維持病棟
その文字を見た瞬間、喉の奥が少しだけ乾いた。
***
301号室へ向かおうとした、そのとき。受付センターにいた看護師が、こちらに声をかけてきた。
「あの、すみません。どちらへ?」
すいさんが一瞬ためらって足を引く。その隙に、僕は先に口を開く。
「こちらカスタムワールド制作会社のスタジオ・ジェネシスの者ですぅ。301号室の岩本さんにお会いしに来ましたが……」
意識しなくても、保存してある音声データを再生するみたいに、声がするすると口から転がり出る。
「でしたらこちらで手続きお願いします」
ロビーで受付したはずなんだけど、大学病院って二回チェックするもんなのか。そう勝手に納得しかけたところで、看護師が言葉を続ける。
「あ、もう受付済みですね。そのままお進みください。手指消毒だけお願いします」
「あっ、はい……」
こうして一瞬だけ間抜けになった二十代の若い青年二人は、言われるがまま手を消毒し――いよいよ、目的のお客様の部屋の前に立った。
ドアのプレートには、〈岩本琴羽〉と記されている。
僕はいったん両手の荷物を足元に置き、コートに手をかける。
「それ、貸して」
「はい。ありがとうございます」
すいさんは自分の上着を脱ぎながら、僕のコートまで当然のように受け取った。その動作と一緒に、皺ひとつない灰色のスーツの内側から、百合みたいに白いブラウスがのぞく。
僕だって、同じようなスーツをいつも着ている。なのに、なぜだろう。急に肩がこそばゆいというか、居場所が悪いというか、背筋が勝手に伸びる感じがした。
ふう、と大きく息を吸う。ノックしようと手を上げた、その瞬間。
ガララ――
引き戸が音を立てて開いた。
白衣に眼鏡の中年男性がひとり。愛想のない、むすっとした顔つき。その横から、きっちり整えた団子頭の若い女性が、見慣れない紙の書類らしいファイルをいくつも抱えて出てくる。
二人が通り過ぎ、また戸がすっと閉まる。
僕は宙に行き場をなくした手を軽く引っ込めてから、ネクタイを整え直した。そして、改めて手を上げる。
トン、トン――少し間を置いて、二度ノックする。
「失礼いたします。わたくし、スタジオ・ジェネシスの者でございます」
すると中から、低いのに妙に芯のある、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「どうぞ」
そっと戸を開ける。
目に飛び込んできたのは――高級木材をそのまま張り詰めたような、深い茶色の床。埃ひとつ見えない。大きな窓の外には、小さな木製テラス。
右手の壁際には、妙に目を引く真っ白な入院用ベッドがひとつ。そこに一人の身体が横たわり、いくつものホースが静かに繋がっていた。その脇の小さな棚には、いくつかの写真立てと、インコの形をした小瓶に挿された深紅の薔薇が、ひっそりと立っていた。
そして、その正面。小ぶりな木製の丸テーブル。青い波だけがゆらゆら揺れている空気清浄機。その前の椅子に、中年の男性がひとり座っている。
僕が部屋の中を視線でなぞっている間に、すいさんが先に口を開いた。
「初めまして。スタジオ・ジェネシスの杉浦と金子でございます」
「……はい。ようこそ、お越しくださいました」
中年の男性――お客様は立ち上がり、僕たちを自分の横の二人掛けソファへ案内する。
腰を下ろした瞬間、僕は彼から目を逸らせなくなる。
首元まで詰まった、毛玉がところどころに浮き、袖口の擦れた淡い空色のニット。左手の薬指には、薄い銀色の指輪。ところどころ潰れた傷があり、天井の照明を鈍く反射していた。
切れ長で奥行きのある濃い茶色の瞳の下には、墨を塗ったみたいな濃いクマが沈み、頬や指先には乾いた白い粉のような荒れがうっすら浮いていた。
沈黙を先に割ったのは、すいさんだった。
「それにしても、よく整えられたお部屋ですね。事情は伺っております。奥様のことは、本当に――」
