――2057年11月22日 午前9時30分 二子玉川病院・駐車場
目的地に着いてタクシーを降りると、白い軽自動車の前に立っていた短髪の巨体の男が、こちらへ向かって歩き出した。
車の後部には〈杉浦VR工業〉と書かれたプレートが貼られている。
片手には赤い旅行用キャリーケース。あちこちに、小さな白い子犬のステッカーが貼られている。
そして、第一声。
「おう! すい!!」
その一言で、僕は男の顔をまじまじと見た。瞳が見えるか見えないかの細い目。角ばった四角い顎。
次に、すいさんの顔を見る。丸い目に、丸い輪郭。
(……似てないな)
隣のすいさんがマフラーを鼻先まで引き上げ、反対の手を小さく振る。
「……お父さん」
「ほら。これ、四つで合ってるよな?」
すいさんのお父様は、手にしていたキャリーケースをすいさんに渡した。口元がぐいっと持ち上がっている。
「うん。ありがとう」
僕は遅れて背筋を正し、両手を腰の前で揃えて頭を下げる。
「はじめまして。すいさんの下で働いております、金子と申します!」
肩にずしりと重い手が乗る。両肩ごと包まれるような圧。顔を上げると、お父様がにやっと笑って言う。
「おうおう! お前がサクってやつか! うちの娘がなぁ、家に帰るといつも――」
「ちょ、変なこと言わないで」
すいさんはまだ顔の半分をマフラーで隠したまま、片手で彼の腰のあたりを小突く。
「はいはい、わかったわかった。俺も用事あるから、もう行くわ。悪いな、サクくん。本当なら何か奢ってやりたいんだが、今度時間あったらうまいもんでも食いに行こうな!」
そう言って、お父様は僕と軽く握手を交わし、来た道を戻っていった。
「はい! お気をつけて!」
もう一度、深く頭を下げる。すると横からすいさんが僕のコートの袖をつまみ、ぐいっと引っ張る。
「もういいから。顔、上げて。恥ずかしい……」
「でも……すいさんのお父様ですし」
僕はすいさんの手からキャリーケースを受け取って代わりに持ちながら答えた。
彼女はやっとマフラーを下ろし、小さく言う。らしくもなく、僕を見ては視線を伏せる。
「それより、変だと思わない?」
「何がです?」
「お父さん……ボクと、全然似てないじゃん」
僕は一瞬だけ黙って、頭の中で言葉を並べ替えたあと、結局いちばん簡単な結論を口にする。
「すいさんがお父さんって呼んでるなら、お父さんなんでしょう。それで十分じゃないですか」
彼女は僕を見て、くすりとし、口元を押さえながら答えた。
「……うん。そうだね。ありがと」
「いえ。別に、当たり前のこと言っただけです」
気まずいような、でも悪くない沈黙が少し落ちる。僕は手元のキャリーケースに貼られた子犬のステッカーを眺めながら、話題を拾う。
「すいさん、犬好きなんですね。これ、ポメラニアンですか? 昔、近所の知り合いも、こういう白い子犬のグッズが好きで……」
「うん、そう。ポメラニアン……」
どこか声がしぼむように答えると、彼女は視線を落とす。その横顔を見ながらコートのポケットに手を入れると、昨日もらったハンカチが指先に触れる。
「そういえばこの前のハンカチ……まだ洗ってなくて。今度お返しします」
「いいよ、あげる。それより、急ご。病院、裏口から入ればいいみたい」
すいさんの言葉に背中を押されるように、僕らはギアの入った――見た目だけはやけに可愛らしいそのキャリーケースを提げて、歩き出した。
病院の裏口に、白衣の男がひとり立っていた。鋭さの中に、どこか人のよさを残した中年の顔。お客様の病室で、何度か見かけた医師だ。
近づくと、彼は僕とすいさんを順に一瞥してから、淡々と口を開く。
「こちらへ」
彼は名札を、裏口脇の小さな認証パネルへ当てた。短い電子音。鍵が外れる。扉の上には〈関係者以外立入禁止〉の文字が赤字で記されている。
中へ入ると、くすんだクリーム色の壁に挟まれた階段が、上へ上へと伸びていた。窓もない。
医師は何も言わずに歩き出す。僕らは、その背中を静かに追った。