言葉が、最後まで形になる前に。
「大丈夫です。それより契約を進めましょう。早いほうがいいですので」
お客様は淡々と言った。旧式ヒューマノイドと会話しているみたいに、声にも息にも温度がない。
すいさんが用意していた営業用の決まり文句は、途中でふっと途切れる。残ったのは、すいさんの口元がほんの一ミリだけ引きつる、その小さな歪みだけ。
「……失礼いたしました。では、契約内容につきまして、医療営業担当の杉浦より改めてご説明いたします」
視線を落とすこともなく、すいさんは鞄を開ける。白いタブレットが、すっと現れる。
「ホログラム端末はお持ちでないと伺っていますので、こちらを使用いたします。よろしいでしょうか」
「構いません」
「では、契約者様の本名を確認いたします。岩本――ハヌ……ハ……ハヌル様。お間違いありませんね」
「はい」
お客様は鼻筋を一度、指先でゆっくりなぞる。それから一拍だけ間を置き、もう一度、口を開く。
「……数日、お世話になると思います。呼び名は通名のそらでお願いします」
「では、そら様。承知しました」
――ハヌル。音だけが、舌の上に残った。
彼の通名とペンネームなら、すでに知っている。しかし、初めて聞くはずの本名もどこかで聞いたことがある気がした。たしか、何かの漫画か小説だったような……記憶の断片は浮かぶのに、肝心の形だけがどうしても組み上がらない。
今どき珍しい名前でもない。それなのに、なぜだろう。喉の奥に、小さな棘が引っかかったみたいな感覚が残った。
***
――2057年11月20日 東京都
ガタン、ゴトン……
いつも乗る朝の通勤電車。真冬で、誰もが厚手のコートやマフラーに身を固めているはずなのに、車内は妙に生々しい。隣の人の体温どころか、肌の気配まで伝わってくるような圧迫感が、じわりと身体を包みこむ。
窓の外の風景は、相変わらずだ。ぺたんと潰れた玩具みたいな車が、やけに広くてよく整備された道路を、すいすい滑っていく。
それでも、今日は、なぜだか口元が上がったまま戻らない。
もう少しだけ進めば、ずっと期待して、指折り数えてきたあのお客様に会える。そう思った瞬間――視界の端に、ホログラムのメッセンジャーがふわりと浮かび上がる。
『正気? だからタクシーで行こうって言ったじゃん』
送り主は、同じ職場の上司であり、今まさに僕の真後ろでぴたりと張りついている杉浦すいさん。
僕はすぐに目線で文字を追い、返信を打ち込む。
『ダメですって。前に見たじゃないですか、制御エラーで事故ったタクシー』
『はぁ〜 あれはたまにだろ。じゃあ電車はどうなんだよ、って話だよ(#^ω^)』
その直後、背後から腰のあたりを、つん、つん、と小突かれる。苛立っているはずの絵文字も、抗議のつつきも、僕には全部子どもの悪戯にしか見えなかった。
電車はガタンゴトンと騒音を吐き続け、会話はその揺れの中に溶けていく。
どれくらい経っただろう。目的の駅に着き、先輩と僕はホームへ足を踏み出した。
「よいしょ」
僕は片手で、ずしりと重い黒い特殊梱包の輸送用バッグを持ち上げた。
いつも目にするバッグの端に貼られた青い丸印――その中に〈G〉と刻まれたロゴ。普段なら野暮ったくて、むしろ隠したくなる代物だ。だが、今日に限っては違う。僕はその印が、妙に誇らしく見えてならなかった。
改札を抜けて歩き出そうとした、そのとき。
「おい……ちょ、もう少しゆっくり……」
背後から、情けないうめき声。
振り返ると、肩にかかる艶のある中途半端なボブ。丸い眼鏡の奥、強い度のせいか不格好に歪曲された、やけに真ん丸な瞳。ぎゅうぎゅうに巻いたマフラーの上から、冷気で鼻先だけを赤くした、すっと高い鼻が覗いている。
「貸してください。だから運動のときも一緒に来いって言ったじゃないですか。だから背も伸びないんですよ」
僕は先輩のところへ駆け寄り、身長180を少し超える僕の胸元あたりに来る先輩の頭を、ぽん、と撫でた。そのまま荷物も受け取る。
「ほんと最悪。ボクが変なんじゃなくて、お前が変なんだよ! てか身長は遺伝! 遺伝だから!」
「はいはい。じゃ、行きましょ。出発!」
まずは目的地、二子玉川病院へ向かうのが最優先だ。
雑踏は相変わらず、海苔巻きみたいにぎゅうぎゅうで、息をするだけで肩が擦れる。分厚いコート越しに当たる肘はどれも同じ硬さだが、歩幅だけが妙に正確だったり、振り向きもせずにぴたりと避けたり――今のが人か、ヒューマノイドか、見分ける暇もなく押し流される。
ところが、病院までの道だけは不思議と迷わない。僕はまっすぐ歩いていた。
***
「でっか……」
目的地の病院の前に着いた瞬間、すいさんが顔を上げて、低い声を漏らした。
目の前にあるのは、一目では収まりきらないほどの巨大な建物だった。病院というより、大きな展示会場に来たような圧倒感。
正門の脇で、ホログラムの電光掲示板がちかちかと瞬いている。
〈第3世代AI医師導入・認証病院〉――その文句だけが、不自然なほど明るく光って見えた。
「ふーん……大学病院って、もともとこういうもんですよ」
僕はごくり、と唾を飲み込んでから口を開く。
「そんなもん、来たことないんだから分かるわけないでしょ」
「まぁ、とにかく入りましょうか」
そう言って建物の中に足を踏み入れると、真っ白な大理石の床が広がっていた。あちこちに配置されたキオスク端末が、無機質にこちらを迎える。
「訪問受付番号、何番だっけ」
すいさんの声が、ぼうっとしていた僕を現実に引き戻す。
「訪問受付番号ですか。ちょっと待ってください……N-2017です」
僕が慌ててホログラム端末を開き、メモしておいた番号を目で追うと、すいさんが急かしてくる。
「……受付、通ってる。部屋は301。受付した電話番号にナビ連動したって。見える?」
「はいはい、出てます。僕、先導しますね。行きましょう」
地図アプリを起動すると、すぐにオレンジ色のラインが伸びて、進むべき方向を示す。
矢印に導かれるまま、足が自然と動く。
十分ほど歩いただろうか。入院病棟・第七別館の三階に着いたとき、暗い緑地に白文字の案内板が目に入る。
――重症 脳神経維持病棟
その文字を見た瞬間、喉の奥が少しだけ乾いた。
***
301号室へ向かおうとした、そのとき。受付センターにいた看護師が、こちらに声をかけてきた。
「あの、すみません。どちらへ?」
すいさんが一瞬ためらって足を引く。その隙に、僕は先に口を開く。
「こちらカスタムワールド制作会社のスタジオ・ジェネシスの者ですぅ。301号室の岩本さんにお会いしに来ましたが……」
意識しなくても、保存してある音声データを再生するみたいに、声がするすると口から転がり出る。
「でしたらこちらで手続きお願いします」
ロビーで受付したはずなんだけど、大学病院って二回チェックするもんなのか。そう勝手に納得しかけたところで、看護師が言葉を続ける。
「あ、もう受付済みですね。そのままお進みください。手指消毒だけお願いします」
「あっ、はい……」
こうして一瞬だけ間抜けになった二十代の若い青年二人は、言われるがまま手を消毒し――いよいよ、目的のお客様の部屋の前に立った。
ドアのプレートには、〈岩本琴羽〉と記されている。
僕はいったん両手の荷物を足元に置き、コートに手をかける。
「それ、貸して」
「はい。ありがとうございます」
すいさんは自分の上着を脱ぎながら、僕のコートまで当然のように受け取った。その動作と一緒に、皺ひとつない灰色のスーツの内側から、百合みたいに白いブラウスがのぞく。
僕だって、同じようなスーツをいつも着ている。なのに、なぜだろう。急に肩がこそばゆいというか、居場所が悪いというか、背筋が勝手に伸びる感じがした。