すいさんにメッセージを送る。
『今、どういう状況なんですか。あの先生、やっちゃいけないことしてません?』
『ボクもわかんない。お客様が信用していいって言ってたし。とにかく、ついていこう』
二階。三階。
踊り場を抜けたところで、彼はぴたりと足を止め、振り返って小さく説明する。
「この扉を出て、まっすぐ。301号室です。受付センターのすぐ横。私が先に行って受付の視線を引きます。その間に入ってください。帰りは18時頃、私がまた301号室へ寄ります。出るときも同じ要領で」
医師がドアノブに手を掛けた、その瞬間。僕は思わず、声を落として呼び止める。
「先生、大丈夫なんですか。もし見つかったら……ただじゃ済まないでしょう」
彼は手を止めたまま、鼻で大きく息を吸う。ドアノブに置いた自分の手に視線を落とし、それから答える。
「私には娘がひとりいます。知的障害があって、学校では毎日のようにいじめられていました。それなのに私は病院に張りついてばかりで、娘のそばにいてやれなかった。その娘と唯一仲良くしてくれたのが、岩本さんの娘――ことりちゃんで……岩本さんご夫婦も、私に代わって、娘を家族同然に支えてくれたんです」
そこで、医師は一度だけ言葉を切る。ドアから手を離し、こちらを向く。
「私も最善は尽くしました。しかし、現代医学にもできることとできないことがある。そして昨日以降、岩本さんは、残っていた触覚さえ失っている可能性が高いです」
声の温度は変わらない。なのに、胸の奥だけが冷える。
彼は一拍置き、続ける。
「光も音も、触れる感覚さえもない。ただ意識だけが暗闇に閉じ込められている。私には、それ以上の地獄を想像できません」
そして再び、ドアノブに手を置く。
「これで、答えになりましたか」
「……はい。すみません」
彼がノブを回すと、扉は静かに開いた。白い照明が向こう側から滲み出し、僕らの足元を薄く照らす。僕らはその光の中へ、黙って歩き出した。
***
病室は、一見すると何ひとつ変わっていなかった。
埃ひとつない深い茶色の床。戻ってきた奥様のベッド。皺ひとつない真っ白なシーツ。
花瓶には、うなだれた薔薇の隣で、真新しい薔薇が一本だけ、凛と首を持ち上げて立っている。
鼻の奥には、昨日より濃くなったアルコールの匂いが刺さっていた。その奥に、熟れすぎた果物が腐る甘さと、どこか爽やかな苺の甘さ――二つの匂いが絡み合って、空気を重くしている。
お客様の姿も、変わらない。いつも通り、首元まで詰まった淡い空色のニット。ところどころ毛玉が浮き、袖口は擦れている。
――ただ、ひとつ違うものがあった。
奥様の傍の小さな椅子に座る、娘のことり。右耳の上には、白い羽根をかたどったヘアピンが、今日も留められている。目は、一目でわかるほど腫れていた。
彼女の膝の上にはホログラムPCが開かれていた。Aのロゴが刻まれている。
そうやって部屋を見回していると、お客様が椅子から立ち上がり、僕らを迎えに出る。目の下には濃い隈が浮かんでいる。それでも無理に笑みを作り、頭を下げる。
「無理なお願いだったはずなのに……」
彼は言いかけて、ふっと顔を背ける。何度か小さく咳払いをしてから、改めて頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
「いえ……最後まで、お力になれればと思っています」
挨拶を交わし、僕らは案内されるまま椅子に腰を下ろした。お客様はマグカップを両手に抱え、僕らの向かいへ並ぶように座る。
すいさんが先に言う。
「ご存じの通り、今回接続されると奥様は最悪の場合、亡くなる可能性があります。いえ、かなりの確率でそうなるでしょう」
お客様は目を逸らさず、まっすぐこちらを見て答える。
「承知しています。むしろ今日は、僕が書いた世界で、彼女を最後まで幸せに……こほん。彼女との約束を、守ってあげたいんです」
僕はお客様の手元に視線を落とした。両手を重ね、きつく握りしめている。
僕はそれ以上何も聞かず、椅子から腰を上げる。
「では、すぐに準備に入ります」
キャリーケースを開き、ギアを取り出し、ポケットからSSDも出した。それから娘さんの方へ一度だけ視線を流し、お客様へ慎重に尋ねる。
「娘さんも、このことをご存じなんですか……?」
「ええ……昨夜ここへ来てから、自分も手伝うと言い出して……」
すると、その会話が聞こえたのか、娘さんは視線をPCに固定したまま、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「ママのバイタルモニターを監視するAIには、偽の信号を本物だと誤認させておきます。……私は、そこまでです」
僕は事情が掴めないまま、ギアの設置を続けながらすいさんへメッセージを送る。
『どういうことです? 急に…… 』
『ボクが昨夜頼んだ。ことりさん、A社で有名なエンジニアらしい。こういう病院のAI監視なら、だいたいA社製でしょ』
一昨日見かけた彼女のAロゴのビジネスバッグと、目の前のホログラムPCのAロゴが、頭の中でひとつに繋がる。黙って頷き、もう一通メッセージを送った。
『でも、どうやって? 一昨日の感じだと絶対協力しないと思ってました』
少しして、すいさんから返信が来る。一枚の写真付きで。
廃墟の薔薇園で、昼食を終えたあと。奥様がお客様の膝の上で、安心しきった顔で眠っている。彼が片手で、彼女の髪をそっと撫でる、その瞬間を切り取った写真だ。
『この写真を添えてメールしたの。どうか力を貸してほしいです!って』
『反則ですね、それ。ていうか勝手に撮っていいんですか』
『だってさ。琴羽さん、こんな顔していらっしゃるんだよ。撮らないほうが罪でしょ』
僕はそのやりとりに、胸の内で小さく笑う。
『それより、いつから奥様を琴羽さんって呼ぶようになったんですか。研修、受け直したほうがいいんじゃないですか』
『なに絡んでんの。どうせ今日は強制終了でメンタル休暇なんだから、仕事じゃないでしょ』
『はいはい。まあ、考えてみたら僕ら、もう共犯ですしね』
返事を見て、僕は視線を作業へ戻し、黙々とギアの設置を続けた。
設置を終え、お客様と奥様のフルダイブを完了させたあと。僕とすいさんも、いつも通り椅子に座り、ギアを装着しようとした、そのときだった。
すいさんがふっと動きを止め、娘さんのところへ歩み寄る。手にしていたギアを、差し出す。
「今日は、本当にありがとうございました。もしよかったら……私の代わりに、岩本さんが入られますか?」
娘さんは片手を上げ、ギアに指先をそっと当てる。少ししてから、彼女は拳を握りしめ、手を下ろす。隣で眠る奥様の手を取り、その寝顔をじっと見つめながら答える。
「いいです。たぶん、顔を見たらまた迷うと思います。今の状態が、ママにとってどれほど苦しいものか分かっているのに……きっと、迷ってしまうから」
そして彼女は顔を横に向け、もう一度すいさんを見る。
「だから、早く行ってください。パパが最後までママのそばにいられるように、手伝ってください」
「……わかりました。もし気が変わったら、いつでも連絡してください」
すいさんはそう言って席に戻り、腰を下ろしてギアを装着する。僕もそれに合わせてギアを装着する。
ハーフダイブのボタンを押すと、音声はなく、漆黒の画面に白い文字だけが浮かぶ。
『VRが起動しました。デバイス情報:S-20571122』
――同期中の機器:四台
――接続可能ワールド:20571120_岩本様_G1192832
僕は視線でそのワールド名をなぞり、選択する。
『管理者権限で実行しますか?』
確認の問いに、もう一度だけ目で答える。
いつもと同じ手順。見慣れた画面。それなのに、視界を覆う暗闇には、いつもと違う微かな温度があった。
この先、僕らを待つ結末が、どんな形であっても。
ここまで手を貸してくれた人たちの顔が、暗闇の中にひとつずつ浮かぶ。