ふう、と大きく息を吸う。ノックしようと手を上げた、その瞬間。
ガララ――
引き戸が音を立てて開いた。
白衣に眼鏡の中年男性がひとり。愛想のない、むすっとした顔つき。その横から、きっちり整えた団子頭の若い女性が、見慣れない紙の書類らしいファイルをいくつも抱えて出てくる。
二人が通り過ぎ、また戸がすっと閉まる。
僕は宙に行き場をなくした手を軽く引っ込めてから、ネクタイを整え直した。そして、改めて手を上げる。
トン、トン――少し間を置いて、二度ノックする。
「失礼いたします。わたくし、スタジオ・ジェネシスの者でございます」
すると中から、低いのに妙に芯のある、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「どうぞ」
そっと戸を開ける。
目に飛び込んできたのは――高級木材をそのまま張り詰めたような、深い茶色の床。埃ひとつ見えない。大きな窓の外には、小さな木製テラス。
右手の壁際には、妙に目を引く真っ白な入院用ベッドがひとつ。そこに一人の身体が横たわり、いくつものホースが静かに繋がっていた。その脇の小さな棚には、いくつかの写真立てと、インコの形をした小瓶に挿された深紅の薔薇が、ひっそりと立っていた。
そして、その正面。小ぶりな木製の丸テーブル。青い波だけがゆらゆら揺れている空気清浄機。その前の椅子に、中年の男性がひとり座っている。
僕が部屋の中を視線でなぞっている間に、すいさんが先に口を開いた。
「初めまして。スタジオ・ジェネシスの杉浦と金子でございます」
「……はい。ようこそ、お越しくださいました」
中年の男性――お客様は立ち上がり、僕たちを自分の横の二人掛けソファへ案内する。
腰を下ろした瞬間、僕は彼から目を逸らせなくなる。
首元まで詰まった、毛玉がところどころに浮き、袖口の擦れた淡い空色のニット。左手の薬指には、薄い銀色の指輪。ところどころ潰れた傷があり、天井の照明を鈍く反射していた。
切れ長で奥行きのある濃い茶色の瞳の下には、墨を塗ったみたいな濃いクマが沈み、頬や指先には乾いた白い粉のような荒れがうっすら浮いていた。
沈黙を先に割ったのは、すいさんだった。
「それにしても、よく整えられたお部屋ですね。事情は伺っております。奥様のことは、本当に――」
言葉が、最後まで形になる前に。
「大丈夫です。それより契約を進めましょう。早いほうがいいですので」
お客様は淡々と言った。旧式ヒューマノイドと会話しているみたいに、声にも息にも温度がない。
すいさんが用意していた営業用の決まり文句は、途中でふっと途切れる。残ったのは、すいさんの口元がほんの一ミリだけ引きつる、その小さな歪みだけ。
「……失礼いたしました。では、契約内容につきまして、医療営業担当の杉浦より改めてご説明いたします」
視線を落とすこともなく、すいさんは鞄を開ける。白いタブレットが、すっと現れる。
「ホログラム端末はお持ちでないと伺っていますので、こちらを使用いたします。よろしいでしょうか」
「構いません」
「では、契約者様の本名を確認いたします。岩本――ハヌ……ハ……ハヌル様。お間違いありませんね」
「はい」
お客様は鼻筋を一度、指先でゆっくりなぞる。それから一拍だけ間を置き、もう一度、口を開く。
「……数日、お世話になると思います。呼び名は通名のそらでお願いします」
「では、そら様。承知しました」
――ハヌル。音だけが、舌の上に残った。
彼の通名とペンネームなら、すでに知っている。しかし、初めて聞くはずの本名もどこかで聞いたことがある気がした。たしか、何かの漫画か小説だったような……記憶の断片は浮かぶのに、肝心の形だけがどうしても組み上がらない。
今どき珍しい名前でもない。それなのに、なぜだろう。喉の奥に、小さな棘が引っかかったみたいな感覚が残った。