さあ、三日目の始まりだ。
目的地に着いてタクシーを降りると、白い軽自動車の前に立っていた短髪の巨体の男が、こちらへ向かって歩き出した。
車の後部には〈杉浦VR工業〉と書かれたプレートが貼られている。
片手には赤い旅行用キャリーケース。あちこちに、小さな白い子犬のステッカーが貼られている。
そして、第一声。
「おう! すい!!」
その一言で、僕は男の顔をまじまじと見た。瞳が見えるか見えないかの細い目。角ばった四角い顎。
次に、すいさんの顔を見る。丸い目に、丸い輪郭。
(……似てないな)
隣のすいさんがマフラーを鼻先まで引き上げ、反対の手を小さく振る。
「……お父さん」
「ほら。これ、四つで合ってるよな?」
すいさんのお父様は、手にしていたキャリーケースをすいさんに渡した。口元がぐいっと持ち上がっている。
「うん。ありがとう」
僕は遅れて背筋を正し、両手を腰の前で揃えて頭を下げる。
「はじめまして。すいさんの下で働いております、金子と申します!」
肩にずしりと重い手が乗る。両肩ごと包まれるような圧。顔を上げると、お父様がにやっと笑って言う。
「おうおう! お前がサクってやつか! うちの娘がなぁ、家に帰るといつも――」
「ちょ、変なこと言わないで」
すいさんはまだ顔の半分をマフラーで隠したまま、片手で彼の腰のあたりを小突く。
「はいはい、わかったわかった。俺も用事あるから、もう行くわ。悪いな、サクくん。本当なら何か奢ってやりたいんだが、今度時間あったらうまいもんでも食いに行こうな!」
そう言って、お父様は僕と軽く握手を交わし、来た道を戻っていった。
「はい! お気をつけて!」
もう一度、深く頭を下げる。すると横からすいさんが僕のコートの袖をつまみ、ぐいっと引っ張る。
「もういいから。顔、上げて。恥ずかしい……」
「でも……すいさんのお父様ですし」
僕はすいさんの手からキャリーケースを受け取って代わりに持ちながら答えた。
彼女はやっとマフラーを下ろし、小さく言う。らしくもなく、僕を見ては視線を伏せる。
「それより、変だと思わない?」
「何がです?」
「お父さん……ボクと、全然似てないじゃん」
僕は一瞬だけ黙って、頭の中で言葉を並べ替えたあと、結局いちばん簡単な結論を口にする。
「すいさんがお父さんって呼んでるなら、お父さんなんでしょう。それで十分じゃないですか」
彼女は僕を見て、くすりとし、口元を押さえながら答えた。
「……うん。そうだね。ありがと」
「いえ。別に、当たり前のこと言っただけです」
気まずいような、でも悪くない沈黙が少し落ちる。僕は手元のキャリーケースに貼られた子犬のステッカーを眺めながら、話題を拾う。
「すいさん、犬好きなんですね。これ、ポメラニアンですか? 昔、近所の知り合いも、こういう白い子犬のグッズが好きで……」
「うん、そう。ポメラニアン……」
どこか声がしぼむように答えると、彼女は視線を落とす。その横顔を見ながらコートのポケットに手を入れると、昨日もらったハンカチが指先に触れる。
「そういえばこの前のハンカチ……まだ洗ってなくて。今度お返しします」
「いいよ、あげる。それより、急ご。病院、裏口から入ればいいみたい」
すいさんの言葉に背中を押されるように、僕らはギアの入った――見た目だけはやけに可愛らしいそのキャリーケースを提げて、歩き出した。
病院の裏口に、白衣の男がひとり立っていた。鋭さの中に、どこか人のよさを残した中年の顔。お客様の病室で、何度か見かけた医師だ。
近づくと、彼は僕とすいさんを順に一瞥してから、淡々と口を開く。
「こちらへ」
彼は名札を、裏口脇の小さな認証パネルへ当てた。短い電子音。鍵が外れる。扉の上には〈関係者以外立入禁止〉の文字が赤字で記されている。
中へ入ると、くすんだクリーム色の壁に挟まれた階段が、上へ上へと伸びていた。窓もない。
医師は何も言わずに歩き出す。僕らは、その背中を静かに追った。
すいさんにメッセージを送る。
『今、どういう状況なんですか。あの先生、やっちゃいけないことしてません?』
『ボクもわかんない。お客様が信用していいって言ってたし。とにかく、ついていこう』
二階。三階。
踊り場を抜けたところで、彼はぴたりと足を止め、振り返って小さく説明する。
「この扉を出て、まっすぐ。301号室です。受付センターのすぐ横。私が先に行って受付の視線を引きます。その間に入ってください。帰りは18時頃、私がまた301号室へ寄ります。出るときも同じ要領で」
医師がドアノブに手を掛けた、その瞬間。僕は思わず、声を落として呼び止める。
「先生、大丈夫なんですか。もし見つかったら……ただじゃ済まないでしょう」
彼は手を止めたまま、鼻で大きく息を吸う。ドアノブに置いた自分の手に視線を落とし、それから答える。
「私には娘がひとりいます。知的障害があって、学校では毎日のようにいじめられていました。それなのに私は病院に張りついてばかりで、娘のそばにいてやれなかった。その娘と唯一仲良くしてくれたのが、岩本さんの娘――ことりちゃんで……岩本さんご夫婦も、私に代わって、娘を家族同然に支えてくれたんです」
そこで、医師は一度だけ言葉を切る。ドアから手を離し、こちらを向く。
「私も最善は尽くしました。しかし、現代医学にもできることとできないことがある。そして昨日以降、岩本さんは、残っていた触覚さえ失っている可能性が高いです」
声の温度は変わらない。なのに、胸の奥だけが冷える。
彼は一拍置き、続ける。
「光も音も、触れる感覚さえもない。ただ意識だけが暗闇に閉じ込められている。私には、それ以上の地獄を想像できません」
そして再び、ドアノブに手を置く。
「これで、答えになりましたか」
「……はい。すみません」
彼がノブを回すと、扉は静かに開いた。白い照明が向こう側から滲み出し、僕らの足元を薄く照らす。僕らはその光の中へ、黙って歩き出した。
***
病室は、一見すると何ひとつ変わっていなかった。
埃ひとつない深い茶色の床。戻ってきた奥様のベッド。皺ひとつない真っ白なシーツ。
花瓶には、うなだれた薔薇の隣で、真新しい薔薇が一本だけ、凛と首を持ち上げて立っている。
鼻の奥には、昨日より濃くなったアルコールの匂いが刺さっていた。その奥に、熟れすぎた果物が腐る甘さと、どこか爽やかな苺の甘さ――二つの匂いが絡み合って、空気を重くしている。
お客様の姿も、変わらない。いつも通り、首元まで詰まった淡い空色のニット。ところどころ毛玉が浮き、袖口は擦れている。
――ただ、ひとつ違うものがあった。
奥様の傍の小さな椅子に座る、娘のことり。右耳の上には、白い羽根をかたどったヘアピンが、今日も留められている。目は、一目でわかるほど腫れていた。
彼女の膝の上にはホログラムPCが開かれていた。Aのロゴが刻まれている。
そうやって部屋を見回していると、お客様が椅子から立ち上がり、僕らを迎えに出る。目の下には濃い隈が浮かんでいる。それでも無理に笑みを作り、頭を下げる。
「無理なお願いだったはずなのに……」
彼は言いかけて、ふっと顔を背ける。何度か小さく咳払いをしてから、改めて頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
「いえ……最後まで、お力になれればと思っています」
挨拶を交わし、僕らは案内されるまま椅子に腰を下ろした。お客様はマグカップを両手に抱え、僕らの向かいへ並ぶように座る。
すいさんが先に言う。
「ご存じの通り、今回接続されると奥様は最悪の場合、亡くなる可能性があります。いえ、かなりの確率でそうなるでしょう」
お客様は目を逸らさず、まっすぐこちらを見て答える。
「承知しています。むしろ今日は、僕が書いた世界で、彼女を最後まで幸せに……こほん。彼女との約束を、守ってあげたいんです」
僕はお客様の手元に視線を落とした。両手を重ね、きつく握りしめている。
僕はそれ以上何も聞かず、椅子から腰を上げる。
「では、すぐに準備に入ります」
キャリーケースを開き、ギアを取り出し、ポケットからSSDも出した。それから娘さんの方へ一度だけ視線を流し、お客様へ慎重に尋ねる。
「娘さんも、このことをご存じなんですか……?」
「ええ……昨夜ここへ来てから、自分も手伝うと言い出して……」
すると、その会話が聞こえたのか、娘さんは視線をPCに固定したまま、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「ママのバイタルモニターを監視するAIには、偽の信号を本物だと誤認させておきます。……私は、そこまでです」
僕は事情が掴めないまま、ギアの設置を続けながらすいさんへメッセージを送る。
『どういうことです? 急に…… 』
『ボクが昨夜頼んだ。ことりさん、A社で有名なエンジニアらしい。こういう病院のAI監視なら、だいたいA社製でしょ』
一昨日見かけた彼女のAロゴのビジネスバッグと、目の前のホログラムPCのAロゴが、頭の中でひとつに繋がる。黙って頷き、もう一通メッセージを送った。
『でも、どうやって? 一昨日の感じだと絶対協力しないと思ってました』
少しして、すいさんから返信が来る。一枚の写真付きで。
廃墟の薔薇園で、昼食を終えたあと。奥様がお客様の膝の上で、安心しきった顔で眠っている。彼が片手で、彼女の髪をそっと撫でる、その瞬間を切り取った写真だ。
『この写真を添えてメールしたの。どうか力を貸してほしいです!って』
『反則ですね、それ。ていうか勝手に撮っていいんですか』
『だってさ。琴羽さん、こんな顔していらっしゃるんだよ。撮らないほうが罪でしょ』
僕はそのやりとりに、胸の内で小さく笑う。
『それより、いつから奥様を琴羽さんって呼ぶようになったんですか。研修、受け直したほうがいいんじゃないですか』
『なに絡んでんの。どうせ今日は強制終了でメンタル休暇なんだから、仕事じゃないでしょ』
『はいはい。まあ、考えてみたら僕ら、もう共犯ですしね』
返事を見て、僕は視線を作業へ戻し、黙々とギアの設置を続けた。
設置を終え、お客様と奥様のフルダイブを完了させたあと。僕とすいさんも、いつも通り椅子に座り、ギアを装着しようとした、そのときだった。
すいさんがふっと動きを止め、娘さんのところへ歩み寄る。手にしていたギアを、差し出す。
「今日は、本当にありがとうございました。もしよかったら……私の代わりに、岩本さんが入られますか?」
娘さんは片手を上げ、ギアに指先をそっと当てる。少ししてから、彼女は拳を握りしめ、手を下ろす。隣で眠る奥様の手を取り、その寝顔をじっと見つめながら答える。
「いいです。たぶん、顔を見たらまた迷うと思います。今の状態が、ママにとってどれほど苦しいものか分かっているのに……きっと、迷ってしまうから」
そして彼女は顔を横に向け、もう一度すいさんを見る。
「だから、早く行ってください。パパが最後までママのそばにいられるように、手伝ってください」
「……わかりました。もし気が変わったら、いつでも連絡してください」
すいさんはそう言って席に戻り、腰を下ろしてギアを装着する。僕もそれに合わせてギアを装着する。
ハーフダイブのボタンを押すと、音声はなく、漆黒の画面に白い文字だけが浮かぶ。
『VRが起動しました。デバイス情報:S-20571122』
――同期中の機器:四台
――接続可能ワールド:20571120_岩本様_G1192832
僕は視線でそのワールド名をなぞり、選択する。
『管理者権限で実行しますか?』
確認の問いに、もう一度だけ目で答える。
いつもと同じ手順。見慣れた画面。それなのに、視界を覆う暗闇には、いつもと違う微かな温度があった。
この先、僕らを待つ結末が、どんな形であっても。
ここまで手を貸してくれた人たちの顔が、暗闇の中にひとつずつ浮かぶ。
さあ、三日目の始まりだ。

